ロシアプチ留学 2005
1月5日(水)
成田空港内にある宅配会社で自分のトランクと友達のお母さんが送ってきた荷物を引き取り、重さを量ってみると60キロ近くあった。大韓航空のエコノミーチケットで機内に預けられる重量は20キロ。検閲を受けたことはないけれど、いちおう手荷物の重量規定20キロ。とりあえず、機内預けの荷物を30キロを切る程度にして、チェックインカウンターへむかう。運がよければ、超過料金を請求されないし、重量オーバーだと言われれば、トランク内の荷物を入れ替え、重さを減らせばいい。幸運なことに何も言われず、チェックインすることができた。残る荷物30キロを背負い、出国手続きを済ませ、すぐに小型カートを探す。身軽になり、免税店で日本酒を買うことも考えたけれど、ロシア人に日本酒を与えると、ワインのようだ水のようだといい、がぶがぶ飲むので高級なものは、もったいない。安い日本酒を持参して、悪酔いにさせるのもどうかと考え、ロシア人の好みに合っていると聞いた梅酒を探してみる。60キロの荷物に追加してもいいと思う銘柄がなかったので、韓国のインチョン行き搭乗ゲートへとカートを押した。
短いフライトの後、インチョン空港のトランジットエリアで、キムチいかがですか~という声に誘われ、免税店をのぞいてみるもやっぱり高い。本場のキムチに少しひかれるも、モスクワで買う方が安いので販売員を振り切り、ロシアのモスクワ行き搭乗ゲートへ、またカートを押しつつ移動した。
モスクワ行きの機内はインチョン行きとは対照的にすいていたので、移動して、5人分の席を独り占めする。
後ろに座ったロシア人らがビールをがぶ飲みして、しばらく騒いでいたものの、それほど気にならなかった。無料だから飲まなきゃ損よなんて言葉が後ろから聞こえてくるなか、缶ビールを2本飲んで横になり、熟睡する。
1月5日、モスクワ時間で午後の9時過ぎ、入国手続きを済ませ、荷物を受け取り、税関をすり抜け、シュレメチェボⅡ国際空港のロビーへと足を踏み出した。自己主張の強い出迎えの人々、タクシーの客引きに圧倒されつつも、無事にロシア語学校からの出迎えの人たちを見つけた。運転手だけだと聞いていたので、ちょっと戸惑いながら挨拶をする。S大の教授が教え子を出迎えにきたため、住民登録の担当者が休暇中にもかかわらず同行していたもよう。そして、S大の教授と私の荷物を倍増させた友達とは、10年来の友人とのこと。モスクワの世界は狭い。律儀に荷物を機内に預け、超過料金を支払った教え子君を待ち、車で寮へと移動した。
最初に向かったのは、教え子君の滞在するモスクワ国立大学内の寮。3畳ほどの広さの部屋にベッドと机。かなり息が詰まる。わたしもここに住みたいかと聞かれ、丁重にお断りする。モスクワ国立大学本館寮の手続きにかなり時間がかかり、わたしのベルナーツカ寮へ着いたときには、12時をまわっていた。管理人室へ案内された後、1月11日の朝9時に迎えにくると言い残し、住民登録の担当者は、立ち去ろうとした。わたしがすかさず、住民登録は?と尋ねるとプーチンが12月30日から1月10日まで祝日にすると決めたから、役所が閉まっている。どうしようもないという。警官に捕まったらどうするのと詰め寄り、いざというときのために携帯電話の番号を教えてもらった。
かなり横柄な管理人に14階にある6畳ほどの部屋へ案内される。室内の状況を確認し、書類のあちこちにサインをした後、やっと管理人から解放された。2部屋にトイレ&シャワーで1ブロック。隣部屋の住人は、ロシア人なのだけど、ブリヤート人なので、顔はアジア系。とりあえず、軽く挨拶をして、荷物もろくにほどかず、手早くベッドメイキングを済ませ、就寝。
1月6日(木)
早朝、時差ぼけのために目が覚めてしまう。しばらく、荷物の整理などをして時間をつぶし、地下にある食堂へ行き、朝食をとる。久しぶりに食べるロシア食堂の味といえば、とにかくまずい。ただ人間の味覚はよくできていて、だんだんと慣れていく。昨日、S大の教授からもらったテレフォンカードを使い、寮内の公衆電話からKさんの家に電話を入れると眠そうな声で応対された。もう、とっくに9時をまわっているというと、まだ暗いからみんな寝てるのよという。わたしの体内時計はもう昼過ぎなのよねというと、時差ぼけは年をとった証拠などと耳の痛いことをいう。とにかく、12時ごろ荷物を引き取りにくるということで話がついた。
