クロスカルチャー コミュニケーション

エストニア (タリン)

タリン旧市街の入り口にあるヴィル門をくぐると中世ヨーロッパのテーマパークに入ったような気がした。旧ソ連邦の一地方都市だったとは思えない街並みがひろがる。エストニアの首都タリンにある旧市街は、その昔、おもにドイツ人によって築かれたため、中世ドイツの古きよき面影を残している。 かわいい建物を眺めながら石畳の通りを少し歩くと街の中心にあるラエコヤ広場に出た。ガイドブックには、ここにツーリストインフォメーションがあると記されていたが見当たらず、重い荷物を背負い、しばらく歩きつづける。晩秋のタリンには、すでに雪が舞っていた。旧市街を囲む城壁にぶつかったところで、HOSTELという看板を見つけ迷わず飛び込んだ。

モスクワからバスに揺られること16時間弱、午前8時すぎにタリンのバスターミナルに到着し、心ならずもトラムの無賃乗車で旧市街入り口付近まで来てしまった。そして、ユースホステルのチェックインを済ませたときには、午前11時をまわっていた。モスクワを出発する直前まで知人宅でロシア料理とウォッカに舌鼓を打っていたことがたたり、バスに酔いさんざんな思いをしたにもかかわらず、荷物を下ろし一息ついて思い立ったことは、ビールだった。バルト三国と呼ばれている国々、エストニア、ラトヴィア、リトアニアはビールがおいしいと評判である。まずは、試してみなければとカフェに行きパイを食べつつビールを飲む。やっぱり、おいしい。くせもなく飲みやすかった。

近くの港には、フィンランド、スェーデンからのフェリーが停泊していた。フィンランドのヘルシンキから高速艇に乗るとわずか1時間45分で到着する。北欧に比べ物価の安いエストニアへ買い物をしにくるフィンランド人が多いと聞く。
1914年に建造された蒸気砕氷船スール・トゥル号(博物館)のわきで釣りをしている人たちを見つけ、近くに寄る。釣り上げられた10cmから15cmほどの銀色の魚を覗き込んでいたら、見物人が『サラーカ』だよ、おいしいよと教えてくれた。タイセイヨウニシンの一種らしい。引っ掛けるように次々と釣り上げているおじさんに 魚を指差し、「写真を撮ってもいいですか」と尋ねると、そのおじさんが直立姿勢になり、針に掛かったままの魚とともにポーズをとった。風が強く、魚はゆれていたので、釣り師のおじさんにピントを合わせ、シャッターを切る。

寒さに負け、暖を取ろうと近くのショッピングセンターへ入り、エストニアがヨーロッパの仲間入りしていることを実感した。物価もモスクワに比べると高い。大型スーパーが入っていたので、ビールと夕食を買うことにした。充実した惣菜コーナーの前には、整理番号を発券する機械が置いてあり、日本の金融機関でのシステムと同様、店員が順番に応対している。魚のフライとジャガイモのグラタンを容器に詰めて、料金シールを貼ってもらった。そのほかの商品とともにレジで会計を済ませ、まっすぐにユースホステルへ戻る。

わたしの見つけたユースホステルは、仮住まいだったようで、本来の建物は現在修理中だと教えられた。そのため、ベッド数5台、バス&トイレが1ヶ所とこじんまりしていた。わたしが与えられた場所は、ベッドが2台置かれた部屋で、ドアは閉まるもののガラス張りでベッドが3台置かれたとなりの部屋が見渡せる。トイレは、となりの部屋を横断したところにある。落ち着くような、落ち着かないようなところだった。うとうとしていると、となりの部屋に人がいる気配がした。フィンランドから来た女の子二人連れだった。一日だけエストニアへ来たという。髪をピンクに染め、鼻にピアスを二つあけた女の子からきれいな英語で、ビールでも買いにいっしょに出かけないかと誘われるも、外の寒さと眠気に負け断ってしまった。

翌朝、観光をしようとガイドブックを改めて見るとほとんどが定休日だった。夏季以外は、月曜日と火曜日を休むところが多い。フロントへ行き、コーヒーとクッキーをもらいながら、防寒着を買える安いマーケットがないか聞く。公用語はエストニア語で、街中でロシア語を聞くことはあっても、キリル文字の表示はいっさい見なかった。エストニア人で、エストニア語のほかロシア語、フィンランド語、英語を話すフロントのおばあさんは、ロシア語で近くにあるマーケットを教えてくれた。旧市街と港の中間にある赤レンがの倉庫に一歩入ると洋服を売る小さな店がぎっしりと詰まっていた。北欧の柄で編み込んだセーターや帽子、マフラーが多いことを除けば、モスクワの衣類マーケットそのもの。売り子もロシア人が多いようで、ロシア語が飛び交っていた。ここで、帽子とマフラーを買う。両方で1500円ぐらいだった。セーターは、5000円ぐらいから、かわいいので悩むもかさばるので諦めた。倉庫内の喫茶コーナーでお茶を飲みつつガイドブックを開く。これといったものがなかったので、トラムに乗り終点まで行ってみることにした。

