クロスカルチャー コミュニケーション

モスクワ旅日記 2003

1 day 「再会」

飛行機を降り、薄暗いシュレメッツェボ空港に入ったところで、モスクワへ戻ってきたことを実感した。なかなか進まない入国審査、いっこうに出てこない荷物の引渡し場にも懐かしさを感じてしまう。出国ロビーへ出て友達のKさんを探す。重い荷物の大半は、Kさんのお母さんから預かった日本食など。タクシーの勧誘を断りながら、待つこと10分。出迎えに来なければ、この荷物捨てちゃおうかなと思いはじめたころ、Kさんが犬を連れて現れた。

モスクワ在住10年を越えるKさんが、モスクワ市内へ車で向かう途中、新しくできたお店、ビル、道路などを教えてくれた。郊外型の大型店舗は、価格も安いし、市内から送迎バスもあるので、ロシア人にうけていると聞き、5年という月日の流れをあらためて感じた。

以前、間借り(ホームスティ?)をしていたアパートメントに着き、セキュリティが強化されたことに驚く。インターフォンで呼び出し、オートロックの入口を開けてもらい、エレベーターで9階に上ると、さらに鉄の扉があった。そこで、おばあさんに出迎えてもらい、さらにもう一つ扉を経て、部屋へたどり着いた。夜も更けていたので、Kさんとはそこで別れ、おばあさんが料理してくれたボルシチを食べつつ、久しぶりの再会を喜んだ。しばらく、話を続けるも眠さに耐えきれなくて就寝。モスクワ午後11時30分。日本午前4時30分。

2 day 「高級レストラン」

朝食をおばあさんが作ってくれたので、いっしょに食べる。パン、チーズ、サラミ、ウエハウス、クッキーにお茶。年金生活者のおばあさんにとっては、最大限のもてなしだと思う。お茶を飲みつつ、のんびり話をしていると仕事でモスクワへ来ている友達のMちゃんから電話があり、これから来るとのことだった。まだ、来ないだろうとシャワーを浴びていると電話が鳴り、いま下にいるという。携帯電話からだった。モスクワでも携帯電話がかなり普及している。大急ぎで支度をして、ドアを開ける。鍵は全部で4つ。建物の入口に1つ、フロアに設置された扉に1つ、アパートメントの扉に2つ。

しばらくお茶を飲んでから、Mちゃんがチャーターしていた車に乗り、近くの市場へ行った。Mちゃんはモスクワで寮生活をしていたときの同居人。現在は、旅行会社で働いている。二人で懐かしい市場の商品を物色する。全般的に値上がりしているもドル生活者には、それほど影響がない。98年のロシア危機以降、ルーブルが暴落し、1ドル7ルーブルほどだったのが、1ドル30ルーブル(2003年)ほどになっている。市場で、野菜や果物を買った後、近所の魚屋に寄った。水槽で鯉やなまずが泳いでいたほか、氷で冷やされた生魚も多く陳列されているのに驚くも、買ったのは、馴染み深いニシンの塩漬けとさばの燻製だった。

車を返してしまったことを後悔しつつ、重い荷物を抱えてバスに乗る。そこで、どうせならモスクワ大学に寄ってみようと大学の入口で降り、警備員の前をどうどうと通り抜け、建物のなかに入った。学生証がない今では、りっぱな不法侵入なのでどきどきした。学生食堂が閉まっていたので、そのむかいのカフェに入る。学生も少なく、何やらちょっと高級感が漂っていて、少したじろぐも、ジャスミン茶30ルーブル、セイロンティー25ルーブル、ランチセット115ルーブルというメニューを見て、安心した。それほど変化のない構内を散策した後、モスクワ大学の林檎園を眺めながら、歩いてアパートメントへ向かった。ソ連時代、学生たちがこの林檎園の作業などに借り出されていたため、学生食堂では、パンとりんごは無料だったと聞く。知り合いのロシア人も学生時代には、じゃがいもの収穫を手伝いに3週間、コルホーズで働いたと言っていた。大型機械が掘り起こしたじゃがいもを拾い集めていたらしい。もっとも、修学旅行気分で、あまりまじめに働かないので、近所の人たちが後日拾い集めていたとのこと。

帰宅し、遊びに来るというKさんのために食事の用意をする。おばあさんが、塩漬けニシンをさばく姿をMちゃんは興味深げに見つめていた。手で魚の皮をはぎ、骨を取り、香草をのせてひまわりの油をかけてできあがる。レストランでおなじみのメニューだけど、原型はなかなか想像がつかない。サラダ、さばの燻製、サラミ、チーズ、黒パンなども用意して待つも、Kさんが来られなくなり3人での食事となった。

