はじめてのモスクワ 雑居生活'95
ロシア的お役所仕事により、モスクワ大学の外国人専用寮の2DKブロックに韓国人、トルコ人、スペイン人、日本人のわたしが振り分けられた。
ルーム・メートになったスペイン人のイサベラは、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、バスク語が話せる通訳・翻訳家だった。
韓国人のソッキーは、ロケットエンジンの開発を志しているエンジニアの卵で、英語が得意だった。トルコ人のサムラーは、外科医から産婦人科医に転向するために来ていた。13歳までフランスで育ったので、フランス語のほか英語も大丈夫。わたしもなんとか英語を話すということで、4人の共通語は英語に落ち着いた。
ロシア語の上手なイサベラは、市場や国営店でおいしいワインやチーズを見つけ出してきては、食卓をにぎわせたが、ロシア語の不自由な残りの三人は、ロシア式の買い物に悩まされ、欲しいものがなかなか手に入らなかった。
サムラーとじゃがいもを買いに出て、何軒も歩き回ってやっと見つけた。あったーという感じで、覚えたてのロシア語で声をかける。
「じゃがいもをください」
店員は、たばこを吹かしながら一言。
「悪い」
あ然としているわたし達をちらりと見てから、いくつかの簡単な単語を付け加える。
「見てみな、小さい、古い、悪い」
それ以上相手にされなかったので、釈然としないまま店からでた。とうぜん、二人に怒りが込み上げる。その後、別の店でじゃがいもを見つけ、10kg買いつけた。
重い袋を二人で引きずりながら帰宅するとソッキーがどうしてそんなにたくさん買ったのかと不思議そうに聞く。わたし達は、その日の出来事を馬事雑言とともに語り、とうぶん買わなくていいようにと説明した。
後日、ソッキーが誰かから南からくる農作物、乳製品はチェルノブイリの影響を受けているから買ってはいけないと聞いてくる。サムナーとわたしは顔を見合わせ、そうなのかなぁとつぶやいた。
多国籍なわたし達のところには、さらに多国籍な人々が集まり、いつもにぎやかだった。 週末は、料理、酒を手にした友人、知人が集まり、自然にパーティとなる。エスニックな料理が集まるなかでも、中国人が作る中華料理は人気が高かった。大きなかたまりの肉や魚を中華包丁で骨ごと手際よくさばき、麺をみごとに打つ姿には脱帽した。肉まんなども簡単に作ってしまう。ちなみにサムラー指導のヨーグルト入りチキンスープ、わたしのヨーグルト入りの肉じゃがは、トルコ人、モロッコ人に好評だった。飲んで、食べて、踊ってと部屋はもちろん汚れてくる。ある時、誰かが踊っている床にクレンザーをまいた。すべって床を拭く者も出て大騒ぎ、床はところどころぴかぴかになった。
四人の共同生活で韓国と日本の文化が近いことを実感する。韓国語と日本語の文法、室内で靴を脱ぐ習慣、御飯と漬物の食事をはじめとして、基本的な考え方も似ている。わたしが作った肉じゃがにサムラーがヨーグルトを入れた時の反応も同じ。好意で入れてくれたのだからと何も言えないところまで同じで笑ってしまう。
ちなみにヨーグルトの作り方は、牛乳を沸騰させてから冷まし、5秒ほど指を入れられるようになったら、小さじ1杯のプレーンヨーグルト入れてかき混ぜる。なべを冷やさないようにタオルや毛布でくるみ8時間から10時間置くとできあがる。
簡単なので、わたしは今でも、ときどき作ってる。その時、いっしょに教えられた塩バターライスにヨーグルトというのは、いただけなかったけど。
わたし達の冷蔵庫は小さかったので、何を優先に入れるかを話しあった。ソッキーの譲れないものは、キムチ。サムラーは、ヨーグルト。イサベラはチーズ。わたしは、卵とマヨネーズ。 卵やマヨネーズは常温でも大丈夫だとサムラー、イサベラに反対されたが、ソッキーの加勢で押し切った。その結果、肉や魚などはベランダ。野菜は台所に転がされることになる。頃は9月、外は東京の冬ぐらいの気温なので、比較的、冷蔵するのに適していた。ただし、油断をすると凍ってしまう。
ソッキーは、汚い部屋の床を一日かけ磨き上げ、土足厳禁にしていたため、部屋のドアには、数か国語で、『部屋に入るときは靴を脱いでください』という張り紙をしていた。それでも、靴のまま入ってくる人が多いと嘆いていた。サムラーは快適だと喜んでいたが、サムラーの友人は、みな不思議そうにしていた。
わたし達のなかで一番のきれい好きはソッキーで、ごきぶりの駆除にも力を入れていた。コンバットを台所に置き閉めきった翌日。台所で叫び声がして、行ってみると、床一面にごきぶりの死骸がころがっていた。青ざめながら、皆で片付けた。ごきぶりを見るとひるんでいたわたし達もすぐに適応し、ごきぶりが現れるとすぐさま、叩き潰すか踏み潰すようになった。
イサベラは、手先が器用で壊れたイスやスタンドの修理をよくしていた。慣れた手つきで簡単に直していく。ロシアの生活をそれほど苦にしてないようで、いつも陽気に笑い、叫び、踊っていた。いつものようにワインを飲みながら、皆でたわいのない話をしていたとき、なんとなくスペインの闘牛が話題に上った。
「あんな野蛮なことは南の方だけで、バルセロナの人たちは嫌ってる。わたしはバスク人だから、スペイン語もわたしの言葉ではないの」
わたしは、イサベラの言葉に驚いた。このときまで、スペインで内戦があったことを知らなかった。その後、バスク地方は独立を支持する活動がさかんだと聞き、やっと納得する。イサベラの言葉に反応したのは、わたしだけだったようで、話題は、バルセロナオリンピックやガウディへと何事もなかったように流れていった。
イサベラはロシア人がいかに苦しい生活をしているかをよく話していた。ロシア語を理解できる彼女だけが、ロシアの実情を把握できたのだと思う。そんな彼女の言葉を受け、帰国前、地下通路で物乞いをする親子に不要な衣類を渡した。うつろな目をした少女の顔がきゅうに明るくなったのが印象的だった。