寝台列車 ベラルーシ (ミンスク) → ポーランド (ワルシャワ)
インターネット・ゲームセンター、ビデオボックス、ロッカー、レストラン、カフェなどがそろった近代的なミンスク駅で目についたのは、人々を監視する軍人の姿だった。構内を見下ろせる所に立ち、また、つねに数人で巡回している。
スタンド・バーでタバカーと呼ばれる鶏肉のグリルにかじりつき、ビールを飲んでいると後ろで誰かが叫ぶ声が聞こえた。振り返ると男が複数の軍人に手をひねられ連行されている。周囲の人々は、一瞥も与えない。食事を済ませ、残ったベラルーシルーブルでビールを2本買い待合室へと移動した。
午後9時3分発のワルシャワ行きのプラットホームを探す。親切な人に案内されてたどり着いた客車で、車掌からチケットに記載されている番号とは違うコンパートメントに行けと言われる。誰もいない4人用コンパートメントにおそるおそる入り、座席に腰を下ろす。しばらくすると、「よろしいですか」と不安そうに一人の男性が入ってきた。
男性は、ボリショイ劇場で演じるオペラ歌手だった。ワルシャワで催されるコンサートに招待されたので向かうところだとロシア語で教えてくれた。今日、ボリショイ劇場の建物を見てきたと伝えると
「もう少し早く出会っていれば、劇場の中を見せてあげたのに、客席は少ないけれど舞台はいちばん広い。モスクワのボリショイ劇場より広い。ボルゴグラードにもあるけど。舞台装置もすごいのに。残念だ」
ボリショイ劇場の身分証明書を見せながら熱く語る。
「プーシキンの『エブゲニー・オネーギン』を演じるために髭を剃った。髪もそのために伸ばしている。役柄によって演出家から指示される。写真とは別人のようだと思わない?」
たしかに違う。うん、うん、とうなずき、ほかになにを演じたか聞いてみる。
『ボリス・ゴドゥノフ』、『イヴァン・スサーニン』、『フィガロの結婚』、『オセロ』などが挙げられた。モスクワのダンチェンコ劇場で、『フィガロの結婚』と『オセロ』は見たことがあった。思い出しつつ、『フィガロの結婚』の演出が好きだと伝えるとすぐにフィガロが庭の木陰からでてくる真似をしてくれた。
「『フィガロの結婚』はイタリア語で歌うのが普通だけど、演出家から観客にも意味がわかるようにロシア語で歌うように命令された。もともとイタリア語に合わせて音楽がつくられているから、ロシア語には合わない。おかげで口がまわるまで、ロシア語の早口言葉を練習させられるはめになった。ほんとうに最悪だった。狂ってる」
悪態をつきつつフィガロのフレーズを歌ってくれた。早口言葉そのものに笑ってしまったが、よくそんなに早く口が回ると感心する。
「オセロでは、わたしはバリトンなので、撃ち殺すほうだ」
そう言われて、必死に思い出そうとしたが、船の上で二人の男性と一人の女性が歌っている場面しか出てこない。てきとうに相槌を打ちごまかし、話題を変える。
ビールを飲みつつ少しなごんだところで、ノックの音とともにドアが開き、車掌が現れた。都合が悪ければ別のクーペを開けると言う。どうやら、クーペの指定を間違えたようだった。男女二人の密室、さらに外国人では気まずいのではとの配慮からだと思う。
大丈夫。大丈夫。問題ないと目の前で答えているので、わたしもあえて反対はしなかった。車掌はうなずき、出入国カードを置いて去った。
出入国カードはベラルーシ語だったので、手伝ってもらいながら記入する。
「バルト三国では、まったく違う文字だったけど、ベラルーシ語は、ロシア語とよく似ている」
とわたしが言うとオペラ歌手は、悲しそうに話しはじめた。
「バルト三国の人々は、自分たちの言葉を守った。えらいと思う。わたしたちは、自分たちの言葉を捨ててしまった。現在、ベラルーシ語にラテン文字が含まれているのは、かつては、ラテン系の言葉だったから。建物も文化も失った。その昔、交易の中心地だったので、さまざまな文化が交じり合っていた。宗教も多様で、キリスト教、イスラム教のほか仏教もあった。そういえば、川にある島へは行った?行ってないの。行くべきだった。いいところだったのに」
後で調べたところによると、島につながる場所は、トラエツカ旧市街地で19世紀のトラエツカの街並みを1980年代に復元、整備した地区で歴史的建造物が集まる一角だった。
わたしが歩いたミンスクの中心地は、ソヴィエト的な建物が並ぶ、モスクワで慣れ親しんだ景色で、特に目を引くものはなかった。
なぜ、海外で歌うと思う?と突然、尋ねられて、とっさに首をひねると。
