キャメロンハイランド
厳しい暑さから逃れるため、マラッカからクアラルンプール、イポーを経由してキャメロンハイランドへやってきた。1500メートルを超える標高のため気温が低く、年間を通じて20度前後という高原リゾートは気持ちがいい。イポーの気温は34度だったので、涼しさも一入で、英国人が避暑地として開発した気持ちがよくわかる。英国植民地時代、ジャングルを切り開いてゴルフコース、いくつものトレッキングコースを整備したしたほか、紅茶、ヨーロッパ原産の野菜や果物を栽培して、シンガポールに住むイギリス人に供給した。キャメロンハイランド産のいちごは特に珍重されたという。
ツーリストインフォメーションで紹介してもらった宿に荷物を置き、レストランや工芸品店、屋台が並ぶ「タナ・ラタ」のメインロードを散策するも30分ほどで見尽くした。その短い間に高齢の日本人を何人も見かけた。なんでこんなところにと思いつつ、ツーリストインフォメーションセンターに入ると60代から70代ぐらいのおばちゃん3人が日本語で話しをしていた。目があったので、「こんにちは」と声をかけたら、「日本語上手ね」と返された。「日本人なので…、観光ですか?」と尋ねると「住んでいるのよ」とのことだった。用事を済ませて、ちょっと歩いたところで突然スコールに襲われた。タクシー会社の軒先へ逃げ込み雨宿りをしていたら、運転手たちが声をかけてきた。わたしが日本人だとわかるとみな片言の日本語で挨拶をはじめる。「どうして日本語を話せるの?」と尋ねたら、「客の6割が日本人だから、ゴルフコースへの送迎が多いよ。その先の坂を上ったところに日本人の長期滞在者向けマンションがある」と教えてくれた。なるほど、と納得して、雨が小降りになったところで向かいにあるインド料理店に入って、ロッティとホットミルクティを注文した。ロッティは何層にもなったパイのようなやわらかいパンで外国人の口にあう。甘いホットミルクティを飲みながら、ロッティをほおばった。外は雨、まわりはジャングル、娯楽施設はなし、お腹もいっぱい、肌寒いほどの気温は寝るのに適している、ということで早々に引き揚げた。
雨音を遠くに聞きながら眠り続けること12時間ほど、さすがに起き上がるとき頭が重かった。部屋を出て高原の清清しい空気を吸ってもしばらくは呆けていた。近くの中国寺院や青果物のマーケットを散策した後、インド料理店のテラス席に腰をすえた。タンドリーチキンセットとミルクティを注文して、スパイシーなチキンにかぶりついているとき、昨日イポーから同じバスに乗り合わせたオーストリア人と再会した。手に英字新聞を持っていたので、「何か面白い記事はある?」と尋ねたら、『タイのシルク王、ジム・トンプソン失踪40年』という記事を見せて、「ジム・トンプソンを知っている?」と聞かれた。「7年前、バンコクにあるジム・トンプソン・ハウスを見学して、隣接する店で鞄を買った。マレーシアのジャングルで失踪した人」と答えると「キャメロンハイランドだよ。興味があれば、ジム・トンプソンの別荘に明日行ってみない?」と誘われた。オーストリア人は2年以上世界を放浪している40代の男性、そして少々やっかいな相手でもあった。それでも、好奇心が勝って、「うん」と言ってしまった。
ジム・トンプソンは1906年アメリカ東海岸、デラウェア州の裕福な家に生まれた。プリンストン大学を卒業後、ペンシルバニア大学で建築学を学ぶも単位が取れず中退、ニューヨーク建築局の資格試験にも失敗、履歴としては痛手だったものの東海岸沿いの各地で建築設計家として活躍した。ヨーロッパで戦火が激しくなっていた1940年、34歳で二等兵として陸軍に志願する。フロリダ士官候補生学校を経てウィルミントンの沿岸防衛砲兵隊勤務に就いた後、1942年、CIA(諜報機関)の前進OSS戦略作戦局へ転属した。カリフォルニア州の沖合にあるカタリーナ島、スリランカのトリンコマリのジャングルで厳しい生存訓練を受けた後、1945年、日本軍に対する秘密工作に従事するためインドシナ半島に赴くも途中で日本が降伏し作戦は撤回され、OSSバンコク支局長に就任した。まもなく第二次世界大戦が終結して、帰国命令を受けるもタイに残ることを決意する。『オリエンタルホテル』(現在の『ザ・オリエンタル・バンコク』)の経営に携わった後、衰退していたタイの伝統産業、手織りの絹織物、タイ・シルクの復興と売り込みに力を注いだ。アメリカのファッション業界から注目を浴び、ハリウッド映画『王様と私』の衣装として使用されるとタイ・シルクとジム・トンプソンは世界中で知られるようになる。1967年3月26日、休暇で訪れていたマレーシアのキャメロンハイランドにある別荘から忽然と姿を消した。
ジム・トンプソンやジャングルについて話しながら、ゆっくり昼食をとった。「これからどうするの?」と聞かれ、「せっかくだからジャングルの小怪を歩いてみる」と答えると「一緒に来る」というので、2人して席を立った。キャメロンハイランドのジャングルには、14の小怪が張り巡らされている。ツーリストインフォメーションで買った地図を頼りに生い茂る木々を切り開いた細い山道を15分ほど歩いたところでスコールに見舞われた。ずぶ濡れになってタナ・ラタのメインロードに戻り、それぞれの宿へ避難した。熱いシャワーを浴び、クアラルンプールで買ったガイドブック、ロンリープラネットをひろげ、キャメロンハイランドのページをめくるとジム・トンプソンについてしっかりと記されていた。マラッカへ移動するバスのなかで日本語のガイドブックを紛失したためなのだけれど、英文を読むのは面倒で必要最小限しか見ていなかった。ガイド付きのウォーキングツアーがあったのね、と思いつつ荷物の整理をした。夜、タナ・ラタのメインロードで中華料理を食べて宿に帰ろうとしていたとき、再度、オーストリア人と再会した。「バーに飲みにいかないか?」という誘いを振り切り、「明日ね」と別れた。タナ・ラタは狭い。
