ベトナム迷走記 ハノイ編
ハノイ旧市街に到着しておよそ1時間後、おおきな荷物を肩にかけ、バイクの後ろに跨り、黒服を着たホテルマンのぷよぷよしたお腹にしがみついていた。無秩序なドライバーたちは容赦なく抱えている荷物にぶつかってくる。バイクや車のクラクションが激しく響くなか、道路に散乱した果実を拾う人を見れば、傍らに膝を抱え、痛みにもだえている人がいた。転倒したバイクとへこんだ車も生々しい接触事故の現場を強引にバイクですり抜け、空港で予約したホテルにたどり着いたときには、ベトナムへの幻想が全て消えていた。
空港のミニバスと連携した客引きに騙され、別のホテルに連れて行かれた結果、旧市街を彷徨うことになった。入り組んだ路地に方向感覚を狂わされ、重い荷物を抱えながらひたすら歩いた。辺りもすっかり暗くなったころ、空港で予約したホテルと同系列のホテルを見つけた。迷わず飛び込み、ホテルのフロントで事の顛末を訴えたところ、予約したホテルから迎えのバイクをよこす手配をしてくれた。
チェックインを済ませ、ベッドに転がりガイドブックを開くと「空港のミニバスに注意しよう」と記載されていた。ベトナムの洗礼でもあると。たしかにと一人頷きながら、冷蔵庫からHALIDA VIETNAM ビールを取り出し、一気に空けた。もっと強い酒を飲みたい気分だったけれど、外に出る気力もわかず、さらにビールを煽った。
太陽の下、街を歩けばさらに貧しさが目立った。バイクの排気ガスと騒音のなか、歩道で屈みながら食事をしている人々をよけ、絶え間なく声をかけてくるバイクタクシーの運転手をあしらい、物売りの攻勢に抗いつつ進む。歩道もおかまいなしにバイクが疾走するので、気が抜けない。3人乗りのバイク、時には家族4人乗りのバイク、大きな荷物を積んだバイクがわたしを掠めながら、通り過ぎていく。
どっぷりとベトナムに浸ることを拒絶したわたしは、タクシーで観光名所をめぐり、外国人が集うカフェやレストランで食事を取り、デパートやスーパーマーケットで買い物をして、ホテルでボディマッサージを受けた。ちなみにタクシーの初乗り60円ほど、旧市街にあるレストランのディナーセット600円ぐらい(ステーキとフライドポテト、サラダ、パン、フルーツジュース、フルーツ盛り合わせ、デザートなど)、スパ&マッサージ1時間は1500円ほどで、金銭的な支障はなかった。
そんな旅のスタイルに入って5日目、ホアロー収容所跡をたずねた後、ホアンキエム湖畔のカフェでくつろぐ外国人らに物乞いをするベトナム人らの姿を見て、やるせない気分に襲われた。
1896年フランスにより設立されたホアロー収容所は、植民地支配からの解放を求める活動家たちを根絶する場所だった。多くのベトナム人が足枷をつけられて拘束され、さまざまな拷問を受け、ギロチンなどにより処刑されている。北ベトナムが開放される1954年まで続いた。また、1964年から1973年までは、北爆中に撃墜されたアメリカ軍の兵士を捕虜として収容するために使われた。
フランスの残虐な行為に憤りを覚えたところで、日本軍によるインドシナ侵攻が頭をよぎる。いったい何をしたのだろう、素朴な疑問が浮かんだ。
フランスによる支配と搾取、アメリカによる空爆を経験した人々に豊かな外国人はどのように映っているのだろう。経済力の違いを武器にベトナム人を傅かせている外国人、そして自分がその一員であるのが嫌だった。まずは、ベトナム人が集うビアホイ(居酒屋)に行こうと思い立つ。そして、旧市街を歩くも、なかなか店への一歩が踏み出せなかった。外にある調理場で、蛙の皮をはいだり、鳩の羽などをむしっている姿を目にすると躊躇してしまう。やっとたどり着いた店は、英語のメニューもある小ぎれいなビアホイ。客の大半はちょっと裕福なベトナム人男性で、ジョッキビール1杯の値段は約23円。野菜炒め60円ほどから。とにかくハノイビールの安さに驚く。味も悪くないので、喜んで飲んでいたら、まわりで飲んでいるベトナムのおっちゃんたちが英語で声をかけてきた。どこからきたの?何してるの?ハノイウォッカの方がうまいぞ。飲まないか?との流れで、ウォッカグラスを手渡された。ベトナムとロシアはかつての友好国、やはりウォッカはストレートで一気飲み。おっちゃんたちよりも英語のできる若い店員を通訳に立てつつ歓談。すっかりお店の人たちとも馴染み、その後、常連客となる。おっちゃんを2人ほど潰して、詫びながら店を出たわたしは、フランス領時代の建物が残る街を今までとは違う視点で眺めながら歩いた。その道中、酔い覚ましも兼ねて屋台に寄り、小さく低い椅子に腰掛け、フォー(米麺)をすすった。おばちゃんが目の前で手早く作ってくれたフォーに酢橘を搾り、香草をのせ、左手に器、右手に箸を持つ。机もない路肩でも、妙に落ち着いて食べられるのは、アジア人なのね、と思う。味もどこか懐かしい。60円ほど払って、のんびりとホテルにむかった。
体に激しい衝撃を受け、頭をがくがくと揺さぶられる感覚を残し目が覚めた。地震かと思い慌てて辺りを見回すも、怖いぐらいの静寂さで、物音一つしない。時計を見ると午前3時。誰かがこの場所でライフルで撃たれたのだと感じつつ、そのまま眠りに戻った。朝、目覚めてすぐに、私の体に何が起きたのだろう、霊現象ならば何を伝えたかったのだろう、と思いめぐらす。まったく見当がつかなかったので、ホアンキエム湖にある玉山祠へ行き、線香を供え、故人の冥福と旅の安全を祈願した。
日本軍がベトナム北部を支配した結果、200万人もの餓死者を出したという事実を知ったとき言葉も出なかった。1940年から1945年まで駐留し、ジュートなどの戦略物資を得るために稲作面積を減らさせたうえ、フランス植民地機構を下請けにして、米などの食料を強制的に安い価格で買い付けたことによる。天候不順で凶作の北部へ豊作だった南部から米が運ばれなかったことも重なり、1944年から1945年にかけて、大量餓死という惨事に至ったという。