クロスカルチャー コミュニケーション

ロシアプチ留学 2005

1月10日(月)

ロシア語の教材を買いに「本の家」(新アルバート通りにある本屋)へ行く途中で、警官に捕まり、警察署へ連行されそうになる。運悪く路上での検閲に引っかかり、パスポートに住民登録のスタンプがないことに目をつけられた。通常、土日を除く3日以内に住民登録を済ませなければいけないのだけれど、役所が正月休みで働いてないので、どうしようもない。二人連れの警官の一人が、お前はこれから署に行き、3時間拘束された後、やっと電話をかけ、釈放される、などとほざいてる。メトロ、ビブリオテカ・イーメニ・レーニナの駅を出たところだったので、人通りも多く、わたしたちのやり取りを聞き、警官をあからさまに中傷する人もいた。警官が外国人相手に金を巻き上げるのは周知の事実。公衆電話が目に入ったので、とりあえず、学校の住民登録担当者に電話をかけるからと警官を振り切り、受話器を取った。

祈るような気持ちで、応答を待った。幸運にも電話はつながり、担当者が出たので、事情を説明し、警官と替わる。お前がこいつに住民登録をしなくていいと教えたのかと警官が悪態をついたところで、我が担当者が反撃に出た模様。わかった、わかった、もう、わかった。警官のトーンは一気に下がった。そして、その場でパスポートを返され、解放された。

「本の家」でロシア語会話の本を買った後、Kさん、Yさんとボリショイ・サーカスを見に行く約束をしていたので、メトロ、ウニヴェルシチェート駅へ移動する。警官との押し問答中、頭を過ぎっていたのは、待ち合わせの時間に行けなくなったらどうしよう、とそればかりだった。

サーカスのプログラムは、冬休みのため完全に子供向け。全員がアニメキャラクターのような衣装をまとい、不思議の国へ冒険が始まった。思わず、深いため息をついていたら、Yさんが、ロシア語の練習にはなるよねと気休めを言ってくれた。誘ったのは、わたし。

アリョーナクホテルに入っている韓国料理店での夕食。ビビンバ、キムチチゲ、マンドゥクッなどを注文する。韓国人の経営なので、キムチやちょっとした揚げ物などの副菜は食べ放題。ビールのつまみによく合う。そして、おいしい。

帰りがけに、ホテル内の韓国食材店をのぞく。Kさん、Yさんは、キムチや豆腐、うどんなどを仕入れていた。韓国人によるとサリュートホテルに入っている韓国食材店の方が安いというのだけれど、メトロ、ユーゴ・ザパドナヤからちょっと距離があるので、なかなか足が向かない。

すっかりロシア人化しているKさん、Yさんに引きずられ、寒いなか、延々と歩き、帰宅した。

1月11日(火)

朝の9時、1階にある寮の管理室で住民登録の担当者と待ち合わせをしていたのに一向に現れない。待ちぼうけを食らった。仕方がないので、自力で学校に行き、メールでやり取りをしていた女性をたずね、入学手続きをする。短期留学の原則は4週間からなのだけど、3週間ね、1日おまけしてあげるわよと妙に愛想がいい。書類にサインをして、振込み用紙を受け取り、近所の銀行へ授業料を振り込みに行く。フルタイムで1週間100ドル×3、空港の出迎え料と事務手続き料50ドル、計350ドルをルーブルに換算して支払う。

銀行に行くと支払い用紙を持った人々でごったがえしていた。以前、ロシアでは、電気、ガス、水道料金を支払う制度がなかった。今では、すべての公共料金を支払わなくてはならない。とくに電気料金が高いので、みな節電に励んでいるらしい。もっとも、滞納しても電気の配電が各世帯ごとに分かれていないので、止められることはないとか。外貨両替窓口でドルをルーブルに換金して、支払い窓口への長い列に並び、振込みを済ませた。

支払い証明書を持って、事務所へ行き、さらに手続きを済ませた後、クラス分けのため、簡単な会話と文法のテストを受ける。言葉は生き物だからね、とのS大教授の弁、まさに、その通り。長い間、ロシア語と関わっていないので、文法なんか記憶の深層部分に葬り去られている。3択だったので、とりあえず、適当にチェックを入れ、提出した。

