ラトヴィア (リーガ)
のどかな風景をバスの窓から眺めていると後ろからロシア語が聞こえてきた。
「これからリーガにいる娘のところへ行くの。昔は簡単に行けたけど、今は書類が多くてたいへん」
「それはそうよ。昔は同じ国だったけど、今は違うから仕方ないわよ」
どうやら、斜め後ろの席にいる老婆と真後ろに座っている中年女性の会話らしい。耳を傾ける。
「どんどん暮らしにくくなってる。わたしは、母の最後を4年間めんどうをみてきたけど、今は娘も生活に追われて私のことをかまってくれない」
老婆がこぼす。
「わたしだって、母を助けたわよ。それは、あたりまえよ。今はみんな生活が厳しいの」
中年女性が、きつい感じで返す。
生活苦を訴える老婆とたしなめる中年女性の会話は30分ほど続いたが、中年女性が話を打ち切った。
エストニアの首都タリンとラトヴィアの首都リーガを結ぶ国際バス、ユーロラインの車内は快適で、トイレも完備している。テレビも備え付けられており、古いロシアのコメディ映画のビデオが流れていた。エストニア語かラトヴィア語の字幕つき。バスは国境を超え、6時間半でリーガのバスターミナルに着いた。
構内にあるツーリストインフォメーションで、バックパッカーハウスPOSHを紹介してもらいむかう。徒歩3分、POSHと書かれたドアが見つかった。失敗したかなぁと思いつつ、薄暗い階段を上り、ドアをあけると意外にもきれいなところだった。暗くなる前にと荷物を下ろし、となりにある中央市場を歩く。鮮魚、肉、野菜、果物、パン、お菓子などさまざまな食品が並べられていた。リーガはタリンよりもロシア人の割合が多いので、ロシア語がよく通じる。もっとも、公用語はラトヴィア語なので、キリル文字の表記はない。市場のなかにある食堂でメニューを見てもまったく読めず、ロシア語で説明してもらい注文する。カツレツとポテトフライ、黒パンにビールを頼んで200円ほどだった。ここもビールがおいしい。そして、安い。宿に帰り、ベッドに横になるとそのまま寝てしまった。
すっきりと目覚めたわたしは、まだ寝静まっている宿を後にした。とはいっても朝の8時すぎ。外は快晴。まず、中央市場に寄り、スタンドカフェでボルシチ、ツナパン、卵パンの朝食をとる。中央市場から徒歩5分の場所からはじまるリーガの旧市街を写真を撮りつつまわる。その後、何人かに尋ねて、ラトヴィア写真博物館を探し出した。リーガ発祥のミノックスで撮られた鮮明な写真に感嘆する。スパイカメラとしても知られるほど小さなフィルムに収められたとは思えない。昔の人々や景色を写した数々の写真にくぎづけされた。
おしゃれなカフェに腰を下ろし、オムレツとコーヒーで、しばし休息した後、宿でも評判のよかったラトヴィア占領博物館をまわる。ドイツ支配の第二次世界大戦から旧ソ連のスターリンによる大量流刑まで、占領当時の記録、写真、遺品などがわかりやすく展示されていた。大国に挟まれた小国の運命は厳しいと実感する。
夕方、トラムに乗り、近くの住宅地へ向かう。川のほとりを歩き、子どもたちが白鳥に餌付けする姿を写真に収める。犬を散歩させている人も多い。沈む夕日を眺めながら、感慨に浸るも寒さには勝てなかった。集合住宅の1階にあったカフェで暖まり、となりにあったスーパーでグルジアワインとチーズを買い宿に戻った。
宿のリビングルームでグルジアワインを開ける。季節はずれの安宿には、辺境を愛する個性的な人々が集まっていた。仕事を辞め、長期旅行をしている人が多く、さまざまな旅の話で盛りあがる。日本に来た人も多い。宿で1本60円で売られているビールを飲みつくし、まだもの足りない者たちは、深夜、寒空の街へ繰り出していった。わたしは、遠慮したが、同室になったフィンランド人二人は泥酔し、早朝4時ごろ戻ってきた。
朝、リビングでココアを飲んでいるとリーガの大学で数学を教えているという教授が入ってきた。モスクワの世間話をした後、数学の授業を見学させてあげるから大学へ遊びに来るかと誘われるも丁重にお断りする。リトヴィア語も数学も理解できないのでお手上げだと伝えると笑っていた。
1階のカフェで朝食を済ませ、リーガ駅に向かった。マユァリ駅までのチケットを買い、郊外電車に乗り込む。40分ほどで目的地に着く。
「海岸までは、駅からまっすぐ、目抜き通りは右の方」
となりに乗り合わせた老夫婦から教えてもらいつつ電車を降りた。
