クロスカルチャー コミュニケーション

モンゴル旅日記 (ウランバートル⇒ウムヌゴビ⇒ウランバートル)

7 day

6時に起床して、しっかりものの長女に作ってもらった朝食をすべて平らげ、6時半には、隣に住むガイドに連れられ、飛行場へ向う。
座席は早いもの順だからと混みあう空港内をかき分け前に進んでいくガイドのおばさんに圧倒されながらも必死についていくとプロペラ機のタラップだった。そして、7時過ぎには、機上の人になり、ひと寝入りして目覚めたときには、高度を下げているところだった。寝ぼけ眼で窓の下をみると荒れた大地が迫っている。まさかと不安に襲われているとプロペラ機は激しくバウンドした後、短い草がまばらに生えてがれきがごろごろしている平原の上に停まった。
無事にウムヌゴビへ到着し、プロペラ機を降りると隣にツーリストキャンプがあった。出迎える人に渡して欲しいとガイドのおばさんから預かった食料を手に見晴らしのいい空港入口でそれらしき人を探すも見当たらなかった。合流した一人旅の女の子、ふくちゃんとわたしは、大地にどっかりと腰を下ろし、のんびりと待つことにする。
1時間が過ぎ、さすがに不安がよぎってきたところへガイドのおじさんが現れた。さっそく、ジープに乗り込み、少し走ったところで、昨日の大雨で大地がぬかるみ、スピードが出せなくて遅れてしまったというおじさんの言葉を心から信じることができた。荒地に車の通る轍が深く刻まれ、自然にできた車のルートは、がたがたで、しっかりと手すりを握り締めていないと体のあちこちをぶつけてしまう。

滞在予定のゲルらしきところで、さらに2人をピックアップし、定員オーバーの状態で、ヨリーン・アム渓谷を訪ねた。ごつごつとした山に挟まれた渓谷は壮観で、しばし足をとめて立ち尽くしてしまう。空を見上げ、鷲を探しながら歩くも、見つけることはできなかった。そのかわりに、8月のはじめにも関わらず、残雪を見ることができた。標高3000メートルの場所にあり、急斜面を持つ山に挟まれているため、渓谷は涼しくというより、寒いほどで、太陽の照りつける平原とは、対照的だった。
ゴビ自然博物館に立ち寄り、化石や鉱石、野生動物の剥製、雪豹や狼の毛皮などの展示物に目をむけるも、大自然に比べるとなんだかすべて色あせて見えてしまった。

滞在地でジープを降りると大勢の子どもたちに囲まれた。ほんとうに動物が好きだと酪農はできないと思いましたという心やさしい大学生の男の子は、元気のいいモンゴルっ子、5、6人から体当たりされ、殴られ、蹴られとさんざんな目に遭って、もう、昨日から死にそうですよと嘆いた。
大平原にぽつりと建てられたゲルの周りに張られたテントに荷物を降ろし、トイレの場所を探すべく歩き出した。視界を遮るものが何もない360度の風景に圧倒されながらも一定の方向へ進む。なかなかトイレに適した場所が見つからない。少し背の高い草むらを探すも、辺りは瓦礫と短い草が生えているだけなので、ゲルが小さく見えるところまでひたすら歩き、用を済ませた。
少々、遠征しすぎたために生じたゲルへの道中に、夕焼けが広がり、空にオレンジ色のグラデーションがかかった。赤く大きな太陽が、ゆっくり、そして、吸い込まれるように地平線へと沈む。感動を胸にゲルへ戻るといまだに餌食となっているかわいそうな青年がいた。子どもたちにもう遅いから寝なさいとモンゴル語の会話集をみながらいっても興奮した子どもたちは、いっこうに収まらない。10歳に満たない子どもたちが、10時を過ぎて遊んでいても親は気にしないようだった。しばらく、いっしょに相手をしていたのだけれど、体力の限界を感じ、哀れな生贄を残して、テントへ逃げ込んだ。

テントのなかで、ふくちゃんと寛いでいると高校生ぐらいの女の子2人が訪ねてきた。言葉がほとんど通じないので、身振り手振りでのコミュニケーション。化粧ポーチに興味を示し、これは、どういう風に使うの?という質問が多かった。一通りふたを開け、ちょっと試すと満足そうに帰っていった。その後、ちびっ子たちの襲撃を受けるも屈せず、寝袋に包まり睡眠を確保した。

