クロスカルチャー コミュニケーション

ベトナム迷走記 ホーチミン 後編

シェムリアップから直通バスでホーチミンにもどってきたわたしは、再びデタム通りの住人になった。そして、誘われるまま、メコンデルタツアーに参加した。ボートからメコン河流域の人々の生活を眺め、ココナッツキャンディの工場や養蜂場などをめぐり、トロピカルフルーツを食べながら歌や踊りを見て、馬車に乗り、手漕ぎ小舟で生い茂る木々の間を抜けた。安心して楽しめる定番の日帰りツアーは、昼食付きで7ドル(英語)。ちなみに日本語だと40ドル。デタム通り周辺の住人には、選択の余地がある。

残りの滞在日数もあと2日、ホーチミン市内観光に励もうと、朝からバイクタクシーでベトナム歴史博物館へ行き、古代の美術品とアジア各国の仏像をながめ、待たせていたバイクで中央郵便局まで。フランス殖民地の香りが残る郵便局内でちょっと休憩、サイゴン大教会に寄って、韓国系デパートのダイヤモンドプラザをのぞく。高級ブランドショップが並ぶ売り場を前に、ここはベトナム?と自問。別世界ともいえるデパートを後にして、統一会堂(トンニャット宮殿)の前まで歩く。

1975年当時、大統領宮殿であったこの建物のフェンスを北ベトナム軍の戦車が突破して、ベトナム戦争は終結。その様子は、サイゴン陥落の映像として全世界に配信されたというが、その映像を知らないわたしには、まったく実感がわかなかった。統一会堂のなかには入らず、客待ちしていたバイクで戦争証跡博物館へ向かう。

ベトナム戦争の悲劇を切り取った数多くの写真が展示されているなかに、沢田教一の「安全への逃避」を見つけた。1965年アメリカ軍による爆撃から逃れるために川を渡っている親子の写真で、1966年にピューリッツァー賞をとっている。沢田教一は、写真を撮った後、川から親子を助けて、村まで送り届けた。また、受賞後に賞金の一部と写真を手渡すため、再度村を訪れたという。その後、1970年カンボジアの首都プノンペンで、銃弾に倒れた。クメールルージュにより殺害されたといわれている。感慨に浸る間もなく多くの見学者に押し流され、次の展示室に入るとシャム双生児のホルマリン漬けが目に入った。アメリカ軍の使用した枯葉剤の影響で、さまざまな奇形児が生まれているという。巨大な頭、不自然な形の手足、ゆがんだ配置の顔など、奇形を持った人々の写真、さらに様々な爆弾、地雷により負った傷跡の写真が続いた。そこには、シャム双生児、ベトちゃんドクちゃんの上半身が2つで下半身が1つの写真もあった。1981年に生まれた2人は、1988年大手術を受けて分離された。その後、ドクちゃんは元気になり2006年12月に結婚。ベトちゃんは、2007年10月、腎不全と肺炎の併発により死亡。明暗を分けた。ベトナム戦争の被害者を浮き彫りにする展示品の前で目頭を押さえる老人が多かった。沈鬱さを引きずって展示室を出ると、韓国人の若者がはしゃぎながら戦闘機の前で記念撮影をしている姿が目に入った。「中国人には理解できない。」と隣で吐き捨てたアメリカの老人に憐憫と軽蔑の眼差しを向ける。ちなみに韓国は、アメリカの要請に応え、ベトナムに軍隊(最大時には、約5万人)を派遣した。そして、アメリカ軍、韓国軍、ともにベトナムの民間人を暴行、虐殺した悲しい歴史を共有している。

前線のなき戦争にとりつかれたわたしは、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の本拠地を見ようと、戦争証跡博物館を出てまっすぐにシンカフェ(旅行社)へ向かい、「カオダイ教寺院とクチトンネル」の日帰りツアーを申し込んだ。

翌朝、大きな荷物をフロントに預け、ミニホテルをチェックアウトして、8時15分、シンカフェの前から大型観光バスに乗り込む。3時間ほどで、タイニンにあるカオダイ教寺院(総本山)へ到着。カオダイ教の寺院内は、目を疑うほど様々な宗教のシンボルが色鮮やかに飾られている。祭壇に鎮座する天眼と呼ばれる巨大な目に釘付けされていたら、ベトナム人のおばさんが、上を指差して聖母マリアと教えてくれたほど。カオダイ教は、ベトナムの新興宗教で、儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教を土台にしている。教義には、精霊崇拝も含まれるという。主に白いアオザイを纏った信者が、厳かに礼拝するのを見届けて、バスに戻った。

