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ナンシー関 〜そのツッコミ魂忘れまじ〜



<追悼の特集記事など>
 著作権侵害なのは重々分かっていますが…


TVが恐れた「一視聴者」 ナンシー関さんの急逝AERA 2002 6/24 号 人物欄)
 一日おきに締め切りがくるほどの売れっ子。消しゴム版画とテレビ批評という孤高の作風。彼女の言葉を喪って改めてその重みを知る。

「あたしの場合、ちっちゃい頃から自分は規格外という自意識があるから」

 雑誌の対談記事で、ナンシー関さんはかつて、さらりとそう話した。「世界唯一の消しゴム版画家」という肩書も「規格外」ならば、一日18時間見ていた時期もあるというテレビ漬けの生活や、ダイエットという言葉を体全体でせせら笑っているようなその外観も「規格外」。

 何よりも「規格外」だったのは、数々の雑誌に連載していたコラムで、独特の着眼点とロジックにより、容赦なくテレビの中の人物たちの本質をえぐり出す筆の冴(さ)えだろう。その凄さは、仏文学者の中条省平さんが雑誌「論座」の書評欄で、
「このパフォーマンスの平均点の高さ(思想としても文章芸としても)は、掛け値なしに脅威と申すほかない」
と激賞したことや、番組を批判したコラムが当の番組の制作現場によく張り出されていたことからもうかがえる。

 ナンシーさんは6月11日夜、都内で友人と食事をした後、一人で乗ったタクシーの中で倒れた。

医者嫌いと缶ピース

 病院に運ばれたが「虚血性心不全」でそのまま亡くなった。本名関直美(なおみ)。7月7日には40才の誕生日を迎えるはずだった。

 虚血性心不全とは、心臓に血液を供給する冠動脈が詰まり、心臓の組織が壊死(えし)してしまう症状。重傷だと即死するケースもある。

 専門医によると、ナンシーさんの年齢でこの疾患が死因となるケースは非常にまれ。血液中のコレステロール値が高い状態が相当以前から続き、動脈硬化を進んでいた可能性があるという。

 知人らの話によると、ナンシーさんは医者嫌い。缶入りピースを好み、運動もほとんどしなかった。

 以前はドミグラスソースがたっぷりかかった肉料理などが好きだったが、最近は和食中心で、ほとんど自炊していたという。

 ナンシーさんは青森県出身。法政大学に入学後、本格的に消しゴム版画を始めた。

 当時人気があった若者向けの投稿雑誌「ビックリハウス」の元編集長高橋章子さんはアマチュア時代のナンシーさんのことをよく覚えている。売り込みのため編集部を訪れたナンシーさんはクッキーの缶を抱えて高橋さんの横に座っても、何時間も無言のまま。
「差し入れかな」
と高橋さんが思っていると、ナンシーさんはクッキー缶の蓋を不意にパカッと開けた。中には約4センチ角の消しゴム版がびっしり詰まっていたという。

 雑誌「スタジオボイス」に85年ごろから連載したコラム「テレビの泉」がテレビ批評の最初となった。当時連載を一緒に執筆していた作家・押切伸一さんがつくったあおり文句、「どんなクズなプログラム(番組)でも我々は24時間楽しんで見せよう」
 がナンシーさんの姿勢を的確に表現していた。

 やや人見知りする面もあったが、友人は多く、仲間とカラオケボックスで歌い明かすことも多かった。異性関係の話はなかったが、放送作家の町山広美さんと、飲んで路上で大騒ぎした時には、
 「(格闘家の)ヒクソン(・グレーシー)の嫁になりてえ!」
 と絶叫。お互い大笑いしたこともあった。

裏番組の心意気さえも

昨年8月、フジテレビが映画「タイタニック」を放映した際、日本テレビは同じ時間帯に詐欺師が主人公の映画「借王 シャッキング」をぶつけた。これをナンシーさんはコラム上で、「勝ち負けは問わない。そこに戦う意志があっただけで立派」
と称賛。それを目にした番組担当者やその上司は、
「思いを分かってくれた!」と大喜びしたという。

 一視聴者のポジションを貫きつつ、「テレビに隠された禍禍(まがまが)しさや毒々しさ」(押切さん)を抉り続けたナンシーさん。

 その不在感、喪失感を私たちが本当に感じるのは「あの連載」が載っていない雑誌を手にとってからのことだろう。(編集部 太田啓之)

(この他に大山倍達や仏像の本を抱えたナンシー関さんの写真(撮影:戸澤裕司)があり、以下のコメントが付記されていた。
 「ワイドショーからコメンテーターとしての出演依頼も多かった。しかし、本人は全て断っていたという」)

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追悼 ナンシー関享年39の「天才」 〜不世出の観察眼が綴った連載10年〜(週間朝日 2002年6月28日号)


いったい今週は誰を描くつもりだったのだろうか。やはりW杯絡みでヒデか。いよいよ土俵際に追い込まれた感のあるムネオか。あと、突然NHKを辞めたクボジュンというのは、どうだろう。アリだな。危なかったなクボジュン。まあだれでもいいわけだが、もっと読みたかったな、私は。


 ナンシー関こと関直美さんが消しゴムを彫り始めたのは、青森市での高校時代のことらしい。家族が振り返る。
「当時は、似顔絵ではなく文字でした。世良公則とツイストとか、ゴダイゴとか、はやっていたバンドのロゴマークを彫ってハンコにしていました。出来がよくて、クラスじゅうから注文が殺到しました」
 絵を描いたり、文章を書いたり、ということが特に好きというわけでもなく、消しゴム版画を職業に、という発想はみじんもなかったようだ。家族が続ける。
「本人は言ってました。こんな仕事が長く続くわけがないって。青森生まれであるのと、視力がよくないから消しゴムにすごく近づいて彫る姿から、棟方志功を連想させるなどという人もありましたが、まったく意識していなかったと思います」
 だが、本人の意識を超えて、その才能は進学で上京してから、高く評価されることになった。法政大学在学中、作品がコラムニストのえのきどいちろう氏を介して、人気雑誌「ホットドッグプレス」の編集者をしていた作家のいとうせいこう氏の目に留まると、ただちにデビューが決まった。以下は、いとう氏の寄稿である。
「ナンシーと出会ったのは今から17、8年前のことだった。えのきどいちろうに”面白い人がいる”と言われ、池袋の喫茶店で本人から消しゴムを見せてもらったのだ。
 
 当時ナンシーはまだ大学生だったか、卒業したてではなかったかと思う。ともかく、僕はいちもにもなく担当ページでの仕事を依頼した。形式も題材も独特だったからだ。
 じき、同じページで彼女は文章を書くことにもなった。二百字詰めの原稿用紙にぎっしりと書きつけられた、癖のある繊細な文字は忘れない。
 彼女は行替えを嫌った。というか、書く以上は不用意にマス目を空けたくないという意志があったのだと思う。
 短い字数の中で濃厚に書く。普通いい加減に書き飛ばすようなテーマでも、粘り強く考えて事の最深部に至る。才に溺れず、生真面目に笑わせる。
 ナンシーは最初から構えが出来ていた。その構えのまま”現在の最深部”を探り当て続けた。本当の凄腕だった」
 この原稿を書き終えて、いとう氏は、
「少しだけ現実感が出てきた」と、訃報に触れてから初めて泣いたという。
 ナンシー関という名前をつけたのも、いとう氏だった。
「なんかさ、そういうほうが、ぽいじゃん」
 という説明を受けたと、後にナンシーさん自身は回想した。ちなみに初仕事の絵柄は、ハナ肇だったそうだ。
 仕事はどんどん増えていった。93年1月からは、本紙の連載「小耳にはさもう」が始まった。当時の担当副編集長は、こう言う。
「松尾貴史さんの連載が92年いっぱいで終わることになって、後任に誰か面白い人がいないかと松尾さんに話したら、ナンシーさんを推薦された。ブラック・アングルの山藤章二さんも、あの絵はいい、と言ってくれたので、私が依頼に行きました」
 待ち合わせたのは、東京・荻窪のファミリーレストラン。連載の具体的な内容は固めていなかったが、自転車をこいで現れたナンシーさんは、企画のコンセプトからタイトルまでテキパキ固めていってくれたそうだ。
「ほんわかした話しぶりで、素朴な感じで。だから実際の原稿を見たときは、びっくりした」
 第1回の題材は、当時の貴花田光司。小耳にはさんだ一言は、
「どけ!なに考えているんだおまえら」
だった。まあ、確かに、ほんわかとはしていない。
 その年の10月には、二つ目の週刊誌連載、週刊文春の「テレビ消灯時間」が始まる。同じ週刊誌ということで気を使ったのだろう、ナンシーさんは事前に担当編集者に相談してくれた。対して本誌の回答はどうだったか。当時の編集長が明かす。
「そらいいけどな、絵は、うちより小さくしてくれと言うたんや。比べると分かる。今でもうちの方が大きい」
 秘話であろう。絵の大小が実際にどれほどの意味を持つかは別にして、大丈夫なのか、週間朝日。こう突っ込まれても文句は言えなかったわけだが、温厚なナンシーさんは、そのとおり約束を守ってカッターナイフで消しゴムを彫り続けた。
 その後の活躍ぶりは、ご承知のとおりである。貴花田で始まり辻人生で終わった「小耳にはさもう」は、足かけ10年、462回の長期連載となった。
 担当した歴代編集者のひとりは、ナンシーさんを「プロ中のプロ」と畏怖した。
「テーマは必ず自分で決めた。本当の締め切りが何曜日の何時なのかというのを見抜いていて、そのうえでギリギリ間に合わせる。手書き原稿をファックスでもらっていたころは、降版1時間前まで原稿が来なかったり、枚数で10枚ほどの量のものが5枚目くらいでピタッと止まったり、胃に穴があくかと思った。それでも落としたことは一度もないし、質もまったく落ちなかった」
 最後に現在の編集者とナンシーさんが締め切り間際に交わした会話も、
「すいません。もうちょっと……」
 というものだったという。
 対談などで接する機会があった山藤章二さんは、こう評価する。
「並の眼力じゃない。同じようにテレビを見ていて我々は見過ごしたり鼻先でせせら笑ってすませたりするようなところを、彼女は見逃さない。独特の皮膚感覚と美学に引っかかったところを、説得力のある論理できちっと固めて行く。人間観察がしっかりしていて、独立した読み物になっている。いい加減な文章って全くなかった」
 10年来のつきあいというイラストレーターのしりあがり寿さんは、こう話した。
「根底に対象への愛情も感じた。消しゴムにスターやアイドルを彫るというのは、ある意味で身近で俗なことなんだけれども、それをあれだけのものにしてスタイルを確立したというのはすごい。四角の枠の中にモノクロで人物を描くというスタイルを続けてきたのは、すごくストイックでもあったと思う」
 民俗学者の大月隆寛氏は、ナンシーさんを失ったのは、「思想的事件」といえるほど大きいと嘆いて、こう続けた。
 「単なる『辛口コラムニスト』とか『ユニークなエッセイスト』じゃなかった。80年代の価値相対主義思想の最も良質な部分が死んだ、と私はあえて言ってます。誰もが心の中にナンシーをひとりずつ置いておけば、うっかり舞い上がったり勘違いしたり、自分の足場を見失ってジタバタすることも少なくなると思う。テレビネタばかりが目立ってましたが、ものを見る力は現実に対しても十分応用がきくものだった。まさしく『民俗学者』の目と視点をもった知性だったと思っています」

