オレゴン街道(OREGON TRAIL) アストリア編
アメリカ西部開拓時代、フロンティアを目指す多くの人々がたどったルートのうち、ミズーリからオレゴンまで、3200キロに及ぶ、アメリカ横断移住ルートがオレゴン街道と呼ばれている。
1840年代から南北戦争(1861年~1865年)をはさんで、1869年に大陸横断鉄道が開通するまで、東部で生活に困窮した30万人もの人々が、約束の大地を求めてオレゴンを目指した。
馬が平原の草を食めず、生きられないため、雄牛に幌馬車を引かせ、悪路ゆえに大型の幌馬車が使えないため、乗りきれない者は歩く。時速3.2キロほどで進む雄牛とともに6ヶ月間あまり、荒野を裸足で歩き通した開拓者も多い。シャワーなどない過酷な道中、衛生不良からの病気、コレラ、または事故により、10人に1人が命を落としたという。
ポートランドからグレイハウンドバスに乗って、約2時間半、オレゴンコーストの北端、コロンビア川の河口にある町、アストリアに着いた。人通りもまばらな静かな町、まずは、予約しておいたレッド・ライオン・インに向かい、チェックインを済ませる。ヨットハーバーに隣接した居心地のいいホテルで、窓からコロンビア川が望める。一息ついた後、ランチを求め、3人揃って部屋を出た。
川沿いのウォーターフロントを散策しながら、レストランを探したもののまったく見当たらなかったので、ひなびた商店でビール、サンドイッチ、ポテトチップスなどを買い込み、港にどーんと積まれた木材の上に腰を下ろした。オレゴンは林業が盛んで、日本にも多く輸出している。「この巨大な丸太も日本へ行くのかなぁ」などとつぶやきながら、恐ろしくまずい黒ビールと餌を口に運んだ。
なんとなくひもじいわたしたちは、ぽつんと建った小さなサーモン加工場内にある店へ足がむいた。スモークサーモンとイクラを期待していたのだけれど、店に置かれていたのは、鮭缶と冷凍まるごとサーモンのみ。飢えていたわたしは、とりあえず1本買って、調理方法はその後考えようと提案したのだけれど、冷静な友人に却下され、店から引きずり出された。その後、町を散策しつつ、執念でレストランを探して、リゾート地の夜を満喫した。
朝日を浴びてヨットで出港する人たちをホテルの部屋に続くベランダから見送り、一日の予定を立てる。小さな港町、アストリアは、アメリカ西部では最も歴史が古い入植地。やはり、博物館をめぐることにした。まずは、フォート・クラツォッブ・ナショナルメモリアルを訪ねる。
1805年、北米大陸を横断してきたメリーウェザー・ルイスとウィリアム・クラーク探検隊33人が、わずか15メートル四方の丸太の要塞をつくり、冬を越した場所に建てられている。この地に暮らすネイティブアメリカンのチノーク族から食料を分けてもらいながら、翌春の帰途に備えて塩と保存肉を作っていたらしい。当時の生活様式を再現した博物館の展示などから辺境での厳しい越冬をかいまみた。
ルイス&クラーク探検隊は、第3代大統領ジェファーソンより、太平洋へと続く水路の発見と未知なる西部を調査する指令を受けた。1804年5月にセントルイスを出航し、ミズーリ川をさかのぼって6カ月後マンダンに到着。そこで数奇な運命をたどったショショニ族出身の少女(16歳ほど)サカジャウィアを案内役として雇い、ミズーリ川をさらに西へ進んだ。大陸分水嶺を迎え、ミズーリ川からコロンビア川への移動に不可欠な馬を提供したのは、サカジャウィアが10歳ぐらいのとき、生き別れとなった実兄でショショニ族の酋長だった。苦労の末、ロッキー山脈を越えた一行は、あたたかく迎え入れてくれたネパス族のもとで、カヌーを作り、コロンビア川を下り、1805年11月に太平洋へとたどりつくことができた。そして、1806年9月にセントルイスへと帰還した。
