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鑑賞日記 テレビ雑感


東京フレンドパーク(ゲスト・柳葉敏郎、ピーター) 01/5/8記

うーん、面白くない。少なくとも面白いと正面切って言える人はいないのでは。月曜のこの時間、他になにも見るものがないのを見越しているかのような感じがする。特に見る意識もなく、なんとなくつけておくテレビ画面の象徴のような…。それでいて基本路線は変えずにいつのまにか長寿番組である。トーク番組よりもいいかなあ、タレントの運動するところって意外に見れないからなあ。ぶつぶつと書いてみた。

ところでこの番組は正式名が「関口宏の東京フレンドパーク II」である。いつのまにかUになっているのも知らなかった。 どんな変化から敢えて”U”にしたのだろう。今後はVに移行することはあるのだろうか。としたらどんな変化なのだろう。という疑問も湧いてくるのだが、今日はゲームのルールで分からないことがあった。
中盤ぐらいに、光が移動してきて、光と同時にタイミングよく台の部分に飛んで着地するとクリアーというのがある。説明が下手で申し訳ないけれど、この光の移動速度はパートナーのタレントの活躍度(棒の押し運動)に応じて変化するようになっている。最初は確か超低速、次に中速など5段階ぐらいに変化していく。この押し運動は何もやらなくても特に問題はないように見えるのにほとんどのタレントがなにか頑張って押している。
適当にやっていつも超低速ならそれはそれでいいような気がする。速度に慣れる必要があるのだから、押し運動を下手に頑張っていつも速度が違うのはマヌケのように見える。パートナーの役割を作りたいんだろうけど、それならルーレットで選択のほうが単純明快で良いと思う。
ピーターという人はよく知らないけれど、外見に似合わず古風なところがあって「汽車で本を読む時…」などと言っていたのが印象的。ある一定年齢以上の人はこの言葉をよく使うみたいだが。(長距離の電車・新幹線などに乗るときに使う事が多い)

(追記:番組ホームページより、疑問を感じたゲームの詳細を転載。

フラッシュザウルス
登場回数 28回 / クリア19回 / クリア率67.85%
一人がポンプを押して筒の中のボールを上まであげると、恐竜の口から背中へと光(電流)が流れます。もう一人は恐竜の尻尾にあるジャンプ台で待機し、流れてきた光の上にタイミング良く飛び乗って電流を止められたらOK!ジャンプを失敗するとポンプを押した人の努力がパーになるので、互いの信頼度が試されるゲームです。8回までのチャレンジで3回成功すればクリア。


ポンプでボールをあげるのが速ければ速いほど、光の速度がゆっくりになり止めやすくなります。パートナーのために、必死にポンプを押してあげましょう!

 正しくは光の速度は押せば押すほど、ゆっくりになるということでした。でも、いつも同じ速度で慣れていくのがポイントのような気がするが、いつも必死でポンプを押して速度が違っているように見えるのでマヌケな感じは変わらないと思う。…01/7/8記)



トラフィック(2000米/ヘラルド) 01/5/10記

麻薬問題を主題にした映画である。見終えて思ったのは麻薬をやったことのない僕としては(当たり前か)、麻薬ってそんなにいいものなのかな…だとか麻薬をやめられない感じはどんな風なものなのか…といった基本的疑問である。なにもこの映画を見て、麻薬をやりたくなったなどとは微塵も思わない。むしろ、麻薬を中心にしてこれだけの凄惨な世界が゙存在するのであろうから、撲滅運動は推進して欲しい。
麻薬は酒やタバコなどの公認の嗜好品よりも、はるかに強い快感が゙得られるのだろう。そのあまりの快感ゆえに常に服用することを求めだし、そこから抜け出せなくなる。
どのような快感かというのは実際やってみなければ分からない。が、普通に生きているうちに感じられる快感(または喜びのようなもの)は一瞬で、その時間は長く続かないようにできている。(と思う)麻薬をやっていて自分の正常の意識の中で快感だと感じているのは多分そんなに長くはないのだろう。体が無意識に食べ物を欲するように、本能のある部分に働きかけて、麻薬が必要な体になってしまうというだけのような気がする。体や心を異常な方向に導くものはおそらく本質的な快感とは違うとも思う。
自分には麻薬の知識はほとんどない。一部には中毒にはならないものもあるとか、タバコの方がよほど中毒という点で危険だという意見もある。
とりあえず言えるのは快感は長くは続かないし、そればかりを求めると危険な目に会いますよ、というひとつの道徳を担って麻薬は存在しているような気がする。



コントへのダメだし 01/5/12記

コント1000という番組が深夜にある。1000というのは最終的に1000本のコントを作ろうということらしい。内容は4組の若手芸人がその週のお題に添って、10のネタを披露するものである。10のネタといってもその中でいくつかのよいものしか放送されないので、10のネタがどんなものだったのか具体的には分からない。コントやお笑いを見せる番組はそこそこあるけれど、この番組の特徴を挙げるなら披露されたコントに対しての一家言のある人達によるダメだし(批評という意味だと思いますが)部分を放送し、芸人が緊張感ある中でコントを作っている雰囲気を出しているところにあると思う。
ダメ出しの部分をほとんど受け持っているのは木村祐一。「このオチはわかりやすぎたな。もうちょっとひねった方がええねん思うけど」というあたりから、「あそこはな、最初は客に分からせない方がええと思う。ひっぱってねたをふくらませたほうがええんとちゃうか」といった具体的なところまでいろいろと批評をする。
これを若手芸人達は実に真面目に聞いている。どう感じているのかは、本当のところわからない。「うだうだ言ってないで、てめえが作ってみろ」と思う部分もあるかもしれないし、「その指摘は確かにそうだな、参考にさせてもらいます」というところもあると思う。
お笑いを分析するというのは無粋なことというのがある。絶妙な間で的確な言葉を発した場合の笑いに意味や説明を加えるのは確かに無粋なことであると思う。この番組で木村祐一が言っているのは笑いの分析や説明ではなく、具体的アドバイスといえると思う。であるからいいのだけれども、結果としてお笑い番組として純粋に楽しめるものではなくなっているという気がする。吉本などにあるお笑いの学校での授業を見せられているような気持ちになる。
ダメだし部分も「そんな見方もあるのか」とか「さすがだな、たしかにそうすれば面白くなるかなあ」とか思うところも結構ある。だけれど若手芸人自身の、作ったネタへの考え方やこだわりがほとんど出ないのがどうなのかな、というのは感じる。木村さんの言葉がお笑い界の権力者(といってもいいでしょう)からのご託宣(裸の王様とは違うと思うが)にならない事をちょっと心配する。


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悪口の吹きだまり 01/5/14記

インターネット上で人の悪口を言うのは、または言えてしまうのはネットの匿名性からして当然有りうることだと思う。ヤフーよりも匿名性が強い某掲示板ではこの種のことは頻繁である。そこのテレビ板などを見ていると、話題になっている出演者に対して厳しいのはもちろん、つまらないことをいう投稿者に対しても厳しいのである。
こういう突込みは顔の見える現実社会ではなかなか言えない。変な配慮から普通はちょっとずれたことを誰かが言ったとしても、なかなか上手く反論はできないものだ。会社や学校だったら、その後の人間関係に響くだろうし、思いもよらない復讐が待っているかもしれない。
こういう事を言うと某掲示板を賛美しているみたいだが、この反論があとくされなく出来るというのはネットの素晴らしいところじゃないかと思ったりする。といっても話題にされる番組や出演者にはきつい言葉や幼稚な罵詈雑言があったりして目を背けたくなることはある。
ところで、ある掲示板をを見ていたらひたすら、悪口・陰口だけをいうトピがあった。ほら穴に悪口を言ってとりあえずのカタルシスを得るという感じで、基本的に勝手にそれぞれがすっきりしているのだ。(すっきりしているかは実際分からないが、おそらく)あまり投稿者同士の会話はない。自分としては馴れ合い的な掲示板はあまり馴染めないので、こういう掲示板は見る分にはちょっと楽しい。特に番組公式掲示板の投稿は番組に好意的なものだけを載せたりしていて、あんなもの意味があるのだろうか、という感じだ。
匿名ゆえにできる悪口、そして書いたものは一般に公表され、見知らぬ人から反応があったりする。こういう媒体は今までなかなかなかったのではないか。インターネットの1つの良さなのかどうなのかは、まだ分からないが。



タモリ倶楽部「泥団子作り」 01/5/17記

加用文男さん(49) NHKにんげんドキュメントより


先週のタモリ倶楽部では、ピカピカに光る泥団子作りという変わった企画をやっていた。京都教育大学の教授(加用文男さん)がわざわざ来ていて、この泥団子作りをじきじきに教授してくれる。教授というには風貌がラフでありすぎて、公園でロケをやっていたのだが、「ここに住んでいた人?」などと進行役のふかわりょうなどに言われていたのはちょっと気の毒。
それはともかく、こういうまったりとした企画をやらせたらまさに日本一という感じで貴重な回であった。ああ、どろ団子の輝きに乾杯!

