クロスカルチャー コミュニケーション

モンゴル旅日記 (新潟⇒イルクーツク⇒ウランバートル⇒ウンドゥルドブ⇒ウランバートル)

1 day

新潟空港からロシアのイルクーツクへむかう機内は、年配の方々で満席だった。シベリア抑留で命を落とした人々の遺族だという。「本当は、モンゴルまで行きたいけれど、怖くて行けないわ」という老夫人の声も耳にした。モンゴルの首都ウランバートルに日本人墓地があると聞いていたので、何も言えずにただ、うなずくだけだった。


わずか2時間ほどのフライトでイルクーツクの空港に到着。機内でチェックインを済ませ、屋外で荷物を受け取り、空港ロビーに入るとタクシーの客引きがどっと押し寄せてきた。旅の道連れふくちゃんと人をかき分け、出迎えにきたガイドを探して、ロシア製のマイクロバンに乗り込む。ガイドから、予定表を受け取ったのが昨日でインツーリストホテルの予約が取れなかったと言われ、安宿に案内された。旅行会社の手配ミスにより、ビザを受け取ったのが昨日だったので、驚かなかったものの、あまりの格差にあ然とした。頭にきたので、差額分を請求するべくフロントで料金を尋ねると支払った5分の1ほどだった。細長く狭い部屋に極端に幅の狭いベッドが2台、壁際に縦一列に置かれているのを見て、体の大きなロシア人がこの狭苦しいベッドで眠れるのかと考えてしまった。古いためにスプリングも悪く、寝心地がいいはずもなかった。

2 day

早朝、まだ寝ぼけているところへガイドが現れ、外に連れ出された。自分たちでリコンファームをしてくれとアエロフロートのオフィス前で捨てられたときには、もう怒るよりも呆れてしまった。8時のオープンまで、しばらく時間があったので、イルクーツクの中心街を散策する。シベリアのパリと称される街並みを5分ほど歩くと市場に出た。色鮮やかな生花、野菜、果物などが、規則正しく並べられて売られている様子は、物不足を感じさせない。どーんと積まれているスイカやメロンにも心が惹かれた。


リコンファームを済ませ、ホテルのレストランで、パンとオムレツの朝食を取り、再度現れたガイドとともに慌しく空港へ。なぜか空港の待合室に鍵が掛かっていて、免税店をのぞくことも椅子に座ることもできなかったけれど、小型飛行機はぶじに飛び立ち、一路、モンゴルの首都、ウランバートルへと向かった。
飛行機が着陸態勢に入ったころ、眼下に広がる草原にとつぜん異質な空間が現れた。草原にぽっかりと浮いた無機質な高層建築物群は、SF映画にでてくる宇宙要塞のようにも見えた。そして、どんどん大きくなり、飛行機を飲み込んだ。


空港で威勢のよいおばさんガイドに迎えられ、ウランバートル市内で昼食を済ませた後、ウランバートルから1時間半ほどのところにあるウンドゥルドブまでジープで走った。途中、悪路ゆえにジープの天井に頭をぶつけたりしたものの、草原をジープで突っ切るのは気持ちがよかった。
大草原のなかに建てられた遊牧民の移動式住居、ゲルに入り、荷物を降ろし一服しているとさっそく馬が連れてこられた。前に進むときは、馬の腹を蹴りチェという。右に曲がるときは右のたずなを引き、左に曲がるときは、左のたずなを引く。止まりたいときは両方のたずなを同時に引く。走りたいときは、腰を上げればいい。通訳のヴィナを通して、遊牧民から教えられた乗馬方法はこれだけだった。モンゴル馬は、ポニーよりもちょっと大きいほどだけれど、馬の背に乗るとそれなりに高い。こわごわ歩き始めたもののすぐに慣れ、大草原の片隅をふくちゃんといっしょにポコポコ歩く。
モンゴルの朝晩は夏でも冷え込む。ゲルの中央に置かれている薪ストーブに火を入れ、草原の上にビニールシートとともに敷かれた布団に横になるときゅうに睡魔に襲われた。

