ロシアプチ留学 2005
1月15日(土)
土曜日で授業もお休みなので、 トレチャコフ美術館を歩いてみることにした。最近は、ロシアの学生証があっても1年以内では、ロシアの学生とみなされないらしい。チケット売り場にいるおばちゃんの気分にもよるみたいだけれど。そういえば、チケット売り場で働く男性や若い女性を見たことがない。この日、請求されたのは、ロシア、旧ソ連邦の大人料金だった。外国人料金、大人の約1/4、学生の約1/2で、およそ200円。この料金ならば、好きな絵画だけを見て、後はひたすら散歩でもまったく気にならない。天井の高い建物内を歩くのは気持ちがいい。
肉を食べ、ビールを飲みつつ、最近体調悪いんだよね、とわたしが言うと、太りすぎじゃねいかぁとお国言葉で返された。たしかにその通りだけど、医学生ならもちっとましなこと…と言おうとしたところで、ロシアの医学部では、1年生の時から各グループにあてがわれるホルマリン漬けの人間を切り刻みつつ、6年間勉強し、最後はみんなで供養して手厚く葬ると聞いたことがすばやく頭によぎってしまった。豚さんの骨が妙に生々しかったからなのだけれど、わたしも趣味が悪い。とりあえず、豚さんに合掌しつつ、他に言えることはないのかぁと反論した。食欲が微妙に落ちたことが原因してか、かなり健闘?したものの最後まで豚肉を食べきることはできず、持ち帰りにしてもらった。
腹ごなしの散策中、トロリーバスが連なり、駐車している道路に出た。デジカメを手にしたKさんが、ロシアでは、駐車場を使わず、トロリーバスを路駐させているといいつつシャッターを切る。残念ながら暗くて、ほとんど写らなかった。体も冷えてきたので、暖を取ろうとマクドナルドへ入ると恐ろしく趣味の悪い中華風内装だった。珍しいマクドナルドでコーヒーと紅茶を注文し、のんびりと休憩。酔いを醒まして帰宅した。
1月16日(日)
本の家にある1階の文具店で、ソビエト時代のポスターを縮小したカードを手にレジへ行き、差し出すとおばさんがカードとおつりを乱暴に返してきた。最近では、珍しかったので、ちょっとむっとしたけれど、カードの内容が、スターリンのポスターを女の子が拝み、「わたしの敬愛するスターリン様」と言っているものや、共産主義のマークを背景にレーニンの絵が描かれ、脇に「レーニンは生きていた。レーニンは生きている。レーニンは生き続ける。」などと書いてあるものばかりなので、なんとなく許す。
メトロの駅構内にある劇場チケットのキオスクで、バレエ「白鳥の湖」の当日券が目に入った。劇場は、クレムリン大会宮殿で、7時開演。時間もちょうどよかったので、近くで軽く食事をして、クレムリンの入り口へとむかった。行列に並び、厳しくなったセキュリティチェックを受け、門の中へ入る。チケットを提示して、大会宮殿の建物に入り、コートを預けるため、エスカレーターで地下へ。人の少なそうな場所を選び、コートとリュックを預け、番号札を受け取る。バルコニー席だったので、エスカレーターでひたすら上へ上がっていく。チケットの値段は、300円ほど。劇場には、外国人料金は存在しない。あと500円もだせば、かなり前のいい席で観れることに気づき、大会宮殿劇場のチケット売り場で買うべきだったと後悔した。そして、おばちゃんたちが厳しく監視しているので、独立しているバルコニーの席から前へ移動することはできない。劇場内は、観劇しやすい客席の配置に換えられ、また、椅子の座り心地もよくなっていた。オーケストラ席がつくられていて、生演奏でバレエを踊るようになっていたのもうれしい。音響も心なしかよくなっていた気がする。
バルコニー席の利点は、幕間の休憩時間にすばやく上の階にあるトイレに行けることと、その隣にある大広間で、飲み物や、軽食を並ばずに買うことができること。ただし、大広間で売られている物すべてが高い。ミネラルウォーター2本とバルコニーといえども劇場チケットとほぼ同じ金額なのは腑に落ちなかった。こんなところで、シャンパンやワインを注文するロシア人の感覚は分からない。
1月17日(月)
朝、ツェルハンドルと会ったので、試験は順調?と声をかける。今のところは大丈夫、残りは2課目だけよと余裕たっぷりだったけれど、モスクワ国立大学のこの寮内には、かなり試験モードが漂っていた。
選択科目、マスコミュニケーションの授業に参加する。 新聞を読み、興味のある記事を要約して、皆の前で発表するクラスだった。突然、気になる出来事はと聞かれ、答えに窮していると、新聞を読まないのかテレビやインターネットを見ないのかと詰問された。その通りです、と胸を張って答えるわけにはいかないので、沈黙を守る。
この時期、モスクワの話題は、ウクライナの大統領選挙、年金者へ支給していた無料交通券の存続問題、プーチンが路上禁酒令に署名するかどうかだと分かった。
選択科目の日は、午前中のみの授業。Yさんといっしょにメトロ、ウニヴェルシチェートの駅前にある肉屋で牛肉を1kgとハム、チーズを買い、市場で鶏の丸焼き、玉ねぎ、きゅうり、トマトを買う。冬なので、野菜はおそろしく値段が高い。きゅうり3本と鶏の丸焼きがほぼ、同じ値段。最後にお菓子とウォッカを仕入れ、おばあさんの家へ向かった。
Yさんとハヤシライス、サラダを作り、鶏、ハム、チーズ、黒パンなどを切り、おばあさんのお手製きゅうりのピクルスを瓶から出し、テーブルに並べる。もちろん、ウォッカも忘れずに。少し遅れて、旧正月のお祝いをした。