(追記:その後6月になって、NHKにんげんドキュメントにおいて、「光れ!泥だんご」と題した番組がやっていた。
ちょっとの間しか見ていないが、タモリ倶楽部の扱いとは大分違い、子供とのだんごを通じた交流を描いていた。
身近な砂と土と水からで、こんなに綺麗なものができるのかという驚きは大人も子供も一緒だなと感じる。
完成品の泥だんごを見る子供の反応はあまりの綺麗さに畏怖するという感じで、こんな感情は今、なかなか感じられないなと感動する。番組ホームページの中には<光る泥だんご>のつくりかたがあった。…01/7/8記)

(追記2:はぐれ刑事の最近の放送で光る泥団子が扱われていた。はぐれ刑事はテレビ朝日系での放送、タモリ倶楽部
も同じ系列だが、扱われ方が全然違う。はぐれ刑事内では親子で作る泥団子は事件の鍵を握っていたり、失業中のお父さんが必死になって作っていたりで、その輝きは荘厳なものという気もしてくる。全部は見ていないのだが、序盤で少年が何回チャレンジしても団子が割れてしまうところで、加用さんが通りすがり風に登場かと思ったけれどそんな展開はなかった。タモリ倶楽部を見た時にはわりと簡単そうに見えたのだが、はぐれ刑事では藤田まことが公園内にテントまで用意しての執着ぶりに加用さん今度こそ登場してくれ!などと思ったりした。事件の展開と泥団子はどう関連していたんだろうか。犯行現場の砂の成分と泥団子の成分の一致からどう結末を迎えたのかとりあえず分からない…。 01/8/3記)




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ガチンコ「ラーメン道 二期生オーディション」 01/5/22記

今回のニ期生版はとりあえず今までの放送分は見ている。(といっても今回を含めて、2回だけだが)この企画、今回は一期生とは違って、のれんわけをするという明確な目標を示している。3ヶ月という期間限定で、その目標に見合う人材を見つけるべく、オーディションを今日の放送ではやっていた。

ラーメン博物館HPより

講師役の佐野実氏がまさに自分のやりたいようにその場の人間を選別していく。一人一人を立たせ、履歴書と思われる資料から、その人に質問をしてその返答から瞬間的に残すか残さないか判断していく。
「和歌山ラーメンでは一番になりたい…」とか「佐野さんのラーメンを研究したい…」とかいう人々の言葉尻を捉えて気に食わないのか、次々に落として行く様はまさに”何様のつもり”という感じである。分かるようなわからないような基準で、オーディションを進めていき、その基準は何だったのかとTOKIOに聞かれた佐野の答えは「目だよ。やる気のあるやつの目つきは違う」というものだった。結局佐野の直感で決めていたのであって、面接はほとんど意味のないものだったことが分かったのであった。
こんな事だったら、”とりがら処理競争”とか”寸胴移動競争”とかよく分からないけれど何か明確な基準で決めた方がよかったのでは…とおもう。目つきが良いというのは何か収まりのよい言葉だが、眼球の光り具合と精神の有り様を結び付けるとは…まさにテレビ的・漫画的(漫画に失礼かな)である。
ラーメンを上手く作るというのはそんなにすごい事なのか…佐野実のラーメンに心酔した人達があのオーディションに集まっているのだろうから、一種あの空間は通常なら”テレビで見れないもの”であることは確かだろうと思う。ところでこの企画にはなんとなく、興味があって執着してしまうのだが、結局佐野実氏に興味があるのかな…。



「旅館もの」考 01/5/25記

今週号の週刊文春だったかでナンシー関さんのコラムには「私を旅館に連れてって」が取り上げられていた。ざっと要約すると、刑事ドラマでの手法「事件があって、それを解決する1話完結形式」が成り立たなくなった現在、その手法が新分野である「旅館もの」に移行しつつある、という内容。他にも主役の観月ありさに対する認識(日本屈指のコスプレイヤーと評していた)や、旅館もの刑事ものに共通すること(どの俳優がやってもわりと違和感がない)などが書かれていたが、おおよそそんな感じである。
刑事ものの「犯人」が旅館ものでは「お客様」に変わり、何かしらの事を起こし、それを解決していく手法の存在という視点は括りとして面白い。
もうちょっと視点を広げれば、何か試練が与えられそれを解決する中で1つの人間ドラマが形成されるというのはドラマの普遍的な手法なのだとは思う。
ナンシーさんの非凡なところは刑事ドラマの「今」(実感としては分かりにくいが刑事=正義、犯人=悪という一元的図式の崩壊かな)を鋭く見ぬき、その手法的部分が今現在その勢力を伸ばしつつある?旅館ものの中に流れ込んだかのように存在しているという視点だろうか。(私ごときがおこがましいけれど)
ストーリーそのものについての言及はないけれど、ドラマの今の流れが構造的に分かる分析で面白く読んだ。


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特売の単位価格 01/5/31記

スーパーのチラシを見ていて、なんとなくグラムあたりの単価はどうなっているんだろうと思ったので、調べてみた。とある都市の平均的なスーパーのサンプルとして。

・マヨネーズ 500グラム 158円 ⇒ グラムあたり 0.316円
・クリーンレモン(カルファルニア産) 1袋約1キロ入り 398円 ⇒ グラムあたり 0.398円
・北海道バター 200グラム 198円 ⇒ グラムあたり 0.99円
・山形そば 450グラム 288円 ⇒ グラムあたり 0.64円
・味の素 ほんだし 700グラム 798円 ⇒ グラムあたり 0.877円
・バス石鹸 140グラム×4個 298円 ⇒ グラムあたり 0.53円
・ネスカフェ ゴールドブレンド 100グラム 498円 ⇒ グラムあたり 4.98円

他にも生鮮食料品などいろいろあったし、それぞれ日替わり特価かそうでないかなどの違いはあるけれど、とりあえず面倒になったのでこれだけで比較してみる。
マヨネーズが一番安い。調味料関係では、バター、味の素よりもかなり安めな価格である。
レモンは全部が使えるわけではないが、結構安いことが発覚。
そばやうどんはもっと安く売っているときもあるので、この単価は変動的だと思われる。
石鹸という食料品以外も入れてみたのだが、1個でかなりもつことを考えればなかなかなコストパフォーマンスといえると思う。といっても石鹸やタオルはただで貰う機会も多いのでそういう事情を入れればどうなのかな。
コーヒーが高い。100グラムで20杯ほどとれるとしても、一杯あたり25円ほど。安いことは安いけれど、もっと頑張れないものかと思う。

マヨネーズがとりあえず安いことはわかったけれども、これだけを買うわけにもいかないだろう。あくまで調味料、使いでがあるのでちょっとお得な感じはある。



極私的感動… 01/6/6記

ガチンコの大検スクールというのを見ていた。大和龍門という塾長のワンマンショーのテイストが強い企画なのだが、昨日の放送ではなにか塾生から総スカンをくらい彼の人間性が試される回であった。なにか問題があると、大和先生はいつも体を張って塾生と接触を図るがそれが塾生にとってはついていけないものに感じられる。(ついていけるとしたら異常だが)
塾生たちと話合いの場をもつ大和先生はまたも「文句があるならかかって来い」という解決の仕方を試みる。これに対して一同はしらけるのだが、これに対して大和先生は「俺のやり方はこれしかないんだ」というようなことを言っていた。このセリフを聞いたとき、なにか彼の本質の一端が聞けたような気がした。変えようの無い自分自身、いくらあがいても自分は自分だという開き直りとでも言おうか。なんというのかこういうのが好きなんである。努力しても、どう試行錯誤しようが結局はなにも変わらない自分自身への諦観、それはガチンコという番組の趣旨とは違うものだろうけれど、こういうのがふと現れる瞬間がいいというのが個人的感想である。大和先生、苦労して人生生きてきたんだろうなあ。(といってもぐっと来た瞬間は一瞬で全体的には大和先生の暴走振りに爆笑である)

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漫才デラックス 01/6/23記

爆笑問題や関東の人間にとっては懐かしいトミーズなどが出ているということなので、このNHKのお笑い番組を見てみた。NHKのお笑い番組全般に多分いえる事なんだと思うが、なにか笑いを薄っぺらな意味で捉えがちな気がする。くよくよしないで笑おうよ、であるとか、笑いでこの不況を乗りきろう!とか人間笑うのが一番大切だ、とかなんとか。笑いというものの意味を感情の高揚という一つの側面のみで捉えている感じで、笑えるネタであるのかどうなのかにあまりに無頓着な気がする。少なくとも、漫才師がネタを披露する部分以外に入るナレーションであるとか、欽ちゃんの司会部分にその雰囲気を感じる。
「21世紀とお笑い」というのが今回、通底にあったテーマなのだけれど、なぜ今世紀に入って半年を経ったこの時期…というのがある。
欽ちゃんを久しぶりにまじまじと見たのだが、中川家と海砂利水魚に21世紀の夢を語らせる欽ちゃんは彼らに子供の口調で言うことを強要する。
彼らは「僕は大人になったら、電車の車掌になりたいです」などと肩をすくめて、たどたどしい口調でいわされるのだが、笑いを生まないのはもちろん、全盛時の欽ちゃんを思い出すと悲しさを感じる。欽ちゃんの芸風の変わらなさを感じると共に、今一応人気がある彼らとのギャップを感じてしみじみとした気分になった。
最後の締めの部分で、欽ちゃんは「インターネットやメールが流行る時代だけど、やっぱり人間は人とじかにあって話すのが一番だよ」というような事をなんの逡巡もなくいって紙芝居屋のおじさんの姿で去っていくのだが、うーん…という感じだ。通信機器の発達は直接のコミュニケーションを減らし、人間相互が希薄な関係になる…というような浅薄な一般論をそのままにしゃべっているのが(またはしゃべらされている)、お笑いの番組の一場面とはいえ、困ったなあという感じであった。(直接のコミュニケーションだけがコミュニケーションじゃないでしょ!ととりあえず反論したい)