ウンドゥルドブの草原
ウンドゥルドブの草原

ゲル
遊牧民のテント ゲル

3 day

モンゴリアンブルーの空の下、大草原を駆け抜ける。馬の気の向くままに駆けている観もなきにしもあらずだけど、どの方向に走ろうとも遮るものがない。ひとしきり乗馬の練習をした後、遊牧民に連れられ、近くのゲルを訪ね、馬乳酒とヨーグルト、羊の内臓をご馳走になった。馬乳酒は、馬の乳を発酵させ作ったアルコール度2パーセントほどのお酒。表面に浮かぶ虫などを吹き飛ばしながら、飲むんだと教えてくれた。

ちょうど羊の解体作業をしていたので、食い入るように見てしまった。ひっくり返した羊の胸をナイフで開き、手を入れ、心臓の血管を引きちぎって、羊を絞めた後、皮と身をみごとに裁いていく。血は、バケツに移し、洗った腸に詰め、塩茹でにするという。大地に一滴の血を流さないためか、凄惨さは感じられなかった。
遊牧民の祭りナーダムが開かれていたので、会場へと移動して、騎乗からモンゴル相撲を応援し、競馬を眺めた。騎手は、軽い子どもと決まっているらしい。全力で駆け抜けてくる子どもたちよりもゴールで待つ親の方が興奮しているようだった。

もうすぐ雨が降るからとせかされ、ゲルに戻るとほんとうに激しい雨が降りだした。雲の動きで天気予報ができるという。みるみる草原は水浸しになり、わたしたちのゲルも浸水しはじめた。荷物を天井につるし、布団をビニールシートでくるみ、雨がおさまるのを待った。
雨が止み外に出ると遊牧民たちが、巣穴から追い出されたねずみたちを踏み潰している姿が目に入った。都会っ子の通訳、ヴィナは、遊牧民にとって、ねずみは天敵なのだけど、あんな野蛮なこと信じられないと言っていた。
隣の家に遊びに行かないかと誘われ、わたしたちが馬を借りている遊牧民の家へお邪魔した。馬乳酒とお菓子を振舞われ、居心地のいいゲルでくつろいだところで、ポラロイドカメラを出したらたいへんなことになった。みな我先に写真を撮ってほしいという。フィルムの数が限られていたので、家族写真と子どもの写真で勘弁してもらい、おいとました。
その後、ナーダムのモンゴル相撲で優勝した人の祝賀会を開いているゲルに連れて行かれ、アルヒの一気飲みに参加した。アルヒは、牛の乳から作ったウォッカでアルコール度数が高い。ウォッカグラスをまわされた人は、アルヒを飲み干し、ウォッカグラスを逆さにして、すべて飲み干したことを示さなければならない。それが、延々と続いていく。
モンゴル相撲で優勝した人の膝におでこをつけると強い子どもが生まれるからと言われ、とりあえず、ふくちゃんといっしょにおでこをつけてみた。
そこでも、ポラロイドカメラは大人気で、記念撮影のために子どもを着替えさせたり、化粧をしたりと大騒ぎになった。その後、バター茶をもらい少し酔いを覚ましてから自分たちのゲルに戻った。

ゲルに入ると溺死したねずみが転がっていた。足で蹴って外に出すとふくちゃんが、言った。
「えらいねぇ。わたしにはできない。だから、見ないことにしていたの」
ねずみの死骸が転がっているわきで、普通に横になれる方がすごいと思うのだけど。
とにかくお湯を沸かし、緑茶などを飲んでいると馬が連れてこられ、日本人が大勢いるから見にいこうと誘われた。あまり熱心に誘われるので、重い腰を上げ、馬に跨りついていくとキャラバンのように移動する団体旅行者たちに出会った。4、5頭の馬を1人のモンゴル人が束ねているので、窮屈そうに歩いているのが印象的だった。
団体の近くをトコトコ歩いていたら、一人の女性に声をかけられた。
「どこに泊まっているんですか?」
遊牧民のゲルに近いところと答え、ツーリストキャンプはきれいでいいですねと尋ねた。
「でも、トイレの流れがよくなくて、シャワーも少ないし・・・」
思わずふくちゃんと顔を見合わせたところで、わたしたちの調教師を務めている遊牧民が、近くに来て、雲を指差し、わたしたちのゲルを指差した。雨が降るからすぐに戻るという合図だった。手短に挨拶を済ませ、全速力で駆け抜けた。わたしの馬は、腰を浮かせるだけで、パッカパカと走り出す賢い奴だった。馬も家に帰りたいので、黙っていてもその方向に走ってくれる。多少、雨に濡れたものの本降りになる前にゲルに着くことができた。服を着替え、食事を済ませ、服を乾かすために薪をくべながら、ふと外を見ると降りしきる雨のなか、ツーリストキャンプにむけて、ゆっくりと移動する団体旅行者の姿が遠くに見えた。ふくちゃんもドアのところに来て、遠くを眺めながら言った。

