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   猫じゃ猫じゃ
 
  (明治21年 梅田磯吉) 「音楽早学び」 による。  

     猫じゃねこじゃと おっしゃますが
     猫が 猫が 足駄はいて 絞りの浴衣で 来るものか 
     オッチョコチョイノチョイ
  オッチョコチョイノチョイ                                    

これは元唄の 「蝶々蜻蛉」 を 「猫」 に置き換えた替唄です。 古茂田信夫は「猫じゃ猫じゃ」の流行を明治2年からと、また大竹紫葉は 「明治年間流行歌」で 明治5年頃として居ます。 大竹は元唄の「蝶蝶蜻蛉」 を文政11年(1828) としていますが、 これは大正3年の藤沢衛彦 「流行唄変遷史」 P249によったものと思われます。 KDLからは 「猫じゃ猫じゃ」として5件、「蝶々とんぼ」 として10件の唄本を見つけました。最も古いものが、明治19年の梶山 直三郎編 「粋客必携音曲集」で楽譜は無く文句のみ、その他はいずれも明治20年代以降のものです。

この 「猫じゃ」 は、ガイスバーグによる明治36年の録音で徳永里朝が 「縁かいな」をひねって 「ニャンかいな」 と唄っているように、客にじゃれつく芸妓に対する当時の蔑称と考えられます。(「縁かいな」「一つとせ」の項参照)
 仮名垣魯文の「安愚楽鍋(明治4−5年)」(1967岩波文庫)では、『芸妓(ねこ)が一枚飛び込むと、、、』(p36)、さらに、『歌妓(ねこ)は箱持(はこや)のしるべにつき、娼妓(きつね)は引き手の家婢にひかれ、、、』 (49P)など、芸者をネコと呼んでいます。またこの解説には、魯文が 『いろは新聞」に「猫々奇聞」、「猫晒落誌(ねこじゃらし)」という欄を設けて芸妓のアラ探しをやったので、文名大いに上がった。』 とあります。
 伊藤整「日本文壇史1」にも、『魯文が明治11年東領国の料理店で珍猫百覧会というのを催した、珍猫は珍妙の作り変え、猫は魯文の戯文の対象だった芸者の別称であり云々、』 とあります。(p145) 
 明治18年、坪内逍遥の「当世書生気質」には、『芸者二個(ふたり)は例の如く、数奇屋町の売出し猫』 とあり、また
 大正18年、泉鏡花(1873−1939)の 「日本橋」にも、『医科大学生理学教室 外科の俊才でいかもの食いの大腕白』 の得意技に、『猫を刻んでおしゃます鍋』 とあって、 この唄の寿命の長さを反映しています。
ではまず元唄を紹介しましょう。  

                 

   蝶々とんぼ  文政11/1828 −大竹紫葉 「明治年間流行歌」による

     蝶々とんぼや きりぎりす
     山で シテコイノ 山で啼くのが 松虫鈴虫轡虫
     
シテコイノ オッチョコチョイノチョイ

     マダマダ オッチョコチョイノチョイ

口から耳へと伝播する俗謡は 出だしの文句で呼ばれることが普通で、この唄も多くの唄本に 「蝶々とんぼ」 と記されています。 歌詞の内容からタイトルをつけるなら 「虫尽くし」 でしょう。 明治のどの唄本にも、アンダーラインした部分に相当する旋律が見当たりません。 −バレ唄としては、よく出来た調子良い合いの手ではないでしょうか。      
 この唄がホントに都会で流行ったとはチョット信じがたかったのですが、KDLからの検索で面白いのが畑違いの、明治25年の小林外吉著「簡易理化独修」という本です。 『蝶々とんぼやきりぎりす山で啼くのは松虫鈴虫轡虫ノ如キハ諸君の極メテ愛玩セラルルモノデゴザリマス然シナガラ、、、』 と、まず歌の文句から入って昆虫採集からテレビン油と樟脳を使った保存法の説明でした。 こうした引用自体、この唄の文句が世間に広く行なわれていたことの証拠といえるでしょう。
 
 藤沢衛彦「流行唄変遷史」は、この唄を 『囃子言葉中心期』 に位置づけており、『文政11年流行−小唄のちまた』からの引用として次の歌詞を載せています。 
(原文では囃子言葉にはすべて傍点がつけてあります。 − ここではアンダーラインとしました。)

