クロスカルチャー コミュニケーション

モスクワ迷走記 1997 … 6月/7月

6月になるとモスクワはいっきに暑くなり、30度を超える日もでてきた。太陽も午前3時ごろ昇ったきり、午後11時ごろまで沈まない。夏季には、冬に備えて暖房のパイプの点検が行われるため、3週間ほどお湯がでなくなる。日中は暑くても、朝晩は涼しいので、水浴はかなりつらい。お湯を鍋で沸かし、水に混ぜながら身体を洗った。お湯が止まるためか、あまりシャワーを浴びる習慣がロシア人にないのか、この時期、交通機関の密室では、かなりの異臭が漂っていた。

9月に新学期が始まり、6月に終わるので、寮内では、毎日のようにお別れ会が開かれていた。そして、見送りのために空港へも足繁く通った。荷物の超過料金でもめることも多く、賄賂を請求されることも珍しくなかった。空港内のモラルも低く、機内預けの荷物もよく盗まれていたし、空港内のセルフ式カフェでさえ、料金を平然とごまかしていた。わたしたちは、もっぱら安い乗務員用の食堂で、搭乗までの時間を過ごし、騒いでいたが、その点において、ロシア人は寛大だった。

9月からの授業料を先に振り込むという条件で、1年間の就学ビザをもらい、出入国ビザで北欧へと向かった。日本から来た友人らとヘルシンキで合流して、白夜に近いフィンランドの自然を楽しみ、豪華客船でスゥエーデンへと移動した。驚愕の物価ではあったものの、人々は親切で、きれいな英語と笑顔で接してくれた。そんな別世界で2週間過ごし、モスクワへと戻ってきた直後は、とくに気分が沈んだ。

地下鉄の構内、車内、または、街角では、老人や手足を失った元軍人(自称もあり)が、物乞いをしていたほか、市場で安く仕入れた商品や摘んだ花を売りに立つ人々が街中にあふれていた。以前、不要な衣類を渡した少女も同じ場所で物乞いをしていた。母親の隣で座っていただけの幼い少女が2年分成長して、通行者の服をつかみ小銭をせがんでいる姿は見たくなかった。

街中には、すりもあふれていて、コートや鞄を切られる人が多かった。わたしも両替所からつけられ、地下鉄の車内で不用意にリュックに入れておいた財布をすられた。たった一駅の間に鞄を10センチ切り、10センチ四方の財布を抜く技術はプロだった。スリの誤算は、その財布にVISAカードとわずかなお金しか入っていなかったこと。両替したお金は、パスポートに挟み胸ポケットに入っていた。日本ならば、なんてことのないカードの紛失でも、ロシアではめんどくさい。まず、国際電話をかけに街の中心にあるビジネスセンターまで行き、順番待ちをした後、日本に電話をして、カードを止めた。また、ロシアで再発行できなかったので、友人に頼みカードを持ってきてもらった。

郵便事情は、極めて悪く、紛失することが多かった。もう、笑うしかないというできごとは、小包のなかに入っていた餅のパックがあけられていて、餅に歯型がついていたこと。手紙、カードは寮へ届けられていたが、小包は郵便局止めになり、そこで保管料や関税を請求された。友人の一人が冬物衣料を送ってもらったところ、お母さんが中身の金額を正確に書いたので、すごい額の関税となり、同情した郵便局員から受け取りを拒否して、少ない金額を書いてもらうようにと勧められていたこともある。

「友達がロシアへ遊びに来ると、みんなスペインはいい国だと言って帰っていく」
ルームメイトのイサベラが言ったが、わたしもロシアに来て、日本はいい国だと再認識した。

ソッキーとソッキーの妹、ソッキーの親友で日本語を話すヘイジンといっしょにサンクトペテルブルグへ行くことになった。日本にいたヘイジンをソッキーから紹介され、ときどき東京で遊んでいたので、ヘイジンは、ソッキーと共通の友達でもあった。

ちょっと前にサンクトペテルブルグ、モスクワ間の列車が爆破され、死傷者がでていた。それでも、お金が惜しければ、飛行機で、命が惜しければ列車で行くようにと皮肉られているほど、国内線の飛行機が落ちていたので、死亡率は飛行機の方が高いように思われた。ちなみにサンクトペテルブルグまで列車の切符は、片道40ドルほど、飛行機は、片道100ドルほどだった。なぜ、お金が惜しければ飛行機なのかというと列車内で金品を盗まれることが多いため。とにかく、寝台列車に4人で乗り込んだ。

サンクトペテルブルグは、モスクワより治安も人間もよかった。イサク聖堂を元気に登り、エルミタージュ美術館をかっぽし、ペトロパブロフスク要塞についたところで、4人揃って目が点になった。バスト、ウエスト、ヒップ、すべて100cmほどあろうかというおばさんたちが、ほぼ全裸で横たわっていた。伸びきったパンツ一枚で転がる姿は、トドのようにしか見えない。ネヴァ川沿いで、ビーチといえばそうなのだけど、とにかく驚いた。

モスクワにある銀の森で、ヌーディストたちが集まって、バレーボールをする姿を野人のごとく見つめてしまったときもあったが、すくなくとも観光地ではなかった。
4人の共通見解は、見苦しいので止めてほしいの一言だった。