「気の毒だねぇ。でも、彼女はここで泊まりたくないと思うよ」
わたしも大きくうなずいた。トイレもシャワーもないところでは、生きてゆけないに違いない。歩いて5分ほどのところに汲み取りトイレがあるにはあったのだけれども、扉はないし、汚物が盛り上がり、蝿がたかっていて、あまり利用したいものではなかった。そんなところよりも大草原で用を足した方がきもちいいというのが、2人の一致した見解だった。また、遊牧民族には、シャワーやお風呂を浴びる習慣がない。乾燥しているモンゴルでは、シャワーを浴びなくてもそれほど気にならなかった。

その後、隣のゲルに日本語ができる人がいるからと招かれ、羊の肉をつまみにアルヒを飲んだ。チンギスハンの映画をこの近くで撮影したということぐらいしかはっきりと分からなかったけれど、みな陽気で楽しく、幸せな酔っ払いとなり帰還した。

羊の解体作業
羊の解体作業中

遊牧民の祭ナーダム モンゴル相撲
遊牧民の祭ナーダム モンゴル相撲

遊牧民の祭ナーダム 競馬
遊牧民の祭ナーダム 競馬のゴール地点

モンゴル相撲 優勝祝賀会
モンゴル相撲 優勝祝賀会

4 day

マンズシールヒードゥの寺院跡まで、遠乗りをすることになった。3頭の馬で、のんびり草原を駆けていく。しばらくして、丘を登るとゾーモッブの町が遠くに見えた。草原のなかにある小さい町は、やけにきれいに映った。丘の上でしばし眺めた後、馬を進め、町を越え、草原を駆けているとクラクションが聞こえ、車に乗った通訳のヴィナと食事の用意をしてくれているヴィナのお姉さんが手を振っているのが見えた。こちらも手を振り返しているとヴィナが何かを見つけたようで、なにかを叫びながら、指を差した。その先をたどるとタルバガンが二本足で立っているのが見える。そのしぐさがとてもかわいくて、近づくと巣穴にもぐってしまった。その後、注意深く草原を観察すると何匹かの姿を見ることができた。
遊牧民のゲルに寄り、バター茶で一服した後、再度、馬に跨り、木立のなかへ入った。小川が流れ、木洩れ日が差し込み、幻想的な雰囲気をかもしだしている。馬が自ら木々を避けて進んでくれていたので、その風景にどっぷり浸っていると後ろから「痛い」という声が聞こえた。後ろに振り返るとふくちゃんが、馬がわたしの幅を考えてくれないと怒っていた。張りめぐらされた木の根を見ていたとき、木の幹に足がぶつかったらしい。ふくちゃんの馬は若く、あまり調教が行き届いていなかった。

木立を抜けると辺り一面花が咲き乱れていた。視界が開け、花々が目に入ったとき、思わず、すごいと声を上げてしまった。馬を降りて、通訳のヴィナと合流し、山に登る。息を切らしながら登り、山腹にある博物館を見学した。熊や鹿などの剥製ほか、野鳥の羽、木、植物をもちいて表現した絵などがあった。そして、博物館の入口に置いてあった記帳ノートを何気なくめくり、乗馬クラブに所属する高齢の人々が日本から来たことを示す書き込みを見つけたとき、口を突いた言葉は「すごい」だけだった。はたして、70歳になったわたしは、この山に登れるのだろうかと考えてしまう。博物館を出て、小川で遊んでいる子どもたちを眺めつつ、さらに山を登るとマンズシールドの寺院跡があった。それほど遠くない昔、ここで数百人ものラマが生活していたとは思えないほど、破壊されており、壁画などを見ると、なんだか遺跡を訪れているような気持ちになった。