ルイス&クラークの軌跡を記した巨大な地図を眺めていたら、なんだか気が遠くなった。「たいへんそうだね」「ほんと、よくここまで来たよね」「アメリカは広すぎる」などと勝手なコメントを残し、コロンビア川海事博物館へと徒歩で移動した。
「入館料は、1人2ドル」といわれて、もしや…?と思うも、とりあえずお金を払い、チケットを受け取る。複雑な気分のまま、子ども料金で入館してしまった。子どもたちに混じって、船が多く展示されている館内を歩く。コロンビア川での沈没事故、治水事業のほか、町の歴史も詳しく展示されていた。そのなかにネイティブアメリカン、チヌーク族の紹介もあった。
北オレゴン、コロンビア川河口から太平洋岸にかけて住んでいたチヌーク族は、豊かな自然の恵みを受け、暮らしていた。サケ、マス、ワカサギ、チョウザメ、はまぐりなどの貝類、クジラ、ウサギや鹿、鳥の卵、野生の芋、野いちご、野草などを食料とし、杉の木で建てた大きな家に大家族で住んでいた。また、優秀なカヌービルダーでもあったため、乾燥させたサケや鯨油などや、奴隷をカヌーで運び、いろいろな物と交換していた。1800年ごろの人口は、16000人ほどとのこと。
杉の木をくりぬいてカヌーを製作している写真、植物で編まれた籠、動物の毛皮や骨から作られる衣類や日用品の写真などから、自然とともに暮らす人々の知恵をうかがうことができる。すべて土にかえる品々は自然を破壊しない。環境にやさしい生活とは、と考えてしまった。そして、それが、商業主義の欲望に負けてしまう歴史が悲しい。
1810年、実業家のアスターは、ルイス&クラークの調査書をもとにコロンビア川河口にパシフィック毛皮会社の起業を決める。そして、アスターにより西部へと派遣されたロバートスチュアートがロッキー山脈の切れ目を発見した。幌馬車でも通れる幅20マイルのこの谷間が、後にオレゴン街道と呼ばれるルートとなる。
1811年、アストリアに交易所が設立されるとコロンビア川流域に毛皮で儲けようとする人が集まってきた。アストリアの地名は、実業家アスターの名前に由来している。
チヌーク族にとって白人の流入は、ウイルスの侵入と同じだった。天然痘、インフルエンザ、コレラなどの病原菌、または、アルコールに対して、先天的な免疫を持たないチヌーク族の人々は、次々と倒れた。そして、1825年、マラリアの流行は、さらに追い討ちをかける。1851年、チヌーク族251人は、ワシントン州にあるネイティブアメリカン居留地へ移った。
1850年代から、林業、サケ漁が本格的となり、サケの缶詰産業が起こると東部からの開拓者だけでなく、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、中国から多くの人がアストリアへ移住した。1890年までには、14件の缶詰工場、54件の酒場、35件の売春宿ができていたとのこと。
コロンビア川でサケ漁が盛んだった頃の写真を前に神妙な面持ちで、「兵どもが夢の後って感じ」と友人にいうと、「国敗れても山河あり、かな」という。なので、「強者の、夢敗れても、山河あり」という句を読んでみた。
博物館を出て、かつての喧騒がうそのように静かなアストリアの町を歩く。
「これからどうしよっか」 「なんにもないもんね」 「アストリアコラムにでも登る」 「見えるからいいんじゃない」 「登るのたいへんだしね」
アストリアコラムとは、東部からの開拓者を記念して小高い丘に建てられた塔の展望台。塔の表面には、開拓者の様子が描かれている。とガイドブックにあった。
…結局、景色のよい静かな川べりに腰を下ろし、コロンビア川を行き交う船をながめつつ、3人でたわいない話をしてオレゴンの夏の長い午後を過ごした。
現在、小麦、大豆、トウモロコシ、飼料、野菜、木材など、北米の主な農産物はこのコロンビア川を下って日本やアジア各国に輸出されている。1800年代はじめの荒々しいコロンビア川の姿はもうないのだろう。