恐ろしくまずいランチを取らされた後、やっとクチトンネルへ運んでもらう。5ドルのツアー(クチトンネルの入場料5ドルは別)なので、文句はいえないけれど、きっと食堂からバックマージンをもらっているはず。通常5,000ドンほどの料理が20,000ドン、もっとも1ドルが17,000ドンなので、値段よりも味の悪さに非難が集中した。

全長200キロにも及ぶクチトンネルは、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の本拠地として知られている。南ベトナム解放民族戦線、通称ベトコンは、南ベトナムで1960年に結成された反アメリカ・反帝国主義を標榜する組織で、北ベトナム軍の指令下にあった。中国、ソ連の支援を受けた北ベトナム軍から、ラオス、カンボジアのジャングルを抜ける北ルートと呼ばれる補給路を使って、武器弾薬を手に入れ、南ベトナム軍、アメリカ軍などに対してゲリラ戦を挑んだという。

クチトンネルの入場券を手にガイドに続くと半地下の小屋に通され、パネルの地図とビデオで予備学習を受ける。ホーチミンから60キロの地にあるベンディンのトンネルは、200キロに及ぶクチトンネルの一部で、シャベルと籠を使いすべて手作業で掘られた。トンネルは3層構造になっていて、第1ステージは3m、第2ステージは10m、第3ステージは15mの深さ。第1ステージは、戦闘の場、弟3ステージは、爆撃でも崩れることが無かったので、子どもたちをかくまった。縦横無尽に張り巡らされたトンネルは、すべて水路とつながっていたので、安全に水を補給することも、水路を使ってすばやく移動することもできた、という。

ガイドに従って、かつてゲリラ戦が行われていた戦場跡へ移動する。最初に驚いたのは、トンネルの小さな出入り口。扉を両手で持ち上げ、そのまま下へ沈まないと肩がつかえて入れないほどの大きさ。雑草や木々が生い茂るジャングルのなかではなかなか探せない。無数の出入り口が用意されていたという。その後、ジャングルに仕掛けられたさまざまな罠を見ていく。穴の中に無数の槍が立ててある落とし穴、足を踏み入れると無数の刃が突き刺さる仕掛け、足を踏み入れた重みで刃のついた罠が閉じるものなど、見ているだけで背筋が凍る。もちろん、当時のジャングルには、南ベトナム解放民族戦線、アメリカ軍、双方が仕掛けた地雷もあったはず。現在でもベトナムには、約350万個の地雷が埋まっている。

ガイドに促されて、トンネルに潜るとすぐに強い圧迫感に苛まれた。息苦しいほど狭く暗いトンネルを這うように進み、10分ほどで外に出たときは、もう二度と潜らないと心に誓った。戦時下のトンネルでは、アメリカ軍の侵入を防ぐためにいろいろな罠が仕掛けられていたとか。

畑を耕せないためにタピオカを食べ続け、地下に潜みながら10年以上戦い抜いた人々には頭が下がる。トンネル内で結婚し、子どもも産んで育てている。1万人以上の犠牲者を出しながらも、屈しなかったベトナム人の強さはどこから…と考える。

夕方6時前、バスは定刻通りシンカフェ(旅行社)の前に到着して、日帰りツアーは終了した。ベトナム最後の晩餐は、混み合うベトナム料理店で、スープ、魚のから揚げ、肉と野菜の炒め物、野菜の煮物などなど、同じツアーに参加した旅人と少々豪華に楽しんだ。

イエスタディ ワンス モアなど、ビートルズの曲を陽気に歌うタクシーの運転手に連れられて、ホーチミンシティ国際空港へ。歌声はともかく、英語の歌詞を全部覚えたんだ、という兄ちゃんの努力に思わずチップを渡してしまった。空港内のショップはどこも恐ろしく高かったので、残りのドンをすべて寄付金箱へ入れ、成田行きの飛行機に搭乗した。