下山途中、押し花にするために高山植物を少し摘んでしまったが、まさか、そのなかにエーデルワイスが含まれているなんて夢にも思わなかった。白く、可憐で、永遠に枯れない花のイメージと手にした本物のエーデルワイスとの落差が大きく、ガイドブックに載ったエーデルワイスの写真を見つけるまで、まったく気が付かなかった。エーデルワイスの花びらは、アロエの葉にも似た肉厚があり、先端は尖っている。純白というより、くすんだクリーム色で、初めから枯れているような気配すらあった。そして、雑草のごとく、あちらこちらに生えていた。
往きに立ち寄ったゲルの軒先で昼食を取り、大草原の道なき道を駆け、丘を越えて見慣れた草原に戻ったときには、なんだかほっとしてしまった。また、馬たちも同様に嬉しそうだった。

夕食を済ませ、ゲルの前に広がる草原でごろごろしていると隣のゲルから声がかかった。中国人の女性とモンゴル人の男性客のほか、現地スタッフが晩餐会を開いていた。勧められるままに馬乳酒をすすり、キムチ、ピクルス、豚肉、パンなどをつまむ。このときになってようやく、わたしたちの宿泊している所が、モンゴル人用のツーリストキャンプ場なのだと認識した。3つ建てられたゲルのうち1つがスタッフ用、あとの2つがゲスト用だった。もっと飲んでいきなさいという甘い誘惑を振り切り、自分たちのゲルに戻ったときには、すっかり日も暮れ、空には満天の星が輝いていた。

乗馬
乗馬

マンズシールヒードゥの寺院跡
マンズシールヒードゥの寺院跡

5 day

ふくちゃんと並んで馬を駆けさせる。抜けるような青空、緑がまぶしい草原のあいだを風とともに駆け抜けるのは、気持ちがいい。4日間の密接な付き合いで、馬もそれなりに従ってくれる。ひとしきり駆け回った後、初めてふくちゃんと馬を交換してみた。ひとまわり小さいふくちゃんの馬に乗ると揺れが激しく伝わってきた。昨晩からお尻が擦りむけて痛かったのだけど、それがさらに悪化した。両足で馬の腹をしっかり挟まなければいけないと昨晩まで知らなかった。普通に乗っているから、知らないなんて気が付かなかったというふくちゃんの言葉を安定感のない小柄な馬に乗ることによって理解することができた。再度、馬を換え、しばらくゲル周辺を散歩したものの、お尻の痛さに負け、ふくちゃんを残して馬を降りた。

草の上に座り、駆けていくふくちゃんを眺めていたら、隣の人たちが出てきて、ウイスキーをくれた。しっかりいただいていると酒の匂いをかぎつけたふくちゃんも現れる。日本から持参したさんまや焼き鳥の缶詰を酒の肴にして、文化交流に励んだ。
ほどなくして、ふくちゃんは乗馬に戻り、わたしは草の上に寝転んでいた。そこへ1人の日本人女性がやってきたので、むくっと起き上がり挨拶をすると同じ手配会社を通じて旅行に来た人だった。モンゴルに魅せられ、18日間の1人旅だという。
組み立てられたばかりのパラソル付きピクニックテーブルセットの椅子に腰かけ、話しをしているとふくちゃんが戻ってきて、3人での昼食となった。はじめてのフルコース。ただ、その羊の肉には、モンゴルらしいエピソードがあった。一昨日から昨日の朝まで、一匹の羊がわたしたちのゲルにつながれていたので、いっしょに記念撮影などをした。かわいい愛くるしい羊だった。そして、遠乗りから帰ってきた時には、消えていて、夕食に羊の内臓を茹でたものが出た。わたしとふくちゃんが夕食の皿を見て、顔を見合わせたのを察した16歳の通訳ヴィナが、食べられないのかと心配するので、大丈夫と口に放り込んだ。その結果、今朝の朝食メニューにも現れ、ヴィナが席をはずした隙に野良犬に与えてしまった。朝から羊の腸に血を詰め、塩茹でにしたものを食べるのは、辛かった。昼食に出されたのは、骨付き肉のグリル。ちょっと羊の姿が脳裏をかすめたものの、かぶりつく。羊肉の匂いもなく、残酷なまでにおいしい。スープ、ボーズ、揚げパン、デザートとともに胃袋に収まった。

