オレゴン街道 ペンデルトン
「オレゴン州の北東部にある小さな町、ペンデルトンで『アンダーグラウンド ツアー』をやっているよ。詳しくはわからないけどね」
こんな言葉を頼りに、友人2人とポートランド駅からアムトラックに乗り込む。
ポートランドとシカゴを結ぶ長距離列車は、予定時刻より1時間30分ほど遅れて、のんびり出発した。コロンビア川沿いに走るので、車窓に映る景色が気持ちいい。コロンビア渓谷は世界屈指のウィンドサーフィンのメッカ、さすがにウィンドサーファーの質が違う。また、オレゴンのへそと呼ばれるマウントフット標高3426mも近くに見える。その後、辺り一面、とうもろこし畑となった。
ポートランド駅を出発してから、ほぼ4時間後、アムトラックは、ペンデルトン駅に到着した。
町外れの高台にあるレッドライオンホテルでチェックインを済ませながら、『アンダーグラウンド ツアー』について尋ねると、「今日は日曜だから町はすべて閉まっているけど…」とそのパンフレットを手渡してくれた。
ほかになにもすることがないので、ホテルの裏庭に腰をおちつけて、夕日が沈むまでの数時間、地平線に連なる山並みと手前に広がる荒野を眺めていた。旧オレゴン街道に当たるこの辺は、かつて開拓民たちが通った場所でもある。オレゴン街道というと整備された道のように感じてしまうけれど、実際には、道なき道。開拓者たちのルートは少しずつ違っている。乾いた平原に転がる瓦礫を踏みしめ、移動していくキャラバンの姿を思い描くだけでも気が遠くなる。
また、この付近には、ネイティブアメリカン、ウマティラ族、カイユース族、ワラワラ族の居留地もある。彼らはかつて、コロンビア川流域で獲れる鮭と森で採れる苔桃の実などを主食としていた。いくつもの言葉を話し、太平洋沿岸の部族がカヌーで運んでくる海産物、植物、薬などの品々や、大平原の部族が持ってくるバッファローの肉、獣皮などを扱う仲介人でもあった。白人の毛皮商人たちと取引をはじめてからは、英語やフランス語を話せる者もいたとか。
雄牛とともにゆっくり歩く開拓民のもとに英語を話すネイティブアメリカンが物々交換のために現れる。あまり画にはならないけれど、真実はそんなものかも、と思う。
辺りもすっかり暗くなった頃、ホテルに戻るとカントリーミュージックの演奏が行われていた。カウボーイの服を着ている演奏者を見て、「そいえば、ペンデルトンはカウボーイで有名な場所でもあったよね」とつぶやきつつホテルを横断、ホテル内にある高いレストランを横目に国道沿いの安いレストランに入り、充分過ぎるほどの肉を食らい就寝。
翌日、待望の『アンダーグラウンド ツアー』に参加して、中国人のたくましさに脱帽する。地下空間は、西部開拓時代に鉄道建設の労働者として言葉巧みに連れてこられた中国人たちによって掘られたものだった。かつては金の重さを計ったてんびん、23時間営業をして残り1時間で死体を片づけたという酒場、食料品店、クリーニング店、アイスクリーム屋、からくり扉を持つとばく場、三段ベッドが並ぶ阿片喫煙所などの跡から、当時の荒廃した空気が伝わってくる。
地上にも当時の姿を残す売春宿があった。通路の両側に並ぶ小部屋に付けられた女を選ぶための小窓が生々しい。売春婦は中国人女性のなかから調達されていたらしい。
1947年まで、赤線地区には、20の売春宿があったという。西部フロンティアにおいて、売春婦の存在は大きく、開拓者の妻たちを西へ向かわせる動機にもなったとか。
ペンデルトンは、東方オレゴンではいちばん栄えた歓楽の町。カウボーイや羊飼いの男たちで賑わっていた頃の面影を少しだけ残す。そんなペンデルトンのダウンタウンを隈なく散策するも1時間半ほどですべて見尽くしてしまった。
えっちらほと坂道を登って、ホテルの近くにあるBIマート(生協)で、ナチョチップスとチーズディップ、飲み物を買い込み、見晴らしのいい丘でごろごろする。青い空と茶色の大地は、見飽きることがなかった。
帰りのアムトラックは、予定時刻より6時間30分遅れてペンデルトン駅に入ってきた。「4、5時間遅れるのは、いつものこと。シカゴからくるから仕方ない。」という地元の声にも納得がいかない。時刻表を訂正すればいいのに、とぼやきながらポートランド行きのアムトラックに乗り込んだ。