ホットドッグ早食い日本人ニ連覇! 01/7/5記

 テレビチャンピオンの予選を突破した日本人二名が、アメリカ独立記念日恒例のホットドッグ早食いで今年も大活躍していた。去年、日本人の枠は三名だったが、今年は二名と減らされているのになにか不安を感じることもあったが。結果は日本の大食いの今や看板選手である小林尊君が50本で優勝、2位は新井和響さんの31本であった。

小林尊さん(右)と、前年優勝の新井和響さん(asahi,comより) 

 結果を聞いた瞬間、あまりの数の多さになにかルールが変わったのかと思ってしまった。昨年まで、20本という壁があり世界記録を持つ新井さんでも25本をやっと超えるものであったので、これはおかしいとなかなか記録の信憑性を受け入れがたい感じがした。しかし、昨年のルールと全く変わらないものであるのを知り、また驚きが強くなった。
 一応、1916年から行われている歴史的大会であり毎年ベストを尽くして早食い選手たちが戦ってきた舞台である。それを今までの記録の2倍の記録というのはなんだろう。例を考えれば、百メートル競争で前回の五輪記録10秒を5秒に縮める選手が出てきたようなものだろうか。いや、普通のスポーツとはやはり比べられないに違いない。
 大食い・早食いの選手の能力の根拠である、胃の大きさや消化力の優れた選手は何百年に(何千年に?)一人というスパンで現れてくるんだろうか。しかし、2位の新井さんの記録も昨年に比べれば6本も更新されていて、本人の努力も当然あったんだろうけれど条件によってわりと、記録の変動の起きやすい競技なんだろうか。
 また、この異常な記録の更新具合はアメリカ人にはどう感じられたんだろう。人種の坩堝といわれるニューヨークで行われているのだから、独立記念日とは言え、その記録の凄さにとりあえず賞賛の嵐だと思う。でも、今までの大会の意味をも変えてしまうほどのこの偉大な記録、来年の大会のルールや日本人選手枠にどんな変化をもたらしてしまうのかも注目だ。思うに、枠が一つになってしまったらもう参加するのはいいのではないかという気がする。たぶん、今年の段階でもそうだと思うが国内予選の方が手に汗握るものであるような気もするし。

(追記:「本人の努力も当然あったんだろうけれど条件によってわりと、記録の変動」云々という部分読みかえしてみると、不明瞭かつ新井さんに失礼である気がしました。条件というのは競技のルールを意味するのではなく、強力なライバルの存在がある事によって、士気や意欲が高まる可能性があるというような意味で使用。…それにしても小林君、これにより世界初の純粋な意味での大食いのプロ選手となるか…01/7/6記)

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自分にとってのHP 01/7/11記

 6月の中旬にカウンターをつけた。試しにどれぐらいの人が訪れているのかみてみようと思った。予想していたことだけれど、あまり多くない。このカウンターは同じ人が何度来てもカウントされるタイプだし、自分自身のも結構カウントされているので、訪れる方のバリエーションは推して知るべしである。
それでも、ホームページの更新は趣味といえるものだし、たまにメールを頂いたりもするので自分のノートに日記を書くよりかは楽しいという感じだろうか。
 インターネットでの流行りの一つに、この自分の日記(私生活含めて)を公開して読んでもらうというのがあるみたいだ。まさに、日常雑感を書き流すようなものから、世相を斬るような硬派コラムタイプまで、いろいろとある。自分のサイトは基本的に好きなもの、ちょっと心の片隅に残ったものを書きとめるといった作業にしか過ぎないのだけれど、テレビなど広く共有できる話題などを取り上げているつもりだ。だからどうしたという感じのことなど書いてもしょうがないが、書くということは一つの大きな表現形態であるし、それ自体に一つのカタルシスを感じることも多い。たぶん他のサイト運営者も、いろいろな目的はあれ、書くこと・表現する事そのものを無償でもやってみたいという気持が更新を続けさせるんだろうと思う。当たり前のことだけれど。
 で、書くことの効用というのもある。僕は本来、筆不精なのだが、少なくても文章という形にしてみると考えていた事が落ちつくということもある。ただ、それは自分の中での自己満足に近い事も多く、他の方の文章で同じ話題に関してのものを見るとまた考えさせられ、それによりいくばくかは思考(ってほどのものじゃないけれど)が進展するということもある。やはりリアルタイムで変わっていくネットで書くことは面白いと思う。



いっこく堂の挑戦 01/7/13記

徹子の部屋出演時(1999.3.8放送)

 昨日、なんの番組か忘れたが腹話術で有名ないっこく堂を特集しているのを見た。役者として芽が出なかった彼は、たしか「誰でもできる腹話術」という本を読んで、独学で腹話術をものにしていく姿が描かれていた。そして、その本に書いてあったことで彼が注目したのは腹話術におけるタブーだった。要するに、喉などを痛めるからこれはやっちゃいけないという幾つかの腹話術における禁止事項である。半濁音は唇を使わなければできないので無理だし、低音、だみ声は喉を守るためにやってはいけないとされているらしい。この半濁音をどうやって、習得するに至ったかはいわゆる企業秘密というやつであるが、1日10時間の訓練を5年ほどかけてコツを掴んだという。他の技も一緒に習得したのかとか、訓練時間の詳細についてはよくわからないけれど。
 習得できるか分からなく、先人の教えではタブーとされているものを掴むために長時間の訓練に励む事は一種無謀の賭けかもしれないとも思う。喉から血が出たこともあったらしい彼の孤独な挑戦を思うと今活躍されているのを見ると熱いものを感じる。にしても、半濁音、どうやって唇を使わずに出すんだろう。ちょっとやってみる。ちょっとやっただけでは、見当もつかない。半濁音は唇を破裂させた動きで出るが、これを無視して喉だけでできたんだろうか。それとも唇の動きを最小限にして半濁音を出す方向でやってみたんだろうか。しかし、芸の幅を広げるためのこの挑戦、腹話術という枠を完全に超えてしまっている。ボイス・イリュージョンという風にも呼ばれているらしい。ネタさえ教えれば、継承者はみつかるだろうマジックの世界と比べて(あくまで推測ですが)、このイリュージョンは一代限りのものになる可能性が高い点ですごい。
 いっこく堂は継承者を作るために、この技の数々を誰かに明かす日が来るのだろうか。

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「大食い入門」という本 01/8/27記

 久しぶりの更新です。読んでくれている人がいればですが。
 先日ブックオフにて100円本をみてまわっていたところ、「大食い」の文字が目に入ってきた。全国大食い探求会による「大食い入門」である。発行は94年の10月。100円で手に入るとはラッキーということで購入する。今、激動の大食い界だが、当時も第一期激動期?という状況の中での思いきった企画の本であったようだ。データ的にも充実しているし(テレビチャンピオンの詳細な戦況や大食いチャレンジ店情報など)、大食い戦士達の伝記的な部分など感動せずにはいられない。あとこの時期はまだ女性の大食いは珍しく、伊藤織恵さんがグランドチャンピオンになるまでは女性大食いの市民権は弱かったような記述もある。
 売り上げはあまりよくなかったのか分からないが、現在はネット通販などでは取り寄せ不可・絶版などが多いみたいである。これの第2弾を出したら売れると思うし、大食い探求会も続編を作ることを示唆しているようである。今の状況なら小林尊さんを中心に据えて、出きることなら風間先生の大食いの医学的分析の最終報告や岸さんの「テレビの大食いの扱いに物申す!」のような企画があれば定価でも買うと思う。
 ところでこの本の重要な部分である風間先生の医学的分析を読んでみると、胃の大きさ、胃酸の強さ、血糖値といった大枠での大食いの条件は説明できていたが、栄養分の吸収を高めるインスリンと太らない体質との関係などがまだ説明しきれていなく、謎の部分も多いようである。(なので最終報告が読みたい…。もうどこかで発表されているのかもしれない)
 本の最初の部分はQ&A形式になっていて、大食いへの素朴な疑問の数々に丁寧に答えられていて、読みごたえがある。

(追記:書いた直後に書き忘れたことがあったのを思い出す。この本の中で難点があるとすれば、赤塚不二夫の漫画だと思う。バカボンパパが出てきて伊藤織恵さんに後輩を紹介して、その後輩との大食い対決を挑むというなんでもないストーリーの漫画だ。これが普通に終わっていれば単なる面白くない漫画なのだけれど、この口がお尻の穴のような後輩は最後のカレー対決で吐くのだが、そのオチが下品極まりない。口がお尻の穴風に描いてあったのはそのためか……と納得するだけでは足りない下品さであると思う。こういうギャグセンスはひどく昔な感じがし、織恵さんがクールに黙々と食べる雰囲気だけを描けばいいのにと思う。…01/8/27記)



橋田壽賀子に笑う 01/9/3記

 「笑っていいとも」をほんの少し見ていたのだが、ペットボトルを規定時間内に包装するという内容のものだった。(もちろん普通はワインとかなのだろうが)包装紙を正方形に切り取り、ボトルを包装し、ひもを結んで、一言メッセージを書いたタグをつけるという、いくつかの過程をそれぞれのタレントが分担してやっていた。タモリが時間がないので焦り気味で、ひもをちょうちょ結びで仕上げたところに、なにかタグに書きつけた橋田壽賀子がこれも急いでボトルにかけて時間に間に合った。こちらにそのタグに書かれた文字が見えたところ、「ペットボトル」とある。たぶんなにも考えていなかったのだろうが、このとりあえずの「ペットボトル」は笑った。
会場の客でこれにいち早く気づいた人は「ペットボトル!」と思わず言葉を発していた。特に「ペットボトル」に対する他のタレントのつっこみはなかったと思うが、この笑わす意図の希薄ななかで思わず出てしまった笑い。橋田壽賀子の笑っていいともでの評判は良くないみたいだが、(笑っていいともはほとんど見ないのでよくわからないけれど)これを見る限り、何気ない天然的な部分での面白さは持っているような気がした。