朝の9時に待ち合わせて、軽い朝食をとり、バスで隣にあるブリンチャンの町へ行き、そこから徒歩でジム・トンプソンの別荘を目指した。サボテン園を遠くに見ながら歩き出し、すっかりばててきた頃、ストロベリーパークホテルの近くにきた。ホテルで休みたがるのを適当にあしらい、近くにあるはずのジム・トンプソンの別荘を探した。現地の人に尋ねながら、車一台がやっと通れそうな道を上がっていくとサンライト、ムーンライトという別荘が並んでいた。ジム・トンプソンが滞在していた別荘は、道の行き止まりにあるムーンライトコテージ、西洋風の別荘で手入れの行き届いた花壇が印象的だった。
オーストリア人が、車を洗っていた男性に「この家がジム・トンプソンの別荘ですか?」と声をかけた。「ええ」と答えた男性は、ムーンライトコテージの持ち主で、「内装は変わっているけれど、外装はほぼ当時のまま、売りに出してる」と付け加えた。すかさず、「ジム・トンプソンについて何か知っている?」とオーストリア人が尋ねると、「もう昔のことだから、でも失踪したとき町が大騒ぎになったのは覚えている。子どもだったけど。父も捜索に加わったし、わたし自身も20年前、最後に行われた捜索に加わった。この辺の人はみんな20ドル渡されて、3日間ジャングルのなかを歩いた。何もみつからなかったけど」とのこと。「散歩に出て、ジャングルに迷ったと思う?」との質問には、「何も見つからないから、遭難や自殺じゃないと思う。自主的に姿を消したのか、連れ去られたのかはわからないけれど」という。最後の何気ない問いかけ、「キャメロンハイランドが今のようになったのはいつ?」に応じて、「日本戦争の後、最初のホテルが建てられ、だんだん広がっていった」と話すのを聞き、どきりとした。日本戦争(Japanese war)という表現に1942年、日本がシンガポール、マレーシアを侵略し、大量虐殺をした歴史があった。心とは裏腹に笑顔で男性にお礼を述べて、改めてムーンライトコテージと周辺のジャングルを見つめた。
「近くに小川が流れていることからもこの付近で遭難するとは考えにくい。経験を積んだジャングルトレッカーは水をたどれる」と隣でオーストリア人がいう。ちなみに彼は、3週間前、インドネシアのジャングルで遭難して、大使館から捜索隊を出されたらしい。自力で脱出したのに捜索費として700ユーロ請求されたと憤慨していた。「彼は多くのことを知りすぎて殺されたのだと思う」、「もしかしたら、別人になってどこかで暮らしていたのかも」などと話しながら、坂道を下った。真実はまったく分からない。また、ジム・トンプソンが失踪して5ヶ月後、ジム・トンプソンの3人の姉の2番目、キャサリ―ン・ウッド夫人がペンシルバニア州の自宅で何者かに殺害されている。
道中、いちご畑でいちごを摘み水分を補給して、インドから彫刻を運んできたというヒンズー教寺院を外から眺め、三宝寺まで少し足をのばした。三宝寺は、赤や緑の色鮮やかな万華鏡のような仏教寺院で、仏像が象の背に座っているなど、とっても個性的だった。松本清張がジム・トンプソンの失踪をモデルにして書いた小説「熱い絹」のクライマックスの舞台になったとか。
近くの食堂で遅い昼食を取り、ブリンチャンの町をちょっと歩いてみた。そして、本格的に鬱陶しくなってきたオーストリア人から逃れるため、キャメロンハイランドを離れることにした。バスでタナ・ラタに戻り、すぐに長距離バスのチケットを探した。チケットを買うまでは反対していたオーストリア人もさすがに黙った。すぐに次の女に声をかける予感はしていたけれど、午後5時すぎに別れて、約30分後、荷物を持ってバスターミナルに向かう途中で女連れの奴を目にした。あまりの早業に笑ってしまった。そして、午後6時にキャメロンハイランドを出発した長距離バスは、ひたすら山を下り、約2時間でイポーに到着した。バスを出るとすぐに熱帯の蒸し暑さに包まれ、なんだか無性に腹が立った。
ウィリアム・ウォレン著「ジム・トンプソン-失踪の謎」を帰国後しみじみ読んでみた。個人的に興味があったのは、ジム・トンプソンの母方の祖父が米陸軍士官学校を卒業後、ルイス&クラーク探検隊の一員としてコロンビア川をたどり当時のフロンティア、現オレゴン州に派遣されていたこと。祖父は、帰還後、世界旅行にでかけ、旅行記を執筆している。ジム・トンプソンは、祖父の中国旅行記を読み、心を奪われたとか。
ジム・トンプソンは古美術収集家としても著名であり、失踪前に暮らしていたバンコクの屋敷には、数多くの美術品が飾られていた。現在、その屋敷は「ジム・トンプソン・ハウス」として公開されているので、彼の集めた多くの美術品を鑑賞することができる。また、ジム・トンプソン自身がタイの古民家を何軒も探し求め、新たに命を吹き込んだ屋敷そのものも美しい。