カンボジア迷走記 プノンペン編 (S21, The Killing Fields)
ベトナムの首都ホーチミン、デタムストリートのシンカフェ(旅行代理店)前から、ちょっと豪華で怪しい中近東風内装のバスに乗り、揺られることおよそ7時間でカンボジアの首都プノンペン、キャピタルゲストハウス(旅行代理店、レストランを兼ねる)前に到着した。長距離バスのチケットはビザ代込みで35ドル。内訳は、バス代10ドル、ビザ代20ドル、パスポートの写真をスキャナーで取り込む代金1ドル、手数料1ドル、警官への賄賂2ドルとのことだった。賄賂の効き目か、国境のモックバイで待たされることもなくビザを取得、その後、川を渡るフェリーでも優先的に乗船していた気がする。
キャピタル1に部屋を取り、1階にある旅行代理店で、明後日の朝7時30分発、シェムリアップ行きのバスチケットを購入。ホーチミンから同じバスに乗り合わせた日本人女性は、キャピタル3に部屋を取り、明朝6時30分発、バンコク(タイ)行きのバスチケットを購入。まずは、近所の食堂で、2人して麺をすすり、アイスミルクコーヒーを飲み、トゥール・スレン虐殺博物館まで歩いた。
入場料2ドルを支払い、映画が上映されている教室へ急いだ。夫を殺され、子どもを奪われ、恥辱を受ける。時代に翻弄された一女性の生涯を淡々と語り伝える映画はせつなく、視聴者の涙を誘っていた。その後、収容者の写真が展示されている教室、細かく仕切られた監房、拷問部屋などをまわる。無造作に積まれた頭蓋骨、コンクリートの床につながる鉄の足枷、生々しい拷問用具とおびただしい血痕の跡がしばらく頭を離れなかった。
この政治犯収容所(現トゥール・スレン虐殺博物館)は秘密裏に稼動していたため、正式名称はなく、暗号名S21で呼ばれていた。S21の看守は、クメールルージュ(共産主義政党)により洗脳、訓練された10代の少年少女が主で、恐ろしく残酷だったという。一方、その看守たちもS21の秘密を厳守するべく、粛清に遭っている。
クメールルージュの「革命に学問は不要」との方針により、学校(リセ)からS21へと変えられた経緯も悲しい。S21では、1万~2万人が処刑され、生き延びたのは7人のみとか。
閉館の鐘を合図に、2人してへたり込んでいた中庭のベンチから立ち上がり、外へ出た。
ゲストハウスへ向かう途中、人が集まっている店を覗くとサトウキビジュースを売っていた。さっそく、2つ注文。にこやかな店員が、サトウキビを絞り機に挟み、ハンドルを手で回しながら、サトウキビを圧縮して、ジュースを搾っていく。すかさずジェスチャーでやらせてと訴えた連れが、店員に代わり一生懸命ハンドルを回した。サトウキビを折り重ねていくごとにハンドルが重くなるようで、最後はわたしも加勢。もう大丈夫、とストップがかかったときにはガッツポーズ。ギャラリーと化した現地の人たちも喝采してくれた。サトウキビジュースをビニール袋に注ぎ、ストローを差してもらう。サトウキビジュースは甘く、和やかな人たちの笑顔とともに、ほっと息をつけた。
その後、近くのスーパーマーケットと市場をのぞき、中華の屋台で1皿2000リエルのあんかけ焼きそばを2皿、バーベキューの屋台で1ピース1000リエルのチキンを数本買い込み、外のテーブルについた。カンボジアの正式通貨は、リエル、でもドルもそのまま使える。1ドル、4000リエルで計算。スーパーマーケットで1缶40セントで仕入れたアサヒビールを飲みながら、屋台の味を楽しんだ。連れは、ベトナムで民家に泊まり続け、深夜の墓地で、土葬の遺体を掘り出し、骨を洗うという儀式にまで参列している強者だった。面白い女性だったので、ついつい話しこみ、辺りに人も減ったころ、慌ててゲストハウスに戻った。
翌朝、窓のない部屋の圧迫感に負けて、ナイスゲストハウスの窓とベランダがある部屋へ移動した。どちらも10ドルの部屋を8ドルにまけてもらったのだけど、明らかにナイスゲストハウスの方がきれいで居心地がいい。ベランダの扉にかけられた大きな南京錠はちょっと気になったけれど、荷物を置き、朝食を取りに近くの食堂へ行く。同席したちょっとダンディな宝石商のおじさんが、「昔日本に行ったことがあるんだよ。」ときれいな英語で話し、食べ終わると、「もう仕事だから行かなくちゃいけないけど、君の分も払っておいたから。」と去っていった。う~ん。かっこいい。しっかりご馳走になった。
お腹も気分も満たされたまま、バイクタクシーでワットプノン寺院を訪ねたわたしは、穏やかな気分で参拝し、物乞いには快く施しを与えたりした。王宮、国立博物館を外から眺め、ロシアンマーケットで地雷やドクロマーク入りのTシャツを数枚買って、火鍋を一人で食し、キャピタルゲストハウスに戻り、キリング・フィールドへ行くバスツアーに参加する。
『キリング・フィールド』(The Killing Fields)とは、大量虐殺が行われた刑場跡の俗称で、わたしたちが訪ねたのは、政治犯収容所S21(トゥール・スレン)の処刑、埋葬場にもされた、チュンエクのキリングフィールドだった。
プノンペンの南西15キロにあるこの地で、知識人、伝統文化継承者、教師らが「反革命的な者」と見なされ、次々と殺害された。後には、クメール・ルージュの地方機関や事業所の幹部までもが、「反乱の恐れ有り」として殺害されたという。
「恐怖が恐怖を呼び、どうにもならない状況に追い込まれた。わたしたちも、なぜそうなったか分からない。」というガイドの言葉を聴きながら、遺体が発掘された墓跡として残った無数の窪みを見つめた。後ろ手に縛られ、目隠しをされ、墓穴の縁に跪かされ、鍬や斧で首の後ろを殴られ、墓穴に落ちる。男は男だけで、女と子どもは同じ墓穴に埋められていたとか。
母親の目の前で子どもを落下させ殺すために使われた木、犠牲者のうめき声を消すために声の大きな者が吊るされた木、拷問に使用したという縁が硬く尖っている植物、頭のない166の遺体が埋められていた墓穴の窪み、450の遺体が埋められていた墓穴の窪み、慰霊塔内に安置された無数の頭蓋骨など、虐殺は現実に起きたという物証を前にすると怯んでしまう。
チュンエクのキリングフィールドでは、129もの巨大な墓が発見され、そのうち86か所で発掘され、8,985の遺体が発見されているという。行きは賑やかだったツアーバスも、帰りは静寂に包まれてしまった。