テストの結果が出るのを待ち、授業担当ディレクターのところへ案内された。どこか見覚えのある顔だなぁと考えていると、彼女はわたしの最初の教え子だと他の教師に向かっていう。97年の春から3ヶ月間ほど、週に2回、文法を教えてもらっていた教師だった。文法とともに教師の顔もおぼろげな記憶しかない。挨拶をして、振り分けられたロシア語のクラス名を聞き、専門科目を選択する。ロシア史、ロシア文学、文法、ロシアの世界、マスコミュニケーションのなかから、ロシアの世界、マスコミュニケーションの2つを選んだ。

そして、廊下で捕まえた学長に住民登録の担当者を探していると伝えると下で会ったばかりだといい部屋へ案内してくれた。そして、再会。ご機嫌はいかがと挨拶され、すっぽかされて、いいわけないじゃないと答えたところで、学長は、仲良くしてね、と小声で言い残し去っていった。空港から一緒だった子の手続きをしていた。彼はロシア語ができないから仕方ないと詫びれもなくいう。ロシア人相手に無益な抗議は止め、本題に入る。シャバロフスカヤ寮への移転手続きをする予定だった。

担当者が、シャバロフスカヤ寮に電話をかける。なにやら揉めている気配がする。うちの生徒を優先的に入れなければならないと担当者が怒鳴る声が響いた。結局、2月1日からなら受け入れてもいいとの返事。2月3日に帰国することを知っている他の事務職員が笑って、それは無駄だわねという。シャバロフスカヤ寮は、外国人専用なので、各部屋にテレビと電話、各フラットに、システムキッチン、洗濯機、バスルーム&トイレが備え付けられている。食堂や売店はないけれど、駅から2分の好立地。学校へも地下鉄で乗り換えなしの2駅。仕方がないので、ベルナーツカヤ寮で住民登録を申請して、パスポートと引き換えに証明書を受け取る。そして、寮費を聞くと、1人部屋なので、1ヶ月170ドルとのこと。

午後のクラスから授業に参加。その後、事務所に寄り、学生証を受け取り、バスの定期を申請すると、ないという答えが返ってきた。担当者が購入できると言ったと伝えると、事務員はそそくさと引き出しを開け、定期券を取り出した。手数料の10ルーブルを含め、115ルーブルを支払い、微妙な心境で部屋を出た。そして、ベルナーツカヤ寮では、たらいまわしに遭った後、寮費をルーブルで支払い、さらに管理人室で滞在許可証を更新する手続きを取らされた。ロシア的お役所仕事には、ほんと辟易させられる。

1月12日(水)

選択した「ロシアの世界」というクラスに出席。わたしは、ソビエト時代を体験している最後の世代だと熱く語り、社会主義の思想について弾丸のように話す先生で、ちょっと面食らう。

子どものころから社会主義のなかで教育され、共産党に無理やり引き込まれ、民主的共産主義を唱える人々のなかで、疑問を感じつつも抜け出すことはできなかったという。

古典経済学者、マルクスは、共産主義社会は、単独の指導者では、つくりあげることはできないと述べたが、レーニンはできると述べている。マルクス共産主義とレーニン共産主義は、似て非なるもの。そして、社会主義の理念を大衆にも受け入れられるようにしたのが、思想とのこと。

受講生は、イギリス人のデイビット、Yさんとわたしの3人だけだった。唐突に質問もしてくるので、休憩を挟んで3時間、講義を聴いた後は、なんだかどっと疲れた。

この日の授業は、午前中だけだったので、Yさんとモスクワの中心街へ繰り出す。ジェーツキーミールで買い物をした後、アメリカ人から教えてもらったというインド料理店で遅めのランチを取る。グラム料金制で、100グラム28ルーブルから。種類が多いので、何を食べようかと迷う。トレイを持ち、空いている席を探し、腰を下ろすと、なんだかモスクワではないような気がした。店内では、エスニック食材なども販売されていて、それも興味深かった。