蝶々とんぼやきりぎりす 山でしてこいの 山で啼くのが 松虫鈴虫轡虫 
してこいの おっちょこちょいのちょい まだまだおっちょこちょいのちょい 松虫鈴虫轡虫
山でしてこいの お山で啼くのが 松虫鈴虫轡虫
してこいの おっちょこちょいのちょい まだまだおっちょこちょいのちょい 

 
 
 「音楽早学び」 (明治21年 梅田磯吉) の五線譜には、ご覧のように 元唄と替唄 両方の文句が載っています。 
歌詞は、「シテコイノ」が無くて「山で啼くのが」が「山で囀るのが」となっており、節は 「シドミファラシ」の都節です。
 ではこの譜のように三味線入りで、元唄と替唄を続けて唄ってみましょう。     蝶々とんぼ&猫じゃ々
                                                 
 

明治24-25年出版の 四竈訥治 「手風琴独習之友 第三集」 にも、 「てふてふとんぼ」 が手風琴譜で載っています。 これも「ラシシシドシラ ラドシラファ」 と、同じ節です。           
                 
 
次いで明治26年の 池田武次郎 「西洋楽譜流行端唄俗曲集:一名・風琴独習之友」には、次のように五線譜と風琴(アコーデオン)譜の両方が記載されています。 この風琴譜も、五線譜と同じく、「ドレレレミレド ドミレドラード、、」 と読むことが出来ます。 つまり、ここでは 「レミソラドレ」の田舎節になっているわけです。
            
 さらに明治33年の 山田要三 「明笛胡笛月琴」では、次のように明清楽の工尺譜をつかって節は違ってますが 「ドレレレレレド ドドレレドラー」 とやはり田舎節です。
           
  

 
続いて、明治35年の 中川愛氷編 「軽便雑居区独案内」 は風琴譜を使って田舎節、
       明治36年の 岩崎亀次郎 「鉄心琴独まなび」 と、
       明治42年の 津田峰子編 「吹風琴独習」では、いずれも ドレミ=ひふみ=123 の 数字譜を使って、
      どちらも 「ラシシシドシラ」 の都節となっています。
 このように、ある旋律が都節と田舎節の両方で歌われるケースは、明治48年 上原六四郎が 「俗楽旋律考」で、「十日戎」の例を引いて明らかにしたところですネ。 鄙びた田舎節の里謡が都会に流入して、三味線音楽の影響で都節に変わる、というのが分かりやすいパターンですが、茶屋から寄席へさらに花見酒など、その逆もしばしば起きているようです。
なお 明治19年の梶山 直三郎編 「粋客必携音曲集」に載っている 「猫じゃ猫じゃ」 の文句は次のとおりです。   

 猫じゃ猫じゃとおっしやますが 猫が下駄はいて杖突いて 志ぼりの湯布でくるも乃か 
ここで、「猫が」の繰り返しがないのは単なる省略だとしても、その後のフレーズも上記の楽譜にはそのまま当てはめることは出来ません。 文政11年の例とあわせ考えると、元唄はまったく別の旋律で唄われていた可能性も否定できないでしょう。

You Tube に、明治42−43年の片面盤 「猫じゃ猫じゃ」 がありました。 これはレミソラドレの田舎節ですネ。 「THE AMERICAN RECORD 東京 吉原 〆治」 となっており、続いて「梅が枝」も歌っています。
                        聴いてみよう 

 面白いことにKDLの検索から 明治44年 天賞堂 「写声機平円盤美音の栞り」 という 151コマからなるレコード収録曲の歌詞集が現れ、「俗歌雑曲の部」に
上の 「吉原 〆治盤」 の歌詞も載っていました。 昭和初年の本邦レコード会社発足に先立って天賞堂がこれほど多量のレコードを発売していたとすれば、これは正に明治大衆音楽の宝庫といえるでしょう。 その一つ一つは、Youtube を頼りにするしかありませんが、、。     

You Tube にはさらに、越路吹雪「猫じゃ猫じゃ」も、
  
続いて猫じゃ猫じゃ(ボカロでござんす)もありました。 いずれも田舎節ですネ。 というわけでこの唄は明治から平成まで無事に引継がれてきたわけです。 目出度しめでたし!                 
     

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