午後3時過ぎ、すし詰めにされたジープで、ウンドゥルドブを出発し、ウランバートル市内にあるホストファミリー宅に送り届けられた。家族構成は、お父さん、お母さんに4人姉弟だった。お父さんが宝石商を営んでいるということで、古い都営住宅のような建物とは裏腹に室内は豪華だった。一通り挨拶と自己紹介が終わった後で、日本語の堪能な次女のトンガさんが、ウランバートルの中心街を案内してくれた。ソ連の影響を強く受けた石造りの巨大な建築物が立ち並ぶ大通りを歩きつつ、戦争捕虜として連行された日本人たちが、これら建築物の基礎になる石材を運んだのかと思うと感慨深いものがあった。命を落とす人が多かったという。
家に戻ると、長男がミシンをかけていたので、ちょっと驚いていたら、トンガさんは当前のごとく、わたしにはできないけれど、弟は上手だから、全部やってもらうのよという。手馴れた感じで、軽快にミシンを踏む長男の姿をしばし見つめてしまった。
夕食に新鮮なきゅうりとトマトが出され、限りなく菜食主義に近いふくちゃんはそれだけで喜んでいたけれど、わたしは、肉を細かく刻ざみ、小麦粉の皮で巾着状に包み蒸したボーズをスープに入れて食べるのが好みだった。おいしい家庭料理を堪能した後、久しぶりにシャワーを浴びて、清潔なベッドで就寝。

6 day

のんびり朝食を取り、空港に迎えにきたガイドの娘に連れられてウランバートルの市内観光へ出かけた。隣に住むガイドの娘は、13歳で日本語を話す。
「リチャード・ギアがウランバートルに来てるんだよ。昨日、デパートにいたんだって。プリティ・ウーマン見た?」
会ってすぐにホットニュースを教えてくれた。ダライ・ラマ14世といっしょに来てるという。以前、ダライ・ラマ14世の自伝を読み、チャーリー・シーンと親交があると知っていたので、仏教徒と噂されるリチャード・ギアがダライ・ラマ14世といっしょでもそれほど驚かなかった。
ガンダン寺周辺の警備が厳しく近寄れず、車を降りると何やらすごい人だった。少し歩き、本堂に近づくとスピーカーからお経が聞こえてきた。
「いま、ダライラマ14世がガンダン寺でお経を唱えているんだって」
聞きなれているようないないようなお経に耳を傾け、線香を供え、そして、3人でリチャードギアの姿を探したけれど、見当たらなかった。
ザイサン丘に登り、市内を一望してから、ボクドハーン宮殿博物館で仏像、曼荼羅、動物の剥製を眺めた。印象的だったのは、天井の高さが足りないからか、きりんの首が一部切り取られていたこと。剥製ながら、首を短くされたきりんは、痛々しかった。

いったん家に戻り、昼食を取った後、トンガさんと徒歩で国立中央博物館を訪ねた。入口の狭さに反して、館内は広く、ディスプレイにも迫力があり、巨大な恐竜の化石を前に腰が引けてしまった。
その後、ウランバートルにある唯一のデパートで、民族衣装のデールや特産品を物色した。カシミアの靴下がいちばん人気だという。予想以上に商品はあったけれど、接客よりも商品の陳列を優先させる店員、旧ソ連の影響を強く受けた販売方法にいらいらさせられた。ガラスケース越しに商品を見定め、値段を聞き、レジでお金を支払い、レシートと商品を交換する。トンガさんに助けてもらわなければ、まったく身動きがとれなかった。その後、ドルショップで桃の缶詰を買い、家に戻った。
骨付きの羊肉にかぶりつき、夕食を済ませた後、昼前に身振り手振りで作ったゼリーと桃の缶詰を試食してもらう。ゼリーを食べる習慣がないようで、指でつんつんしていた。そして、物珍しそうに口に運び、おもしろいといった。

食後、デパートのデール売り場にはりついていたわたしたちにデールを着せてくれた。ウランバートルに住む人々にとって、デールは晴れ着のようで、日本の着物に近い位置付けだと思う。金糸で丁寧な刺繍が施されたデールは、ほんとうにきれいだった。ちなみにデパートに置いてあるものは、お土産用の2級品だといわれた。とにかく、女性陣全員デールに着替え、記念撮影を行った。
結婚しているトンガさんが、帰宅した後、羊のくるぶしの骨を使ったゲームを長女、三女に教えてもらう。一家は、7年間モスクワで生活していたこともあり、ロシア語が上手だった。ただ、残念なことにわたしが片言のロシア語しか分からなかったので、三女に英語で説明してもらった。三女は、中学生でもっか必死に英語を勉強しているらしく、トイレの壁にも英語のフレーズが貼り付けてあった。身振り手振りを交えてのゲームでも、なかなか白熱し、楽しむことができた。