モスクワ迷走記 1997 … 8月/9月
せっかくモスクワにいるので、プーシキン大学の夏期講習に申し込んだ。モスクワ大学よりも学費が安いこともあってか、さまざまな国から学生が集まっていた。さらに学費の安いルムンバ大学は、南アジア・アフリカ系の人が多いと聞く。
同居人のKちゃんが、ルムンバ大学の寮に遊びに行って、トイレに行こうとしたら、危ないからいっしょについていくと言われ、トイレの外で待っていてくれたらしい。そんなところにも日本人が住んでいるんだよって驚いていた。
わたしが行ったルムンバ大学の学生寮は、そこまですごくはなかったけれども、ちょっと近寄りがたい雰囲気が漂っていた。そして、近くに、インドの香辛料やイスラム教徒のために祈りを捧げた肉、雑貨などを扱う店があり興味深かった。インド出身の友人サブナーのお兄さん2人が、ルムンバ大学の医学部にいたので、寮に寄ったついでにカレーの香辛料を買うため、何度か店に足を運んだ。
サブナーの指導で、玉ねぎを40分炒め、5種類の香辛料を混ぜ、ヨーグルトを加え、鶏肉を加え、本格インドカレーを何度か作ったものの、わたしのキッチンは、人口密度が高く、1時間かけて作った料理も5分ほどで、鍋が空になる。サブナーは、なんでこの部屋は、こんなにいつも人が多いのかとあきれていた。
ある日、イサベラの友人で、パキスタン出身のハリッドとサブナーが、キッチンでかちあってしまったこともある。インドとパキスタンは、肥沃な大地パンジャブ地方の覇権をめぐり攻防を繰り返している。ハリッドによると、パキスタン語で「パン」は「5」、「ジャブ」は「川」を意味するらしい。
プーシキン大学の学生寮は、校舎とつながっていて、学生が授業に出てこないと講師が他の学生に呼びにいかせるというのんびりとした雰囲気があった。クラスメイトは、イギリス人1人、エジプト人1人、タイ人3人、スペイン人1人。ロシア民謡を歌い、ロシアの昔話を読み、演じ、ロシア文化についての議論もどきなど、なかなか面白い授業がおおかった。
もっともプーシキン寮に住んでいるクラスメイトに誘われて、寮に足を踏み込んだら抜けなくなった。毎日がお祭り騒ぎで、かなりのお酒が入った。こんなに近いのに授業にでられない学生が多い理由がわかる。飲みすぎて、自分の寮まで戻るのが、めんどくさいときには、かつてプーシキン大学で勉強していたイサベラにならって、ワインを一本、受付の人に渡し、誰かの部屋で泊めてもらった。
モスクワの中心地にある映画館では、タイタニックが上映されたとき、ダフ屋が出るほど賑わっていたが、そのほかの映画館では、閑古鳥が鳴いていた。アビータを見に映画館に入ると観客は、わたしたち2人だけだった。映画が始まっても音がでない。ロシア語が達者な友人KYさんが、さっそく注意をしに席を立った。今度は、音は出たものの字幕がなくなった。もう一度、KYさんは出かけ、字幕が出た。しばらくして、映画が止まり、再開したときに頭と顔の位置が上下逆さになった。わたしはもうどうでもよくなっていたが、怒ったKYさんは、映画館の後ろへむかい、映写室の窓を叩き、直させた。
KYさんと出会ったのは、95年の9月で、彼女がモスクワに来て1ヶ月ほどの時期だった。わたしは、某旅行社を通じて、1ヶ月間の短期留学に申し込んだものの、滞在予定の寮も知らされないままモスクワへ到着し、空港へ迎えにきたアルバイトの兄ちゃんには、右も左もわからないまま寮へ置き去りにされた。外国人寮なのに管理人はロシア語しか通じなかった。学校までの行き方と両替所を尋ねるため、寮の入口で言葉の通じる人を待った。そこへ、通りかかったのが、KYさんだった。当時は、控えめな日本のOL風だった彼女が2年のモスクワ滞在を経て、かなりたくましく成長?している姿に目を疑った。
KYさんもいっしょにプーシキン大学の夏季講習を受けていたけれど、ロシア語の能力がまったく違うので、当然ながら同じクラスになることはなかった。
映画は、その後二度ほど中断したが、最後まで席を立たなかった。ロシア人と意地くらべでもある。入場料は、8千ルーブル(約130円)だったものの、安いか高いかは、よく分からない。ちなみにモスクワ中心地にある映画館の入場料は、3万ルーブル(約500円)から7万ルーブル(約1100円)だった。
ロシアの海賊版CDやビデオを制作する能力はすばらしく、コンピュータソフトはみごとにガードをはずし、ビデオは、映画館で上映される前に売り出されていた。ビデオ1本2万ルーブル(約300円)から3万ルーブル(約500円)。言葉を消さずに吹き替えているので、がんばれば、英語を聞くことができる。アクションものならば、それなりに楽しむことができた。最初から、ロシア語を聞くつもりがなければ、すべての会話を1人のロシア人が話していることも気にならない。プーシキンの寮で、しばし上映会が行われていたので、かなりいろいろな映画をみた。エアフォースワンを見終わったときにスクロールに人影が写り、そして、時間がたつほどに多くなった。ビデオの製作方法もみえた気がした。
男性陣の部屋では、べつのアクションものが、かなり頻繁に上映されていたもよう。世界各国から集まったその手のビデオが、かなり貯蔵されていた。
モスクワ850周年祭は、さすがに街じゅうお祭りムードであちこちでイベントが繰り広げられた。救世主キリスト聖堂、マネージ広場などもお披露目されて、大勢の人が集まっていた。トヴェルスカヤ通りは、すごい賑わいで、露天で売られるお酒でかなりできあがった人も多かった。アゼルバイジャンの国会議員で式典のためにきたという人と出会いバッチを見せられ、名刺をもらったが、ただの酔っ払いにしか見えなかった。それでも、とりあえず、いっしょにウラー(ばんざい)と叫んでみる。ロシアのテレビでは、850周年祭の模様がずっと中継されていたが、ダイアナ妃の葬儀と重なったために、世界の注目を浴びることはなかった。それでも、街じゅうで花火が同時に上げられ、壮観だった。
この日、モスクワ大学では、花火とレーザー光線のショーが催され、数万人かの人が集まったという。わたしは寮のベランダで、ビールを飲みながらのんびりと眺めていたが、モスクワ大学まで見物に行った友人たちは、深夜ぐったりして帰ってきた。聞くと、人が多くて危険だからという理由で、地下鉄の駅が封鎖された。人があふれていて、車も拾えず、3時間かけて歩いて帰ってきたとのこと。日本の常識は、ロシアでは、通用しない。
この年は、冷夏だといわれ、8月の気温は、15度ほど。9月の終わりには雪もちらついた。夏の風物詩、スイカやメロンが道路に高く積まれている横で、コートを着ている姿を写真に収めた。夏のはじめ1キロ80円ほどしたスイカも夏の終わりには、1キロ30円ほどになっていた。ロシアのスイカは大きい。どーんと転がされているなかから、小さいスイカを選んでも、10キロほどある。いざ抱えてみて、失敗したと何回思ったことか。
モスクワには、秋がない。街が紅葉で黄金色に染まると同時にゆううつな冬がやってきた。毎日どんよりとした天気が続く。モスクワの建物は、中央集中暖房システムなので、各家庭、部屋は、パイプを通して暖房する。基本的に暖房器具も湯沸かし機もない。9月に雪が降り、どんなに寒くてもパイプは、冷たいままだった。凍えながら、暖房が開始されるのを待った。