クロスカルチャー コミュニケーション

モスクワ迷走記 1997 … 3月/4月/5月

旅行者の目ではなく、生活者の目でロシアを見つめてみたいと再びロシアを訪れたのは、97年の春。以前と同じモスクワ大学のロシア語科に潜り込み、外国人専用寮に住む。

はじめてモスクワの地を踏んでから、1年半しか経っていなかったものの街は少しあか抜け、華やかになっていた。モスクワ850周年祭に向けて建設ラッシュで、救世主キリスト聖堂、マネージ広場、ボリシャヤ・カーメンヌィ・モストなども建設中だった。

そんなものを建設するより給料を支払えとの声も大きく、極東地域で給料のかわりに現物支給として骨壷が配られたという笑えないニュースも聞こえてきた。税金の90パーセントがモスクワで使われているとささやかれていた。

モスクワ市内の華やかさとは裏腹に一般のロシア人の生活は苦しく、2つ3つの仕事を掛け持ち生計を支えていた。また、ロシアで男性の仕事といえば、炭鉱夫、ドライバーなどの肉体労働、女性の仕事といえば、医者、教師、売り子となっている。男性職に比べて、女性職は給料が安い。

モスクワ大学付属ロシア語科の先生も授業中に豆だらけの両手を見せて嘆いた。
「給与が月に65万ルーブル(約120ドル、97年)で、家賃が20万ルーブル。45万ルーブルで生活するのは、とてもたいへん。別荘で畑仕事をしているのよ」

ロシア人の多くが別荘でじゃがいもなどを栽培していると聞く。モスクワに住む多くの人が別荘を持っているが、日本の別荘とは少し感覚が違う。

自分で建てるという別荘(小屋)は、食料貯蔵庫でもある。春は、木苺などの実を集めジャムを作り、夏は、畑から収穫したきゅうりやトマトでピクルスを作り、秋は、森できのこを狩り加工し、瓶詰めの保存食とする。別荘で寛ぐのは、金持ちだけとのこと。

「我が家は、3代に渡って全財産を亡くしているのよ。わたしは、ペレストロイカのとき預金をすべて凍結されてもう引き出すことができないの。母は、第2次世界大戦中、焼け出されたの。祖母は、ロシア革命のときにすべての財産を没収されたの。貯金がすべてなくなってしまうのなら、もっといい物を食べておけばよかった。もっといろいろな物を買っておけばよかったと後悔している。もっとも、ペレストロイカ以前は、真冬でさえ、毎日2時間、買い物をするために並んだわ。お金があっても買うものがなかった。今は、店に物があふれているけど、値段が高くてなかなか買えない」

ロシア語の授業中に話を聞く。この先生の夫は、高名な物理学者だった人で、日本の物理学者とも交流があったという。
「共産主義圏の国へは、夫婦同伴で行くことができたけど、政府が亡命を危惧して、資本主義圏には、いっしょにいけなかったの。日本へも夫だけが行ったわ。いい国だって言ってたわ。真珠を買ってきてくれたのよ」
ロシア語クラスのメンバーは、スェーデン人、韓国人と日本人のわたし。共産主義のシステムは理解していても、そこで暮らす人々を理解することは難しかった。

大学寮のルームメイトは、スペイン人のイサベラ。偶然にも95年のルームメイトと同じ名前、同じ国籍だった。隣の部屋は、日本人のMちゃんとKちゃん。2DK、バス、トイレ別の部屋を4人で使う。人が大好きというイサベラの影響を受けて、わたしたちの部屋や台所はいつも人であふれていた。イサベラがラテン系のダンスの普及活動に励んでいたので、わたしたちの部屋はしばし練習場ともなった。また、夜毎の飲み会、バーやクラブにも繰り出す日々でもあった。みな、ロシア人に対して戸惑い、憤りを感じていたので、飲んで騒いでいなければやってられないという雰囲気が寮内に漂っていた。


外出する際は、必ずパスポートを携帯しなければならない。とくに外国人男性は警官にチェックされる。そして、悪徳警官に当たるといろいろと難癖をつけられ、お金を要求される。
「警察署にいっしょに行く。お金は、正規の領収書がない限り支払わない」
ひるまずに言うとだいたい放してもらえるが、不愉快このうえない。なぜ解放されるかというと警察署では、自分の懐にお金が入らないから。もっともパスポートを携帯していれば、不備はないので支払うこともないのだけど。