 

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大事件による不安感 01/9/12記

 アメリカの中枢機関が次々と襲われる史上最大規模のテロが起きた。テロの範囲を超える戦争という見方もあるほどだ。昨日の夜から、各テレビなどのメディアはこの事件を大々的に報道し、世界貿易センタービルに突っ込む飛行機の映像を中心に、ほとんどの時間をこの事件にあてている。運悪く犠牲になった方々には冥福を祈らずにはいられない。
 放送枠の占有に関してでは、阪神大震災を思い起こす。もう何度も見た映像やインタビューなどが繰り返し放送されるのは致し方ないのだが、今回は外国での事件なのかその繰り返しの頻度が高いような気がする。そして、この事件以外の番組を見て和んでいるとなぜか罪悪感めいたものを感じるのも阪神大震災を思い起こさせるのかもしれない。リモコンを押して、テロ事件に関する番組を見てもまた同じような内容の放送なのはわかっているが、とりあえず他のバラエティなどを見ていられない心境になってしまう。
 今回の事件は人為的なものであるので、アメリカの今後の対応や世界経済に与える影響、犯人の特定、今後のテロの可能性など目を離せない。また、大リーグが今季このまま中止になる可能性も高いらしいので、イチローの首位打者は有効なのかという事件と比べれば瑣末なことも気になるな…。



「フードバトルクラブU」前半戦 01/9/28記

 2回目の放送がついに来ましたこの番組。なぜか昨日はテレビチャンピオンの大食い選手権もあったのに連日大食い番組漬という感じだ。今回は解説の席にいとうせいこうさんが来るということで、そういう意味でも期待して見た。今回のこの番組の構図は「小林尊とそれを潰そうとするその他の選手達」というもので、なにかこういった分かりやすい図式を作りたいのはなんだろう。前回の優勝後、ホットドッグ大会のチャンプにもなった世界王者小林さんに本気で勝てると思っているのはごく少数だろうに。客観的に見て昨日のテレビチャンピオン優勝者とその他一人か二人といったところだろう。
それはともかく、見せ方に問題を感じたところが多い。寿司30皿の早食い勝負の通過者20名を最低限、紹介するべきなのに誰が通過したのは良くわからないままに次の勝負へ行くのに呆れる。懐かしの井出さんがさりげなくいたり、前回2回戦ぐらいまで出て今回は突破ならなかった選手ぐらい紹介してくれてもいい。この紹介をきちっとやれば次のオークション方式の勝負での申告部分(食べられる数を言い合う)で互いの食べられる数を計算した上での面白い掛け合いが見られたに違いないと思う。
高橋さんや白田さんなどの部分はまあ駆け引き的なものもあったが、その他の人はあまり自分の食べられる量を把握していないのか挑戦に失敗していた。失敗即失格というルールなので、多くの失格者を生み出しその結果不戦勝の人も多数(具体的に何人かはやはりわからない)出てしまったのはやはり失敗企画だろう。オークション形式で申告するというのは面白く出きる部分だと思うが(たとえ演出が入っていてもよし)、なぜか途中からこのオークションそのものをする場面がなくなり、誰それが何々に挑戦というのを発表するだけになってしまったのも釈然としない。
それと、早食いは見世物なのか、見世物として成立するのかという愚問を小林さんのカレー早食いを見ながら考えてしまった。同じ早食いでもお茶漬けのように食べて行く過程が器で隠されると見られるのだけれど、カレーのように全てが見えてしまうとかなり汚らしくみえてしまう。それは多分に彼が少しもどしたり、カレーの混ざった状態が美しくないというのがあるけれど。珍しくもどしかけるほどになっていたのは、異常なほどの早食いを局側に要求されたのだろうか。規定時間を切ればいいのだから本来のルールに乗った賢いやり方とはいえない気がした。
あと期待していたいとうせいこうさんは大食いアナリストだとか紹介されていたが、なんだか台本通りに解説しているだけという感じで普段から大食い系番組をよく見ているとはとても思えなかった。見ていないのなら選手の中途半端な知識披露などどうでもよいから、彼の本来の観察眼で見たままをつっこんで欲しかった。しかしこれも隣りの梶原しげるがしゃべりすぎるから無理なのかなあ。伊集院光が知識、本人の興味度などからすればこの解説席に座ったほうがよかったのかもしれない。(もしくは競技をやっていない時は岸さんでも可)
前回の放送はなにか端折っているような印象を受けたのだけれど、今回2倍の放送時間になりそれが軽減されると思っていた。が、間延びしてしまう場面と端折ってしまうバランスがなにかへたくそな感じがして楽しくない。最初の方に書いたけれど、最低限知らせるべきところがわからないのが不満だ。とりあえず来週に期待というところ…。

(追記:予選の寿司勝負の結果を紹介しないままに、次へ進んだと書いたがビデオで確認して見ると一応は分かるようになっていた。映している時間がとても短いので、記憶に残らず上のような文章になってしまったようだ。確認のため(なんの確認だ?)にも予選通過者の名前を以下に書いてみます。

FBCU 寿司30皿予選通過者(タイム順 20名)
1位 小林 尊 1分25秒81
2位 山本 晃也 1分38秒93
3位 新井 和響 1分44秒13
4位 高橋 信也 1分48秒33
5位 白田 信幸 1分58秒13
6位 山形 統 2分13秒80
7位 立石 将弘 2分14秒28
8位 射手矢 侑大 2分15秒11
9位 小国 敬史 2分25秒15
10位 岸 義行 2分46秒72
11位 駿河 豊起 2分47秒11
12位 赤阪 尊子 2分58秒88
13位 田澤 康一 3分1秒29
14位 加藤 昌浩 3分8秒64
15位 木村 登志男 3分16秒95
16位 南 壮介 3分20秒78
17位 武田 明則 3分29秒09
18位 中野 昌紀 3分30秒38
19位 滝 宏隆 3分48秒41
20位 井出 香里 3分51秒95

 左のような表ができた。ビデオでタイムまで確認しようとすると一時停止を利用することになるので、画質が粗くなり秒の部分はもしかしたらちょっと違うかもしれない。(8や6など微妙なので)

番組であまり取り上げられなかったが、20位の井出さん、15位の木村さん、13位の田澤さんはテレビチャンピオンでは有名な存在だ。木村さんはマイドリンクを持ちこんでなんとか画面に映されてはいた。





























次に確認のために、ファーストステージ「HANG OVER」の結果も分かる範囲で書いてみる。

ファーストステージ「HANG OVER」の結果
挑戦者 メニューと制限時間 落札数と総量 挑戦の可否 備考(敬称略)
高橋 信也 餃子・30分 293個(4.395kg) 食べ続ける時間はかなり長めだが、間延びを感じる。赤阪292個で次点、競落としまでの放映時間が一番長い。
田澤 康一 天むす・20分 100個(1個あたり43g) × 一連の失敗者のダイジェストが流された内の最初の一人。オークションの様子は流されるが、誰がいくつをコールしたのかは不明。
不明 プリン・5分 50個(1個あたり120g) × とてもきつい総量。5分で6キロは絶対に無理だろう。オークションの様子皆無。扱いとしては最も小さい。
武田 明則 肉まん・20分 41個(4.305kg) × 残り時間を8分あまり残して、自らギブアップ。大食い家系武田一族のお母さんとの感動場面もあり。
滝 宏隆 かけうどん・10分 8杯(5.6kg) × かなりきついレギュレーションだが、讃岐うどん大会の覇者として、また予選落選の平田さん(ミスターうどん)の分までということでの挑戦。結果としては10分で5杯。かなりの力量があるのでは。もったいない敗退である。
白田 信幸 ケーキ・20分 68個(4.76kg) オークションは甘味大食いに強い赤阪と白田の一騎打ち。ここでも赤阪67個で次点。白田紹介VTRとして、前回ファイナルでのラーメンを同じルールで挑戦。18杯完食という記録を作る。ケーキ挑戦では淡々としたマイペースできれいに平らげる。
小林 尊 カレー・30分 13杯(6.37kg) オークションの様子一切なし。序盤から怒涛のように食べる。(序盤といっても完食までわずか6分ほどだが)涎のように見えるのはチーズだと実況がフォローする場面も。
射手矢 侑大 焼き鳥・20分 68本(2.38kg) 同じくオークションの様子一切なし。紹介VTRとして小林尊の餃子400個の記録を450に塗り変えたとのこと。
このレギュレーションは彼にとってかなり楽そう。残りの他のメンバーで失敗するものはいないのでは。
このあたりで不戦勝の可能性が見えてきたのか…。
立石 将弘 プチトマト・10分 230個 オークションの様子一切なし。総量も分からないが、そんなにきつくなさそう。扱いは小さい。
新井 和響 ハンバーガー・10分 17個 新井の得意なホットドッグに近い食べ物。水につけて食べていた。扱いは小さい。
山形 統 たいやき・30分 39個(1個あたり75g) オークションの様子一切なし。このレギュレーションも残りの誰が挑戦しても大丈夫そう。放映順が挑戦順とは限らないのだろうけど。
山本 晃也 お茶漬け・10分 8杯(5.2kg) オークションの様子一切なし。途端にかなりつらいレギュレーション。記録は約3分。汁物という優利はあるが、小林以上の凄さ。
小国 敬史 豆腐・10分 20丁(1個あたり320g) × きついレギュレーション。失敗者VTR後半部分という感じで流されていた。背後にかなりの人数が見受けられるあたり、山本の挑戦より先だったのかな。
木村 登志男 シューマイ・5分 62個(1個あたり35g) × かなりなレベルの大食いなら可能な感じのレギュレーション。5分というのはしかし短いかな。


