クロスカルチャー コミュニケーション

ロシアプチ留学 2005

1月30日(日)

ウニヴェルシチェートの市場で、いちご、プラム、ぶどうなどの果物、歌舞伎を特集していた雑誌、タブロイド新聞などを買い込み、Yさん、ガーリャさんの夫との待ち合わせ場所、住み慣れた建物の入口へ向かった。

バスと地下鉄を乗り継ぎ、3人でガーリャさんの入院している病院を訪ねる。外国人は受付で入館を断られるかもしれないから黙っているように、わたしが親戚だと説明するから、とおじさんに言われ、ちょっとどきどきするも、特に咎められることなく通過できた。入院病棟とは思えないほど重厚な扉を2度開けて、中に入ると天井の高さに圧倒された。旧アルバート通りの近くにあることからも、元は貴族の館だったのでは、と推測する。階段を上り、扉を開けると広い空間にソファが置いてあった。ここで待っててといわれ、Yさんと腰を下ろしているとすぐにガーリャさんが歩いてきた。足を手術したと聞いていたので、ちょっと驚いていると、ベッドで足を上げて寝ていると思った?とガーリャさんに笑われた。4人部屋の病室に案内され、なかに入ると患者は、ガーリャさんともう1人の女性だけだった。テレビもあり、なかなか居心地がいい。小一時間ほどそこで過ごし、別れを惜しみつつ退出する。ここが図書室だよ、と教えてもらい、階段を下り、建物の外に出ると、ガーリャさんが窓際に立ち、手を振っている姿が見えた。笑顔で手を振り替えし、病院を後にした。

あの建物は外務省、この先にあるのは内務省、と軍関係で働くおじさんのガイドで、旧アルバート通りを歩くと街が違って見える。
ガーリャさんのお達しで、ウォッカといくらの缶詰、お手製のピクルスを受け取りにおじさんの家へ向かう途中、トラリーバスが立ち往生した。原因は、車の路駐だった。電線からの動力に依存しているトラリーバスは、わずかな進路も変更できないらしい。トラリーバスを降りて、バス停まで歩く。まったく迷惑な話なのだけれど、モスクワでは、珍しくもない。とうぜん振替乗車券など、発行されない。

おじさんの家でウォッカなどを振舞われた後、ウォッカとイクラ、そしてピクルスを差し出され、思わず言葉を飲んだ。ウォッカも特大サイズだけど、ピクルスの瓶など、片手で持ち上がらないほど大きくて重い。気持ちだけ受け取らせて、とピクルスをお断りする。おじさんの家を後にして、しばらく歩いたところで、ピクルスをなんで渡さなかったのと怒られるおじさんの姿が目に浮かぶ、とYさんが言った。一般のロシア人が外国人専用だったインツーリストホテルに入るだけで射殺されたソビエト時代に、軍事兵器の商談で海外を飛びまわる実力を持っていたおじさんも、おばさんには弱い。

Kさん、Aちゃんと待ち合わせしていたわたしたちは、Yさんの家を素通りして、メトロ、クロポトキンスカヤ駅のホームへと移動した。グルジアレストランでワインと料理を堪能した後、店をかえビールで再度乾杯、最後は、ちょっとおしゃれな喫茶店で、ケーキと紅茶。モスクワで働くAちゃんはさすがによく店を知っている。話もはずみ、寮の部屋にたどり着いたときには、とっくに日付が変わっていた。

1月31日(月)

プーチン大統領は、路上でアルコールを飲むことを禁じる法律に署名しなかった、と聞き、何でも飲んでいいの?と尋ねたら、ビールだけ。もともと、強い酒は禁止されている、と言われた。毎年、春になるとその冬、アルコールが原因で死亡した人の数を報じるお国柄なので、当たり前かもしれない。

ロシアでアルコール依存、中毒症の人々を象徴する酒といえばウォッカ。密造ウォッカも未だに多く出まわっていて、品質の悪いウォッカを飲んで死亡する人も毎冬、数千人に上る。ロシア人によるとウォッカは工場まで買付けにいくのがベストらしい。最高級のウォッカは、かなり飲んでも悪酔いしない。

数年前まで、偽造のグルジアワインが蔓延り、巷に出回っていた。水で薄めらているだけならば大丈夫だけど、不凍液などの異物が混入されていると、かなり痛い目に遭う。最近は見かけないと油断していたら、偽造はグルジアワインだけじゃないと身をもって体験させられた。
密造、偽造は、脱税だけにしてもらいたい。ウォッカ、ワインは、簡単に密造することができる。作り方は、ロシア人なら誰でも知っていて、自家用に醸造している人も多い。
ビールは比較的人畜無害なので、どこでも気楽に買える。そして、ロシア産ビールは、ミネラルウォーターと値段が変わらないほど安い。一瓶60円~70円ほど。茹でたザリガニや乾燥魚を肴にビールを飲む人を街角で見かけなくなり、ホットドックやフライドポテトでビールを飲む人の姿を見ることが多くなった。

