クロスカルチャー コミュニケーション

モスクワ迷走記 1998年 … 3月/4月

モスクワの春は、寒気と暖気が交互にやってくる。すっかり体調を崩し寝込んでいるとおばあさんが、お盆に紅茶、はちみつ、木苺のジャム、大量のバターをぬった黒パンをのせて運んでくれた。木苺のジャムを飲むと熱が下がるから飲め飲めとせっつかれ、甘さを堪えてウォッカグラス一杯飲み干すと今度は喉にいいからと塩入のホットミルクを持ってきた。表現できないほど、まずかった。早く直さねばと体が危機感を覚えたのか、40度近くあった熱もほどなくひき、三日で持ち直した。ロシアの民間療法もあなどれない。日本よりもきついロシアの薬が効いたのかもしれないけれど・・・。


寮生活を送っているころは、同居人らとまったりとしたランチタイムを過ごすことが多かったが、夜も早いし、アパートの部屋に1人でいても暇なので、クラスに足を運ぶことが多くなった。
クラスは、朝9時半から夕方4時半まで、ロシア語のほか、ロシア文学、歴史、地理などの教科があった。ロシア語の会話クラスで、社会主義の破綻を人々はいつから気がついていたかという話題になったことがある。

「大学生のころには、隠れてラジオなどを聞き、社会主義より資本主義の方が豊かな生活を送っていることを知っていた」
40代の男性講師はいう。そして、歴史を変えたのはなんだと思うとわたしたちに問い掛けた後、意外な言葉を発した。
「音楽、歌だよ。みんなビートルズの歌を聴いていたんだ」

また、別の授業中にも意外な話を聞いて驚いた。アメリカでパオワオと呼ばれるネイティブ・アメリカンの祭りに何回か参加した結果、同じ人々による興行だと気づき、祭りの気分がきゅうにしらけてしまったというわたしの話に、そのロシア人講師が突然、興奮気味に語り始めた。

「わたしの父は、モスクワ大学の言語学者だった。仕事でアメリカに滞在中、ネイティブ・アメリカンの祭りを訪ねた。ロシア人だと名乗り、本物のネイティブ・アメリカンの言葉を録音させてほしいと頼んだところ、完璧なロシア語で、自分はウクライナ人で興行に参加していると言われた。本当に完璧なロシア語だったらしい」。

パオワオは、オレゴン州の各地で週末に開かれていた。弓と矢を持ち、羽をつけた勇ましいネイティブ・アメリカンの正装で祈りの儀式、歌や踊りなどを披露する。ネイティブ・アメリカンらが教えてくれるので、踊りに参加することもできる。ドリーム・キャッチャー、ネックレス、ピアスなどの民芸品、衣類を売る屋台、飲食関係の屋台も多く集まり、にぎやかだった。


ロシア正教では、復活祭において7週間、肉、魚、卵、牛乳などを食べることを禁止している。ロシア正教徒であるという家主のおばあさんの誕生日は、この期間に当たっていた。ロシアでは、誕生日の人がご馳走を作り、お酒を用意してお客をもてなさなければならない。
「誕生日の日は、朝早くから部屋を片付けたり、料理を作ったりと忙しく働いて、お客が来る頃にはもうぐったり。誰のための誕生日か分からないのよ」
いっしょに準備を手伝っていた隣のおばさんが訴えていたが、わたしも同感だった。

とにかく皆が集まりウォッカで乾杯。祝辞の後は、一気飲み。ロシア人のおばあさんたちが涙もろいのもわかったが、とにかくその食欲と酒の強さに圧倒された。
「もう、食べること以外には楽しみがない」
「肉や魚を食べても、明日教会に行って懺悔してくればいいのよ」
などと口々に言い、大量に用意した肉や魚のほか、タシケントから来ていたおばあさんの友達が差し入れた大皿に山盛りのマンドゥ(餃子に似たもの)をたいらげ、4本のウォッカもすぐにあけた。総勢8人。平均体重、推定100キロ。

ウォッカグラスを人生にたとえるので、なみなみと注がなくてはいけない。そして、乾杯の後は、一気に飲み空にするまでテーブルに置いてはいけないといわれ、モンゴルと同じだと思った。後に、ロシアは、チンギスハンの時代、タタールモンゴルに征服されており、そのときに言葉や風習が混じったと聞き納得した。ロシア人は、悪いことを表現するときタタールを用いる。リリーギアは宗教、タタールリリーギアは、オウム真理教のような宗教を表すと教えられた。


復活祭の日、近所のおばあさんたちとパンケーキとイースターエッグを抱え、近くのロシア正教会へ行った。用意されたテーブルにパンケーキとイースターエッグを並べ、神父が祈りながら聖水をかけていく模様を見守った。

その後、サコーリキに住んでいる友達のところに遊びに行き、夜中の12時に教会の周りを教徒たちがまわるというので、見物しにいった。このとき、私たちはびくびくしていた。なぜかというと、4月20日のヒットラー誕生日、4月23日のレーニン誕生日にあわせてネオナチ集団による外国人排斥運動が勢いを増していたから。黒い服にカギ十字のマークをつけ、赤い帽子を被ったスキンヘッドの集団が、ヒトラーとレーニンに捧げるために外国人を殺害していくと宣言していた。実際に何人も殺されており、マスコミも隠せなくなり、報道をはじめた。アゼルバイジャン人が、市場で殺されて、怒ったアゼルバイジャンの1500人が遺体を掲げ、クレムリンの近くまでデモ行進などしていた。かなり物騒で、知り合いも殴られ病院に担ぎ込まれたり、殺されたりした。

このネオナチ騒動が持ち上がった日、クラスに行くと誰もいなかった。で、校舎内を見回しても日本人が目立つ。どうしたんだろうねと日本人同士で話しをしていると通りかかった台湾の子が、ネオナチによる外国人殺害予告で、外出は避けた方がいいと大使館から連絡が入ったんでみんな来ないんだよと教えてくれた。中国、韓国の子も大使館から連絡が入ったという。日本人の学生だけが知らなかった。また、その日からネオナチ騒動が一段落するまで、構内に活気はなかったが、日本人の出席率は悪くなかったと思う。