 不明な方も予選をよくチェックすれば分かるかもしれないが、とりあえずそのままに。以上の表から挑戦成功は8名、挑戦失敗は6名、不戦勝は4名(赤阪さん、岸さん、加藤さん、井出さん)。
残る2名は全く触れられていない。確かに別に知りたくもないので構わないけれど、後半失敗VTRの中に入れておいても良かったのではないかと思う。まあ何らかの事情があったという事も考えられる。見返しても、やはり高橋さん挑戦の部分は間延びしている。この時間をオークションないしは不明の二人に充てるなりすれば良かったと思う。
 ちなみにナンシー関さんのホームページを見たところ、優勝者は誰もが予想する選手ではなかったということで、驚く。さらに、いとうせいこうさんはやはり大食いには全く通じていないということも書いてあった。テレビチャンピオンに対抗して名物司会者を立てようとしたのであろうTBSの試みも失敗に終わりそうだ。(01/10/3記)

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テレビチャンピオン世界に挑戦!「ホットドッグ勝負」 01/10/5記

 かつて大食いで活躍していた中嶋広文さんがどんな感じだったのか確認したくなって、何年か前のビデオを見てみた。自分が持っている中では97年正月特番で放送したテレビチャンピオンの企画が唯一彼を確認できるビデオだ。
 中嶋さん紹介VTRから分かる戦績は以下のようだ。

中嶋広文 大食い実績 番組内判明分(97年正月特番)
全国大食い選手権 〜山手線一周決戦(1996.10.17放送) 赤阪尊子(自らギブアップ)を破り優勝。通常三人で行われる決勝がなぜか二人で行われている。これにより第6代チャンピオンとなる。しかし、「頂点まできたんでこれでやめます」との言葉を残し、引退を宣言していた。
第10回全日本わんこそば選手権チャンピオン大会 わんこそば559杯世界新記録樹立
番組内のワンコーナーで象とさつま芋大食い対決(テレビ山梨) ルールなどはよく分からないが、中嶋優勝となっていた。これはお遊び企画だと思う。

 このあと、番組スタッフは山梨県にある中嶋の家に出向き、伊藤織恵VSマイク・デビットのホットドッグ対決を見せる。94年正月放送のもので、伊藤織恵はリタイアで惨敗。このホットドッグ対決はアメリカ独立記念日に行われる公式なものではなく、番組の設定による一対一のもの。
 これを見た中嶋は雪辱に燃え、「敵をとらせてください」と復帰をすることになる。番組が中嶋にホットドッグ大会勝者との勝負を持ちかけたのは、彼に大食いとともに早食いの素質があるからということだ。山手線一周決戦では、その素質を遺憾なく発揮していたよう。
 95年ホットドッグ大会において、伊藤織恵を下したマイク・デビットはエド・クラーチーに敗れていた。96年大会ではこのエド・クラーチーが同大会で22本という世界新記録を樹立している。ということで、中嶋はエドに勝つべく、ニューヨークへ旅立つ。

 エド紹介VTRはなにか大食い選手権での新人紹介VTRを思い出させるものだ。エンジニアとして働く彼は昼食でも大食い。同僚がハンバーガーを二つのところ、彼は10個を食べる。巨体を維持するには必要不可欠な量。一方、家ではピアノを趣味とする繊細な面もある。しかし、週末にはバーに繰り出し、ビールとつまみ(スパゲティとかなので食事と行った方が適当)で大食いをする。といった内容である。まさにアメリカ人が今でも描いているであろう、大食い男の図式そのまま。
 
 ニューヨークについた中嶋はリトル・イタリーに出かけ早速パファーマンスを見せる。イタリア料理店で、9種類のスパゲティを注文して店員を驚かせる。完食する頃にはコックの人やら周囲の客やらで盛りあがる。既に新聞などでホットドッグ対決の事は地元で話題になっていたらしく、彼もちょっとした有名人扱いになっていた。

 いよいよ決戦当日。ネイサンズ本店の店内で行われるようで、入りきれない観客はガラス張りになった店外でも見守る。番組内の一企画と思っていたが、この勝負の勝者にはあの辛子色のチャンピオンベルトが実際に送られると主催者が発表する。異様な緊張感とブーイングの中(愛国心とこの大会はやはり関係が強いのか)、田中義武が場違いなタキシードで登場。そういえば、ホットドッグ大会では田中が特別という感じでスタジオを飛び出していたが、2001年大会からは中村有志に変わっていたことを思い出す。

 エドは水につけ、立ち食い。体を揺らし独特のリズムの取り方。中嶋は座り、淡々食い。中嶋は時間が経ったところで、パンを水につけふやかして先に食べ、後からソーセージを食べる方式を編み出す。これが新井さん得意のトーキョースタイルの誕生の瞬間だろうか。これが見れただけでも見返した意味はあったというもの。それにしても田中がうるさい。公式ベルトがかかった大会なのにインタビューをしつこくしようとする。勝負の結果は次のようになった。

ホットドッグ対決 12分早食い勝負
中嶋広文 23.5本
エド・クラーチー 20.5本

 この結果はアメリカだけではなく、世界に配信されたということらしい。もちろん日本にも。この結果を見た後、今年7月に行われたホットドッグ大会の数(50個)を思い出すと本当に信じられない。エド・クラーチーや中嶋さんはどんな思いで最近の大食いを見ているのだろうか。たった4年前なのに、隔世の感がある。

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「フードバトルクラブU」後半戦 01/10/6記

 いや、とりあえず凄かった。金が懸かっていると食べ方も戦い方も色々と醜悪化(局側の演出も多々あるだろうが)してくるのは避けがたいのかな。醜悪化の一例を出すと、小林vs射手矢のステーキ鷲掴み勝負は最初、一応ナイフとフォークを使っていた。小林の突然の鷲掴みに反応して射手矢も同じことをする。2人はまさに脂まみれ、獣のごとき壮絶さ。この射手矢の素早い反応の仕方がなにか嫌だ。フォークで切って食べても15分あれば、十分胃の許容量に達するという気はするのだが、喧嘩っ早い兄ちゃんのように手掴みを真似る。一対一の対決を設定して、これだけのガチンコ勝負の映像が撮れたTBSは「よし!」という感じなのかもしれないが、制作側も勝負内容も醜悪といわれてもしょうがないという気がする。
 では、どうしたらいいんだろう。賞金を無くすか小額にして勝負への執着心を減らすか。それはつまらない、というよりはテレビチャンピオン(優勝賞金は50万らしい)を見てもわかる通り、勝負への執着心はおそらく金額の多寡には関係ない。さらに言うと、フードバトルという番組は食べ方・見た目は一切無視した食べ物詰め込み王になっても良いと思っているのだろう。
 この食べ方云々依然に、優勝白田を無視した小林ショーの構成をした編成、出場規定の中にアレルギーのある方は禁止というのがあるのにそれに該当する人を出場させている、などとんでもないTBSはまさに逝ってよし(2ch風)だと思う。ま、テレビチャンピオンなどに出ていなかったが他番組で話題になっていた山本さんがこの大会に出ること自体は喜ぶべきことだったんだけれど。

 色々な掲示板でこの番組についての意見が出ているのを見たが、たぶん指摘がされてなさそうな細かい点での前回との違いを見つけたままにメモしてみる。(なにやってんだか)
オークション形式の勝負「HANG OVER」までは前回の大会とはルールが違うので、セカンドステージから。

2nd STAGE 「Weight Crash」 要するに45分での体重増加
  フードバトルクラブ(2001年4月放送) フードバトルクラブU(2001年10月放送)
ブッフェ料理の提供元 ヨコハマ グランドインターコンチネンタルホテル 品川プリンスホテル「ブッフェレストラン ハプナ
持ち込みに関して 何をどれだけ持ちこんでもOKのようだ 好みの調味料等500g以内の持ち込みが可能(番組テロップ)
食べ方に関して 机に持ってきた物を完食という制限はないようだ 自分で運んできた食材の全てを完食しなければならない。食材を残した場合、一皿につきマイナス1kgのペナルティーが課せられる(番組テロップ)
机上にある食べ物の量に関して 現摂取量(番組テロップ)と机上にあるだけの食べ物と混同しやすい 4桁の電飾数字板?を机前面に置き、各選手の持ち込み量を明確に表示。(10`以上の際は端数しか表示されないのが問題)ペナルティがあるので一応摂取量の目安になる。
ドクターストップに関して 理由を詳しく明かさないまま、突然のドクターストップが多いようだ。 血圧を測る場面を出し、その数値も具体的に出して理由を明確に(赤阪さんの例)しようとしている。
寺門ジモンについて リアクション芸を生かしているがいささかうるさいようだ。 うるささは健在、変わっていないようだ。

