クロスカルチャー コミュニケーション

オレゴン街道の終着地 オレゴンシティ

オレゴンの田舎町へ交換留学生として送られたその夏、マイクロバスに押し込まれ、オレゴン史をたどりつつ名所旧跡を巡っていた。

夏季ESLクラスで、”Father of Oregon.” というタイトルのプリント用紙が配られ、オレゴンの父と称されるジョン=マクローリン の人物紹介があった。

1784年、ケベック州(カナダ)の上流階級に生まれたジョン=マクローリンは、医業に短期間携わった後、ハドソン湾会社に入り、カリフォルニアからアラスカに渡る広大な地域でイギリスの毛皮取引を統轄する。人道主義者でネイティブアメリカンたちに誠実な対応をしていたほか、イギリスの国政に反しても、飢えて憔悴した開拓者(アメリカ人)たちを助けたという。当時、アメリカとイギリスは、カナダの国境(オレゴン領地)をめぐって争っていた。1846年、オレゴンシティに移り住み、医業のほか、雑貨店、製材場、製粉所、穀物倉庫、運輸業などを築き、地域経済の発展に貢献する。1851年、アメリカの市民権を取得し、1852年、オレゴンシティの市長を務める。マクローリン夫妻は気前のよさでも知られており、移民たちへ融資をしていたほか、学校や教会のために土地を寄付したとのこと。1857年、ジョン=マクローリン他界。1859年、オレゴンはアメリカ合衆国、33番目の州となった。


その次の日、オレゴンシティにある「マクローリンの家」博物館へ連れて行かれた。正直なところ、当時としてはかなり豪華な邸のサロンを眺めた後で、貧しい人々を食事に招いたと聞いても、それほど心に響かなかった。隣を歩いていた友だちも「ふ~ん。こんなとこに住んでたんだぁ」と呟いていた。

その後、開拓者の生活やネイティブアメリカンについて紹介している博物館へ移動。

多くの開拓者が利用した小型のワゴンと、実際に積み込んでいた品々、小麦粉、トウモロコシ、砂糖、果物、糖蜜、バター、ラード、ベーコン、ハム、野菜、手作りの石鹸、塩、ロジン、タール、薬、農具、寝具、衣類、ポット、やかん、バケツ、ライフル、斧、鍬、縄、ハンマーなどから、開拓者たちの強い決意が伝わってきた。雄牛やラバにワゴンを引かせ、家畜も連れて、先駆者の轍を頼りに荒野を進み、ロッキー山脈を横断し、約3200キロの道のりを半年かけて歩いてきた人々には頭が下がる。


オレゴンシティは、「約束の大地」を手に入れる場所であり、オレゴン街道の終着地といわれている。ただし、開拓民の苦難はここで終わりではなく、巨大な樹木が茂る森を切り開き、農耕地とする試練が待っていた。狭く窓のない小屋に住み、食糧を含めて必要なものはすべて自分自身で確保し、ひたすら耕していく。初期の開拓者たちには、守ってくれるべき政府もなく、生き抜く術をネイティブアメリカンに学ぶ暮らし。まさに、不屈のフロンティア精神が求められたのだと思う。当然、耐えきれず、オレゴン街道を東へと戻っていく者も多かったとか。

オレゴンシティは、オレゴンで最も栄えているポートランドから約25キロ南にある緑に囲まれた静かな町で、かつての州都。現在は、セーラムがオレゴンの州都になっている。