テレビつけっ放し 常にVTR待機

 連載した雑誌は、10誌を超える。朝は8時ごろ起きて午前1時ごろに就寝。一人暮しの自宅マンションには、4、5台のビデオデッキを備え、テレビをウオッチし続けた。番組ごとのデッキで録画していたようだ。テレビは、いつもつけっぱなし。版画を彫りながら、なにか小耳にはさむと見入るという感じだった。
 亡くなったのは6月12日未明。ナンシーさんは前の晩、友人と食事したあと、帰りのタクシーの中で意識を失った。虚血性心不全だった。知人によると、このところ飲みにいく回数も増えていたという。お気に入りのスポットは東京・中目黒で、毎週のように顔を出していた飲食店「ビッグママ」の店主、その名もビッグママは言う。
「いつもカウンターの隅で静かに笑っていた。シャイでかわいい女性です。会話の中で、時折ぼそっと『それって、どうなの』と、あの文章そのままの雰囲気で言っていたのがおかしかった。飲んでいたのは『百年の孤独』という焼酎。強くて、乱れたところは見たことがない」
 常連客が付け加えた。
「カラオケ好き。ザ・ピーナッツから最近のものまで何でもこなした。それが、みんな、うまい。学生時代はバンドでベースを弾いていたこともあって、聴くのはジャニス・ジョプリンなども好きだと言ってました」
 十八番は矢沢永吉。2、3時間歌うのはザラ。夜10時から朝5時まで歌い続けたこともあった。声量があった。
 年に数回の本誌編集者との会合でもシメはカラオケというのが決まり。5月下旬、単行本の打ち上げの会で彼女が最後に歌ったのは、北原ミレイの「石狩挽歌」だった。
 ナンシーさんがビッグママを最後に訪れたのは、6日のことだった。
「今は締め切りに追われているけれど、旅行がしたいなんて言っていた。2泊3日くらいならなんとかなるんじゃないか、一緒に香港においしいものでも食べに行こうと。インターネットのオークションで、ナンシーの原画のハンコに13万円の値がついていたなんて話も出て、ドンドン彫れ、それで海外行けるぞ、なんて話していたのに」
 ナンシーさんが亡くなった日の晩、ビッグママはナンシーさんの指定席に、一輪挿しと百年の孤独のオンザロックを置いて、ほかのだれにも座らせなかった。

(本誌・小林伸行、高橋伸児)


追悼企画として、これまでの連載のなかから珠玉の「ベスト10」を、次号から連載します。(との予告が最後にありました)

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知られざる時代 ナンシーさんがブロスにいた頃 (TV Bros7/6→7/19号)

(文章以外に、ナンシーさんのプロフィールと写真(笑顔全開の)、背景に消しゴム版画のすかしなどがありますが省略します、というかアップが無理なだけ)

6月12日、虚血性心不全のため39歳の若さで突然亡くなったナンシー関さん。誰もがそのあまりに早すぎる死にショックを受けました。
編集部内でも衝撃は大きく、また読者からもナンシーさんの死を悲しむ声が多く、ブロスでは急遽、追悼特集を組むことにしました。


これから何を楽しみにすればいいの!?

★ナンシー関さんが亡くなって大ショックです。新刊が出れば必ず買い、いろんな週刊誌の連載なんかはしょっちゅう立ち読みしていたのに……。ワールドカップに全く興味のなかった私は、ナンシーさんの”ワールドカップがらみの芸能人ネタ”がこの時期唯一の楽しみでした。それなのに……。ただひたすらショックです。もうあの文章が読めないなんてまだ信じられないけど、ご冥福をお祈りします。
(大阪府守口市・消しゴム版画も好きだった)

――同様多数です。というか、私もショックだよ……。(鹿)
――知らない読者がほとんどだと思いますが、実はナンシーさんはその昔、ブロスで書いてくださっていたレギュラーのおひとりだったのです。そこで今回はこんなかたちで追悼特集を。(尾)

 ブロスが創刊されたのは1987年。ナンシー関さんは、創刊当初から、1989年までの約3年間、ブロスに関わっていました’87年7月から’89年3月までは『言葉の安楽椅子』というコラムを、その後’89年4月からは押切伸一さんとの対談形式コラム『小耳にはさもう!』を連載していたナンシーさん。実は初代ブロス探偵団のメンバーでもあった(!)というのですから驚きです。『言葉の安楽椅子』はテレビの中の芸能人の発言をとりあげ、その発言を批評する、といったもの。その第1回目、最初に紹介されたのは”お嬢”こと美空ひばりのこの発言でした。

●美空ひばり「みなさぁんこんにちわ、美空ひばりです。(中略)あわてないあわてない。ひと休みひと休み」<5月28日 美空ひばり病床からのメッセージより>
 この言葉をメッセージとして送ることができるのは、日本でも美空ひばりだけであろう。何故なら他人が言った場合、冒頭のセリフは「ひばりのものまね」、後半は「一休さんのものまね」としかとられないからだ。さすがお嬢、といえよう。
(’87年7月4日号)

 ナンシーさんはのちに、美空ひばりの「とにかくツブシがききませんので、他になにかやる?って訊かれても、私にはわからないんです」という発言に対してこうも語っています。

 お嬢が死んだとき、6月24日未明であるが、私(ナンシー関)はバンド練習のためスタジオにいた。ドラムが欠席したため、きわめてパンチに欠けた状態で、「夜空の星」とか「いとしのマックス」などを演奏していた。知らなかったとはいえ道楽にうつつを抜かしていたとは申し訳ない限りだ。大スターと呼ばれる人が亡くなった時の悼み方として、「天才、大スターと呼ばれていても、私生活に戻れば普通の人だった」という方法がある。でも美空ひばりにその方法を使うのは間違いだし、また、事実そうではなかったと思う。「ツブシがきかない」そりゃそうである。美空ひばりが何をやっても「そんなのはどうでもいいから何か一曲歌ってくれないかなあ」って事だ。本当に、心から、ご冥福を祈る。ああ、私はちょっとおセンチだ。合掌。
(’89年7月15日号)