持ち込んだ食材を完食しない場合のペナルティ導入が一番の変更点か。このルールは食材を大切に扱う姿勢をアピールしている。次にサードステージに関して。

3rd STAGE 「SHOOT OUT」 選択権を得た者がメニューを決定し、2ラウンド先取で勝利(一対一)
  フードバトルクラブ(2001年4月放送) フードバトルクラブU(2001年10月放送)
メニューに関して 15分の大食い7種 5分の早食い2種と15分の大食い3種の計五つ
組合せ抽選に関して やり方等詳細の放映なし 左に同じ
剣の選択(選択権)に関して 二人の選手各々に向けて取らせるような感じ(後半上下に差し出す) 剣をシャッフルするようにして器に入れ、選手各自が自由に取る。
放棄に関して ラウンドを放棄するのは選手の自由とする(番組テロップ)
タキシードの着脱について ネクタイを取る人はいても、上着は取らず(室温の問題か) 食べやすいように、ネクタイと上着を脱ぐのは自由なようだ。
ステーキの食べ方について 赤阪、直接かぶりつくも手掴みには至らず 小林、射手矢ともに手掴み食い
ステーキ完食数(小林) 7枚 17枚

15分でも早食いかと思っていたが5分のメニューが登場し、これを早食いと位置付けている。ステーキ手掴み食いの壮絶さはその完食数に現れている。次はいよいよ決勝。

FINAL 60分無制限勝負
  フードバトルクラブ(2001年4月放送) フードバトルクラブU(2001年10月放送)
メニュー 博多「一風堂」の特製塩ラーメン(スープまで完食)  吉野家」の牛丼(一杯370g)
スタート時の様子 ラーメンがスタートに若干間に合っていない。下の階到着後に配られる。 牛丼が各々に配られたあとで、机が下の階へ移動。
決勝終了後 本人のインタビューなし。大食い魔人?に祝福された小林の姿を映して終了。 大食い魔人は優勝者白田に寄ってこない。なぜか小林のインタビューのみで次回リベンジをにおわせて終了。

うーん、白田さんに大食い魔人が寄ってこないのはTBSに祝福されていない証拠か。前回とは魔人(を演じてる人)は明らかに変わっているのが分かる。
なにか暇なものを作ってしまったが、整理して見ると細かいところでルールの修正や誤解を招くところの修正が行われていて、番組的には良い方向に向かったはずなのだが。

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松本人志のアメリカ人を笑わせに行こう完結編 01/10/14記

 電波少年で一時放送されていたが、最近1年ぐらい何もなかったようなのでうやむやになってしまっていたと思ったが、一時間のスペシャルという形で放送されていた。本当に何もやらずに終わりかと思っていたが、その辺の経過を含めての一時間で正味の「サスケ」部分は二十分ぐらいであった。

電波少年HPより(00年11月19日放送分)
今ではこの言葉の意味も分かるな…。

 この番組のテーマである”アメリカ人の笑い”つまりアメリカ人特有の笑いとはなんだろう。人種の多いアメリカ人ならではの差別的笑い、差別というほどではなくても前説でもあったようなスペイン人は○○する時は××というような人種間の固定観念的なものを利用した笑い、のようなものがまず思いつく。映画「パルプフィクション」などを見ても分かるようにこの手の笑いは結構な勢力があるのではないかなという気はする。
 今回の松本さん(構成作家も含めての)の試みは”間”であるとか天丼注1(という言葉は知らなかった)という日本にもある古典的ともいえる手法をアメリカ人の”間”や通じそうな手法を用いてやっていた。つまりアメリカ人に流行っている笑いであるとかを入念に調べた上で、現地で放送されているお笑い番組に伍するものを作ろうというような試みではなかった。それはそれで全く文句はないけれど。小学生と忍者サスケの掛け合いはほのぼのしているし、これはアメリカ人でなくても世界中の人がそこそこ笑うことができるものではないかという気がした。もちろん天ぷらや忍者、芸者という日本への最低限の知識があるということが前提ではあるけれど。そういう意味ではアメリカ人向けに作られているともいえるか。
 サスケを見終わったアメリカ人たちの多くが「個性的」という言葉を使って賞賛していた。忍者という存在が個性的だったのか、演じた松本忍者が個性的なのか、全体的に漂うB級感(悪い意味ではない)が”個性的”というお決まりの褒め言葉を使わせたのかは分からない。ま、とりあえず面白くはあったのだろう。次回があるとしたら、アメリカ人の笑いをもっと研究したものになるだろうか。研究すればするほど、やはり松本さんの笑いとは違った方向にあるのに気づかされるように思うので次回はなくてもいいという気はする。
注1:一つのギャグを間をおいて繰り返しする方法(ということだったと思う)



生活検証番組はすごい? 01/10/22記

 NHK「ためしてガッテン」や「伊藤家の食卓」などに代表される身の回りの情報を化学的な実験などを踏まえた上で詳しく分析してみる、という風な番組が人気だ。料理や健康、その他諸々に関してなんとなくそう思っていた事を一歩突っ込んで分析してみせてくれるので、この手の番組は年代を問わず人気があるという気がする。
 昨日は「あるある大事典」というこの分野に入る番組を見たのだが、オムライスの作り方をやっていた。オムライスはたまに自分でも作るけれど、チキンライスはどうしたらもっとうまくできるのかとか、店で出るようなふわっとした玉子はどうするのか、といったことを詳しく知ることはインターネットで調べても意外に分からない。(自分の調べ方に問題があるかもしれないけれど)
 インターネットはレシピの宝庫ではあるけれど、それをいかにうまく作るかということに関しては実感としてわからないことが多い。やはり料理に関してはテレビが強い。オムライスに入れる具は何が適当かをケチャップとの相性から科学的に考えたり、ケチャップを入れるタイミングはご飯を炒めた後がいいのか、前なのかといったことを検証してみたり。オムライス一つ取ってもその基本的作業はいくつもあり、それぞれの作業に正しいやり方があるという検証の過程はなにか見ていて気持がいい。
 何人かの洋食屋のプロが出ていて、玉子の溶き方に関して意見が分かれていたが(あまりかき混ぜないVSよくかき混ぜる)、どちらにも利点(ふわっとなら前者、破れないなら後者)があってなるほどと思っていたところ、この両者の利点を併せ持つ技を番組独自に出してきたのはよかった。(白身だけをよく撹拌というものだが、ちょっと面倒くさいか) こういった番組がいいのは、なにより素人でも出きるようにと敷居をなるたけ低く(一から分からせるような工夫)しようとしているところだと思う。
 ところでゲストのタレントの後ろにいる「あるある会員」の存在意義もこの素人の声もということなのだろうけれど、やっぱり要らないような気がするな。(女性限定ぽいのはなぜなのか、男性視聴者を増やそうという狙い?)

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条件反射的感動… 01/10/25記

 ワケのわからない状況で不意に感動してしまうことがある。テレビでドラマなどをちらっと見ていて、ストーリーを全く把握していないのに、主人公の努力が報われただとか、誰かの長年の夢がかなっただとか(ほんの一例だけども)、の画面を見ていて不意にグッとくるという状況である。
 何を感動しているのか、自分が悔しくなるほど単純に感動させられてしまっているわけである。感動している、という心の状況は無防備である。感動を提供してくれたものに対し、ほとんど絶対的な安心感や敬愛の感情で対象に没頭している状況といってもいいと思う。だから、そういった無防備な状況は精神が解放されて楽しくなり、ひとつのエンターテイメントだとも思う。が、感動というのは一瞬の言葉使いで笑ったりするものとは違って、それなりに状況を十分把握した上で納得づくでしたいものだと思う。1時間なら1時間のドラマを見て、感情移入し、その流れでなにか感動することがあれば…ということである。しかし、感動を促がす要素、演出、場面というのは一瞬でもそれ自体が感動を促がしてしまうものだ。
 要するに何がいいたいかというと、自分は感動を促がす場面に弱いのであるが、これは無駄な感動、これは一応うなづける感動というのを仕分けぐらいはしたいなということである。それから感動は最近、いろんな番組の一種定番のオチに使われつつある気もするが、それ自体が高尚なものではないということも自戒したいものだ。(←何様だ)



スマートボール 01/10/28記

 温泉街などではまだあるみたいだが、スマートボールというレトロなゲームを浅草の店でやった。価格は200円、台に硬貨を投入するのかと思いきや係りのおじさんに直接払うといくつかの玉を出してくれて、ゲームスタートである。玉を出してくれたついでに、大人も子供も関係なく細長い棒の先についたアメをくれる。僕のアメはみかんなど柑橘系の果物の房一つの形をしたかわいいものだった。アメを包んだ袋をとって捨てどころに困っていると、すかさずおじさんがやってきて袋を回収してくれる。なかなかいい動きで台の向き合った真中の通路で仕事をしている。
 このスマートボールの台の傾きはパチンコよりはるかに緩やかであるため、ボールの落ち方もゆっくりとしている。5と15の二種類の穴があって、穴に落ちるとその数分のボールが上からバラバラッと降ってくるのが嬉しい。やっていると、ボールが釘の上に停まって降りてこなくなったため、係りのお姉さんを呼ぶとぱかっとガラスを上方から開けて玉を取り出して、15のところに入れてくれた。嬉しいサービスである。景品はお菓子やタバコといった類のもので射幸心をあおるという感じはない。タバコは吸わない僕としては景品も関係なく、なんとなくやっている内に終わってしまったがのんびりするゲームで楽しかった。すぐ正面にウインズ(場外馬券売場)があるため、ここでのんびりと気持を落ち着けて、いざ競馬へという人も多いのかもしれない。



