ロシアプチ留学 2005
1月25日(火)
「タチアナの日」というプリントがロシア語のクラス中に配られた。休日ではないけれど、1月25日は聖タチアナにちなんだ「タチアナの日」、また、1775年にロシアの女帝エリザベータがモスクワに最初の大学を設立する署名をした日でもあり、学生の祝日となっている。
昔は、この日、タチアナの名を持つ女性すべてが祝福され、花やプレゼントを贈られていた。そして、タチアナさんがいる家庭の多くは、ご馳走を用意して、客をもてなし、ワインを飲んで、騒いだという。
学生の祝日といわれる由縁は、19世紀以前、大学の式典を終えた学生が街に繰り出し、校歌を歌いトヴェルスカヤ通りにあるレストラン「エルミタージュ」になだれ込み酒を飲んだしきたりから。レストランでは、その日、高級な家具を片付け、安い机と椅子を用意して、学生に開放し、前菜とウォッカ、ビール、安いワインを振舞ったという。この日ばかりは、学生がいくら騒いでも、警察官は逮捕することなく見逃した。当時、モスクワ国立大学は、現在、国立歴史博物館が建っている場所にあった。
そして、その伝統をいくつか受け継ぎ、1月25日は、モスクワ国立大学で式典が催され、夜にはコンサート、ディスコなどが開かれ、シャンパンで祝う、などと書いてあるテキストを読み終わった後、突然、歌詞カードが配られ、全員起立の状態で、歌の練習をさせられた。これから舞台で発表してもらうからって、えっ、どういうこと?納得のいかないわたしたちに、これから式典があるの、シャンパンとチョコレートがあるわよ、さぁ移動しましょう、と教師は朗らかに言い、講堂へ連行した。
紙コップに入ったシャンパンとチョコレートを入り口で受け取り、席につく。学長らしき人の話を聞き、ロシア語学校創立のビデオなどを見せられた後、学生たちによる劇や歌の発表会が始まった。しっかり練習しているクラスもあれば、そうでもないクラスもあり、けっこう笑えた。もっともわたしたちのクラスは、教師が先に帰ってしまったことをいいことに舞台に上がらなかった。ジーヨンのクラスはもっと上手で、ロシア語が分からないからと皆でばっくれたのだとか。
1月26日(水)
民主主義を唱える社会はあっても、民衆に権力がある社会はない、と断言する講師に対して、反論しようにも言葉がない。参政権はあるものの、政治権力があるかと問われれば、心もとない。そんなわたしの隣で、デイビットが、ヒッピーコミュニティとつぶやいた。それは、イギリスの文化だよね、という講師に、デイビットは、実をいうと母は生粋のヒッピーだった、兄もヒッピーとなり、地球のどこかにいる、と話した。なんとなく笑ってしまって、この話は終わりになった。「人民の人民による人民のための政治」を刷り込まれているアメリカ人がいないと議論が盛り上がらないらしい。アメリカ人はもっと異議を唱えるのだけれど、という講師の言葉が印象に残った。ペレストロイカ(再建)後、社会が急速に変化し、売春婦が街角に多く立つようになった。という言葉を受けて、ソビエト時代に売春婦はいなかったのかと聞いてみる。もちろんいたけれど、電話で呼びだすだけだった、とまじめな顔で説明する講師の前で、デイビットが世界でいちばん古い職業だから、とにやにや笑う。どうやって、その電話番号を知るの、とさらに質問したところで、Yさんがпроституткаという単語の意味を教えて下さいと言った。講師は、ちょっと困惑した表情で、この単語の意味を知りたいのかと口ごもり、そんな姿を見たデイビッドとわたしは下を向いて笑いをこらえる。どのように説明するのか興味もあったけれど、日本語で「売春婦」とYさんに伝えた。Yさんも状況を把握して笑ったところで、講師がとつぜん、ロシアの若者が「お前の母さんと寝ろ」ということがあるけれど、この母さんには、ロシア正教の聖母という意味も含まれている。だから、「お前の婆さんと寝ろ」という方が、現実的実感でロシア人にとって、より頭にくる言葉だ、と話した。そうなのかぁ、と思う一方で、照れ隠しのようにも聞こえてしまった。
授業後、Yさんが、わたしいつも変な言葉を質問して、先生を困らせているの、と言った。わたしとは比較にならないほどロシア語のできるYさんが売春婦という単語を知らなかったのは、意外だったけれど、いかにも売春婦という女性を見かけなくなったことを思えば、そんなに珍しいことではないのかもしれない。売春婦の巣窟でもあった、インツーリストホテルも今はない。かつて、野郎どもの売春婦騒動に巻き込まれていたわたしには、忘れられない単語の一つなのだけど。
1月27日(木)
ジーヨンに頼まれて、ヤセニェヴォにある寮をいっしょに見に行く。ロシア語学校の車で、寮まで送ってもらったのだけれど、大雪のなかをスリップしながら走るので、手に汗をかいてしまった。部屋を案内する管理人が合鍵で扉を開け、中にずかずか入るので、誰もいないところなのだろうと思い、後からついていくと人の気配があり、驚いた。プライバシーなどない。韓国人の男性2人が住んでいるところだった。2人部屋、3人部屋の2室に台所、トイレ、バスで1ブロック、3人部屋に電話とテレビ、洗面所には洗濯機も備えつけられている。ジーヨンにどう思う?と聞かれて、設備は悪くないんだけれど、と口ごもってしまう。とにかく、管理人室の方で話を聞くことにした。管理人室に入るなり、シャバロフスカヤ寮に住んでなかった?と声をかけられ、その女性をよく見ると、知っている顔だった。シャバロフスカヤ寮に住んでいた頃、お世話になった人で、最後に会ってから7年は経っている。常時100人以上の学生がいるのに、覚えていてくれたこと、また、懐かしい顔を見れて嬉しかった。しばらく話をした後、ロシア語忘れたでしょう、と言われ、苦笑いしてしまう。みんなに言われるけれど、ロシア語を話していた自分のことも忘れているから、と返事をすると笑っていた。
