2015年12月13日
投 稿 「県立高校改革実施計画」がめざす学校規模の過大化を憂う
~翠嵐定時制の現場から見た少人数教育〜
横浜翠嵐高等学校 定時制 岩脇歳文
「県立高校改革実施計画(全体)【素案】」の中で、学校規模が小さくなると、部活動にも活気がなくなり、教員の数が少なくなり、1人あたりの校務が増え、教職員の長時間過密労働が進んでしまうということが説明されていました。果たしてそうなのでしょうか。今回私は、少人数での教育を行ってきた定時制高校に勤務する教員として、経験を交えてお話をしたいと思います。
横浜翠嵐高等学校定時制の現状
私が勤めている、横浜翠嵐高等学校の定時制は全校生徒(1年生~4年生まで)344名、50~60%が3年で卒業していく、県内でも大規模な定時制高校です。外国につながる生徒の数は概ね3人に1人で、校内は休み時間になると中国語やポルトガル語、タイ語、タガログ語など、様々な言葉が飛び交う、国際色豊かな学校です。私の学校に在籍する生徒は主に外国につながる生徒、不登校を経験をした生徒、第一志望に合格できなかった生徒など、さまざまな教育的ニーズを抱えた子たちです。どの子も独特な服装やユニークなドラマを持ち、気さくに教員に話しかけてくるので、顔と名前が自然と一致していきます。
少人数教育による生徒へのきめの細かい配慮・支援
昨年度と今年度、私は1年生の担任を持たせていただきました。今年度の私のクラスの生徒数は19人と、とても小規模です。そのうち、毎日ショートホームルームに出席する生徒は多くて8~9名です。出席状況が危ぶまれる生徒は10名、うち2名は不登校です。
私はこの2年間、教室での会話など、担任と生徒との「教室内の関係」に加え、電話や手紙、面談や家庭訪問など、「教室外の関係」を大切にしてきました。その結果、状況が不明な生徒は1人もいません。また、不登校の生徒と学校外で昼食をとりながら他愛もない話をしたり(建前は「面談」ですが)、青少年センター・若者就労サポートステーション(サポステ)など、学校以外の機関や他の先生方と連携をとることにより、私の担当した2名の生徒が不登校から立ち直ることができました。こうしたことができるのは、少人数であるからだと私は確信しています。今のクラスの規模が、定数法上の標準40人であったら、本当に助けを必要とする、時間とエネルギーのかかる生徒へのきめの細かい支援ができなかったと思います。
私の所属している1学年は、5クラス96名の生徒から構成されており、定期的に生徒情報交換会が行われます。
生徒情報交換会では主に、欠席が多い生徒、学習が困難な生徒、外国につながる生徒のうち支援が必要な生徒、その他家庭等で困難を抱える生徒について担任が中心となって情報を共有します。たった96人にも関わらず、情報交換には1時間以上かかります。これが「実施計画」がめざす1学年9〜10学級以上(1学級は40人)であった場合、どのようになるのか想像もできません。学校規模の過大化が教職員の長時間過密労働を招き、生徒へのサービスの低下、すなわち最も支援を必要としている生徒の切り捨てにつながることは言うまでもありません。
一律に扱うのはやめて
私の母校は地域のいわゆる進学校でした。大学を卒業後、大学への進学を重視する私立の学校と愛知県の進学校の教員として勤務した後、私は翠嵐高校定時制に配属となりました。前任校は40人×9学級の進学校で、両親のそろった、お金持ちではないながら安定した収入のある家庭を持ち、愛情と栄養のたっぷり詰まったお弁当を持参する、いわゆる「普通の子」ばかりの学校でした。担任が40人の生徒の面倒を見ていれば、学年の中で顔の分からない生徒がいても特に問題はないと感じていました。学年の生徒情報交換会も10分程度で終わるものがほとんどでした。そのような学校で私はクラスや学年の規模に疑問を感じたことはありませんでした。しかし、定時制の状況に直面し、私の気持ちは変わりました。教員や知識人など、社会の率いていく人たちの多くはいわゆる「普通の子」出身であり、今の定時制や課題集中校における現状を、知っているようで実は知らないのではないのか。定時制に来て私ははっとさせられました。
人が増えると事務的な作業も増えるのではないか
『県立高校改革基本計画』(2015年1月)の中で、生徒数が少なくなると「生徒数に応じて教員数も減り、その分、教員の校務分担等が増え、学校運営に支障が現れた」という指摘がなされていました。しかしながら私はこれは大きな誤解だと感じています。まず、本校定時制のように学年で96人しかいない学校で仮に1割の生徒が問題行動を起こしてもそれは9人です。これは教員が1人1人きめ細かく指導できる数です。過大校で同様のことが起これば大混乱です。
私が以前勤務した私立の学校は1学年40人×12学級の大きな学校でした。そこの生徒たちは元気があり、勉強する気にさせるのに多くの時間とエネルギーのかかる子たちでした。そこでは、学校運営における少しの計算ミスが大混乱に発展することが多々ありました。例えば、球技大会を行うにしても、その競技が得意な先輩や他クラスの生徒が混ざるという「不正行為」が往々にして起こり得るため、各クラスは事前に選手名簿を提出し、教員が名簿と照らし合わせながらジャージに書かれた生徒の名前を確認し、試合を始めるようになっていました。(それでも他人のジャージを着るなど、抜け道を見つけることはあったようですが)
それに対し、私の現在勤める定時制高校では、教員が生徒のほぼ全員の名前と顔を覚えており、生徒1人1人と各教員との間に信頼関係があります。このため、不正行為をしようとする風潮もまったくなく、運営も楽です。
そして何より「お互いに信頼し合っているよ」という心地の良さが生徒に自信をつけているように感じます。学校の過大化は、生徒教員相互の「顔の見える関係」、すなわちこのような、「村」の牧歌的な空間を破壊するものであり、私は強く反対します。
※『県立高校改革実施計画』に関わって、現場教員から投稿がありましたので、掲載しました。
投稿 入学者を「選抜」してよいのか 岩脇歳文
寄稿 総合的学習の時間「学びの森」 実践報告 岩脇歳文