クロスカルチャー コミュニケーション

シンガポール


クアラ・ルンプールからシンガポールへ向かうバスの車内で、インドネシア人のおじさんから出入国カードの記入方法を片言の英語で聞かれた。悪戦苦闘しながら英語で説明していると近くに座っていたターバンを巻いたマレーシア人のおじさんが説明を代わってくれた。何語で話しているのか疑問に思っているとターバンのおじさんがマレーシア語とインドネシア語はとても似ているからお互いに意思疎通ができる、と教えてくれた。

  これで解決と思っていたら…、代行を引き受けることになった。インドネシア人のおじさんのパスポートを預かり、書類を作成する。ターバンのおじさんを介して、「シンガポールには何をしに行きますか?」と聞くと、にこにこしながら「ジャランジャラン」という。「ジャラン」はインドネシア語で散歩という意味、わたしの知っている数少ないインドネシア語だった。「荷物はいくつですか?」と聞くと、ウエストポーチを指した。本当に?とターバンのおじさんに視線を投げかけると肩をすくめた。その後、この微妙な不審さが国境で引っかかり、一緒にいたわたしも足止めされ、2人してバスから置いてきぼりを食らうことになる。とりあえず無事に国境を越え、他のバスを乗り継いでシンガポール市内に到着した後、ウエストポーチ1つでホテルに向かう陽気なインドネシア人のおじさんを見送った。

アジアの生活感がない地下鉄ブギズ駅の周辺を歩き、1万円以内のゲストハウスやホテルを探すもすべて満室だった。仕方なくインド人街にあるドミトリータイプのゲストハウスへ向かう。ブギズ駅から歩いて10分ほど、インド人街のはずれにバックパッカーご用達の宿が並んでいた。欧米人が集うちょっと退廃的な宿を避け、新しくて静かそうな宿を選んだ。久しぶりの6人部屋、与えられたベッドの近くに荷物を転がし、ブギズ・ジャンクションへ行く。パルコ、西友、無印、ローカルブランドの入ったショッピングモールをまわって見たけれど、シンガポールの物価は、マレーシアやタイに比べてかなり高かった。早々に買い物を切り上げ、シンガポールの最高級ホテルとして名高いラッフルズホテルを訪ねた。手入れの行き届いた英国風庭園を散策した後、ショッピングアーケードにあるラッフルズ博物館に入る。創業当時のシンガポールやホテルの写真、招待状や広告物、当時の電話機や鞄、食器など歴史を語るものが展示されていて、興味深かった。

ちなみに1942年、シンガポールに侵攻した日本軍は、ラッフルズホテルを接収して、「昭南旅館」と改名している。高級将校用の宿泊施設にするため、すべてのサービスを日本式に変え、過去の貴重な品々や記録をも廃棄してしまったとか。

ラッフルズホテルでアフタヌーンティでも頂きたかったけれど、ドレスコードに引っかかりそうだったので近くの喫茶店に入った。紅茶とケーキを頼み、ゆったりとした席でガイドブックをしっかり読んでみた。でも残念ながら、シンガポールでは異国の雰囲気をかもしているというアラブ人街、インド人街、中国人街の一画を除くと、街に対する興味がわかなかった。

シンガポールの街は、道路も広く渋滞もないし、電車は時刻表どおりに運行されている。街もきれいでゴミもないし、街を歩く人もこぎれいにしている。でも、なぜかつまらない、そんな感じだった。

中華料理を食べて、6人部屋に戻ると部屋はにぎやかだった。中国から廃材プラスチックを買い付けにきている女性、インドネシアから観光でやってきた3人組の女性の輪に加わる。インドネシア人の女性3人は皆サンフランシスコの大学に留学した後、同じ大使館で働いているのだとか。「子どもは今、おばあちゃんとパパが面倒を見てるわ。たまには息抜きが必要よね」とものすごく陽気で朗らかだった。ルームメイトに恵まれたお陰か、2段ベッドの上で寝るのもシャワーの順番を待つこともそれほど苦にならなかった。翌日の深夜、インドネシアの歌に送られて、空港へむかった。