ジェーツキーミール おもちゃ売り場
ジェーツキーミール
おもちゃ売り場
ジェーツキーミールで発見 十六茶などの自動販売機
ジェーツキーミールで発見
十六茶などの自動販売機
インド料理店
インド料理店

1月13日(木)

旧正月のお祝いをする予定だったのだけれど、風邪をこじらせダウン。学校も休み、ひたすら眠り続ける。夕方、むっくりと起きて、冷蔵庫をのぞくと、ビール、ピクルス、鳥の丸焼きのみが転がっていた。14階の管理人さんから鍋や食器を貸してもらっていたものの、廊下を渡ったところにある共同の台所で料理を作るのが煩わしくて、まったく使っていない。食材があるはずもなかった。

最寄のプロスペクト・ヴェルナツカヴァ駅の近くに薬局があるのを思い出し、買いに行くべきか悩むも外はマイナスの世界。片道、10分以上歩くのはつらい。結局、下の売店へ、水とジュース、キャベツのピロシキを買いに行くのにとどめた。

少し口に入れ、またベッドへ戻る。そして、まどろみながら、依頼された仕事のことを思い出す。よけい熱が上がったのか、意識はそこで途切れた。
クリスマス、お正月の飾りつけは、旧正月まで。この日を境にすべて取り外される。

1月14日(金)

気づけば朝の9時。授業は10時から始まるので、かなり遅刻モードなのだけど、体調は、それほど悪くない。シャワーを浴び、身支度を済ませ、部屋を出たのは、9時30分。寮の前から出るトロリーバスに乗り、メトロ、ウニヴェルシチェート駅前で降り、路面電車に乗り換え、学校の近くまで行く。学食でパンをほおばり、途中で買った風邪薬を紅茶で流し込み、クラスにたどり着いたのが10時15分。ようやく5、6人の受講生が集まり、授業が始まるところだった。

テキストが配られ、目を通そうとするも、なかなか前に進まない。 ロシア語のキリル文字には、英語のアルファベットと同じ文字が含まれていて、そのいくつかが紛らわしい読み方をする。キリル文字のBはヴェー、Hはエヌ、Pはエル、Cはエス。仕事で英語にふれる機会が多いので、微妙に頭が混乱して、音読にも時間がかかる。教師はいい顔をしなかった。同じ日に入ったスペイン人の学生にも教師は冷たく、結局、ふたりしてクラスを変更することになる。もっとも、その後2週間で、そのクラスに残ったのは、8人中2人だけだった。うちのクラスからは、どんどん人がいなくなるんだよね、と残った子がぼやいた。

老後をロシアで英語を教えながら過ごしているサンフランシスコ出身のアメリカ人とお昼を食べる。もう、5年、モスクワに住んでいるという。気候も温暖なサンフランシスコが恋しくなりませんか、と尋ねるとモスクワは物価が安いし、住みやすくていいとのこと。英語を話すことがステイタスになりつつあるモスクワ社会では、英語を母国語に持つ白人には居心地がいいのかもしれない。ちなみに黒人に対する人種差別は、黄色人種に対するよりもかなり強い。
その昔、大学の第二外国語でロシア語を習っていたとき、講師がロシアで下手なロシア語を話すと田舎者だとばかにされるから、英語を話した方がいい、ロシア語より英語を勉強した方が有意義だと言っていたのを思い出した。まったく本末転倒のような話だけれど、痛いところをついている。ロシア語では高飛車な話し方をするロシア人も英語だと妙に控えめで、丁寧な受け応えをする。

話題は、モスクワ、サンフランシスコ、東京へと移った。1965年に東京へ来たという。映画、ロスト イン トランスレーションの内容は、救いようもなかったけれど、東京を舞台に撮影しているので、映像に興味を引かれた、と聞き、帰国後、その映画をレンタルして見た。日本の文化を斜めから映し出した映像には、まったく共感できない。わたしが知ることのない1965年東京の風景とこの映画の映像をアメリカ人はどう捕らえたのだろうかと悩む。