ポーランド (クラクフ)
ルブリンからバスに乗り、約6時間かかって、ポーランドの古都クラクフへと着いた。バスターミナルの向かいにあるツーリストインフォメーションでゲストハウスを紹介してもらう。クラクフの旧市街と隣接しているカジミエーシュ地区、映画「シンドラーのリスト」の舞台にもなったユダヤ人ゲットーがあった場所にゲストハウスはあった。
重い扉を開け、石造りの階段を6階まで上り、ゲストハウスの扉を叩く。受付の感じのよいおばさんが広い部屋へと案内してくれた。天井も高く居心地がいい。このゲストハウス唯一の難点は、エレベーターがないこと。背負っていた重い荷物を降ろし、一息ついて、遅い昼食を取りに外へ出た。
近くのレストランで、ジューレック(発酵したライ麦を使ったスープ、卵入り)とコトレット・スハボブィ(ポーランド風とんかつ)を食し、ビールを飲んだ。
かなり量が多かったので、腹ごなしに旧市街を散策する。ヴァヴェル城を眺め、聖マリア教会で国宝に指定されているヴィオット・ストウオシ祭壇を凝視し、織物会館に入っている土産物屋を冷やかし、ライトアップされた円形の防塁バルバカンを一周した。
美しい街並みを歩いていても、カメラがないと手持ちぶさたで落ち着かない。そして、悔しいので、街なかのカメラ店を何軒かのぞいてみるも、恐ろしく値段が高かった。あと3、4日しか残っていないのだからと自分に言い聞かせる。
夕食は、旧市街にあるセルフ式カフェで、なすにひき肉を挟み、チーズをかけオーブンで焼いたもの、ライス、じゃがいも、サラダ、ビールを選び、心地よい店内でおいしく食べた。
朝9時15分、クラクフ中央駅裏の駐車場からアウシュビッツ行きのバスに駆け込む。のどかな田園風景の合間に町があり、人が乗り降りしていた。ユダヤ墓地の脇を通過したとき、民家の軒先で売られていた植木鉢の花が、献花用だと知る。墓標の傍に特徴のあるキャンドルとともに供えられていた。黒い服をまとったユダヤ系の人々が墓前で祈っている姿をバスのなかから見つめる。大きな墓地の周辺では、道路も渋滞するほど、多くの人々が集まっていた。
運転手からアウシュビッツだと声をかけられ、バスを降りた。インフォメーションセンターで英語のガイドツアーを申し込む。博物館で上映されている記録映画を見た後、20人ほどのグループとなり見学が始まった。アウシュビッツ強制収容所跡を足早に説明するガイドとともに歩く。切り取られた髪の毛の山、またその髪の毛で織られた織物、そのほかさまざまな遺品とともに心を痛めたのは、犠牲者の証明写真。写真の下に入所日、出所日が記されている。出所日の意味するところは、ほとんどが死亡。女性の平均は3ヶ月、男性の平均は6ヶ月。強制収容所の過酷な状況下では、生き延びることが難しい。銃殺場、見せしめのための絞首台、監禁室、飢餓室、立ち牢、ガス室などをめぐる。虐殺された人々を実際に処理するのは、強制労働を課されている収容者たちで、殺された家族、親類、知人を焼却炉に入れることもあったという。
アウシュビッツ強制収容所から約2キロ離れたところにあるビルケナウ強制収容所までの移動は各自。バスも出ていないということだったので、メキシコ人のカップルとタクシーを相乗りして向かった。
広大な敷地に木造バラックが並ぶビルケナウ強制収容所跡は、いまも鉄道の引込み線がまっすぐ敷地内に入り込んでいる。第2次世界大戦中、各地から連行された人々は、列車を降りるとすぐに生死の狭間に立たされた。列車を降りた人々が列に並び、医師の診察を受ける姿が写真に収められている。悪魔の手先となった医師は、労働力として生かしておくか、すぐに殺すかを振り分けた。ビルケナウは、大規模な強制収容所であり、一大殺人工場でもあった。ナチによって爆破されたガス室跡をガイドとともにまわった後、当時のままに保存されたバラックのなかをのぞいていく。のどかな空気が流れている小春日和のなかでは、過去の現実を見つめることが難しかった。
メキシコ人のカップルとともにクラクフに戻ったときには、すっかり日が暮れていた。駐車場で2人と別れ、観光客で賑わう旧市街を歩き、ゲストハウスへと向かう。途中で買い込んだブリュッセルとチーズをかじり、ビールを飲みつつ、ベッドの上でアウシュビッツのパンフレットを広げた。事実は小説より奇なりという言葉が頭に浮かぶ。身も心もぐったりしながら、眠りに落ちた。
早起きをして、シャワーを浴び、荷造りを済ませ、荷物をゲストハウスの受付に置かせてもらいカジミエーシュ地区を散策する。ユダヤ博物館を訪ねるも休館だったので、イザーク・シナゴークで、戦時中のゲットーを写した写真、ドキュメントフィルムなどを見る。迫害されているユダヤ人の姿を見ながら過去だけのものなのだろうかと考えてしまった。
モスクワで暮らす、ユダヤ人の血が半分混じったロシア人の女の子が、大学受験の際に試験は合格だったけど、面接でユダヤ系という理由で落とされたと嘆いていたことを思い出す。ユダヤ系の血が混じっているけど差別など受けていないという友人もいたが、ロシアでは、多かれ少なかれ差別が続いている。
近くで開かれていたマーケットをのぞくも言葉の壁が立ちはだかり、声をかけるのがためらわれた。相手がある程度の年齢ならば、ロシア語が通じることは分かっていたが、かなり邪険にされることも身にしみていた。英語を話す若者たちが、積極的に助けてくれるのとは対照的だった。小心者なわたしは、スーパーマーケットでの買い物を決めた。
カフェでサンドイッチとコーヒーのブランチを取り、ゲストハウスに預けておいた荷物を引き取り、バスターミナルへと歩く。途中、残ったポーランドの通貨ズウォティをすべてはたいて織物会館の土産物屋で琥珀を買った。
ポーランドのクラクフを午後1時30分に出発した国際バスは、翌日の午前8時にドイツのフランクフルトへ到着した。