食後、モスクワの中心へバスと地下鉄を乗り継いで行き、クレムリンの周辺を歩いた。Mちゃんが、モスクワもすっかりヨーロッパと同じようになっちゃって寂しいねと言う。わたしも大きくうなずいた。歴史博物館のなかに入っている高級レストラン、「クラースナヤ・プローシャチ・ドーム1」の受付で、お茶だけでもいいかと尋ねたら、地下のフロアにあるソファーへと案内された。クバス味の微妙なアイスクリームが240ルーブル、シャンパングラスに入った激甘のシャーベット300ルーブルに対して、グラスビール(500ml)が60ルーブル。紅茶が30ルーブルとなぞの値段設定だった。甘さに耐えきれず、ビールをがぶ飲みしていたら、ここに座ってもよろしいですかと声をかけられた。演奏者たちだった。よく見れば、隣りにはピアノが置いてある。Mちゃんが、お茶だけでもいいかなんていじけたこと言わなければよかったかなぁとつぶやく。客として最低ランクに位置付けされたのが、ショックだったらしい。予想するにまずは、VIPルーム、次に1Fフロア、地下フロアのノーマル席、そして、ソファー。最初にデザートのメニューも渡されなかったことを考えれば、納得がいかなくもない。ピアノ演奏も堪能できたし、ソファーの座り心地もよかった。ビールも冷えていておいしかった。ただし、デザートはおそろしくまずくて高かった。
Mちゃんは、翌日からサンクトペテルブルグで仕事だったので、日本でねとキエフ駅で別れた。

3 day 「ロシアの昼食」

朝から雨が降っていたこともあり、おばあさんとゆっくり朝食を取っているところへ、隣りの家から遊びにおいでという電話が入った。手土産を抱え、いそいそと隣りに出向く。なんで、もっと早くに来ないのと怒っていたが、おばあさんとこのおばさんが喧嘩別れをしているので、近くて遠い場所だった。以前は、フロアの扉をつくったら、パジャマでお互いの行き来ができるなどと言い、ほぼ毎日、おばさんが立ち寄っていた。その扉も仲たがいした原因の一つらしいけど・・・。ペレストロイカが始まる前まで、ユーゴスラビアで7年間暮らしていた隣りの家は裕福で、よく豪華なロシア料理を食べさせてもらっていた。温厚なご主人は、70歳。軍関係でコンピュータの仕事をいまも続けている。気の強いおばさんは、60過ぎ。子どもは男の子2人。すでに結婚し、孫にも恵まれている。母親が夜学に通っているという理由で、7歳になる孫の1人を面倒みていた。

とにかく、再会を果たし1時間ほど近況を聞いた後、孫を迎えに行ってから昼食を用意するから3時に来てねと言われた。ロシアでは、昼食がいちばん重要な食事である。ロシア語クラスに通っていたころ、ロシア人に昼食をおごると気軽に言わないほうがいいと教えられた。昼食は、前菜、スープ、温かい食事、お酒、デザートなどフルコースを意味するので、かなり散財するからとのこと。

3時にお邪魔し、高級なハムやチーズ、新鮮なトマトやパブリカのサラダをつまみウォッカを飲み。バターをぬった白パンにイクラをたっぷりのせ食べる。さらに、パブリカの肉詰め料理、ケーキ、お茶と9時すぎまで居座ってしまった。そして、そろりそろりと部屋に戻った。予想通りおばあさんはすでに寝ていた。

4 day 「トルストイの家博物館」

朝から衣類を手洗いし、モスクワ生活の一端を思い出した。隣りのおばさんから洗濯機を買ったから使いに来なさいと言われたが、おばあさんの手前、さすがに行けない。手早く済ませ、カメラ一式かついで散歩に出た。ヴィラヴョーブイの丘で写真を撮り、補修を終え再開されたヴィラヴョーヴィ・ゴールィ駅まで歩く。モスクワ川にかかった橋にある駅は、うわさ通り見晴らしがよかった。地下鉄のアホートヌィ・リャトまで行き、警官の姿を一目見て住民登録がまだだったことに気づいた。かつてさんざん悪徳警官にパスポートや住民登録のことで難癖をつけられ、お金を要求されたり、嫌がらせを受けたことが結びついたのだと思う。とにかく、ビザを購入した旅行会社へ向かった。土日をはずして3日以内に登録しなければ罰金となる。日曜日に着いたことが幸いして、最終日に間に合ったが、登録に1週間かかると言われ、また気が重くなった。パスポートなしで過ごさなければならないこの期間がいちばん悪徳警官に狙われた。しかし、モスクワも変化していた。その間、悪徳警官に出会わなかったし、パスポートの提示を求められたのも1回だけだった。

旅行会社の近くに「トルストイの家博物館」があったので、ちょっと寄ってみた。入場料が150ルーブルと聞き、高いから帰る。以前に何度も来てるから。などと言っていたら、50ルーブルで入れてくれた。じっさいにこの博物館には、なぜだか縁があり、よく訪れていた。

