1999年11月16日
公式の謝罪および被害者への補償と名誉回復が必要
― 「修学旅行直前中止事件」 一応の「解決」でしかない ―
中陣 唯夫(神奈川県立平塚商業高校定時制教諭)
この事件は、別項の「問題点」に指摘したような点を内在しながら、別表の「経過」をたどり、10月28日に県教育委員会が記者会見で発表した濱崎秀昭校長と小池正春教頭の異動(事実上の更迭)で一応の「解決」を見た。 しかし、これは一応の「解決」でしかなく、以下に今後に残された問題と内在する問題点について述べたい。
「更迭」によって、「公式の謝罪」などが免除されるわけではない
まず指摘したいのは、「事件」責任者の濱崎前校長、小池前教頭、斉藤高校教育課長、ならびに白鳥教育部長は、被害者である生徒、現場教職員に公式の謝罪は何一つしていない。学校行事が学校責任者によって破壊されたこと、そして監督官庁がその事実に責めを負うところ不十分であったというのは厳然たる事実である。
濱崎前校長は、生徒のアンケートに出ている中止による損害をどう賠償するのか。小池前教頭は人権侵害で保護者から人権救済の申し立てをされており、斉藤高校教育課長は文教常任委員会で不公正な事実に反した答弁(「意志疎通を怠った教員側に問題があった」)で、現場教職員の名誉を毀損している。さらに、白鳥教育部長は、この答弁を容認しているが、その責任をどうとるつもりか。何も措置されていない。
「更迭」によって「謝罪」は相殺されるものではない。更迭は加害者に対する処分行為であり、謝罪は自己の過失の承認と被害者に対する損害賠償や名誉回復等を含む過失の贖いを前提とする行為である。つまり、一つの「事件」について関連はあるものの、対処するに別個の事柄だからである。
「事件」は県教委の「定時制リストラ・安上がり」政策と通底している
この事件は、特にこの数年にわたる県教育委員会の定時制教育に対する姿勢から出たものとの感が否めない。つまり、「経済効率」本位の姿勢で定時制の「合理化」(リストラ)を図ってきた、その結果の一つということである。
川崎工業高校定時制を廃課程。一方的な定時制高校の「統廃合基準(2年連続入学者15名以下では募集停止)」の設定。それを機械的に適用して小田原城東、小田原城内箱根分校、三崎高校と立て続けの募集停止。
また、昨年は年度途中に、給食補助費がわずか200万円不足したとして、一食につき県負担を19円減額し、生徒負担増の22円を押しつける。さらに今春から、定時制教職員の部活動に関する特勤手当は、請求することが難しい内容のまま実施されている。そして、今回の「事件」。
背後に、「岡崎リストラ県政」の日常的な「指導」
リストラという点から見れば、この件のもう一つの「背景」に、岡崎県政が「財政危機」をテコとして推進してきている「行政システム改革の推進」路線がある。
今年度特に、旅費の節減が現場ではさかんに言われていたが、その最中に、この「事件」が起きたことに注目したい。いみじくも、濱崎前校長が公言したように、彼にとって「こんな時節にこんな人数で修学旅行を実施するのは、県民の常識が許さな」かったのである。
しかし、今回の「事件」が、決して学校責任者2人の識見や適正だけを原因としたものではなく、県当局(行政システム推進本部)が学校責任者や行政職職制に、こうしたことを起こさせかねない強い指導を日常的に行っていることが、この校長の言動からも推察される。
全国水準の下位に属する教育活動予算を「財政危機」をテコにさらに細らせ、教育活動の骨格までも崩しかねない岡崎知事の県政リストラ路線では、こうした「事件」の再発なしとは言い切れないだろう。
「県財政健全化」と管理強化では、こうした「事件」はどの高校でも発生する
加えて、今回の「事件」は、学校責任者2人が専断的という点で「リーダーシップ」を発揮したために起こったものだという点である。それは、地方教育行政法の改悪による「職員会議は校長の補助機関」化や「校長のリーダーシップ」の確立(県教育庁『県立高校改革推進計画案』)を打ち出している県当局の姿勢の反映だという点で重大である。
県当局は、今回「どうして管理職と教職員との間に意思の疎通を欠いたのか」と批判したり、当惑したりしているが、方針としてこの方向を徹底すれば、もっと方々でトラブルが発生するのは明らかで、今回のような「事件」は再発するだろう。
具体的には、学校行事での「日の丸」「君が代」問題(11月5日に県教委は、来年の卒業式で「日の丸」「君が代」を必ず実施するようにという通知を出した)、「高校改革再編計画」(県立高校の統廃合計画)遂行の際を想定すれば十分である。
さらに指摘するなら、岡崎県政のリストラ路線と「職員会議は校長の補助機関」化や「校長のリーダーシップ」等の管理強化路線とが、教育現場でドッキングされればどうなるか。こうした「事件」が、県下公立高校のどこで発生しても不思議ではないという状況になるだろう。
教職員組合は当局から独立し、教育現場の守り手に
最後に、神奈川高教組が教職員組合として、この「事件」の解決にきわめて不十分な対応しかしなかったことを、今後の組合活動の展開を願う立場から指摘しておきたい。
生徒、保護者、教職員組合がいわば三位一体となって営んでいる教育現場を教職員組合がどう守るか、学校教育を特定のものの下に置かないために、教職員組合がどう闘わねばならないかを、この「事件」は深く示唆していると思うからである。
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