クロスカルチャー コミュニケーション

モスクワ迷走記 1998.7月/8月

ロシア語の実力には、かなり難ありとはいえ、モスクワ大学予備学部を終えて、現地ガイドなどのアルバイトに励んでいた。そして、イルクーツクにある大学で夏期講習を受講しながら、少数民族の村などを訪ねようと画策したものの、まったく相手にされなかったので、元ルームメイトのイサベラに誘われるままスペイン行きを決めた。その出発までの数週間、時間が許す限りモスクワの街を散策した。

ロシア的な食料品店からスーパーマーケットへと替わった店内では、店員が並べ方一つで売れ行きが違うのよなんて話している声が聞こえた。また、マネージ広場の地下にオープンしたショッピングモールでは、携帯を使用して、商品の品揃えを調査している姿を見かけた。日本ならばすぐに注意を受けそうなものだけれども、マーケティング戦略など知らないロシアの店員たちは、いぶかしげに見ているだけだった。ロシアの大学では、経済、経営学部が人気で、わたしが日本で経済学部を卒業したというとなぜロシアへ来たのかと驚かれた。なんとなくしかマーケティングを勉強しなかったものの、卒業後の一時期、経営コンサルタント会社で、マーケティングレポートなどを書いていたので、モスクワの市場変化はとても興味深かった。ただ、警察やマフィアに諸場代を巻き上げられながらも安い市場で品物を仕入れ、駅前に長時間立ち、通りゆく人々に売ることでわずかなお金を稼ぐ人が多いのも現実だった。


お隣のおばさんから、スゥエーデン人から自国の社会福祉制度より、ロシアのコミュニティの方が優れていると言われたのよと聞いたとき、にわかに信じられなかったけれど、学生が年金生活者のために安い商品を巡回販売しているのを見て、そうだったのかも知れないと思った。

ロシアでも空き瓶回収を行っていて、お金と引き換えてくれる。倹約家な友人が自分の飲んだ空き瓶を抱えて、回収業者のところへ行った帰り道に近所の人からそんなにも生活に困っているのかと聞かれたという。ロシア人にとってビンを集めてお金にすることは、生きていくためにプライドを捨てることを意味するらしい。なので、困窮し、ビンを集めている人のために外に置いておくとのこと。思えば、アパートのダストシュートわきにもビンが並べてあった。

「ソビエトの時代、人はみんな誠実だったのよ。仲買人に全額前払いをしても、約束した日に商品がきちんとウクライナの方から運ばれてきたわ。今はもう絶対に無理だけど」
昔は騙す人などいなかったと訴えるお隣のおばさんの話しをそんな商品の闇ルートがあったのかと思いつつ聞いていた。冷蔵庫や掃除機、なんでも買うことができたという。また、店に並ばない商品を知り合いを通じて手に入れることは普通だったらしい。

「ソビエト時代は、大学を卒業して3年間は、国から指定された場所で働かなければならなかった。わたしもモスクワ大学の言語学部を卒業後、ウクライナでロシア語を3年間教えたわ。その後は、好きなところで働けるから、知り合いのつてで転職したの。みんなそうよ」
モスクワ大学付属のロシア語学校で教鞭を取る講師が教えてくれた。ロシアのコミュニティが発達していたのもうなずける。



ロシアの病院でインターンとして働いているかつての同居人サムラーから、売却するからと住んでいたアパートを追い出され、コムナリヌィの部屋へ移ったと連絡があったので、遊びにいった。コムナリヌィとは、アパートの部屋ごとに所有者がいる状態で、住宅難ゆえに生まれた制度らしい。サンクトペテルブルグに多いと聞いた。サムラーは、3DKのアパートの一室を所有している人から借りていた。ほかの部屋にも、それぞれ所有者がいて、おじさんと若い女性が住んでいるという。トイレ、バス、キッチンは、共有なので、気の合わない人たちと組み合わされたら最悪だったであろうと考えてしまった。サムラーのところは、なにも問題ないと言っていたけど。

お茶を飲んでいるところへ、サムラーの同僚も遊びに来た。気さくな人だったので、すぐに打ち解け、3人で話しが盛り上がった。そのとき、強く印象に残った言葉がある。

「ロシアの田舎は、馬車が走っているのよ。もし、車があってもガソリンがなくて走れないわ」
モスクワの新聞で、田舎にある売店の看板がスーパーマーケットと書かれ、人々がそこに並び、わずかな商品を求めている風刺漫画を読んだばかりだったので、えっ、嘘?とも言えなかった。

「旅行中に嫌がらせをたくさん受けたから、もう二度とエストニアには行かない」
エストニア人がロシア人に対して、敵意を持っていることによると思う。侵略した方は忘れても、踏みつけられた方は忘れない。わたしの周囲(ロシア人以外)では、エストニア人はロシア人と違い親切だというのが定説だった。

「トルコよりいろいろな処置をさせてくれるから仕事が楽しい」
サムラーが何気なく言った言葉。インターンに多くの仕事を任せるロシアの病院はどうなのかと思う。もっともロシアの病院に行っても治療薬がないという噂が流れていた。外国人が体調を崩すとモスクワにあるアメリカ系の病院にかかるのが一般的だった。


スペインに行く前日、お隣の家で送別会を開いてもらった。家主のおばあさんの所へお隣のおばさんが、毎晩、立ち寄っていたので、わたしもすっかり親しくなり、時折、食事に招かれご馳走になっていた。お隣の一家は、ペレストロイカ以前、7年間ユーゴスラビアに住んでいたという。外国人と接することに慣れていたようで、一般のロシア人よりもすんなりと受け入れてくれた。おじさんは、元軍人とは思えないほど穏やかな人だった。おばさんは、面倒見はいいけれど、気の強い人で、嫁姑戦争なども繰り広げていた。すでに結婚した息子が2人、おばさんは、どちらの嫁も気に入らないようだった。

子どもや孫に混じって食事をご馳走になっているときも嫁姑で冷たい言葉の応酬があった。もっとも、身内だけだとさらに激しくなるという男性陣の危惧で、緩衝材としてわたしが招かれていた節もある。
「日本では、嫁と姑はどんな感じなの?」
息子に聞かれ、仲がいいはずないじゃない。同居なんてしたら、最悪。我が家も喧嘩が絶えなかったと伝えた。
「同居なんて想像したくないね」
息子の言葉にわたしも大きくうなずいた。

なにはともあれ、わたしにとってお隣の夫婦はいい人たちだった。何かと助けてくれたし、裕福だったこともあり、かなり豪華なロシア料理を食べさせてくれた。そして、最後の夜も秘蔵のユーゴスラビア産ウォッカを開けて、旅の無事を祈ってくれた。