「お金のため。1ヶ月間、劇場で働いて国から支払われる給料は100ドル。今回、ワルシャワのコンサートで歌って100ドル。交通費などは、別途すべて支払われる。悪い話ではない。コンサートは劇と違って、自由に歌えるから子どもだましのようなもの。ウクライナと北京に行く予定も入っている。ウクライナでは500ドルの契約だから、1日で5ヶ月分の給料になる。海外に行くときは、のどの調子が悪いから病院に行ってくると劇場に休みをもらい出かける。
劇場との契約でわたしは、1日に4時間までしかのどを使えないので、レストランでギターを弾く副業をしている。ボリショイ劇場で演じるのは、お金よりも、名誉だよ」
たこだらけの手をわたしにかざした。
「ウクライナでの観客は、チェルノブイリの影響で病気になった子どもたち。本当にかわいそうだ。わたしの国も深刻な影響を受けている。未来もないよ」
ウクライナで起こったチェルノブイリの原発事故は、ベラルーシの国境から12kmしか離れていない。また、放射能物質は偏西風にのり、ウクライナよりもベラルーシに広がった。
正直に言うと、「これは、わたしの庭で採れた自然のりんごだよ」と手渡されたとき、「自然の」という言葉に反応して、放射能汚染が頭によぎった。それでも、ごく普通に受け取り、食べる。少々酸味はきつかったが、かわったところはない。
もちろん、ビールにも、また、つまみとして出されたハムやチーズ、駅でかぶりついた鳥だって汚染されている可能性がある。放射能は無味無臭なので気がつかない。そして、少しずつ体を蝕んでいく。なげやりな気持ちになるのもわかる。
日本でも広島と長崎に落とされた原爆によって放射能汚染が引き起こされたけど、いまは復興していると話すと
「日本は1回の爆発だけど、チェルノブイリは何回も爆発を起こしている。規模が違うんだ」
ため息まじりに言うと今度は、
「日本の医療援助を政府は断った。信じられない。何を考えているのかわからない」
拳を握り、壁に打ちつけるゼスチャーをする。断固反対ということなのだろう。
そして、突然、「日本に原爆を落としたのは誰」と聞かれた。アメリカと答えると
「なぜ、日本はアメリカと同盟を結んでいるの?」
どきりとした。どう答えようと考えたのち、朝鮮戦争特需を思い出して、代償にお金と技術を受け取ったからと答える。相手はしごく納得した様子だったが、答えたわたしにはしこりが残った。
一日の疲れがどっと出て、寝台の上段で熟睡していると、突然、けたたましいノックが聞こえた。午前1時すぎ。思考回路が働かず、ぼうっとしていると、同室者がドアを開け、話を始める。
「彼女は、日本人。モスクワからバルト3国をまわって、今朝、トランジットビザでリトワニアから入国し、ミンスクを1日観光して、これからポーランド、ドイツに行く予定」
わたしの代わりに答えるのを他人事のように遠くで聞く。そこは、ベラルーシの国境、ブレストだった。どうにか起きて、書類を提出する。
「いま、車両を交換している。ロシアの線路は、幅が広くて、ポーランドは、狭い。ほら、わたしたちのワゴンが上に吊られている。外を見てごらん」
そう言われて、窓の外を見ると何やら機械があり、人がわらわらと作業をしていた。
しばらくして、列車は動き出したが、まもなくバックする。そして、停車したところで、パスポートを返された。
免税店があるから見に行こうと誘われて、身支度をしてついていく。晩秋のベラルーシは、すでに雪景色、コートなしでは外を歩けない。入り口に並ぶ軍人にパスポートを提示し、なかに入ると、たばこ、酒を中心に商品が並べられていた。支払いは、ドルかユーロの現金のみ。全体的に値段は安いように思う。
日本で売られているズブロッカはポーランド産のみだから、ベラルーシにあるとは知らなかったと言うと、ベラルーシの名産だという。ベラルーシのウォッカはおいしい。絶対に飲むべきだという流れで、ウォッカを買い、車内で飲みなおす。どのみち、ポーランドの入国審査が済むまでは眠れない。
ウォッカの飲み方は、ストレート。飲む前に言葉を捧げ、グラスに注いだウォッカを一気にあおる。3杯目は、愛する人に捧げるのが決まり。そして、すこしお互いの身の上話をする。
「妻はいるけど、このような状態では子どもをつくろうとは思わない」
せつない言葉が強く印象に残る。何も言えなかった。
ポーランドの入国審査が終わったときには、午前3時をまわっていた。
朝の7時、車掌に叩き起こされる。手早く身支度を済ませ、お互いの住所と電話番号を交換して、ワルシャワ中央駅でわかれた。