これらの文面からは、”辛口批評””毒舌”などといわれたナンシーさんの別の面もみることができます。
 しかしもちろん辛口で面白い批評は当時から健在。

●森光子「いかりや長介さんは内気でいらっしゃいますか?」<7月13日 『3時のあなた』5000回突破記念特別番組にて>
 スイッチを入れた途端飛びこんできた言葉。どんないきさつがあったのかは分からないが、インパクトのある質問だ。かつての俗悪番組主某者はから大河ドラマ役者へ転身したチョーさんは「はい」と答えていた。
(’87年8月1日号)
●石原裕次郎「裕次郎 股下82cmありがとう」<8月21日 石原裕次郎本葬会場のファンからのメッセージボードより>
 この人は、最後のお別れに、とにかくこう裕ちゃんに伝えたかったのだ。「裕ちゃん青春をありがとう」「思い出をありがとう」よりも、何か裕ちゃんに対する思い入れの強固さ、刑事ドラマでファンになった若者と一線を画す筋金のようなものを感じた。
(’87年8月29日号)
●長嶋茂雄「チャンスとタイミングのバランスがとれればまたひとつカンバック」<1月19日 野球殿堂入りの記者会見にて>
 この短いフレーズの中に外来語が4つ。平仮名より片仮名のほうが多い。また、その4つの英語が簡単。長嶋は英語を多用するが、使う中で最も難しいのはコンセントレーションだろう。でも「んー、コンセントレーションいわゆるひとつの集中力ですか」と訳してくれる。この親切も人気の秘密だ。
(’88年2月10日号)
●丹波哲郎「このたび光り輝くような霊界の映画を作りました」<11月中旬 映画『大霊界」』公開に先立ってのCMスポットにて>
 丹波先生には実体として見えている霊界。見たものを第三者にわかり易く伝えようとして具体例を挙げれば挙げる程、うさん臭さが増す。「死んだら霊界でまず文字を習う」たしかに唐突である。そんなバかな、ってカンジ。
(’88年11月26日号)

 と、このように大物タレントにも容赦ない批評がされています。また、今も世間をにぎわせている(いた)タレントにも当時から注目。

●田代まさし「これからも一生懸命頑張ってですね、バラエティを極めていきたいと思います」<6月23日 フジテレビ「ものまね王座決定戦」優勝者コメントにて>
 第19回大会準優勝者栗田貫一の「今までものまねをやってきて本当によかったです」発言に触発されてのコメントか?ものまねにペーソスは必要か?その時ハゲヅラ、つけ鼻で刑事コジャックの扮装のままであったのが救いだったのか。
(’87年7月18日号)
●羽賀研二「難しかったですけど、いろいろと教えていただきました。ネ」<12月19日 日本テレビ『ザ・びっくり地球人!』にて。番組でペアを組んだ星由里子についてのコメント>
 この羽賀研二だけはなあ。前からずっとどうしようかと思ってたんだ私は。羽賀クンさ、平気でシャツの第3ボタンまで外すんだよ。それでゴールドのチェーン2本。それに、何だかわかんないけどいつも猫撫で声でしゃべってんの。やわらかい言葉遣いで。狙いは何なんだろう。マダムキラーってやつかな。
(’88年1月9日号)

 ほかにも、芸能人の(本人は意図していない)オモシロ発言、とんちんかん発言に対して容赦なく突込みが入っています。

●横山やすし「えらいすんまへん。わし今酔うてます。」<10月22日 TBS「新伍のお待ちどおさま」にて>
 笑った。出てきた瞬間から千鳥足。しかし冒頭、カメラ・客席に向かってこう頭を下げられると仕方ない。この言葉に続けて「しかし、絶対勝ちます」番組中ごろ唐突に「絶対勝つで」後半に「芸人に常識を求めるな」。終わりに「今日はすんまへん」。番組45分中、本当にこれだけしか喋らず、正味の話。
(’87年11月7日号)
●和田勉「駄じゃれというのは教養がないと出ないんですよ」<1月30日「おしゃべりな夜」(テレビ東京)にて>
 そうだったのか。それでだったのか。ということは、教養を誇示しているということか。私なら「無教養な人」と呼ばれるのと「駄じゃれを言えるほど教養のある人」と呼ばれるのとどっちを取るかといわれれば前者を取るぞ。でも駄じゃれに教養は邪魔になるだけだと思うけどな、ホントは。
(’88年2月20日号)
●寺嶋純子(現・富司純子)「やだわー、私さいごまでトチッてるのねえ」<4月1日 「3時のあなた最終回」(フジ)にて>
 この数日前に伝説の「不幸のズンドコ」発言を事実として認めた寺嶋。全てをハッキリさせて終わるのはいい事だ。スタッフ側が泣かせるために懐かしい人を次々と登場させたのだが、当人は「んまー!きゃあー!」とどんどん躁状態へ。やはりただ者ではない。
(’88年4月16日号)
●森進一「せこせこしないで、ぼおっと育ってほしいですね」<5月17日 民法各局ワイドショーにて報道。長男貴寛君のお宮参りを終えてのレポーターとの会見で>
 このせりふの聞きどころは「ぼおっ」というところ。日本で一番ぼおっとした感じにこれを発言できるのが森進一だろう。あの声で「ぼおっ」と言われると本当にぼおっとしてくる。しかし真面目なところ「ぼおっと育って欲しい」というのは今までにない育児方針だ。ぼおっと育てるブームがくるかも。
(’88年5月28日号)
●矢追純一「このまま、ホントにUFOが出て来れたらいいなあ」<6月8日 「11PM」(日本テレビ)にて>
 少年の瞳を持った男である。UFOに心を奪われたのだ。彼が、人に何と言われようとUFOを追い続けるのは、奪われてポッカリあいた心のすき間を埋めるためなのかもしれない。自分の心を奪ったUFOに巡り合うその日まで。
(’88年6月25日号)

「言葉の安楽椅子」終了後、始まったのが「小耳にはさもう!」。これは、基本的には前者と同じスタンスですが、押切伸一さんとの対談形式でした。
 たとえば手塚治虫の番組で、中学2年の時手製の昆虫図鑑を作ったときの「本物そっくりの色を出すために自分の血まで使っています」という手塚治虫発言と、サルバドール・ダリ特集番組のゲストだった楳図かずおの「(ダリを題材にとった作品が)ええ、2つほどあるんです」という発言を受けて、

押切(以下O) 「天才」ってほめるのは陳腐かもしれないけど、もうこれはいくら惜しんでもいいと思う。手塚真が父に捧げた映像作品も良かった。惜しむといえば、色川武大=阿佐田哲也先生。私はあの文章に憧れていました。惜しい!
ナンシー(以下N) また死んだ人ですけど、ダリ。番組で紹介されてた「ダリの男」というのは怖い漫画だった。楳図とダリの合体。考えただけで怖い(笑)。
 でも、何をモチーフにしても怖くなっちゃうのは楳図かずおの才能かも。ちなみにVサイン出して嬉しそうにしてたと思ったら「二本の作品」Vサインってのも変だもんな(笑)。(’89年5月6日号)

 また、発言と全く関係のない話で盛り上がるのも特徴で、

 こんにちわ。グーフィー森 宇宙のも屑計画実行委員のナンシー関です。
 オリも一枚噛んでるぞ。でもだめだナンシー。「いか天グラミー賞」の会場に紛れこんで喜んでるとこテレビに映されてちゃあ(笑)。ちょっとマヌケな人だよそれ。
 だって嬉しかったんだもん。本来の目的はグーフィー森を背後から殴ることだったんだけど、現場に行ったら浮かれて楽しかっただけ。フライングキッズのボーカルの人にサイン貰っちったよ。自画像入り!
 あんたイラレスレイターでしょ。素人に描いてもらってどうすんだ。
 だって欲しかったんだもん。
(’89年4月22日号)

といった会話も楽しめました。
「小耳にはさもう!」最終回の見出しは、「最終回。我々は去る。お疲れさまでしたあ」というもの(’89年11月18日号)。
「我々は新天地を求めてさすらおう。『TVブロス』という東ドイツ(Cコピーライトえのきど氏)を後にするのさ!」という押切氏とナンシーさんの
「我々は一足先に西ドイツで待っている!」
 という言葉で、連載は幕を閉じています。当時何かがあった(文中は傍点)ことを感じさせる文面です。
 同じく当時ブロスで連載されていた高橋洋二さんの『10点さしあげる』が単行本化されたとき、その巻末で高橋さんとナンシーさんが対談されていて、ブロスについての言及があります。

 「ブロス」って私も含めて、いろんな人が書いて、いろんな人がやめてった雑誌だよねえ……なんか阪神みたいな雑誌(笑)。
高橋 「TVブロス」は阪神(爆笑)。じゃあ、俺は真弓か。あ、創刊号からのメンバーだからちょっと違うか、岡田かなぁ(笑)。
 私は誰?田淵(笑)?
高橋 江夏だね(笑)。
 でも正直に言って、当時の「ブロス」の方向性っていうのは、編集者が決めてたっていうよりは、高橋さんとか私とか、書いてる人間の原稿のカラーが決めてたんだと思う。
高橋 その中でも俺のが9年間も続いたっていうのは、これといった欠点がなかったからなんだろうね……阪神だし(笑)。(『10点さしあげる』(大栄出版)より)