夏には海水浴客でにぎわうであろう目抜き通りは、やはり閑散としていたが端まで行き、左に曲がる。松林のなかに別荘らしき建物が点在している先に海岸があった。砂浜がどこまでも続く風景は壮観で、強風のなかを1キロほど駅に向かい歩いた。琥珀が落ちてないかと注意して探したが、それほどの強運はなかった。
駅の近くで老婆がりんごを売っていた。10個で0.46ラッツ(約100円)だと言う。寒い吹きさらしのところで売っていたので、なんとなく10個のりんごを買ってしまう。1ラッツを渡すと細かいおつりまで一生懸命に探して、返してくれる。少し歩きホームを見ると電車が停車しているのが見えた。扉が閉まるのをむなしく見つめていたとき、お釣りを受け取るときに触れた氷のように冷たい老婆の手が思い出されて、来た道を引き返す。
結局、30個近いりんごを手に電車に乗り込んだ。通路をはさみ、向かいの席に座った10代前半の女の子たち3人がりんごを見て何やら言っているのが分かる。ロシア語でりんご?と尋ねると、食べるジェスチャーをする。りんごを渡すとさっそく食べ始め、片言のロシア語でおいしいと言った。残念ながらそれ以上言葉が通じなかったが、リーガ駅に着くときにリーガ、リーガと教えてくれた。無邪気でかわいい子たちだった。
宿に戻り、りんごを抱えリビングルームへ入ると、あるアメリカ人がおもしろいパンクを見つけたからと小型スピーカーをCDウォークマンに接続し、流すところだった。ファッキンアメリカン、ファッキンアメリカン、ファッキンアメリカンと叫ぶのが目立つ。アメリカがなんだぁと訴えた後、「我々は神を信じている」と叫んだところで、「確かに」とキリスト教関係者のアメリカ人が言った。アメリカ人は神を信じていないということなのだろう・・・
とにかく、みなにりんごを配る。けっこう好評であっという間に少なくなった。
長期で旅をしている人が多いので、髪の毛が伸びて困るという話題になったとき、頭の薄いオーストラリア人が「今日、髪を切ってきたところだ」と言った。みなに一瞬沈黙がおとずれる。そのうちの一人が、いくらだったかと聞き、オーストラリア人が「2ラッツ(400円)」と答えたところで、みなが一同に納得した。言葉は違っても、みなの頭によぎったことは同じだと思う。ちなみにオーストラリア人は中年の弁護士で長期休暇中とのこと。リビングルームの夜は、つねににぎやかだった。
外に飲みに行こうという誘いを断り、親しくなっていた宿で働いているおばさんとグルジアワインを飲む。おばさんはロシア語を話す。
「子どもは22歳になる双子の女の子、一人はすでに結婚してるの。旦那は捨てたわ。子どもたちはわたしが育てたの」
40代なかばのおばさんは、ノキアの携帯を手に威勢よく言った。それを聞いて、典型的なタイプだと思った。ロシア人は若くして結婚し、離婚する人が多い。そして、子どもを育てるのは、女性と大方決まっている。そして捨てられた男は、大酒を飲みぼろぼろになるとも。社会主義のもと男性と同じように働くも、家事や子育てをすべて押し付けられる女性に不満がつのるらしい。
「娘は英語が達者だけど、わたしは、これ以上無理。ネイティブの英語は早くて理解できない。いまのこの国では言葉ができないと仕事がないけど、わたしはもうこれ以上言葉を勉強したくないわ」
旧ソ連邦時代、いい仕事に就くにはロシア語が不可欠だったが、独立後には一変した。また、外資系企業が多く進出してきたため、外国語ができればいい給料がもらえる。この宿POSHもオーストラリア人が管理していた。
「この国では、みんな外国人が儲けているのよ。近くの市場だって、リトアニア人が野菜や果物を持ちこみ売っている。リトアニアの方が物価が安いから。わたしたちはただ場所を貸しているだけよ。とにかく、頭を使わなければお金を稼げないのよ」
急激な社会の変化に適応して生き抜くことはたいへんだと思う。社会に取り残され、街角に小銭を求めて立つ老婆の姿を見るたびに心が痛んだ。
その後、1時間ほど話をして、新しいゲストが来たことを期に部屋へ戻り、荷造りをした。時刻は、午前1時半。6時間後にはバスのなかだから、ラトヴィア名物の薬草酒バルザムを買えない。心残りのまま就寝。おばさんに教えてもらうまで、バルザムがラトヴィア産だと知らなかった。ラトヴィアの薬草酒バルザム(Balzams)は、きいちごのリカーに16種類もの薬草を伝統的レシピで調合したもの。オレンジジュースなどで割るのが一般的らしいが、
モスクワでは、ウォッカにバルザムを入れて飲んでいた。