大食いの特殊性 01/10/29記

 習慣で大食いの番組は見てしまうなあ…。昨日は新井和響さんが「どうぶつ奇想天外」という動物の生態などをクイズ形式で紹介する番組に出ていた。当然、新井さんは動物と大食いの対決をするのだが、食べるものが動物に合わせてバナナ、スイカなどそのままの食材だった。バナナ対決の猿にしても、スイカの象にしても、大食いという行為は人間特有のものなのだというのを再認識してしまった。
 動物は大食いを競技として、一定時間内にたくさん食おうなんてことははなから考えていない。おなかが空いた時に時間なんか関係なく、本能の赴くまま食べる。目の前に出された食糧(スイカ)は象にとっては生きるために必要なものだし(スイカじゃ栄養はないか)、それを確保しようとしてお土産に持ち帰ろうとする(この行動がクイズになっていた)。スイカを食べる新井さんはスイカの早食いだからしょうがないのだが、机を汁などで汚し、象は悠然と食べている。こういった画面を見ていると「競技としての大食い」は本能から来るものではなく、やはり人間ならではの特殊な行為だな…と象に教えられたような気がした。逆にいえば、人間にしかできない行為だ。
 といってもこれはたまたま大食い対決なので、こんな感想になってしまうのだが、これが「100メートル走対決」でも「腕相撲勝負」でも競技ルールがわからなければ同じようなものだ。ということは競技という行為全般が人間の特殊な行為ということになってしまいそうだ。こういう”特殊”な人間的営みを”文化”と言うのかな。しかし、一日83キロ食べるというのは確かに象は大食いだ。

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米国テロ事件のその後は複雑で… 01/10/31記

 9月始めに起きた、米国同時多発テロ事件から2カ月近くになる。最初の頃はよく見ていたこの事件に関する報道も複雑化するにつれて、把握できなくなり(単に勉強不足なだけだ)、最近は新聞の一面に載った際にちらっと読む程度になっていた。ビル倒壊に伴う行方不明者の捜索や被害者への追悼が当初の主な報道だった。それが炭そ菌やら、宗教的問題やらこれまでのアメリカとイスラム社会との関係やら現在の砲撃状況やら日本の自衛隊派遣の是非などで多岐にわたり、自分のようなぼんくらにはほとんど現状が把握できない。ので、少し勉強する意味で新聞の記事を利用してみようと思います。(以下の引用記事は全て 10・30朝日新聞朝刊からです。赤字は自分のつぶやき)

 最初はテロ特措法に関して

日本の姿 政治は議論を
  
政治部長 橘 優
テロ対策特別措置法は、自衛隊を初めて戦闘地域そばの外国領土に派遣することを可能にした。
 テロ特措法の【活動範囲】は公海上や当該国の同意がある外国領で、戦闘行為が行われておらず、活動期間を通じて行われないと認められる地域。とあるから戦闘には加わるわけじゃないんだな。

海外において自衛隊の抑制的な動かし方に意を注いできた従来の対応とは明らかに一線を画する。同時多発テロの衝撃の大きさに日本なりの答えを示したものと言える。
 それでも日本としては一代決心というわけか…。

10年前の湾岸危機での右往左往と比べれば、この間に小泉首相がとった即断即決の政治スタイルは際立った。
 よく言われるけれど、危機が起きてからでは遅いというのもあるが…

しかし、国家の基本戦略や憲法解釈がからむ大きな問題を、今回も泥縄で処理した面は否定できない。
 泥縄とは…と言葉でつまづく。調べてみると、どろなわ【泥縄】〔「泥棒を捕らえてから縄をなう」の略〕事が起きてからあわてること。(新辞林 三省堂)。なるほど事前にやっておけという事か。

国際的危機に日本はどの範囲で、どんな手段で責任を果たすのか。湾岸戦争で突きつけられた課題の多くは手付かずだった。ここでも「空白の10年」が過ぎた。
 ちょっと大げさな感も。課題とは具体的になんなのか示して欲しい。

「タリバーン後」のアフガニスタン復興で日本に求められる役割に、国連平和維持活動(PKO)への参加が含まれる可能性がある。危険なところへは行かない、という日本のPKOの原則は国際的に通用しにくくなっている。
 PKOとテロ特措法とは全然別物なのかな…。

米国に向けられたテロが日本をターゲットにしない保証もない。だが有事法制の本格論議は手付かずのままになっている。
 国内で起きた場合の対策が手付かずとは…。同時に議論していかないと…。

今回のテロ特措法案審議で最後は反対に回ったとはいえ、野党第1党の民主党と与党との間で法案の骨格について考えに大きな違いはなかった。99年の周辺事態法に続いて、与野党間で安保論議の基礎ができつつあることを印象付けた。
 社民党とか共産党はほとんど無視なんだろうか…。先日の国会デビューの田島陽子の反対答弁が思い起こされる…

一方で、テロ特措法案と憲法との関係について、小泉首相は「法律的な一貫性を問われれば答弁に窮する」と語った。「日本には集団的自衛権はあるが行使できない」という政府答弁がいよいよ岐路に立っていることを示すものだ。
 憲法自体の改憲が必要になってきたということなのかな…。つじつま合わせも大変だな。

将来、また予想もしない事態が起こらないとは限らない。もちろん大きな危機が起こらないように政治的、経済的、人道的な手段を尽くすのは当然のことだ。
 危機が起こったときの対応って法整備も重要だけど、結構各人の心構えも重要な気もするなあ。そういう話しではないのか…。

同時に、危機の度に時限的な法律を作って自衛隊の活動範囲を少しずつ広げていくやり方は、日本の国家としての原則をあいまいにし、状況の後追いになりかねない。周辺国からも疑惑の目で見られ続ける。
 一本筋が通ったやり方というと、やはり徹底して派遣しないことになるのか…。

国際紛争のへの武力行使を放棄した憲法のもとで、半世紀余りこれを忠実に実行してきた国家として、日本は国際社会にどんなかかわり方ができるのか。自衛権の範囲の明確化や国連を中心とした国際協力も外せない論点だろう。
 アメリカがはっきり日本へ自衛隊の派遣を求めるようなことを言った時、日本はどうするんだろう。アメリカもその辺は慎重なのだろう…

日本が目指すアイデンティティーは、憲法の前文や条文から十分にくみ取れるのか。それとも解釈を変えるか、あるいは改憲なくしては無理なのか。
 アイデンティティーという言葉はこの場合、存在意義のようなことでなくて、政治判断や国の在り方というようなことか…。

21世紀の日本の姿を突き詰める議論で、政治の怠慢を繰り返してはならない。
 揚げ足取りのようだけど、議論を突き詰めて獲得した「日本の姿」は本来の「日本の姿」じゃないような気も…。やっぱり揚げ足取りだな。  

 読んでみて、つぶやいてみたけれどなんだかよくわからない。周辺事態法だとか国連平和維持活動の意味や日本との関わりなどをよく分かっていないとやっぱりわからないのは当然だ。
 少し調べてみると、周辺事態法は簡単にいうと、日本の周りの国が他国から攻撃された場合、黙ってみていて被害をこうむっても困るので、それに対して直接武力は使わないけどそれなりの措置(アメリカの後方支援)を取らせてもらうということのようだ。
 国連平和維持活動はそれの世界版のようなことで理解してもいいのかな…。テロ特措法はこのPKOに合法的に参加する目的で作られたものなんでしょうか?

日本のテロへの対処はとりあえず置いておいて、中東の専門家の文章があったので、次はこれを読んでみます。(赤字はつぶやきです)

私の視点 空爆後アフガン「不在」では火種生む
日本学術振興会特別研究員(中東地域研究) 中川恵
米国での同時テロは、米国の南アジア政策を大きく転換させた。パキスタンが表舞台に立ち、米印関係は「一時保留」となった。
 インドを中心に展開してた南アジア政策がパキスタンがその窓口に一旦変わったということか…

米国は今後、中央アジアからの石油・天然ガスパイプライン敷設など長期にわたる地政学的な利益の追求のみならず、図らずもテロの大きな活動拠点となっている当該地域安定化のため、関係諸国との大きな妥協を迫られることになろう。
 テロによって、石油等から得ていた利益が当面、期待できないということか…

パキスタンは米国の申し入れを受けて、タリバーンの「育ての親」であるパキスタン国防省統合情報局(ISI)長官を政府特使とした使節団をタリバーンに二度にわたって派遣し、米国に対する軍事協力にも積極的な姿勢を示した。
 パキスタンが頼みの綱なんだな…アメリカにとっては

パキスタン政府には非常に苦しい選択だった。米国の申し入れへの否定的な回答は、政治的、経済的な致命傷となる。
 なんだアメリカの脅しに屈してだったのか…

時事通信社HPより
ただ、今回はインドを強く意識した決断だった。ムシャラフ大統領は演説で、パキスタンににテロ支援国家という汚名を着せようというインドのわなにははまらないと言い、核兵器の維持と「聖なる大儀」としてのカシミール問題など4項目を死守すべき国益とした。
 インドとパキスタンはもともと仲が悪いんだな。カシミール問題というのはインド・パキスタンの領土に関する対立問題のことみたいですね。ここに詳しいです。

米国からの今後の支援に期待する一方、インドと協調して同胞イスラム教徒を攻撃しているとする国内の非難を回避したい意図が明白である。
 う、パキスタン国内からのイスラム教徒に関しての非難はインドを利用して回避したいとはちょっと複雑になってきたな…