キオスクでチケットを2枚買い、てきとうなトラムに乗り込む。旧市街とはまったく異なり、10数年前までソ連の占領下にあったことを思い出させる街並みが続いた。終点で下車し、路地に入る。小学校があり、児童を小型バスで送っていくところが見えた。大通りをはずれると一軒屋が増え、のどかな風景になる。もう少し生活の見えるところまで行こうと思うも、寒さに耐えきれず、停車場へと引き返した。ユースホステルに戻ると部屋は空っぽだった。人気のないユースホステルというのは、ちょっと変な気がする。尾崎秀美の「愛情は降る星のごとく」を読みながら、もっと明るい本を持ってくればよかったと後悔する。1944年11月7日にゾルゲ事件のスパイとして処刑されるまでの3年間、獄中から妻と子に当てた手紙を編集したものなので、切ない文章が続く。そして眠りに落ちた。

気がつくと午前9時をまわっていた。あわてて用意し、フロントでツーリストインフォメーションの場所を教えてもらい向かう。ラコヤ広場と聖ニコラス教会の間にあった。6時間有効のタリンカードを買い、旧市街にある美術館、博物館、教会を目指すも、季節がら、修理などで閉館しているところが多い。ウォーキングツアーも催されていない。それでも、いくつか面白いところにたどり着いた。

大音量の軍歌が流れる建物を見ると、小さく博物館と書いてある。入り口のおじいさんに案内されてなかに入ると1メートルぐらいの丸い球体やら、爆弾らしき筒が広い部屋にごろごろしていた。おじいさんが、英語で、海の中にあったんだという。水雷だった。戦時中は、バルト海に水雷が多く設置されていて、航海には危険がつきまとったという。

マニアックな博物館から歩いて5分ほどのところに聖オレフ教会があり、何気なく入ると受付のおばさんが階段を指し示す。その後、おじいさんからロシア語で上まで行ったら自分でドアを開けるようにと教えられる。何やら嫌な予感はしたが、狭い階段を上る。ぜいぜいと息を漏らしながらひたすら上っていくと階段は終わり、薄暗い部屋へ通じるドアがあった。目を凝らしながら、部屋を歩き、木製の階段を見つけて上るとドアの鍵が目に入った。おじいさんの言っていたのはこれかぁと思いつつ、引っ掛けてある金具をはずし、ドアを開けた。足がすくむ。100メートルほどの高さにある円錐に伸びた屋根の付け根だった。歩けるところは、幅50cmほどしかない。足元のすのこを見ると柵もなんだか頼りなくみえた。おそるおそる足を踏み出し、下界を見下ろす。すばらしい景色だったが、冷たい風にさらされて凍えた。やっとの思いで上ったので、怖さと寒さに震えながらも屋根(展望台?)を一周して、塔を下った。

夕方、ユースホテルのフロントで、洗濯のできる店を教えてもらう。クリーニング店に行くと混んでいるから1時間後に来るようにと言われ、時間つぶしに近くのデリに入った。好きな料理を自分で皿に盛り、重さで会計をする。100g、80円ほどだった。クリーニング店に戻るとすぐにおばちゃんから大声でここよと言われる。洗濯機に衣類を詰めこみ、待合所で待つ。本を読んでいると、「寒いのになんでハーフパンツなの?」と英語で話し掛けられた。ジーンズをすべて洗濯中。外に出るときは、重ね着するつもりと答えたら笑われた。アメリカ人の女性で、船から降りるたびに世界中を旅行しているという。今回の予定は3ヶ月。スケールが違う。凍りつく甲板の上で、巨大な魚を持ち上げている写真を見せてくれた。
「エストニアがこんなに進んでいるとは思わなかった。英語も通じるし、無線もほんとうにどこでもつながるのよ」と言う。わたしも同じ感想だった。しばらく、旅について話をした後、泊まっているユースホステルに人が多すぎて嫌だというので、わたしのところを紹介した。スタッフも親切だし、彼女にはぴったりだと思う。
ちょうどそのとき、おばさんから洗濯物が乾いたわよと声をかけられた。物陰でジーンズをはき、衣類を袋に詰める。会計を済ませ、よい旅をと声をかけて、一足先に店を出た。

明日の移動に備え、荷物をパッキングして、静かな部屋でのんびりとくつろぐ。窓の外は、雪が激しく降っていた。