2020年12月15日

「特別支援学校に勤めて」<後編>

                          

岩脇 歳文(神奈川県立高等学校教諭)


 私は昨年、晴れて神奈川県の初任校での勤務を5年間満了し、原則異動の対象となった。転勤のタイミングに合わせ、私は最後のチャンスとしての特別支援学校への人事交流を希望し、2020年1月現在、知的障害のある児童生徒が通う養護学校に勤務している(現在は県立高校勤務)。

 今回は勤務した特別支援学校で出会った生徒たちの話を取り上げたいと思う。なお、本文中に出てくる私の名前は、生徒・学校の特定を避けるため、全て「〇〇先生」で統一してある。


【1】自閉症のOさん(男子)
 私の担当したクラスには担任が3名いる。また、マンツーマンでの対応が必要な生徒が3人いる。この生徒3人を教員3人で、週替わりで対応していた。その中で、特に私が手を焼いた(?)生徒がOさんだった。

 Oさんは自閉症で、入学当初からしゃがみ込んで、靴下の繊維を引っ張り出し、丸めて捨てるという行為を繰り返していた。これを常道行動というそうで、他者に頼ることが難しい、自閉症のある人が、落ち着くために繰り返し、同じ動作を行うようだ。

 Oさんは見通しが持てないこと、パターンが変わるとパニックを起こし、何時間もしゃがみ込んで、靴下を引きちぎる動作を繰り返していた。授業の活動に戻そうとすると手を伸ばして拒否し、さらに促すと教員の顔をひっかいたり、噛みついたりすることがある。今年度私も何回か引っかかれ、十数年ぶりに絆創膏を貼ることが何回かあった。

「先生はもう限界だ」
 「今まで言葉による指導に固執しすぎていた。」
 「この子がなぜいつもできていることが今日できないのか、分からない。」
 「高校生になってもこんなこともできないこの生徒が、将来社会に出て何の役に立つのだろう。僕がこの子に対してやっていることに意味はあるのか。」

 そんな疑問を抱きながら悶々としていた自分も5月の連休も過ぎ、心は限界に近づいていた。当時の私の心の状態は以下の通りだった。月曜日以外は常に「省電力モード」でいかないと自分が壊れてしまうような気がしていた。

 「正直、生徒の顔も見たくない。」
 そう思っている自分が情けなかった。

心の電池(朝) 100% 74% 56% 49% 35%
心の声 希望に満ち溢れ
新たな挑戦をしたい。
しんどい。
とにかくしんどい。
まだ3日もあるのか。そもそも
この仕事に意味があるのか?
生徒の顔も見たくない。 明日は土曜日。
何もしたくない。

 そんな限界を感じているときに、Oさんの週の当番になった。Oさんはその日も体育に参加することを拒否し、体育館裏でしゃがみ込んでいた。30分ほど、何もせずにOさんを眺めていた。特別支援には、このように、一見すると何もしていないような時間が多くある。意外だと思われるかも知れないが、「仕事をしている感」がないこの時間がつらい。

 しゃがみ込んでいるOさんに、大人げないと思いながらも私はこうつぶやいた。
 「君は、何を考えているんだ?僕には分からない。生きづらい世の中だよな。僕はもう、限界だ。」

 それまで下を向いて靴下をいじっていたOさんが、不意に顔を上げ、目が合った。その瞬間に言葉では言い表せない感覚を覚えた。

 「先生も限界だったことは分かってたよ。俺も大変だってこと、分かったでしょ。」

 天国に行ってOさんと再会したら、そんなことを言われるんじゃないか。いや、今言われたんじゃないか。
 私自身、Oさんを1人の人間として見られたような気がした瞬間だった。

 2人で五月晴れの青空を見つめた。

 その翌日からOさんは登校するなり、汗臭い私のうなじの臭いをかぎ、お腹をパンパンと5回たたいて、満面の笑みを浮かべてあいさつすることが1日の日課となった。今まで「Oさんめんどくさいな」と思っていた私を、Oさんはゆるしてくれたと思った瞬間だった。

 特別支援未経験の私にも懐いてくれた生徒がいることが、その後の私の自信につながった。

人生初のずる休み
 6月になる頃、朝起きたときに「このまま学校に行っても耐えられる自信がない。この仕事の資質はない。辞めたい。」と感じ、仮病を使い、人生初のズル休みをした。

 食べ放題の焼肉ランチを食べ、地下鉄の中で昼間から酒を飲み、自堕落の限りを尽くした。自分の授業を飛ばしたにもかかわらず、不思議と罪悪感はなく、ただただ地獄から解放された気持ちでいっぱいだった。2日ズル休みした後の水曜日の出勤は少し気が重かった。

 「〇〇さん(私)、体調大丈夫?無理しないでね。〇〇さんの授業は私が違うテーマに差し替えてやっといたから、来週計画してたことをやってくれればいいよ。」同僚の明るく、前向きな言葉に私は、「本当につらかったら休んでもいいんだ。」と思えるようになった。そう思うと不思議と心が軽くなり、「学校に行きたくない」という気持ちがなくなった。

【2】「あ、〇〇先生!!」 Yさん
 9月後半の2日間、私は他学年の宿泊学習の応援に行った。その2日間は私の学年の生徒とは会えないはずだった。2日目の終わりは学校で解散となった。解散後、トイレに向かう私は背後からクラスのYさん(男子)の大きな声を聞こえた。