ジーヨンの件で来たことを思い出し、電話を使える1人部屋を希望してるのだけれど、と尋ねると、電話があるのは、3人部屋のみ、そして、電話料金についてのトラブルが多いから、1人で住む人にしか使用権を与えないという。3人部屋を1人で使うということは、3人分の料金を支払うこと。2室、3室タイプのブロック(フラット)があり、3室タイプの方が若干安いものの、かなりの額になる。ジーヨンは、その場で韓国のお母さんに携帯で電話をかけて相談していた。その間、寮について質問する。駅までは徒歩5分、住んでいるのは、ロシア人と中国人がほとんど、そして、部屋は充分に空いているから、返事は急がないとのことだった。結果は、保留にしてもらい、お礼と別れの挨拶を述べ、管理人室をでた。街灯がほとんどない駅までの道を歩きながら、シャバロフスカヤ寮の2人部屋にとりあえず入り、寮内で1人部屋の交渉をした方がいいと思う、とジーヨンに伝える。
ヤセニェヴォ駅前からハイパーマーケットと呼ばれるアシャンへの無料バスがあったので、ちょっとまわることにした。郊外型大型店舗ゆえに駐車場も完備されていて、車で買いに来るロシア人も多い。そんな姿を目の当たりにして、思わずうなってしまった。ジーヨンと巨大なカートに商品を放り込みつつ広い店舗内を歩いた結果、大きな荷物を手に家路についた。
1月28日(金)
残った仕事を片付けるために学校を休んだら、案外早く終わってしまった。健全な寮生活の賜物にちがいないと自分を褒め、残り少ないモスクワでの日々を有意義に過ごすべく外出した。まずは、革命博物館で、近代ロシアの歴史をさまざまな展示物でなぞる。ロシア語の説明を読まなくても、充分にロシアを感じることのできるディスプレイが好み。第二次世界大戦の展示室(20番目)まで、飽きずに楽しむことができた。この先、一部の展示室が閉鎖していたのが悔やまれるほど。
グム百貨店の3階にあるカフェで一休みした後、もう少し歴史を遡って、ロマノフの家博物館を見物した。ロマノフ王朝初代皇帝ミハイル・フョードロヴィッチ・ロマノソフ(在位1613~1645)の祖父ニキータ・ロマノフが住んだ邸宅。絢爛豪華というよりは、要塞のようにしっかりとした建物で、年代を感じさせる。1859年には、博物館として開かれたというのもすごい。当時の貴族の生活を少し、伺うことができた。
最後は、ボリショイ劇場の新館でオペラを鑑賞。題名は、「惚れ薬」。後ろの席から、この作品は悪くはないけど、眠くなる、という声が聞こえ、まさにその通りだと頷くほど、淡々としたオペラだった。
1月29日(土)
救世主キリスト聖堂で、入場料代わりに10ルーブルの蝋燭を買い、燭台に立て、とりあえず祈ってみる。そんなわたしたちの隣で、熱心な信者が床に額をつけ祈っている姿が目に入り、そそくさと祭壇の前から離れた。顔を上げ、天井や壁に描かれた宗教画を見つめる。マフィアの資金で再建されたという噂、入口でのセキュリティチェック、そんなことを払拭させる威厳を持つ美しさのなかで、ジーヨンとしばし佇んだ。救世主キリスト聖堂とモスクワ川対岸をつなぐ新しい橋の上から、凍ったモスクワ川を見下ろす。対岸には、劇場や教会、わたしにとって鬼門のチョコレート工場、ちょっと離れたところにピョートル1世が立っている大きな船のモニュメントが見える。サンクトペテルブルグに海軍を創設して、バルト海沿岸の覇権を獲得したピョートル1世の銅像をなぜモスクワ川に?この疑問は、97年、建立当時から不満として噴出している。なにはともあれ、救世主キリスト聖堂を背景にジーヨンと写真に納まり、プーシキン美術館へと移動した。
彫刻品のなかを歩きながら、プラスチックでつくったレプリカなの分かる?とジーヨンに聞くと、うそぉ、美術館なのに、というので、壁の説明文を指差す。模造品をこれほど展示する美術館もすごいけれど、よくもこんなに造ったものだと感心してしまう。本物だという絵画まで、模倣作品に見えてしまった。美術品の良し悪しなど全く分からない自分が悲しい。
グム百貨店の3階に入っているフランチャイズ店でジャンクフードを食べた後、レーニン廊、無名戦士の墓などを眺めつつ、クレムリン大会宮殿を目指して歩いた。少し早めにトロイツカヤ塔をくぐったので、クレムリン内を散策してから、劇場に入る。午後2時から始まるバレエ「シンデレラ」は、明らかに子ども向けで、オーケストラも入ってなかった。ごめんね、とジーヨンに謝ると、初めてだから分かりやすくていい、と慰めてくれた。演奏がテープだったことを除けば、それほど悪い舞台ではなかったことが救いかも。
旧アルバート通りまで歩き、ジーヨンのリクエストでマックカフェでお茶をする。ケーキもなかなかおいしい。居心地のいい店内にいると寒い外へ出るのが億劫になる。思わず長居をしてしまった。その後、スーパーマーケットに寄り、やっぱり重い荷物を抱えて帰宅した。