ゴビ砂漠
ウムヌゴビ 通称ゴビ砂漠

8 day

カップラーメンで朝食を済ませ、ジープに乗り込み、いたいけな青年を空港で見送った後、モルツォック砂丘へと走った。ステップ草原の上にぽっかりと浮いたような砂丘が視界に入ったとき、皆が歓声を上げた。大平原に点在する不思議な砂丘は、風の力で少しずつ移動しているという。
ジープから飛び出し、靴を脱いで砂丘に登る。さらさらとした細かい砂の感触が気持ちいい。足元が崩れるので、すぐに息が上がってしまったけれど、砂丘の上から見る風景は、神秘的だった。大平原に散らばる小さな砂丘が、大海原に浮かぶ島のようにも見え、砂丘の上に広がる風紋が、海底に沈む砂のようにも見えた。遠い昔、海だった名残りが、見え隠れした。
砂丘の上を歩き、腰を下ろし、ひとしきり堪能した後、ステゴザウルスが発見された崖へ移動した。ちょっと化石を探すも気配すら感じられなかったので、早々に諦め、昼食を取り、ついでにウォッカも飲む。見晴らしのいい崖の上で飲むアルコールは特別だった。
夕刻、宿泊地のゲルに帰るとなんだかひっそりとしていた。ウランバートルから来ていた親戚が帰ったという。その夜、はじめて家族構成を聞く。おじいちゃん、おばあちゃん、知能障害がある娘さんに事情があって預かった7歳と8歳の孫が2人だった。多少、パワーが衰えたとはいえ、元気なやんちゃ坊主たちに翻弄されながら、その晩が過ぎた。

モルツォック砂丘
モルツォック砂丘

バヤンザク
バヤンザク 恐竜の化石が発掘された

9 day

ふと気が付くと、腰のあたりがぐっしょりと濡れていた。むくっと起き、テント内を見回すと、ふくちゃんの姿はなく、ところどころに水溜りができていた。深夜に降った激しい雨が原因だった。寝袋から這い出し、テントの外に出ると雨はすでに上がっていた。とりあえず、服を乾かそうとかまどの方へ行くとすでにふくちゃんがいた。わたしを見て、水浸しのなかでも気持ちよさそうに寝てたよといった。確かに体温で暖められた水のなかで熟睡していたのだけど、そんな悲惨な状態ならば起こしてくれればいいのに、溺死したらどうするのよと詰め寄るとふくちゃんは笑っていた。

わたしたちが転がり込んだ遊牧民の一家は、ラクダ、やぎ、羊、馬を飼っていた。適当に服を乾かし、外に出るとおじいさんが、やぎの乳を搾っているところだった。やぎを一列に並べ、端から順に搾っていく。子やぎに少し吸わせた後、強引に引き離し、乳を奪うことに少し抵抗を感じた。
乳搾りの後、子どもらについて、ヤギと羊の放牧にでかけた。元気よく群れをまとめていたのは初めだけで、すぐに息が上がってしまい、やぎや羊を追うよりも、迷子にならないように後を追うので精一杯だった。360度の大平原では、どこをどう歩いているのかさっぱり分からない。道に迷ったら、腹ばいになり地平線にぽつりと浮かぶゲルを見つければいいといわれ、わたしも大地に顔を近づけ、眼を凝らしてみたもののまったくお手上げだった。どこまでも続く乾いた大地しか映らない。
放牧後、今度は、ラクダの親と子を引き離してから、親ラクダを放す。子ラクダを残しているので、遠くへはいかない。時間を見計らって、子ラクダをロープにつなぎ、おじいちゃんが子ラクダの鳴き声に似た笛を吹き、親ラクダを集めるのを見て、なんだか切なかった。やぎや羊も親は子から遠く離れないので、小やぎや子羊を集め、柵に入れ管理していた。
遅い昼食を取った後、モンゴル式の硬い鞍を着けた馬に跨らせてもらった。なんだか痔になりそうな座り心地だったのだけど、おじいさんは、気持ちよさそうに跨り、さっそうと平原を駆けていった。おじいさんが行ってしまったので、子どもたちからラクダに乗せてもらう。絶対に手綱を放さないでよと念を押し、恐る恐る跨るとラクダは前後にがっくんがっくんと揺れながら立ち上がった。つないであるラクダとはいえ、予想以上に背が高く感じ、落ち着かなかったので、すぐに降ろしてもらった。