 何があったのか、すでに10年以上の歳月を経た今となってはわかりません。ただナンシーさんと当時のブロスとの決別が円満なものでなかったことは確かなようです。
 以前ダウンタウンの松本人志さんが「今、お笑いの批評をちゃんとできるのナンシー関とみうらじゅんだけ」と言ったことがありますが、実際彼女の後を継げるような人はいないでしょう。ずいぶんつまんなくなるなぁ…というのが正直な気持ちです。
 現在のブロス編集部には、当時の編集者は誰も残っていません。伝説的存在となったナンシーさんへの感謝とリスペクトの思いだけが残っています。そして現在の編集者は編集長以下全て、当時ナンシーさんたちが「方向性」を決めてくださったブロスを読み、ブロスが好きで入ってきた連中なのです。ナンシー・チルドレン。たとえ認知してもらえなかったとしても、決別後はまったく愛してもらえなかったとしても、我々はナンシーさんの子です。
 ともあれ、天国のナンシーさんありがとう。我々をつくってくれて。そして今まで本当に楽しませてくれて。ブロスが追悼の言葉を捧げても、あなたは顔をそむけるでしょう。でも捧げずにはいられません。つつしんでご冥福をお祈りいたします。

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ナンシー関追悼特集!噂の真相 2002年8月号)

本誌連載中に突如不慮の死を遂げたナンシー関の傑出した作家性の真実 ●本誌特別取材班


 「ナンシー関が死んだ……」
 その第一報が本誌に飛び込んできたのは、さる6月12日の正午前のことだった。耳を疑うような突然の情報にナンシーの担当編集者は各方面に片っ端から電話をかけて確認を急ぎ、他社からは問い合わせが相次いだ。
 やがて、この情報は事実であることが判明する。担当編集者は愕然としながらも、できる限りの状況を把握するべく、祐天寺にある通いなれたナンシーの自宅へと向かった。
 ドアには、彼女が不在でも編集者が版画を受け取れるようにと設置された、いつものクリップ。一見、ふだんと何一つ変わらない自宅のチャイムを何度か押してみたが、むろん、ナンシーが出てくるはずはなかった。
 その後、徐々に昨晩のナンシーの様子が明らかになっていった。11日の夜、ナンシーは友人の装丁家と食事をしていたが、帰宅途中のタクシーの車内で突然気分が悪くなって病院に運ばれ、そのまま亡くなってしまった。死因が分かったのは翌日の夕方のことで、虚血性心不全と判明。まさに急死だった。
 しかし、この突然過ぎる悲報は、一方で、ナンシー関というコラムニストの突出した存在感、その特異性を再認識させてくれたものではなかったか。ナンシーほど、色々な意味で稀有な存在は他にいなかったからだ。

●”ナンシー・コラム”の意義の証明

 それはナンシーの訃報を伝えた翌日の各局ワイドショーの様子からも、はっきりとみてとれた。
 たとえばフジテレビの『とくダネ!』では、ナンシーに4回も取り上げられたという芸能レレポーターの前田忠明が、「参りましたよ。よほど嫌われていたんですかねえ。一方的に書かれて一度会いたいと思っていたんですけど、会ってくれないんですよ〜」とこぼし、また司会の小倉智昭も憮然としながら、「私も一方的に書かれて(事実が)ちょっと違うんでお会いしたいとお願いしたんですけど、会ってくれないんです」。さらに別の番組では、芸能レポーターの石川敏男が「太っていたから」と彼女の体格にまで言及する始末だった。
 この、とても追悼とは思えないようなコメントの数々。死んでもなお、ワイドショー的価値観に混乱を生じさせる――これだけでもナンシー関というコラムニストの個性と存在性がよくわかるだろう。
 だが、ナンシーの特異さは、こういった批評対象にされた連中の反応だけではない。むしろ、彼らが口を揃えて語っている「『会いたい』といっても会ってくれない」というくだり、この部分こそがナンシーたるゆえんだったのではないか。ナンシーと親しかったコラムニストがいう。
「物書きというのは、物を書くことに対して潜在的になんらかの見返りを求めていたりするもの。たとえば批評した有名人と会食して仲良くなり、自分も有名人の仲間入り、なんて勘違いする人が多いんですが、ナンシーはそういうことには全く興味がなかった」
 このナンシーのスタンスは、高橋春男と対談した際の、次の発言からも窺える。

高橋 (略)僕の文章ってラブレターなんですよ。
 ナンシー わたしは違う。そうとられるとヤダ。
 高橋 じゃあ単なる仕事ですか。
 ナンシー わたしはその本人にメッセージはないので、文句言われても困るし、変になつかれても困る>(『噂の真相』98年4月号)

 実際、ナンシーのもとには前田忠明や小倉智昭だけではなく、他にもさまざまな芸能人や文化人から会食の誘いや品物が送られてきたりしていたのだが、彼女が「対象」との距離感を見失うことはなかった。
 評論家の坪内祐三もこう語る。
「ナンシーの文章は『嘲笑的』などといわれたりしますが、実は、凄く純粋なものだと思う。たしかに物書きには何かしらの嫉妬やひがみもあったりする。そういった気持ちがある分、そのような対象に対し、普通は避けたりするのだけれど、ナンシーは意識さえしていなかった。それが凄い。利権とか嫉妬とかに無縁な、例外的にフェアな書き手だった」
 しかも特筆すべきなのは、彼女が「生涯コラムニスト」だったという点だ。
 出版業界では、女性コラムニストやエッセイストがある時期から作家へと転身していくケースが非常に多い。つまり「自分語り※1」をはじめたがるのである。
「たしかに多くのコラムニストは、ある時期から物語に移行していきますね。『ライター双六』と揶揄されるように、作家や先生という肩書きになることがライターの『上がり』というヤツです。しかし裏を返せば、コラムニストにとって『自分語り』はある意味で逃げでもある。というのも、コラムというのは一過性のさまざまな現象について語る仕事だけに、4年5年と書き続けるのはかなりきついし、消耗もする。だから自分を語ることに逃避する」(前出・コラムニスト)
 ところがそんな中で、ナンシーはその片鱗すら見せなかった。というより、そんなこと自体に興味も持っていなかったのだ。
 そう考えると、ナンシーの死はある種の必然だったのだろうか。何しろ彼女は、長年書き続けるのは至難の技といわれるそのコラムを10年以上も、それも何ら鋭利さを失うことなく書き続けてきたからである。やはり非常に希有な才能だったというほかはない。

●素顔のナンシー関とは

しかし実をいうと、素顔のナンシーはそれほど強面だったわけではない。いや、むしろその内面は、あの鋭いツッコミや「規格外」の体形といったイメージとは対照的ですらあったといえる。
 ナンシーとは対談をはじめ、一緒にカラオケにも行ったことのある高橋春男が語る。
「ナンシーさんには歌でも力でも体重でも、全てにおいて負けた(笑)。ナンシーさんと死はどうしても結びつかないね。でも、本人は文章ほど辛口じゃなかった。けっこう気の弱いところもあったんじゃないかな」
 そういうナンシーの内面は、今から12年前に本誌で連載を始めた経緯を振り返ってもよく分かる。
 ナンシーの連載がはじまったのは90年5月号、消しゴム版画もないまだ小さなテレビコラム欄でのことだったが、実はそれより4ヶ月前の90年1月号で、よりによって本誌はこんな一行情報を掲載していたのだ。
「消しゴム版画家ナンシー関が師匠でもあるえのきどいちろうに片想い説」
 そのうえ、この一行にナンシーが激怒しているとの情報を得ていたにもかかわらず、ノーテンキな本誌は何事もなかったかのようにナンシーに連載執筆を依頼。案の定、電話に出たナンシーから「あの一行は大ウソ。ネタ元は誰なんだ!」と詰問されたのだが、どういうわけか連載そのものはあっさりと引き受けてくれた経緯があったのだ。
 ナンシーはその理由を、90年5月号の記念すべきれ連載初回でこう書いている。
<「噂の真相」を潰してやろうにもアグネス・チャンみたいに怪しい旦那がいる訳でもなし、気は弱いしで泣き寝入りかと思ったところにこの依頼。内側に入りこむのもテであろう>
 その後、本誌でのナンシーの連載は、92年1月号から1ページ消しゴム版画入りの「迷宮の花園」、93年4月号からは「顔面至上主義」と形やタイトルを変えていくが、この初回くらいナンシーの内面が現れた文章も他になかったのではないか。
 本誌の担当編集者も「素」のナンシーについてこう証言する。
「ふつう、原稿の遅い作家やライターは、催促の電話をすると『もう少し』とか『明日には必ず』とその場しのぎの言い訳をするものですが、彼女はまったく違っていた。ナンシーさんの場合、電話すると『今から友達とご飯を食べに行くので』とか具体的なスケジュールまで教えてくれる。それはたんに正直だからというより、あまりに気が小さいためにごまかすことができないようだった。ウソをつくことができない性格だったんでしょう。だから、原稿はどんなに遅れても落としたことは一度もなかった」
 もちろん、ふだんのナンシーがただ気が小さいだけだったわけではない。他にも実は料理や裁縫が好きだったという、あの文体からは想像もつかない「らしくない」話がまだあるのだが、担当編集者に強く印象に残っているのはメディアに対する「違和感」だったという。それはたとえば、こんなふうに。
「週刊誌の担当者には、コラムで取り上げる人選についてまったくなんの打ち合わせもしない人もいる。ただ催促してくるだけ。イラストの引き取りも毎週決まった時間にバイク便が来るという感じで、そういう人とは誘われても食事はしたくない」
「版画のために、ある担当がいつも資料を送ってくるんだけど、その資料が使えないものばかり。すごい昔のとか、すごく大きいのとか。いいのか、それで」
「某誌の担当がとんでもない奴で、ある時版画のスキャンがうまくいかなかったらしく、勝手に書き足していてすごい驚いた。どうみてもわたしの彫ったものではない。(版画横の)コピーも勝手に書き直してた。常識以前の問題」……
 そして彼女のツッコミは、『噂の真相」』に対しても頻繁に入れられた。
 今年3月、本誌に対する刑事裁判の判決がおりた時には、担当編集者に対して、本誌の岡留編集長にこんな「正論」を語っていたという。
「岡留さんは逮捕歴、前科がまったくないらしいけど、(『噂真』なんだから)一回ぐらい中に入らないとだめだよ。一度入ってくればいいのに」
 実際、ナンシーの「違和感」は、何もテレビの中だけに向けられていたわけではない。大月隆寛がナンシーの死を「思想的事件」と語っていたように、たとえば社会的事件が起きた時、誰も言おうとしない「正論」をきちんと表明していたのも、ナンシーというコラムニストだったのである。それはオウム真理教事件の際に、警察の違法捜査を全面肯定したほかでもない大月隆寛に対し、すぐさま、「結果オーライにならなかったらどうすんすか※2」とツッコミを入れていたことでも明らかだろう。そういう意味では、彼女の死はやはり思想的損失でもあったのかもしれない。