 「あ、〇〇先生、朝ご飯なーに?」
 そう言いながら、汗だくの私を抱きしめてきた。

 「ほらほら、Yさん。先生の汗ついて風邪ひいちゃうぞ。」
 屈託のない笑顔で、朝ご飯を聞いてくるYさん。

 「理屈じゃない。周りを幸せにする、この子たちの笑顔のために仕事をしているんだ。」そう悟った日だった。

【3】人懐っこいMさん(男子)
 私が4月に赴任して、一番最初にあいさつを交わした生徒がMさんだ。入学初日から通り過ぎる人全員に「おはよう」と、満面の笑みで声をかけていた人懐っこいMさん。しかしながら、Mさんは、教員の腕をつかんできたり、抱きしめるなど、人との距離のとり方に課題があった。

 障害のある子どもの指導で難しいことが、ここだ。我々も小さい頃は大人に抱きしめられたり、手をつなぐが、誰に言われるでもなくいつの間にかそのような身体接触をしなくなる。ところが障害のある子の中には、そのような線引きが分からず、また周りの大人も子どもの頃から彼らと接しているあまり、違和感なく、身体接触を続ける子どももいる。そのため、Mさんの個別教育計画には以下のように書いた。

学習の目標 指導の手立て
<社会性> 友だち・教師に触らず、コミュニケーションをとれるようになる。 「人に触らない」「呼ぶときは名前で呼びかける」という視覚支援を作成し、その場だけでなく、定期的に確認する。

 Mさんは特別にトラブルを起こすこともないので、手のかかる生徒を優先してしまい、ついつい後回しになってしまうことが多かった。なかなかかまってもらえず、不憫な立場にあることが多い生徒だ。

 また、教員の腕を引っ張って気を引くと教員から注意される=かまってもらえる、ということで腕を引っ張る行動が強化されてしまうことも多かった。

からだダンダン
「からだんだだんだーん、ゴーゴー!!」
3学期のある日、Mさんが謎の踊りをしていた。

 この謎の踊りは何なのか、先輩に聞くと、
「おかあさんといっしょの『からだダンダン』だよ。〇〇先生も録画してみた方がいいですよ。」

 その日から、私は自己研修の一環として、おかあさんといっしょを見ることになった。

構築された横のつながり
 翌日、「からだダンダン」を「習得」した私は早速Mさんと一緒に「からだダンダン」を踊り始めた。すると盛り上がり、隣のYさんも「からだダンダン」を踊り始めた。私がその場を去っても、MさんとYさんは「からだダンダン」を踊り続けていた。

 その日から、MさんとYさんはお互いにしつこいくらいにネタを言い合う仲になり、Mさんの腕を引っ張る行動が少しずつ減ってきた。

突然の分かれ
 2月27日、安倍(首相)が突然3月中の全国一斉休校の要請を出し、翌28日が最終日となった。(実際には3月25日に登校日を設けたので、ここで正式な離任のあいさつはできたが、28日時点でこれは分からなかった。)

 「皆さんと学校でお会いするのは、今日が最後になるかも知れません。」

 学校として、私の転任を正式に発表してなかったので、ぼかして言うしかなかった。Mさんとも会えるのが最後だと思うと寂しくて仕方がなかった。

 身体接触を避けるように指導しているMさんに対して、教育的ではないと思いながらも、私は心の中でこう叫んだ。
 「Mさん、抱きしめてくれ」
 普段なら抱きしめたりしなくなったMさんが、力いっぱい抱きしめてくれた。

 「おいおい、Mさん、高校生だから恥ずかしいよ。」
 そう言いながら、涙が流れた。この子たちは、私の心の中を透かして見ているようだ。

障害者は周りの人間を不幸にする?
津久井やまゆり園事件の犯人は繰り返し、「障害者は周りの人間を不幸にする。」「障害者は安楽死させた方が税金を他に回せる。」という供述を繰り返してきた。この1年は、犯人のこれらの言葉を、まずは私が私自身の経験のなかから否定できるかの、私自身の心の実験であった。

障害者ってなんでいるの?
 幼い頃、私は母にこんなことを訊いた。
 「お母さん、どうして障害者はいるのかな?」

 すると母はこう答えた。
「障害者は、私たちに大切なことを教えるために神様が遣わしてくださったんだよ。」
幼い私は理屈ではよく分からなかったが、「ふ〜ん」とうなづいた。

障害者は役に立つのか
 私は教師として常に、「人の役に立つ人を育てたい」と心に決めてきた。そんななか、大人の目からすると何もできない生徒たちに対して、心が折れてしまう経験ももちろんあった。

 悶々としていた秋のある日、その疑問をお世話になっている牧師にぶつけた。
 「世の中ははっきり言って競争社会だからね。障害者は競争じゃない世界で生きているから、周りの人を優しくしてくれる。」

 この言葉に私ははっとした。特別支援の先生方がこんなにも優しいのは偶然ではないということを悟った。同時に結婚するなら特別支援の先生がいいなと思うようになった。

 障害者も含めて、人間はかわいいんだ。
 障害者がかわいいと思えないのは、接点がないからだ。
 
 1年間の経験を通しての私の最大の収穫は、この結論に達したことだ。
 「私、自分の子どもが障害のある子でもいい。」

 そう言い切った同僚の言葉が、私にも分かった気がした。
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「特別支援学校に勤めて」<前編>   岩脇 歳文
定時制4年生  岩脇 歳

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