夕方、電化製品の売店で、小型ラジオを買い、寮へ戻る。マスコミュニケーション論なら比較的得意なのだけれど、ロシアのニュースでは、情報源がなければ、歯が立たない。寮の18階にあるコンピュータルームでインターネットに接続できると聞いていたので、遅ればせながら足を運んでみることにもした。1時間の接続料金100ルーブルを支払い登録を済ませ、コンピュータルームで空いている席を探し、いざ接続してみるとその回線の遅さにあ然とした。かつての電話回線56Kの時代が偲ばれる。そして、オフライン作業への切り替えを使うのも何年ぶりだろう。何はともあれ、ロシアのウクライナへの関心は、石油にあるということだけは分かった。
この後、比較的まじめに新聞のタイトルを追ってみたけれど、わたしてきに興味をそそられたのは、ウクライナの大統領ユーシェンコがモスクワを訪問する前日まで、ユーシェンコを扱き下ろしていた新聞各社が訪問日、賞賛へといっせいに鞍替えしたことだった。
1月18日(火)
一昨日の深夜到着した韓国からの留学生ジーヨンを学校へ案内する。ジーヨンは、ツェルハンドルのルームメイト。地下鉄と路面電車を使っての登校中、むほうびなジーヨンが気になってしかたがない。モスクワでは、歩行者優先ではなく、車優先だから、道路を渡るときにも注意するようにとか、治安が悪いから気をつけるようになどなど、つい口に出てしまう。
まったりとロシア語のビジネス会話、文法などのクラスを終え、ジーヨンと再会したのは、午後3時。学校からモスクワの中心地まで30分もあれば行けるので、ちょっと観光をすることになった。
ボリショイ劇場、赤の広場、グム百貨店とまわり、マネージ広場にあるショッピングセンターで休憩後、95年から変わらないダノンの専門店でいろいろなヨーグルト製品を買い込んだ。街並み、周辺の店舗が次々と変わっていくなか、早い話ヨーグルトしか扱っていない店が残っているのも不思議な気がする。馴染みのあるインツーリストホテル、モスクワホテルも、ともに取り壊されていた。近々、ロシアホテルも閉鎖され、解体されると聞く。いつ倒壊してもおかしくないらしい。かつては、名水が湧いていた場所で、モスクワの人々が水を汲みに来ていたところだから、地盤が弱いという噂もある。
最寄の駅で買い物を済ませ、いったん部屋に荷物を置いてから、共同の台所、ゴミ捨て場、洗濯室、地下2階の食堂、地下1階の売店、18階のコンピュータルームなどを案内する。ロシアの壁に戸惑うジーヨンを見ていると過去の自分と重なってしまう。わたしを学校に案内して、いろいろ説明してくれたのは、韓国人のソッキーで、現在は、ロケットエンジニアとして、韓国とロシアを行き来しているとジーヨンに伝える。
1月19日(水)
モスクワに寒波が舞い降り、気温はマイナス20度となった。今日は、寒いから厚着をしたほうがいいよと声をかけ、出掛けには、パスポート、寮の入館証持った? 帽子、マフラー、手袋は? とジーヨンに確認してしまう。
真冬のモスクワで帽子をかぶらずに道を歩いているとロシア人になんで帽子をかぶらないんだと注意される。ロシア語がまったく分からなかった頃、道行く人々から突然なんやかんや言われて、目が点になった。頭を冷やすと命に関わるから、帽子をかぶりなさい、と誰かが英語で教えてくれるまで、大勢の人に注意され続けていたとは、夢にも思わなかった。ロシア人は、かなりおせっかいだと思う。そして、わたしもかなりロシア人化してる。
ジーヨンと部屋をでると、エレベータの隣に座っている管理人さんから、今日は寒いからちゃんと防寒したほうがいいわよ、と声がかかった。雪ダルマのように着込んでるから大丈夫、と返事をすると管理人さんは笑っていた。
外は、予想以上に寒く、たちまち凍えた。一人なら引き返してしまうところだけれども、ジーヨンに帰り方を伝授しながら、学校へ向かう。この日は、選択科目の関係で、終了時刻が違っていた。
ジーヨンと学校の入り口にあるクロークで別れ、食堂で買った紅茶を持ち、教室へ行く。まったりと受講生3人で教師を待つも、30分を過ぎても現れなかった。イギリス人のデイビットが、きっと先生は酒を飲み過ぎて起きられなかったんだ、という。Yさんは、すぐに同意した。無類の酒好きで、授業の合間にもウォッカを煽っていることもあると聞いていたので、信憑性がある。いつまで待っていても現れる気配がないので、3人揃って、授業担当ディレクターの部屋へなだれ込んだ。「ロシアの世界」の先生が来ない、と訴えると、事務の女性が電話をかけまくり、教師の捜索を始めた。
その間、わたしたちは、若い先生とふざけていた。休むのだったら、電話ぐらい入れてください、と怒る女性の声で、休講を悟ったデイビットが、代わりに音楽の授業をしてよ、と持ちかける。準備ができてないからと焦る若い先生に対して、他の教員が、やりなさいよ、と勧め、授業が決まった。
教室でしばらく待っているとカセットレコーダーと何本かのテープ、歌詞をプリントした紙を持った先生が現れた。準備不足でごめんなさい、と初々しくてかわいい。酒に溺れ、連絡もせず、授業に現れない教師、ソビエトの落とし子とは、まったく違う。音楽を聞き、歌詞を訳していく。一昔前のロシアの叙情溢れる歌は、最近のヒット曲とは違い、しみじみと興味深かった。