かまどの燃料にするため、牧畜の乾燥した糞を集めた後、暇なので遠くに見えるゲルまで遠征することにした。おばあちゃんに仕事を言いつけられている子どもたちを残し、3人で、ひたすら歩き続け、隣のゲルへとたどり着いた。お隣のおじさんを見つけ、モンゴル語でこんにちはといい、後が続かなかったので、ポラロイドを見せ、写真を撮るまねをした。何が何だか分からないけど、とにかく中に入れとゲルに招いてくれ、バター茶やパン、チーズを振舞ってくれた。どこから来たのかと訪ねられた気がしたので、隣のゲルを指差し、寝るまねをしたら、違う違うという身振りをする。日本から来ましたと書いてあるモンゴル語の会話集を見せると納得してくれて、もっと食べなさいと勧めてくれた。ゲルのなかは、清潔で食べ物もおいしそうだったので、遠慮なく手を出す。おいしいおいしいというと嬉しそうにもっと食えもっと食えというジェスチャーをしてくれた。
外で働いている家族が全員呼び集められ、服を着替え終わったところで、外に出て写真を撮ることになった。やはり、記念撮影は馬といっしょにが原則のようで、みな愛馬の手綱を握り、直立不動の姿勢でカメラを見つめた。1人の兄ちゃんが集合写真に入らないので、入るようにすすめると誰かが兄ちゃんの足を指さした。見ると兄ちゃんは照れていて、裸足だった。その後、しゃいな兄ちゃんはブーツを借り、写真に収まった。その後、子どもたちの写真を中心に家族写真を撮り、ポラロイド写真機から出てきたばかりの印画紙(写真)を手渡すとじょじょに浮き上がる自分たちの姿に歓声を上げていた。
言葉がほとんど通じないので、手を振り別れ、来た道を引き返すと待ち構えていた子どもたちから写真を撮ってとせがまれる。どうやら、わたしたちが隣のゲルで写真を撮っていた様子をこちら側から眺めていたようなので、驚いてしまった。視力1.5を掲げてもゲルが点のように見えるだけで、人影すら捕らえられない。恐るべし大平原の子。何枚撮ってもきりがないので、適当にあしらいカメラを片付けた。子どもたちの手に渡るとフィルムがなくなるまでいたずらされてしまう。

その日の夕食は、日本食を自分たちで用意して、自分たちでひっそりと食べた。子どもたちに外の味を覚えさせない配慮から、今までも別々に食事をとっていたのだけどさらに味気なかった。食後、ガイドのおじさんとウランバートルで世話になっているガイドのおばさんが夫婦だということを聞く。留学中に知り合ったのだとか。英語よりもロシア語の方が得意だといった。
その夜は、一家と同じゲルで泊まった。深夜、眠れずにゲルの外に出ると月夜で明るかった。満天の星を期待していたので、輝く大きな月がちょっとうらめしくもある。もっとも、月明かりに照らされて本を読むのも悪くない。小さな星の輝きを隠してしまう月光は、頁の文字を充分に浮き上がらせた。

遊牧民族 やぎの乳搾り
やぎの乳搾り
羊の放牧
羊の放牧

10 day

ポラロイドカメラで写真を撮ってほしいとおばあちゃんに頼まれ、写すと機嫌よくウルムを振舞ってくれた。虫がたくさん浮いていたので、ちょっと口をつけ、ふくちゃんに渡した。ふくちゃんも少し口をつけ、もう1人へ。結局、ほとんど減らなかった。モンゴル人の主婦にも几帳面な人、そうでもない人がいるようで、家庭によって、虫やごみ、埃などの混入度合いが違っていた。それでも、強者のふくちゃんは、馬乳酒を分けて欲しいとおばあちゃんに頼み、ペットボトルに入れてもらった。
すっかり馴染んだ悪がきたちに別れを告げ、いまだにぬかるんでいる大平原をよろよろ、ときにはジャンプしながら、ジープで進み、空港までたどり着いたときには、ぐったりとしていた。ウランバートルまでの飛行機は、あっという間で、小型のプロペラ機ゆえの揺れは、もうまったく気にならなかった。

ウランバートルのホームスティ先に戻り、シャワーを浴びると足元を流れるお湯が茶色く濁っていた。洗濯をしたときも同様で、いかに砂埃にまみれていたかがわかる。昼食を食べさせてもらった後、ふくちゃんと二人でウランバートルの街を散策しながら、お土産を探した。餞別をくれた共通の友達にデパートで絵を選び、モンゴル式の買い物手順を踏み、やっと手に入れる。数年前まで、社会主義国だったからしかたがないと思いつつ、心のなかで、もっとてきぱき働けと叫んだ。物不足と噂されていたけれど、予想以上に品数は多く、とくに外国製品の多さが目に付いた。
夕食は、細かく刻んだ肉を小麦粉の皮で平たく包み油で揚げたホーショールと生野菜、スープ、ライスなど。やっぱり、遊牧民の食事とは、まったく違う。
ゴビ砂漠に行く前に教えてもらったゲームでコミュニケーションをはかった後、駒として使っている色づけされた羊の骨をたくさん分けてくれた。そんなにもらったらなくなっちゃうからというと、長女が羊を食べるジェスチャーをする。そして、三女が、またたくさん食べるから大丈夫と英語で付け足した。ふくちゃんと大笑いしてしまったけど、ほんとうにそうなのかもしれないと心の片隅で思った。