●ナンシーなきテレビ業界

 それを証明するかのようだったのが、さる6月15日と翌16日、ナンシーの故郷である青森市の常光寺で執り行われた通夜と告別式であった。
 まず、目を引いたのが弔花の多さだ。ざっと見渡しても、黒柳徹子に林真理子、ビートたけしに坂本龍一、宮部みゆき、山田美保子……※3。数え切れないほどの弔花が寺の入り口を埋めつくし、通夜では会場に入りきらない弔問客が別室のテレビモニターでその様子を見守らなければならなかったほど。
 本誌の担当編集者がいう。
「告別式でも、『週刊朝日』編集長や『CREA』編集長の弔辞に続き、各大手出版社社長、テレビ東京社長、田中康夫など、錚々たる面々の弔電が、100通以上読み上げられていました。他にも私が確認したかぎりでいうと、ナンシーさんの名付け親でもあるいとうせいこう、もっとも仲の良かった町山広美をはじめ、えのきどいちろう、ナンシーさんが大好きだったムーンライダーズの鈴木慶一、毎月『CREA』で対談していたリリー・フランキー……。さらに安斎肇※4や山田五郎、ウッディ川勝などが東京から駆けつけていましたね」
 それにしても、ナンシーが死んでしまった現在、これからのテレビ業界はどうなってしまうのか――。
 ナンシーが消しゴム版画を彫りはじめたのは高校生の頃で、法政大学在学中にえのきどいちろうを介していとうせいこうに見出されると、以来、ずっと第一線のコラムニストとして活躍してきた。
「ナンシー以前、女性でテレビ批評をしていたのは森茉莉※5くらいで、あとは放送評論家などが批評を書いていたくらい。しかもナンシーが確立したのは、細部に対して違和感というツッコミを入れつつロジカルに批評する、という従来とはまったく別物のテレビ批評だった。彼女の死は今後テレビ業界にボディブローのように影響を与えると思う」(放送作家)
 いや、テレビだけではない。前述したように、言論そのものという意味でも――。少なくとも、今後、ナンシーのようなコラムニストが再び出現するとはとても思えないのである。そのことは高橋春男のこのコメントが象徴している。
「『週刊朝日』の編集長が”第2のナンシー関”を見つけたいとか言っていたけど、編集長はバカですかね(笑)。見つけようとしてもしようがない。不世出の人ですから」
 ちなみに隣に掲載したのは、93年にナンシーが本誌の岡留編集長の顔を彫り、「逆襲批評」した回のもの。執筆者との間にも相互批判と緊張感が必要という本誌編集長の持論と太っ腹の判断で、在りし日のナンシーを偲びここに再録したい。享年39だった。合掌。

<敬称略>

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気が付いたことなどを以下にメモしました。

※1 「自分語り」はナンシー関にとってはたぶん一番恥ずかしい、やっては行けないことだったのではないだろうか。コラムニストが作家などに移行するのが、自分語りだけではないと思うものの、そういった部分は小説などから自ずと現れざるをえない。彼女の「信仰の現場」はテレビ以外を対象とした唯一といっていい本だが、この本もテレビから社会の事物に観察対象が変わっただけで、自分語りは皆無といってよかった。この本のあとがきには続編を強く予見する事が書かれてあったが、ついに出なかったことに。
※2 思想的損失というのがどんなことを表すのか、よくわからない気はするのだが、このさりげないが常識に富んだバランス感覚というはえがたい物だと思う。
※3 このメンバーなんだろう。私生活のことは全然知らないけれど、意外と言うか多方面でばらばら。ビートたけしの最近について結局書かずに終わってしまったナンシーさんだが、花を送ってもらったこと天国で照れていたりするんだろうか。
※4 安斎氏はタモリ倶楽部でこのことを少し話していたようだ(実際には見ていない)。遅刻が常習になっている同番組での安斎氏は葬式にも遅刻してしまったらしい(ネタか)。タモリはわりに淡々と対していたようだ。
※5 森茉莉さん、数多くの小説・エッセイ等を残したひとだが、ある時期「ドッキリチャンネル」というタイトルで雑誌(なんだったかな)にテレビ評を展開していた。中野翠さんが編者となった「ベスト・オブ・ドッキリチャンネル」がちくま文庫で読める。これは読んだのだが(記憶は曖昧だが)、田中邦衛評などもあって、ナンシーさんとなにか相通ずるものを感じたりもした。他に全集も出ているようだ。
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追悼再録 顔面至上主義
 (「ジャーナリスト魂」と書かれた岡留編集長の消しゴム版画があります)

「噂の真相」は匿名座談会が大好きである。先月号でも「人気女性コラムニスト(ネタ)で三人の事情通が座談会をしている。
 どうも、座談会は本当に行われているらしい。それは信じよう。でもそのままテープ起しをしているとは思わないけど、別にそれはどうでもいいのだが、要するに「匿名座談会」で話されたとして掲載された内容は編集部の認識・見解・意見であるとして受け取ってもいいのか、ということである。それほどまで「匿名座談会」が好きな理由を併せておたずねしたい。答えてくれ。
 私など、ま、「噂の真相」的なところから見れば緊張感のカケラもないノンキなノンポリかとは思いますが、でもこうやってページをもらっているということは、どこか認めてくれていたのかと思っていた。が、先月号の匿名座談会を読んでそうではないらしいことがわかった。「独立したパーソナリティのない」「男では恥ずかしかったり風当たりが強くて言えないことを言わせられて重宝がられていた」「根拠のない感情での論理方式で、読者の嫉妬を代弁していただけ」。ついつい引用してしまいました。私は、匿名座談会の内容は、編集部の認識・見解だと思う。文責ってそうゆうことなのではないのか。で、そんな私になぜ書かせるのか。恥ずかしくて言えない藤竜也とか松本伊代の悪口を書かせるためか。それコストパフォーマンス悪くないか。あ、ボケてる場合じゃない。私はちょっとムッとしているのである。そう思われてたのかよ、あーそうかよ、って感じだ。
 それで、ついでと言ってはなんだが、今回は本誌編集長、岡留安則を取り上げてみた。理由は腹いせに彫ってみたかったから。先日ゼネコン疑惑で仙台市長が逮捕されたが、数ヶ月前私は仙台市の広報から依頼されてあの親父の似顔を彫ったのだ。17万円もギャラくれた。縁起悪いぞ私に彫られると。
 岡留編集長であるが、トレードマークを2つも持つ男である。あのナス型のサングラスとショルダーバッグ。今の世の中で、トレードマークは衰退の一途をたどっている。山本監督のアポロキャップ、クリモトのハンチング、水前寺清子のへこ帯など、トレードマークは本人の意志によってどんどん廃止されていっている。かつてはそれぞれ「(ポルノ)映画界」「大学」「演歌界」という閉鎖された世界の中の独特にマヒした美意識でやっていけたものが情報の発達が遮眼帯を取ってしまって気がついてしまった訳である。そんな中ナス型色眼鏡とショルダーをかたくなに持ち続ける男、岡留。これがリュックと傘なんて訳のわからないものならまだしも、幻想の中のジャーナリストの必携二大小道具とは。わかりやすすぎる。岡留編集長は、その裏をかいてあえてアナクロニズムを体現してるのか。それとも単にナス型が好きなのか。これにも答えてくれぃ。