次の日、ロシア人用の観光バスに申し込み、ペトロドヴァレェツなどを観光した後、マリインスキー劇場にて、バレエ、白鳥の湖を観る。黒鳥を踊っている人が昨日劇場の前で偶然会って記念撮影をした日本人のバレリーナだよとソッキーたちが声を揃えた。わたしも目を凝らしたが、バルコニーの最上階からは舞台が遠く、はっきりしなかった。

サンクトペテルブルグ最終日、白タクを捕まえ、スモーリヌィやスパス・ナ・クラヴィー聖堂、文学喫茶などをめぐった。その後、エストニアへ向かうソッキーとソッキーの妹を乗せた列車を見送り、ヘイジンとモスクワ行きの列車が出発する駅へと移動した。

ヘイジンとモスクワ行き列車に乗り込み、4人用コンパートメントの座席で話をしていると、同室らしきおじさんが入ってきた。
ちょっと警戒しているわたしたちに何枚かの写真をかざし、英語で話しかける。

「これが、わたしの娘。わたしの家で撮った家族写真。わたしは、トゥルクメニスタンから来ている」
十代なかばのかわいい娘だった。きっと自慢なのだろう。フォトブックにポートレイトが数枚入っていた。ちょっと場がなごみ、わたしが、モスクワ大学の予備学部に入ると知ると懐かしそうに言う。
「わたしもモスクワ大学の予備学部を経て、モスクワ大学で建築の勉強をした。すぐにロシア語は上達するよ。みんな半年ぐらいで話せるようになる。昔はお金がかからなかったけれど、いまは高くて娘を行かせられない。娘には英語を勉強するようにといつも言っている」

ソ連邦の時代、モスクワ大学の予備学部は、現在は独立している旧ソ連邦の国々、または共産圏から集められた優秀な学生をおもに、1年間ロシア語を教育するところであった。ソ連崩壊後は、ロシアの大学、大学院へ進学を希望するすべての外国人を受け入れている。学費さえ支払えば、誰でも学べる。ただし、学費がロシア人の給料よりも高いことを考えるとおのずと限られてくる。モスクワ大学の学費についても、ロシア人は無料、外国人は有料である。
見かけは怪しいが、気のいいおやじは、しばらくサンクトペテルブルグの建物について話をした後、当然のごとく言った。
「このかばんを座席の下に置かせてほしい。このなかに全財産入っているから」
すぐに理解できず、きょとんとした顔をしていると私の座席を指差し、開けるしぐさをする。わたしが腰を上げるとおじさんは座席をもち上げ、ボストンバッグと巨大収納袋をなかに収め、「ありがとう」と言って元にもどした。

たしかにわたしがこの寝台座席の上にいるかぎり荷物は盗まれることはないのだけど、ちょっと複雑な気分がした。そのおじさんがたばこを吸いに部屋を出たとき、ヘイジンと顔を見合わせ、いいのかなぁと首をかしげあった。
ヘイジンもわたしもトゥルクメニスタンという国の存在をそのときまで知らなかった。ちなみに、トゥルクメニスタンは、カスピ海に面し、イラン、アフガニスタン、ウズベキスタン、カザフスタンに囲まれている。

もう一人の同室者は、カザフスタンからの人だった。そのおじさんも同様にモスクワ大学を出ているという。
「ヘイジンは韓国人で、わたしは日本人。日本語で会話をしている」と片言のロシア語で伝えると、自分は韓国人だと言う。ヘイジンに「このおじさん、韓国人だって」と伝えると意外な言葉が返ってきた。
「初めから、韓国人に似ていると思っていたんですよ」
わたしには、まったくわからなかった。

そのおじさんから韓国語を少し話すと聞き、ヘイジンに会話を代わってもらう。
ちょっと韓国語でおじさんと話をしてから、ヘイジンがわたしに「言葉はちょっと違うけど、意味はわかります」と日本語で言った。そのとき、不安そうなおじさんと目が合ったので、「おじさんの韓国語、よくわかると言っている」とロシア語で伝えるとおじさんはうれしそうな顔をした。まだ話をしたそうだったので、ヘイジンをせっつき相手をしてもらう。邪魔をしたくなかったので、わたしは隣で二人が韓国語を話すのをただ聞いていた。なので、何を話していたかはわからない。

しばらくしてからヘイジンがわたしに訴えた。
「わたし、このおじさんと話すのちょっと嫌なんです。すごく悲しそうな顔でずっとわたしのこと見つめているの」
そう言われて、あらためておじさんの顔をみると、目頭が熱くなっているのがわかる。どうしようか、苦し紛れに時計を見ると深夜1時をまわっていた。
「おじさんも疲れているようだから、もう寝ませんか。遅いし」
わたしの言葉におじさんはうなずき、寝台の上段に上がっていった。横になった斜め下のわたしから、おじさんが目頭をぬぐうのが見えた。

カザフスタンには大勢の韓国人が住んでいるとこのおじさんに聞いたとき、本当に?と聞き返してしまった。おじさんは何も言わなかったが、スターリンの政策で、モスクワに住んでいた多くの韓国人が強制的にカザフスタンへ移住させられたと後に授業で教えられる。マイノリティの人々は、みな迫害され続けていたらしい。

翌朝、トゥルクメニスタンのおじさんは、記念にとトゥルクメニスタンの紙幣をわたしに手渡し、「がんばってね」と言い先に降りていった。
ヘイジンは、韓国で人気のあるカップラーメン2個をカザフスタンのおじさんへの餞別とした。「さようなら」と韓国語で言い、わたしたちも下車した。