昔、飲み屋でビールジョッキに30カペイカの保証金を取られ、けちくさいなぁ、と思っていたら、ロシアの親心だった。その当時の地下鉄料金が30カペイカで、財布が空になるまでビールを飲んでしまっても、ジョッキを返せば、とりあえず家まで帰れるから、と誰かが言っていた。そんなロシアの風習が消えたのも寂しい。ちなみに、モスクワの地下鉄料金は現在も均一で、どこまで乗っても変わらない。

夕方、かつてのホームスティ先へ遊びに行き、食事の支度をしながら、Yさんからボロネジの話を聞く。
家に蛇口はあるんだけれど、井戸から水を汲んできて、タンクに入れないと水が出ないの、ガスも通ってないし。過疎の村で、廃墟ばかり。遊びに行くのにはいいけど、生活するのは、ほんとたいへんだと思う、とのことだった。モスクワはロシアじゃないという言葉をよく耳にするけれど…。

3人でちょっと豪華な夕食を取った後、おばあさんが、モスクワオリンピック時の公式マスコット、ミーシャの置物を餞別としてくれた。そういえば、去年のアテネオリンピックのとき、チュエブラーシカがロシアの応援マスコットになってなかった?とYさんに聞いたら、チェブラーシカの語源は倒れそうなという意味だから縁起が悪いって、大不評だったの、という。オレンジ箱で寝ているのを見つけた果物屋のおじさんが起こし、ふらふらして倒れそうな姿から、君は、チェブラーシカだ、と命名しているDVDを見て、納得した。

チェブラーシカ

チェブラーシカ

2月1日(火)

朝から1枚の紙切れに署名をもらうべく奔走する。1週間ほど前、毛布を借りに備品の管理人とところへ行った折、会計で寮費を支払った旨の署名が必要、手続きを踏まないと荷物一つ外に持ち出せないと告げられ、書類を渡されていた。あと1週間しかないのに毛布なんかいるのかという横柄なお婆にぞんざいな口調で言われたので、こちらも丁寧とは程遠い言葉で了承。毛布を抱えながら部屋を後にした直後、エレベータでいっしょに乗り合わせた女子学生から、凍えないでね、と声をかけられた。笑顔もかわいい。ありがとう、と応え、モスクワは若者の時代だ、と心のなかでつぶやいた。
会計室や管理室でたらい回しに遭った末、どうにか署名をもらった。その際、寮費の不正請求も発覚したけれど、払い戻し手続きの手間を考慮して、無視する。

モスクワから70Kmほど郊外にある古い町、ズヴェニゴロドにあるサーヴィノ・ストロジェフスキー修道院を訪ねてみようとベラルーシ駅に向かう。駅の掲示板に表示された番号のホームで列車を待っていると変更を知らせるアナウンスが聞こえた。近くにいるロシア人に確認しつつ、移動して、列車に乗り込む。直前で変更するのは迷惑だから止めて欲しい。列車は、しばらく混んでいたけれど、終点のズヴェニゴロドへ到着したときには、がらがらだった。帰りの時刻表をチェックして、ガイドブックを手にホームを降りると、ちょうどバスが発車するところだった。一時停止してくれたのに、次のバスでもいいや、と考え、走らなかったことが仇となった。バスの時刻表を見て、(・・?。次のバスは、3時間後だった。白タクを探そうにも、駅に隣接する一本道に車の影もない。駅周辺は、森、もしくは林で、吹き付ける雪も風も強かった。結局、同じ列車に乗り込み、ベラルーシ駅に戻る。往復、約4時間。現地滞在時間約30分。森のなかに点在する別荘を車窓から眺めただけの小さな旅だった。

駅で友人らに電話をかけ、酒を飲もうと呼び出す。会うなり、Aちゃんが、冬に郊外に行くなんてチャレンジャーだよね、といった。わたしもそう思う今日この頃。10時ごろ、明るくなったかと思えば、3時すぎには暗くなってしまう冬は、暖かい室内で酒を飲むのに適している。厚い雪雲に覆われた冬空の下、急激に変化する社会を嘆き、ウォッカに溺れてしまうロシア人が多いことも、なんとなく理解できる。

2月2日(水)

トランクとリュックにすばやく荷物を詰め込み、片付けが一段落したところで、乗合バスでノーヴィエ チェリョームシュキ駅前のデパートへ向かった。レストランでビールとビジネスランチを注文して、Kさんとモスクワ最後の正餐を楽しむ。思い残すことのないように様々なビールを飲んだ後、電化製品街でDVD、スーパーで黒パン、お菓子などのお土産を買い込んだ。バス停で見送られつつ、Kさんと別れる。