パスポート不携帯の罰金は、正規で10ドルほどなのに対して、悪徳警官は、100ドル、200ドルとふっかける。圧力に負け、路上で支払うと悪徳警官のポケットマネーとなる。
住民登録をするためにパスポートを提出し、代替証明書を受けていたとき、警官に連行され、パトカーに乗せられた。不備ではないので、パトカーのなかで罵詈雑言を浴びせていたら、うるさいから降りろと捨てられたこともある。

法や銃器の知識がある警官たちが、マフィアの用心棒になることを恐れて、ロシア政府は、警官にいい給料を払っていると耳にしたが、外国人には手を出さない分、マフィアの方がましだと思っていた。
モスクワでニューリッチと呼ばれる人たちは、マフィアのほか外資系企業で働くエリートたち。銀行員の月収は、約3千ドル。一般企業で約千ドルだといわれた。モスクワの中心地をさっそうと歩いているのは彼らである。

再会したかつての同居人、サムラーとソッキーとともにクラブで飲んでいたとき、とつぜん、ロシア人男性2人が加わってきた。モスクワ大学を卒業して、証券会社に勤めているという。ウォッカの正しい飲み方を教えてあげようといい、人数分のウォッカとジュースを注文する。正しいウォッカの飲み方とは、ウォッカグラスに入っているウォッカを一気飲みした後、すぐにその3倍ほどのジュースを飲むという単純なもの。なにはともあれ、すっかり打ち解け、しっかりとご馳走になった。ちなみにお酒は、1杯2ドルほど。

一般の若いロシア人たちは、店の外に酒瓶を置き、外で酒を飲みつつ、クラブで踊っていた。
外国人を敵視していないのは、資本主義の利益を享受している人たちだけで、一般のロシア人は、かなり冷たかった。商店や市場では、嫌がらせを受けることが多かったので、モスクワの街に出店し始めていた外資系のスーパーが心の拠り所だった。

商店では、レジでお金を支払い、受け取ったレシートと引き換えに商品を受け取るというシステムが多かった。並んでいるときに横入りされるのは、日常的だったし、無視されたり、レシートや商品を投げつけられるのも珍しくなかった。市場では、ふっかけられたり、古い痛んだ商品を入れられたり、重さやおつりをごまかされたりした。

価格は高くても、自由に商品を選び、レジで適正な料金を支払うスーパーは、ロシアの文化から隔離されていて、落ち着ける場所だった。マーケティングの定義「人は商品を買うのではなく、満足を買う」という意味をはじめて実感し、理解することができた。


4月20日のヒットラー誕生日、4月23日のレーニン誕生日にあわせてネオナチ集団による外国人排斥運動が激しくなっていた。スキンヘッドに赤い帽子、黒い服にカギ十字といういでだちの少年たちから暴行を受ける外国人男性は少なくなかった。6月のある日、ソッキーに誘われて銀の森へと泳ぎに行ったメンバーのなかに妙に暗い男の子がいた。聞くと親友が、ネオナチに襲われ、イズマイロフ公園の池で遺体となって発見されたという。無抵抗な日本人に対して、闘う韓国人の方が、被害が大きいように思われた。


「ロシアのテレビは、遺体の映像を流すんだよ。犯人のインタビューもあるよ。毎日、深夜に放送しているから見においでよ」
誘われて、友達の部屋を訪ねたのが、その放送を知ったきっかけだった。ニュース番組で、モスクワで起きた事故現場からの映像が流されていた。不気味に折れ曲がった体、スプラッタ状態の遺体が放送される。身元不明な場合は、体がちぎれ、目が飛び出したような悲惨な状況でも、かなり細かく映し出される。  一日に数体から数十体の映像が流されていくのを見ているうちにだんだんと感化され、慣れていく自分が怖かった。

胸に包丁が刺さったまま倒れている男性遺体の映像が映し出された後で、犯人のインタビューが流れた。
「なぜ、彼を刺したのですか」
「女房を寝取られたから」
とても分かりやすいが、日本ではありえない光景だと思う。


ニューヨークより160パーセント治安が悪いと言われていたモスクワでは、さまざまな不穏なニュースが飛び込んできていた。某ホテルのオーナーが地下鉄で機関銃に撃たれ死亡したり、マフィアへの諸場代が足りなかったからと爆破され、モスクワで唯一日本食を扱うスーパーが、休業に追い込まれたりもしていた。
ちなみに警察の犯罪検挙率は、10パーセントを切っていた。目撃者の多くが、映画の1シーンを見ているようだったという地下鉄で機関銃をぶっ放した犯人も捕まらなかった。そして、某外資系ファーストフードがロシアに進出する際にマフィアに支払ったお金が1億とも囁かれていた。