さよならナンシー ナンシー関のCM特選街 追悼版(広告批評 2002年8月号) 
    (さよならナンシーという題字の下にはえへへへと笑ったナンシーさんの横顔が)
(※この追悼記事はナンシーさんの友達(有名人)などのコメントによって成っているので<著名人などのコメント>からのリンクも貼ります)

いつも下版ぎりぎりに入るのが恒例だったナンシーさんの版画原稿をもらったのは6月9日(日曜日)の深夜。時間が時間だから、ドア貼りにしてもらって、先月、編集部はナンシーさんと顔を合わせていない。なにげなくそうした。まさか、その数日後、突然の訃報を聞くことになるなど、誰が考えただろう。ふり返れば、あっという間の8年だった。テレビはあんなに見ていても、コマーシャルはちょっとやりにくそうだった。突っ込みやすい相手は逆にやりにくいんだろうか、などと私たちは思ったりもした。全部で92回。ナンシーさんの友達や読者代表の言葉と一緒に、その「広告批評」に掲載された版画で、ナンシーさんを送ることにした。
(編集部)


   思い出のナンシー先生        安斎 肇

 僕は、ナンシーよりも年上で。九、ちがう。あ、七夕がナンシーの誕生日なので八。ま、何(いず)れにしても年下なので「ナンシー」と、親しみも込めて呼ぶ。が、これがつい気を許すと「ナンシーさん」と、さん付けになっちゃう。呼び名がコロコロするのは格好が悪いので努力してナンシーと呼んでいる。
 初めて、ナンシーと会ったのは。フリーペーパー『ペーパーズ』の製本作業の時で。手弁当の同人誌よろしく、みんなでコピーしてホッチキスして、た。ナンシーは、消しゴム版画したシール紙をカットしては袋詰め。僕らはパートの同僚のような感じで。そう、十数年前。
 その頃、タイトルを作っていたNHKの『ジャスト・ポップ・アップ』で、クリスマス特集のジングルをひとつ頼んだ。NHKにやって来たナンシーは、その場で消しゴムを掘り出し、ビックリ。手の中でクルクルと消しゴムを回しながら、あっという間にできあがり。間近でみた消しゴムの版は、なんとも感動的だった。ペタッと消しゴムを押すシーンを撮影して、ジングルにした。直接的にも間接的にも、多分これがナンシーとのギャラとかのある唯一の仕事だったように思う。
 八年前に。小玉和文.坂本志保と企画した『版画展U』U、ナンシーを誘った。木版の渡り哲也はイカしてた。『V』にも誘ったが、会場にはまた渡り哲也が飾られた。カタログからナンシーのコメントを。「消しゴムは小手先で彫るものであるが、版木は心で彫るものである。知らないけど」。
 打ち上げは楽しい。毎回毎回盛り上った。四年前。むしろ打ち上げたくて、坂本志保と『お面展』を企画した。乃木坂のちっちゃなギャラリーに、ナンシーが持って来たのは”温面(ぬくめん)”。内側にホカロンが入るお面だった。
 今年。朝倉世界一と『春の宿題工作展』を、中学一年生の気分で企画した。講評をいただく先生には、井川遥を希望。ルンルンで待つもスケジュール的NG。急遽、ナンシーに電話。ニガ笑いの中、僕らの先生になって貰った。的確な講評は期待以上のモチのロン。先生としてオープニングの懇親会では、いつもよりキリリと口紅をひき、「家に帰るまでが学校です」と挨拶された。忘れたという揃いの体育帽は、どうなってますか、ナンシー先生。青森には”生徒一同”でお花を送りましたよ。

(イラストレーター)


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   内輪話の否定             いとうせいこう

 私に対するナンシーの口癖のひとつに、「いとうさんは興味ないだろうけどさあ」という話の始め方があった。たいていはワイドショーをにぎわせ始めたキッチュな人物とか、深夜番組に現れた素人まがいのタレントの話で、確かに私にはまるで興味がなかった。
 だが、ナンシーの話は最後まで必ず聞くことが出来た。それは、話が最終的に”ことほど左様に……”という現在の世界への鋭い分析へと至るからであり、その過程や結論には私も興味を持たざるを得なかったからだ。
 テレビ批評のおおかたは、対象の番組を見ていないと成立しない。それは内輪話のレベルで終わってしまう。しかし、彼女のものは違った。「あなたは興味ないだろうけど」という”内輪話の否定”がまず根本姿勢としてあり、それでも読ませるための重い思考が存在していたからである。
 コラムニストには、考えを話す人と、話を考える人の二種類がある。ナンシーは明らかに前者の少数派だった。どのような具体例にも必ず高度な抽象化をほどこし、考えに考え抜いて事態の本質をえぐり出す。それは凡人に出来る行為ではない。
 彼女は唯一無ニの凄い人だった。私はここに至っても、まだ事態を認められていない。

(作家)


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   ああ。                  黒須美彦

 ナンシー関さんとは面識もないのですが、僕が一方的にファンであったというか、諸手をあげて信用させていただいておりました。僕も相当ひねくれているので、あまり人を信用したりしないのですが、ナンシーさん(この呼び方は少し照れくさいです)の文章には、いつも「そうそうそうなんだよ」と膝を打ちすぎて腫れちゃうぐらいの納得共感三昧でした。
 CMのこともあれこれお書きになっていましたが、人のモノが軽妙に手玉に取られているのを笑いながら、自分のはなるべく当たらないように、ファンだし、そおっと隠れてきた気がします。実際にはあまり相手にされなくて、今となっては少し寂しい限りです。
 テレビがおかしくなってだいぶたちます。まあ、もとからおかしいのかもしれないけど、よそのメディアが活発になってからか、ゆがんだ存在主張が激しくなってますよね。芸能活動でも広報活動でも応援活動でも「過剰」&「企み」のオンパレード。そんなテレビを見てると、「なんか好き」もたまにはあるけど、得体の知れない「なんか嫌い」がズズンと蓄積してくる。暇ないし、やり過ごしたいから、いちいち「なぜ嫌いか」「なにが寒いのか」などと分析しないし、結果、ズルズルと悪寒がアトをひく。しまいにはスイッチを消すことも多い。
 これらの症状をスパッと解消してくれるのがナンシー分析でした。襞の裏の裏まで読む圧倒的な専門家でありながら、お茶の間的なニュートラルな目線も忘れない。「膝を打つ」はもちろん「腑に落ちる」「合点が行く」「溜飲が下がる」など共振言葉の連発となるのだ。
 あああ。これから、あの「なんかイヤなんですけど、コイツ」のもどかしさを、誰が解明してくれるんだろう。自分で、やるのか。ホントに残念でしかたないです。お疲れさまでした。ゆっくりお休みください。

(博報堂・クリエティブディレクター)



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   悲しくて悔しい            立田川勝盛(元敷島)

 私が初めてナンシーさんと会ったのは八年前のことでした。
 ある方に学芸大学で今飲んでるから来ない?と誘って頂き、友達と一緒にその場所に向かうと、そこにナンシーさんがいらっしゃいました。
 いらっしゃるということは聞かされていなかったので、かなりびっくりのミーハーになっていました。何を話したかあまり覚えていませんが、その時使っていた鉄扇に八代亜紀のスタンプを押してもらい感激したのを覚えています。
 その後カラオケでナンシーさんの美声も初めて聞き、「上手いなあ」と感動したことを覚えています。
 それから飲み会がある時は誘って頂き、二次会はカラオケにというパターンが出来あがっていきました。ナンシーさんの家でホタテパーティーをしたことも有りました。
 カミさんが洗い物をしていると、クイクイと手招きをして呼びました。
 「これさぁ、練りウニなんだけどさぁ、黄身入れて練るやつなんだよ。御飯にのっけて食べると美味いのよ。少ししか無いんだけどいまこっそり食べる?洗い物してくれて助かったよ」
 と、台所でこっそり食べさせてくれました。
 場所が始まる前に番付というものが発表されます。それを親しい方々に送るのですが、送る封筒にナンシーさんが彫ってくれた自分の顔を押して送っていました。
 最初は「相撲取ってるッス」
 二つ目は、「最近スタンプ壊れてきてるでしょ?新しいのまた作るよ」と作ってくれた「すもう?取るさ」というスタンプ。感激しまくってました。