トルストイが子どもの教育のためにモスクワへ出てきて住んだ家は、トルストイが亡くなったあとすぐに社会主義革命が起こったこともあり、当時のまま保存されている。「復活」などが執筆された書斎を見ていると、トルストイの面影がしのばれる。トルストイは遅執だったと聞く。書いては破りを繰り返し、1日かけて1枚か2枚の原稿を仕上げたトルストイの文章には、無駄な言葉はないと言う。

サロンのところで、壁に掛けてある説明文に張り付いて読んでいたら、係りの女性と目が合った。読むのは不得手なので時間がかかると伝えると、その係りの女性が読み上げてくれた。ここの係りの人はみな親切で、トルストイについて質問しても快く答えてくれる。

アホートヌィ・リャトまで戻り、クレムリンの周辺で三脚を立て、写真を撮影していると、フレームに入った男性が笑顔でピースをする。シャッターを切ると男性は笑顔で手を振って立ち去った。以前はこんなことはまったくなかった。カメラを向けると顔をそむけるのが通常。また、景色を撮っているだけでも写真を撮るなとフイルムを抜かれたこともある。その後、無名戦士の墓へと移動し、三脚を立てていたら、軍人に三脚を使うなと注意された。しぶしぶ片付けていたら、後ろにいた若いロシア人のカップルから声が聞こえた。
「なんで、だめなの」
「わからないよ。わが国の軍人だからね」
思わず笑ってしまった。

5 day 「チョコレート」

久しぶりの晴天。朝食もそこそこにカメラと三脚を抱えてノボテビッチ修道院へ行く。バスがひっきりなしに観光客を連れてくるなかのんびりと写真を撮り、ベンチに腰を下ろし、陽だまりで昼寝をする猫を眺めていたら睡魔に襲われた。せっかく太陽の光が差しているのに寝ている場合ではないと思い起こし、救世主キリスト聖堂へ移動した。このロシア最大の大聖堂は、ソビエト崩壊後に再建されたもの。ソビエト時代に宗教弾圧の対象となりスターリンの命令で爆破され、野外温水プールになった歴史を持つ。再建中は、モスクワの心を取り戻すために寄付をお願いしますというCMが頻繁に流されていた。宗教弾圧により、モスクワの80パーセントの教会が壊されたと聞く。

救世主キリスト聖堂の周りを歩いているとき、モスクワ川の対岸にあるチョコレート工場が目に入った。このクラスナヤ・アクチャーブリスカヤのチョコレート工場には苦い思い出がある。97年ごろ、友人に誘われて参加した外国人向け社会見学ツアーの予定場所だった。ロシア人の引率者に連れられ行くとしばらく待たされた後、1時間半後に来いと言われた。そして、再度訪れると、今日の見学は終わったと門前払いを食らわされた。ちょうど小学生ぐらいの子どもたちが工場見学を終え、お土産のチョコレートをもらって出てくるところに当たったこともあり、ロシア人引率者は激怒し「こんなことは初めてだ。信じられない」と憤慨していた。その横でわたしたちは、「よくあることよね」と怒るだけ損という雰囲気で家路についた。牛乳の加工場へ行ってから、ロシアの牛乳が飲めなくなったという友人の話もあり、怖いもの見たさで参加したツアーだったのでそれほど悔しくはないもののどっと疲れた。

それでも、唯一のロシア製チョコレートということもあって、モスクワにいる間はよく口にしていた。お土産として日本へ持ちかえり不評をかったとき、すぐには、なぜだかわからなかった。帰国して日本の豊かな味に慣れたころ、残っていたチョコレートを食べて気がついた。まずい。人間の味覚は変化するものだと気付いた。ただし、現在、売られているチョコレートはおいしいとの評判。

雲行きが怪しくなってきたので、撮影を諦め、キエフ駅近くにあるマーケットへ向かった。闇市にちかいマーケットが次々と閉鎖されている。このマーケットもかつては、倍以上の広さがあった。通常の店で買うより、かなり安く食材、衣服、工具などが買える。ただし、加工食品などの賞味期限は切れていることがあたりまえ。人も多いので、すりも多い。手早く買い物を済ませマーケットを出た。

バス停には、マルシュルートカと呼ばれる乗合バスが停まっていた。以前にはなかったので、少しどきどきしながら乗り込む。空いている席に座り、お金を運転手に渡すとまもなくバンは発車した。ルートはバスと同じ、ただ、運転手に声をかけるとどこでも止めてくれるようだった。空席ができるとバス停に一時停止し、乗客をつのる。定員が少ない分バスより早く便利なので、乗車賃が少し高くても利用者はけっこう多い。発乗車でちょっと緊張するも家の近くで降ろしてもらい無事に帰宅した。