寮に戻り、増えた荷物を片付けていたとき、ジーヨンが餞別のDVDを手に学校から帰ってきた。ちょうど14階の管理人さんが、魚のスープを作ったからと持ってきてくれたので、ジーヨンと2人で食べる。部屋でくつろいでいたら、横柄な備品管理のお婆がずかずか入ってきて、室内すべての備品が揃っているかチェックを始めた。その後、持ち出す荷物の数量を書き込み、有無を言わさずわたしたちを追い出し、わたしから取上げた鍵で部屋を閉め、書類を残し去っていった。送迎の車が来る6時まで、まだ1時間以上ある。勤務終了時刻にあわせて来たに違いない。出発までの時間は、ジーヨンの部屋で過ごさせてもらった。ツェルハンドルは、試験休みで帰省中だった。

書類を警備員に渡し、2つの荷物を寮の外へ出した。モスクワでは、治安の悪さを反映してか、警備員の需要が増している。以前のホームスティ先でお茶を飲んでいたとき、おばあさんが孫同然にかわいがっている男の子から警備員の仕事が決まったと連絡が入った。電話口では、おめでとう、よかったね、と言っていたおばあさんも、わたしたちの前では、男の子はみんな警備員になってしまう、と嘆いた。警備員の給料は、けっこう高いのだけど…。

ジーヨンに見送られて、予約した学校の車で空港へ向かう。雪の積もった高速道路を飛ばすので、生きた心地がしなかったけれど、無事に送り届けてもらえた。チェックインまで時間の余裕があったので、インターネットと書かれた看板を頼りに5階まで上った。インターネットはレストランのなか?と乗務員らしき人に尋ねたら、ええ、でも下に食堂があるわよ。そこで過ごしたほうがいいわ、と教えられた。レストランでインターネットをする程度のルーブルは残っていたけれど、なんだか入りづらくなり、馴染み深い4階の食堂へと下りた。

空港内に設置してある計りで、トランクの重さを量ったら、30キロを超えていた。オーバーチャージを請求されたら、黒パンを差し出してみようかなどと思案しつつ、チェックインカウンターに荷物を託すと、何事もなく通過してしまった。余ったルーブルを処分すべく免税店に入るも、モスクワ市内よりも高いのはなぜ?といった感じ。そして、持ち出し禁止のルーブルが出国手続きを経た先にある免税店で、普通に使えることにずっと疑問を抱いているのはわたしだけ?。結局、市内と値段が変わらないウォッカ2本とかなり高いチョコレート、ガムを買って、飛行機に搭乗した。

2月3日(木)

モスクワから韓国までの機内は、閑散としていた。そして、熟睡体勢のまま、インチョン国際空港への到着アナウンスを聞く。むくっと起き上がり、シートベルトを締めると機体はすぐに降下し始めた。

成田行きの搭乗は約5時間後、断られるのを覚悟しつつ、空港係員にトランジットエリアの外へ出ることを申告したら、あっさりと許可された。インチョンは、ソッキーとヘイジンが育った海辺の街で、以前、遊びにいったことがある。さしみ定食に焼酎も悪くないなどと考えていたわたしに降りかかった現実は、空港からインチョンの街まで、タクシーでも片道40分以上かかるということ。インフォメーションのおじさんに乗り遅れるから止めなさいと忠告され、諦めた。ソウルにいるヘイジンやジョンアーに電話をかけようにも手帳がトランクのなかにあり、電話番号が分からない。徒労感と空腹を抱え、インチョン空港内を歩いていたら、韓国の食材を扱う店と、食堂が目に入った。のり巻きとトッポギ(餅)の食券を買って、セルフスタイルの店に入る。トランジットエリア外の目立たない場所にあるせいか、客は韓国人ばかりだった。数種類のキムチとともにすべて平らげ、少しの幸せを得た後、チェックインカウンターを通り、トランジットエリアへ戻った。もし、ソウル市内に近い金甫空港だったなら、友達を誘って、焼肉にビール…、今更ながら、国際空港の移転が悔やまれる。

成田までの飛行機は満席のうえ、日本人団体客が多いせいか騒々しかった。韓国ドラマがブレイクする以前が懐かしいと思いつつ、おば様方の会話に思わず耳を傾けてしまう自分が悲しくもある。ドラマに魅せられて、ロケ地まで訪れるパワーはすごい。わたしの辞書で、チュンチョンを引くと、タッカルビ(焼き肉の鶏版)で有名な町と出てくるけれど、おば様達の辞書には、「冬のソナタ」ロケ地とあるに違いない。心ならずも機内で平和な日本を満喫してしまった。