 最後に会ったのは六月一日。義父の葬儀の時に御花を頂いた方々に御返しの飲み会を開いた時でした。
 中目黒のいつもの店でした。ある番組を録画したビデオテープを持って来ていた方が、それをナンシーさんに渡そうとした時、「敷ちゃんこれ見てよ!あたし一回見たやつなんだけどさぁ、松野の鼻垂らしながらの泣きっぷりが凄いから!見終わってからでいいからさぁ。貸すよコレ。」とビデオを貸してくれました。返せなくなりました。ビデオもまだ見ていません。
 その話を共通の友人に話すと、「その松野の鼻垂らしながらの泣きっぷりのビデオが思い出の品ってさ、ナンシーさん的にはしてやったりぽいよね」と言ってくれました。
 思い返すと楽しいことしか浮かびません。書ききれないです。ホントに優しい人でした。
 自分にとってはホントに優しいとしか言い様が無い人でした。
 悲しくて悔しいんです。ナンシーさんが亡くなってしまって。
 それしか言い様が無いんです。

(日本相撲協会)

(文章の終わりには敷島関の消しゴム版画二点がある。「相撲取ってるッス」「すもう?取るさ」の2つ)



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   ウソをつかない           しりあがり寿

 よくみんなで集まる店がある。中目黒あたりのなんのヘンテツもない居酒屋で、ボクなんかが遅れていくと、人でにぎわう店内を通ってその奥の座敷のそのまた奥の席で笑っているのがナンシー関さんだった。気のおけない仲間に囲まれたコンモリと大きな黒い体、白くてまんまるい顔の中でちっちゃい目が「しかし、あれはないんじゃないか。」などとエッセイそっくりの言い回しで笑っていた。
 ナンシーさんに初めてお会いしたのは、たしか西麻布のエムパイヤ・スネーク・ビルヂングという、いとうせいこうさんの会社で、放送作家の押切伸一さんが「この人、ケシゴムで版画彫ってんですよ。」みたいに紹介してくれたんだと思う。ナンシーさんもボクの弟と広告学校が同級で、「にいちゃん漫画描いてんだ、って言ってた『にいちゃん』てあなたか。」みたいにしてボクを覚えててくれた。その後、その押切さんとの共著の「サラリーマンの魂」とかにイラストををお願いしたり、文庫化の時にはあとがきまで書いてもらった。
 最初に「ケシゴム版画彫ってる」と聞いた時はただ「へ〜、変わったことしてるなあ…」くらいにしか思わなかったのだが、いま思えばケシゴムに「テレビで見る顔」を彫りつけるというやり方は、実になんか「しっくりした表現」だったのかもしれない。版画は版画でも桜や桂の板に彫るには「たかがテレビの顔」だし、「かといってペンや鉛筆で描きとばすには「みんなが知ってる大切な顔」である。
 チープで身近なケシゴムにコツコツと顔を彫りつけるという作業が、彼女のそしていまや大部分の人たちの「テレビ」に対する態度にしっくりするのかもしれない。
 そしてナンシーさんは僕のしるかぎり、ずっと「ケシゴム版画のテレビ評論家」だった。思えばナンシーさんは「動かない人」だった。飲み屋でも一度座ると席(※原文は関、誤植?のよう)を変わらないし、黒い服とロングヘアーというスタイルもずーっと同じだった。なにより「見られる」のではなく「見る立場」から動かなかった。それはきっと「ウソをつかない」ことにこだわっていたからかもしれない。自分が見られてることを意識しだすと、人はついイイコになろうとしたり、対象のタレントに手ゴコロを加えたり、自分の書くものの中に自分の利害がはいりこんでくる。だけどナンシーさんはてってい的に「見る側」「視聴者」の立場であることにこだわり、メディアの内側には入らなかった。
 メディアの内側に入るってことはきっといろんな事情や配慮にからみとられるってことで、テレビで、威勢よく「真実」を語るほどウサンクサイことはない。テレビを通したとたん、「真実」は「真実っぽさ」に変わる。
 だから、みんな、ナンシー関の言葉に耳をかたむけた。テレビの前に座ってメディアの外からメディアの事情を笑うナンシーさんの言葉こそが、普通の人の常識であり、ホンネだったんだろう。
 ナンシーさんが亡くなった夜、病院に集まったのは例の居酒屋に集まる面々だった。ウス暗いロビーのそこかしこにボーゼンと佇む人たちに、お酒を飲んでバカ話をしている、いつもの面影はない。言葉を探しあぐねた沈黙が、がらんとしたフロアを包んでいる。
 同じ顔ぶれがまた同じ居酒屋に集まることもあるだろう。でももう、奥の席にナンシーさんはいない。今まで当然のようにあったナンシーさんの連載ももう読めない。
 人が死ぬと、世界はその人の持っていたものの見方や考え方や言葉を失ってしまう。でも誰かの「しかし、あれはないんじゃないか。」みたいな言葉の中に、「テレビ」や世間のユルさやダメさにあきれつつ、それを受け入れていく、シニカルだけどどこかあたたかい、そんなナンシーさんをボクは感じてしまう。
 ふー、ナンシーさん、ボクもいつかケシゴムで彫ってほしかったな。残念。

(漫画家)


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   ずっと寝ていた人          高橋源一郎

 ナンシー関という人には、一度だけ会ったことがある。「広告批評」の「年間広告ベスト10」の審査会だった。ナンシーさんとわたしは審査員の中の一人だった。審査員が集まると、カーテンが閉められ、暗くなった部屋のテレビに、その一年間に流れた代表的なテレビCMを編集したビデオが流れはじめた。そして、すぐに、ナンシーさんはうとうとしはじめた。それから、時々、ガクッと睡眠に落ちるのである。で、また起きる。それから、うとうと。やがて、ナンシーさんは熟睡したようだった。大きな鼾が聞こえてきた。でも、時々、なにかに気づいたかのように、ナンシーさんは深い眠りの底から一瞬浮かび上がり、それからまた、鼾に戻っていった。二時間ほどのビデオ上映中、一時間半は寝ていたのではないだろうか。ビデオが終わり、部屋が明るくなり、ナンシーさんは目覚めた。審査がはじまった。対象になったCMを全部見ていたのはナンシーさんだけだった。ふだん見ているから、わざわざ審査会で見る必要はなかったのである。審査員にふさわしいのはこの人だけだ、と僕は思ったのだ。

(作家)


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   あわてている             町山広美

 「テレビのことだけじゃないじゃん」。そう言って、ナンシーさんと軽く言い争ったことがある。
 私たち二人の対談をまとめた本が書評の座談会で取り上げられ、翻訳家だか作家だかが「この本はテレビのことしか出てこないから、テレビを見ない僕には全然わからない」というのを読んで、私が腹を立てたのがきっかけだ。でもナンシーさんは「いいよ、本当にテレビのことだけなんだから」と返して、しばらく会話がぶつかった。私が食い下がった、と書いたほうが描写としては正確かもしれない。いろいろな気持ちが混じりあう中には、「テレビのことだけでいい」と言いきるナンシーさんへの不満もあったと記憶する。
 テレビ以外のことについて書いたナンシーさんの文章を、もっと読みたい。芸能人や有名人以外を彫った消しゴム版画が、もっと見たい。文章と消しゴム版画のマッチングは素晴らしいが、他の形式の作品ももっと見たい。勝手な希望は、それがないものねだりとなったいま、ますます膨らむばかりだ。デビューからの数年間は、芸能人やテレビ番組以外についての文章も消しゴム版画も少なくなかった。もし数年後もナンシーさんの活動が続いていたら、またそんな時期が来たかもしれない。その一方で、難しい期待だとも少し思う。
 自分が見たものからしか、書かない、言わない。ナンシーさんはたぶんそう決めていた。例えば、タモリがいい例だ。出身地の青森は民放が2局しかなく教育委員会も厳しかったから、初期のタモリが出演した深夜番組の多くを見ることができなかった。資料をあたって当時を知った気になることも簡単だが、ナンシーさんはそれをしない。昔のタモリは知らない、と決めて、結局押し通した。
 頑固ではない。「煮炊きして食べる野菜は絶対洗わない」という豪快な発言もあったが、自分の振る舞いを決めることが好きだったのだと思う。私が想像するように、そうやって見たものだけを書くと決めていたなら、テレビ以外のことを書いたり彫ったりする機会を増やすのは難しかっただろう。
 だって、テレビが好きだった。断っておくが、テレビに出てくる人間に対しては違う。ナンシーさんは悪口を書きながら実は愛情を持っていた、なんて解説は、口きけぬ者を自己弁護に利用する不遜な輩の戯言でしかない。でもテレビのことは、「これ見たらネタになるなと思っても、見たくない番組は見られない」と言うほど、一視聴者として好きだった。
 ここまで思いめぐらせても、私のないものねだりはおさまらない。ワールドカップに乗じて街で騒ぐ若い連中に、「認められてる」とでも言いたげな厚かましさを感じながら、ふさわしい言葉をつかみあぐねていたとき、ナンシーさんの原稿に「カタギな善行として」という表現を見つけたときの、口惜しさのようなうれしさ。あの気持ちに何度でもなりたかった。いろんなことで圧倒されたかった。
 対談で、私がつまらないことや失礼なことを言ったときには、よく黙り込んだ。怒るのは好きじゃないし得意でもないナンシーさんは、沈黙を頼りにしていたと思う。だから私は、黙られるとあわてた。いまもあわてている。病院で最後に会ってから一ヶ月たった。今度の沈黙には終わりがないともういい加減わかっているはずなのに、私はまだあわてている。