14階担当の管理人さんに共同の台所、ゴミ捨て場、洗濯機の場所などを教えてもらう。そして、警備が厳しく、外部の人がなかに入るには、受付にわたしの住民カードを置いておく必要があると聞き、住民カードを入り口にある受付に渡すとパスポートをもってこいという。そして、14階までパスポートを取りに戻り、受付に置くと友達と一緒に来いという。12時ごろ、寮の入り口付近でKさんを30分ほど待ったけれど来ない。Kさんは、モスクワ国立大学の学生なので、なんとかするだろうと思い、部屋へ戻った。管理人さんにそのことを伝えると大丈夫よ受付から連絡が入ったら呼びにいくわといってくれた。隣室の同居人、ツェルハンドルと話をする。モスクワ国立大学政治学部の1年生で17歳。政治学部なんてすごいねというと、入学試験科目で選んだの、モスクワ国立大学なんてすごくないわよ、お金さえ払えば・・・という。実家は、シベリア、バイカル湖から少し離れたところにあり、お父さんは、宗教関係者とのこと。しばらくすると、管理人さんが下にお友達が来てるわよと呼びに来てくれた。下に降り、一緒に受付に行き、私のパスポートとKさんの学生証を預け、引換券を受け取り、柄の悪い警備の兄ちゃんたちの検問を通る。
今朝、寮の前にあるキオスクで買っておいたビールを冷蔵庫から出し、日本から持参したつまみを広げ、まずは乾杯する。4本のビールを空けたところで、遊び心が芽生え、以前、ホームスティしていた家と隣家をアポなしで訪ね、驚かすことにした。お土産を持って、トロリーバスに乗り、向かう。
アパートの入り口にあるインターフォンでKさんが隣人の部屋番号を押すと応答があった。わたしのことは内緒のまま、アパートの扉を開けてもらう。そして、エレベータで9階に上がり、Kさんに続き、わたしが挨拶する。驚いた声を出す隣人に対して、ホームスティしていた家を指差し、口元に手を当てると手招きで家に入れてくれた。扉を閉めて、まずは、ロシア式の挨拶、抱擁を3回。靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、台所へ行くと孫のマキシムがご飯を食べていた。マキシムは8歳。お母さんが働きながら、大学に通っているので、ここに住んでいる。ちなみにお父さんは、会社員。Kさんが、マキシム元気かぁ、というとマキシムは大人びた口調で、まあね、といった。
何はともあれ、再会を祝いウォッカで乾杯。ガーリャさんは、次から次へと料理を出してくる。ウォッカもスタンダルト、スターラヤモスクワ、プッチンカなど、味比べをしながら飲む。なぜ、我が家に泊まらず、寮なんかで住むのかと問い詰められ、留学ビザで来た外国人が個人宅で住民登録をすることが難しいと答えたところまではよく覚えているのだけれど、その後は、すっかり酔っ払いとなり記憶があいまい。思い出せることは、孫のマキシムがストリップの真似をして踊っていたかわいい姿、クリスマスツリーに100年前の見事な飾りがあったことぐらい。当初、ちょっと隣により、以前、ホームスティをしていた家へ行く予定だったのが、気づけば5時間以上も居座り、午後8時を過ぎていた。隣を訪ねるのは諦め、酔い覚ましの紅茶をもらい、席を立ったところで、おじさんが別荘から帰ってきた。なんでわたしが戻ったのに二人とも帰ってしまうんだなどと大声で言うおじさんにおばさんが隣に聞こえるから静かに静かに、訳は後で話すわとなだめる。なんで一緒に飲みなおさないんだと不満げなおじさんを残し、そろりそろりとホームスティ先の玄関前を通り抜け、アパートを後にする。この隣り合う両家が仲たがいをしいているため、こういうややこしいことになってしまう。
Kさんは、わたしの寮に寄り、生ものだけを手にして、バスを乗り継ぎ、家へと帰っていった。邪魔だから荷物全部持っていってよといったら、そんなの重くて嫌だと・・・。頼んだのは誰だぁ。
1月7日(金)
ロシア正教のクリスマス。売れ残りセールで買い込み、日本から持ってきたサンタクロースのチョコレートを同居人のツェルハンドルと14階の管理人さんへ、メリークリスマスといって渡す。ちなみに14階の管理人さんは、4人が交代で働いていた。4日に1日、24時間、共同の台所やゴミ捨て場、廊下などの掃除をしながら、人の出入りを管理して、月収10ドルほど。あまりの安さに働き手が足りないから、2階分かけもちすることもあるとのこと。4人のうち、3人はいい人だったけれど、1人は最悪だった。