(放送作家)


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   「何っすかねー」            松尾貴史

こんなに知り合いが死んで惜しいと感じたのは松田優作以来か。いや、そんなことを言うとその間に死んだ友人が怒るかも知れないが、言って聞かせる自信があるので気にしない。気がつけば二人とも享年三十九である。本当に惜しい年齢だ。
 かねてから、健康状態に関しては心配していたが、異性としては、体格に起因する助言はし難いものだし、そもそもそれは他人より本人がもっと気にしているだろうから、あえては言わなかった。言えばよかったとは、後の祭だ。
 私は死後の世界を信じてはいないし、彼女もまたそうだったが、こういう悲しみに触れるとき、その存在を想起することは痛みを和らげるのに効果的である。
 彼女はいま、「叶恭子と窪塚洋介のゴージャスお忍び旅行」をどう見ているだろう。フジテレビの27時間テレビでやった石原慎太郎・良純親子の「生ミリオネア」で何を感じたか。韓国戦の審判に対する飯島愛のコメントをどう受け止めているのか。それよりも何よりも、彼女の俎上にあげられて面白くない思いでいた「書かれた者達」による、ナンシー死去に向けて放たれたコメント郡をどう聞いたのか。彼女に見てほしいものはまだまだあったし、これからもどんどん増え続けるだろう。これから、どう感想を言っていいか迷うような事件や騒ぎが起きるたびに、「生きていてくれたらなあ」と思う日々が続くのだろうな。
 以前刊行されたナンシーの著書『信仰の現場』(角川文庫)の解説にも書いたが、私が彼女に親近感が持てるようになったのは、一緒にカラオケボックスで会ったときに、
 「♪貴方に抱かれてワッタシィは蝶ゥオになっるぅーっ♪」
 と軽やかに歌い弾んでいる様を見せつけられたことが、「いつかは斬られるかもしれない」という恐怖心を取り除く薬になったような気がする。気のせいかもしれないが。
 「松尾さんのことは書かないっすよ」
 何度となく、彼女は私にそう言ってくれた。いや、言いやがったのか。友達だから書かないのか。書くような材料やスキが無いからなのか。書くに値しないからか。「なぜ」と聞く勇気を、私は一度もふり絞ることができなかった。霊安室のナンシーは、とても居心地が悪そうで、なぜか、とても小さく感じた。
 枕元にテレビを置いてやりたかった。
 これを読んだらなんと言うだろう。
 「何っすかねー……」
 こんな感じだろうな。取り留めなくてすまん。
 で、さようなら。

(タレント・俳優)


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   ナンシー関という平常心         渡辺 祐

 ナンシーさんに初めて紹介されたのはもう20年近く前。ナンシーさんはまだ「ナンシー関」ではなくて、本名のままの名刺を受け取ったと記憶。作品を見せてもらった若手編集者の私の感想は「素朴だなぁ」といったもっさりした状態。まさかその版画にあんなチカラがあることも、文章が抜群にうまいことも、ちっとも見抜けなかったのだから情けない。当時からナンシーさんを大いに買っていたえのきどいちろう氏やいとうせいこう氏の眼力には本当に感服する。
 以来、ナンシーさんとは、仕事仲間というよりはどちらかと言えば「気の置けない知り合い」といようなところでずっとお付き合い。私は小さいながら事務所の社長なので、彼女からは冗談半分で「シャチョー」と呼ばれたりして、「あいかわらず胡散臭いね」なんて叱られたり、たまに行ったカラオケで「ロンリー・チャップリン」歌ったりしてね。普通でしたね。彼女と一緒に過ごす時間には、ずっと普通の空気が流れている。飲んでバカ話をする。くだらない私のおやじギャグにきっちりダメ出ししながら飲んでいる。揺るがないんですね。飲んでいても、もちろん原稿を書いても、揺るがない。「ナンシー関という平常心」とでも申しますか。その恩恵にこっちはぼ〜っと浸かっていればいいという。
 作品の喪失は、ナンシーさんの原稿と版画を毎週心待ちにしていたファンの皆さんがなにより感じていることでしょう。私にとっては、年に数回の「普通の夜」がひとつ減っちゃった。ありがとね、ナンシー。でもまた会いたいねぇ。普通に飲みたいねぇ。酎ハイとかお作りしますよ、私。

(編集者・パーソナリティ)



(※このあと表になっていた「ナンシー関著作集」は省略します。CM特選街がどの著作に収録されているかなど分かるようになっていました。
また、この連載に使われた消しゴム版画92点全部が追悼記事の上部に載っています。)

  


急逝ナンシー関さん惜しむ声今も (Web東奥 2002年12月27日)


テレビを題材にしたコラムや消しゴム版画が人気を呼んだコラムニストのナンシー関さん(本名・関直美、青森市出身)が急死してから半年。39歳とまだ若い才能が失われたことを惜しむ声は多く、追悼の思いを込めた本も出版された。同市在住の両親も、長女が亡くなったことへの反響の大きさに、あらためて悲しみを深くしている。

ナンシー関さんの近著「何はさ
ておき」の中の、母校堤小PTA
広報誌に寄せた作品のページ

 ナンシーさん追悼のため最近刊行されたコラム集「何はさておき」(世界文化社・一、〇〇〇円)は、一九八九年から二〇〇二年までのテレビ批評、日常コラムと消しゴム版画で構成。青森での青春時代に触れたくだりも多い。

母校の青森市立堤小学校PTA広報紙に寄稿した文章も収録。同小が棟方志功記念館に隣接していたためか、学校で志功のドキュメンタリー映画が上映されたことに触れ「掃除時間にぞうきん掛けをしながら棟方志功の真似(まね)をするのが全校規模で流行(はや)ったのを憶(おぼ)えています。『図工といえば版画』『棟方志功の物まねをする小学生』ということに何の疑問も持っていなかったのですが、高校を出て上京してからそれが普通ではないことに気がつきました」

ナンシーさんが急死した時に
持っていた消しゴム版画の原
版などを前に思い出を語る英
市さん(右)と節さん

ガーデニングに関するコラムでは、明の星高校時代に園芸部員だったことも紹介。「部員ゼロで廃部寸前だったところを友人数人と入部して乗っ取ったのである。『部』を好き勝手にしたかっただけで、園芸じゃなくてもよかった」。それでも「学校の裏からミミズを大量捕獲してきての花壇や畑への移植、炎天下の草むしりなどに青春の汗を流したものである」と記している。

 青森市堤町二丁目でガラス店を営む父・関英市さん(64)と母・節さん(68)は「まだまだこれからだったのに。太く短い人生だったが、本当に親孝行してくれた」と時折涙ぐみながら語る。

 六月に青森市で営まれた葬儀や、七月に友人らが東京で開いた「消しゴム葬」にはタレントら著名人が大勢駆けつけた。

「連載をずっと続けているなあというぐらいにしか思っていなかった。でも亡くなって初めて、これほどみんなに知られ、慕われていたんだと分かった」(英市さん)と、追悼本の出版や各界からの反響の大きさに驚きを隠せない。

 ナンシーさんは、売れっ子になってからも毎年、年末年始には欠かさず帰省し、両親を何度となくプロ野球観戦や旅行に招待してくれた。「正月には決まって茶わん蒸しを作る係だった。いつもの年は二、三日しか過ごさなかったが、この間の正月は一週間ほどゆっくりしていった。いま思えば最後の正月だと感じていたのかも」。節さんはしみじみと振り返る。

 十年と少し前、ナンシーさんは両親に「私、結婚しない。消しゴム版画と結婚するから」と打ち明けたという。英市さんは「飯を食えるなら何でもいい」とうなずいた。

 消しゴム版画と「結婚」したナンシーさん。倒れた時に持っていたバッグには、消しゴム版画の原版が五つ入っていた。両親は、その原版をナンシーさんの形見として大事に持っている。

(文化部・中村規久夫)


<なんしー・せき 本名・関直美(せき・なおみ)。1962(昭和37)年青森市生まれ。同市の堤小、浦町中、明の星高卒。法政大学在学中に消しゴム版画が認められイラストレーターに。雑誌に数多くの消しゴム版画やテレビ批評などのコラムを連載。「テレビ消灯時間」「何様のつもり」など著書多数。2002年6月に都内で急死>













(「2ちゃんねる」にてこの記事があることを発見。「何はさておき」は追悼本という風にあまり思っていなかったが、この記事では「追悼のため最近刊行された」となっている。そういえば、そうだなと感じるのはナンシーさんが死んだ後もあまりにも当たり前に本が出されて行くのに、本人が死んだことを忘れさせるものがあったのだと思った。このタイトル付けのセンスの受け継がれ具合や、他の本も出ている昨今、まだ死んだとは思えないのである。太字は原文のままです。12・28)

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