デジカメはあるのにCFカードがないという間抜けな状態だったので、街なかのクリスマスデコレーションを見物しながら、電化製品のマーケットに行くことにして、外へ出た。気温は5度。暖冬で、雪はまったくない。歩きやすいけれど、どこか風情がないように思われた。
夕方、Kさんにクリスマスだし、どっか飲みにいこうよと電話をかけると、ロシア人は、12月24日からずっと騒いでるからもう疲れて何もしてないわよ、晩御飯作るから食べにきなさいよと誘われた。とりあえず、ビールとお菓子などを抱え、Kさんのホームスティ先に遊びに行く。いっしょに住んでいるおばあさんがメリークリスマスといってロシアの民芸品とチョコレートの飾りをくれた。すっかり話し込み、夜も更け、簡易ベッドを用意してもらい、そこで寝てしまった。
1月8日(土)
昼近くに起き、Kさんお勧めのM.Shoesの靴を求め、メトロ、ノヴォクズネーツカヤにある店へ行ったら、閉店していた。根性のないわたしたちは、他店で捜すのをさっさと諦め、近くにあったビアレストランに入り、ピザ、シャシリク、チーズフライなどをつまみにビールを1.5リットルほど飲んだ後、アルバート通りの方へ移動して、ウズベキスタン料理のに入り、4、5品の料理とビールを注文して、もうこれ以上食えないし、飲めないという限界に達したところで外へ出た。
雪が積もっていなかったので、歩くのにスニーカーでも問題はなかったけれど、雪で滑って骨を折ったという日本人の話をいくつか聞いているので、気をつけたい。3000円から6000円出せば、暖かく、滑りにくいしっかりとしたブーツを現地調達できる。もっとも、真冬のモスクワをバックスキンとはいえスニーカーで闊歩するわたしにも疑問ありかな。
14階の管理人さんから聞き、あまりの不幸さに苦悶してしまったことは、道で財布をすられ、犬に噛み付かれ、雪で滑って骨を折った日本人の話。ロシアでの洗礼は、ときに手痛い。わたしが最初に受けた洗礼は、下痢に盗難、詐欺だった。
1月9日(日)
朝、廊下に出ると管理人さんから、洗濯機使えるわよ、と声をかけられた。これから以前、ホームスティしていた家へ遊びにいくつもりなので、帰ってきてからお願いしますと伝え、公衆電話をかけに地下へ降りた。モスクワへ来ることを伝えていなかったので、わたしが今から遊びに行くというと、おばあさんは、やっぱりものすごく驚いていた。そして、早く来い早く来い、今すぐ来いと叫ぶ。うん、うんと応え、受話器を置き、寮の出口へと歩き出すと、おばあさんがいろいろと食べ物を用意している姿が目に浮かんだ。
食材を手におばあさんの所へ行くと、やはり、台所で料理をしている二人の姿があった。現在、ホームスティをしているYさんがポトフを料理してくれていて、足の悪いおばあさんは、椅子に座りながら、サラダ用の野菜を刻んでいた。わたしの持参したチーズやサラミ、ソーセージ、黒パン、ペルメニ、ウォッカなどを見て、Yさんが、家に何もないのよくわかりましたね、というので、勘ですと答える。冬休み中のYさんは、フランスから帰ってきたばかりだった。何はともあれ、久しぶりの再会を祝して、ウォッカで乾杯。3人で賑やかな食卓を囲む。
なんで寮なんかに泊まるのよ。ここで寝ればいいじゃないかと空いているソファーベッドを指差し、迫ってくるおばあさんを相手に外国人は住民登録がたいへんだからと何度も繰り返す。Yさんも説明してくれたけれど、どうも最後まで理解してくれなかった。帰りがけにも、寮には食べるものがないからと繰り返し、きゅうりとトマトのピクルス、お菓子を渡される。寮内には、食堂もあるし、売店もあるから大丈夫と繰り返してみたものの効き目はなかった。諦めて、重いピクルスの瓶を持ち帰った。
寮に帰り、管理人さんに洗濯機の置いてある部屋を鍵で開けてもらい、使い方を説明してもらい、ツェルハンドルから洗剤を分けてもらって、洗濯を済ませた。もちろん乾燥機はない。外にほすと凍ってしまいそうだったので、ハンガーにかけ、クローゼットに吊るし、扉を開けたままにした。
ツェルハンドルからブリヤート語をいくつか教えてもらう。正確ではないと思うけれど、「ありがとう」が「ハンダ」、「ごきげんよう」が「センブナ」、「さようなら」が「ブイルラ」。ロシア語とは、まったく違う。また、ツェルハンドルは、高校で英語の成績は悪かったのといいつつも、きれいな英語を話す。モスクワ国立大学は日本で例えれば、東京大学なので…。