米国の南アジア戦略は、従来から核開発競争の防止が焦点だった。米国としてはカシミール紛争を鎮静させ、両国の衝突を防ぎたい。しかし、カシミールの状況はテロ事件以降、悪化の一途をたどっている。
 インド・パキスタンの衝突がヒートすれば、当然核開発競争もヒートする。テロはこのヒートを加速化していて、アメリカにとっては嬉しくないと…

インドの最大の懸念は、パキスタンが米国の地域政策の軸となることだ。80年代の米パ接近の再現を恐れ、インドは前例のない対米軍事協力を迅速に申し出た。過去数年の米印関係の進展は経済関係や地政学的変化によるもので、インドはこの機に米国との関係強化を図る狙いだ。
 インドもアメリカに気に入られたいということに関してはパキスタンと似たようなものと…

米政府の最終目標はアフガニスタンの安定である。最大民族のパシュトゥン人を欠く北部同盟による政権掌握はパキスタンにとって歓迎できない。それではアフガニスタンの内政が安定しないのみならず、パシュトゥン人の三分の一が住み、アフガニスタンからの難民も多いパキスタンの政情も不安定となるからだ。
 パシュトゥン人を掌握することがアフガニスタンもパキスタンも安定へ導く道なんだな… パシュトゥン人についてはここに詳しいです。

さらにシーア派が多数を占める北部同盟だけに基盤をおいた政権となれば、イランとの関係は必然的に強まる。そうなると、一部で構想されているイランからパキスタン経由インドへの天然ガスパイプラインがアフガニスタン経由またはアラビア海経由に変わる可能性がある。またパキスタンにとって「第一の敵」であるインドはこれまでも北部同盟を支援してきた。
 政権の基盤によって変わるのはパイプラインの経由地かよ!(三村マサカズ風) 北部同盟の用語解説はこちらで。

米国とパキスタンはタリバーン穏健派を入れたアフガン新政権を、ロシア、タジキスタン、インド、イランはタリバーンを完全排除した新政権を望んでいる。
 タリバーンといつから伸ばすようになったのか。それはともかくタリバーンを入れるか入れないかで各国の思惑があるということか…

いずれも自国の思惑から発する「支持」である。
 思想的共鳴とか関係ない、利益をみすえた外交というやつだな…

アフガニスタン国民の利益への考慮より米印パといった関係国の国益を優先させたアフガン「安定化」が新たな紛争の火種を生む可能性は大きい。
 一つの国の安定化に外交は欠かせないのだろうけど、身勝手な国益優先では確かにそうだな…

タリバーンなど各派の代表団を招き、独自に調停を試みてきた日本やNGO(非政府組織)なども含めた国際社会による解決が不可欠である。
 日本はこの件に関しては必要とされているようだから、自衛隊派遣よりもこのあたりの交渉に集中するのがいいのかも…
(写真は記事に無く、自分で挿入)

具体的になにが分かったということはないけれども、勉強の端緒にはなったんではないだろうか。いずれにしても的確な外交能力が今一番求められているという感じなのだが、田中外相を補ってやっていけるのかな…という不安を感じるところではありました。(また機会があれば勉強してみよう)

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テロ「根絶」の意味 01/10/31記

 昨日は同時多発テロ事件の知識編という感じだったが(全然網羅されてませんが)、10・30朝日新聞夕刊で「テロと自由」と題して、テロと自由の関わり合いのようなことについての評論文があったのでこれをテキストにしてみます。(赤字は自分のつぶやき)

論壇時評 テロと自由
京大教授 経済学者 間宮陽介
黒煙を上げる世界貿易センタービル
の1棟の横で、もう1棟も爆炎と破片を
吹き上げて爆発した=AP ashi,comより
世界貿易センターの2棟目のビルに飛行機が突っ込む直前、テレビはその飛行機を見上げる一人の消防士を映し出していた。もちろん彼は1棟目がテロの仕業だとは思ってもいなかった。また飛行機かと目を落とした直後、飛行機はビルに激突する。身構えて振り帰るその少しの間をテレビは的確に映し出していた。
 なにげなく見ていたニュースステーションの画面が切り替わってビルに飛行機が突っ込む画面はずいぶん派手な事故だななどと思っていたのを思い出す…

誰もがテレビに釘付けになったこの視覚的な事件に頭脳がついていかなったのは消防士だけではない。事件を境に「世界が変わった」といわれるが、その意味は世界が、世界Aから世界Bに変わったということではなく、視覚と頭脳が一致しなくなった、見なれた風景が自明性を失ったということである。
 個々人の中にある当たり前の風景がいつ一瞬にして消滅するかわからないということでしょうか…

同夜、テレビを見ていた橋本治氏は、なにかが変わったと感じる(「ああでもなくこうでもなく」広告批評11月号)二十世紀がガラガラと音を立てて崩れて行く」のを感じる。人々は20世紀の延長線上に21世紀がが続くと考えているけれども、そうではない。「『二十世紀は終わった』ということを明確にしなければ、この先の新しい百年はないだろうと思うし、二十世紀と手を切らなければ、21世紀はやっていけないのだ」。なかんずく、国家のあり方が変わった、戦争の形が変わった。
 史上最大規模のテロ事件が起きたのが21世紀最初の年だったのは偶然ではないという事なのかな…

 組み替わった神経回路
氏ならずとも、多くの人達が視覚と頭脳を結ぶ神経回路が組み替えられたことを感じている。このことは、政治の舞台で事が劇画風に進行しているのとは際だった対照をなしている。いや、事が劇画風に(視覚的に)進行すればするほど、それを感受する神経が未知の対象に触れたような戸惑いを感じてしまうのである。
 なんだか分かりにくいなあ。「視覚と頭脳を結ぶ神経回路が組み替えられた」というのはテロ事件の衝撃度の大きさをうまく頭で理解できないもどかしさのような事か…

「正義と邪悪」「限りない正義」「不朽の自由」「旗を見せろ」−ここでは言葉さえもが劇画風であり、視覚的な単純明快さをもっている。にもかかわらず、これらをすんなり受容する事を拒む何かがそこにはある。
 アメリカの論理は単純明快だけど、それがアメリカの士気を高めているのに一役買っているんだろうな。

たとえば、「テロを根絶する」という。テロを根絶するために各国は一致協力し、日本政府はテロリズムという敵に対処するためにテロ対策特別措置法を成立させ、自衛隊法を改正した。テロを根絶しようとすることは自由と民主主義のためだといわれる。だが、テロを「根絶」することは、自由を確保するどころか、ある種の全体主義に連なりはしないのだろうか。
 テロというのはこの場合タリバーン勢力のことのみを指しているのだろうか。広義のテロそのものを無くすことは無理だろうし。

むろん、このような疑念を発するからといって、テロを許容せよとか、テロの中には悪いものもあれば善いものもあるなどと、いっているわけではない。テロは悪である。絶対的悪といってもいい。にもかかわらず、テロを「根絶」しようとすれば、それだけ自由を抑圧する可能性も高まるのではないか、ということである。
 テロという最終的な手段が全く無くなることはないと思うけれど、それを「根絶」しようとするアメリカの姿勢が全体主義に通じるという感はないでもないな… 

この重要な点を指摘しているのは、私の知る限りでは、宮崎哲弥氏(「リベラリズムの不自由さの末路」中央公論11月号)と末永徹氏(「最大の敵は、テロではない」同上)の2人だけである。宮崎氏は「リベラル・デモクラシーの危機は、外部からの攻撃によるものばかりではない。むしろ戦時体制の整備にともなう、内側からの崩壊のほうが致命的ではないか」と問いかけ、政治哲学者ジョン・グレイの著書を引きつつ、自由主義という普遍をめざすイデオロギーが「自由であること」を圧殺する可能性のあることを指摘している。
 アメリカが勧善懲悪で一直線に走って逆に不自由に陥る危険性に対して警戒を示すことはそんなに珍しいことなのかな。よく分かりませんが…

同様に末永氏も、「個人の自由にとって最大の敵は、テロではない。ほかならぬ政府である」と断じている。イスラム原理主義と同様、自由と民主主義も一つの思想にすぎないということに加えて、「テロリストの取り締まりに関して幅広い権限を政府に与えることは、やがて、ある人がテロリストかどうかを勝手に判断する権限を政府に与えることになる」からである。
 テロの取り締まりは究極的には個人の管理になる、それが進むことの危険性を言ってるわけか…。

 「不朽の自由」と矛盾も
テロにしろ何にしろ、「根絶」という発想は自由とは両立しない。ポルノを根絶しようとすれば、なにがポルノであるかを判断する権限を政府に与えなければならない。支配者は自分の気に入らない芸術にポルノの烙印を押して、特定の芸術を排斥することもできるのである。
 また分かりやすい例だな。テロとエロとは一線を画して考えたほうが…などといいたくなる。

テロの根絶にも同様の危険が付きまとうことを両氏は論じているのだが、テロの場合には、その危険はもっと大きくなる。なぜなら、いま各国が行おうとしているのは、実行犯を事後的に逮捕(あるいは殺害)することだけではなく、その可能性をも封じようとすることだからである。
 捕らえただけでは、テロ再発の可能性を懸念するのは当然で、それ以上なんらかをするのも当然のような気もするが…大量虐殺のようなことを想定しているんだろうか…

再度、念を押しておくと、このことはテロを放置せよということを意味しない。テロはあってはならない。問題はその手段である。テロを根絶するという発想に立つと、今回のアフガン攻撃のように、罪のない市民まで巻き添えにするし、「不朽の自由」を標榜(ひょうぼう)する戦いが自由を朽ち果てさせる戦いとなる可能性さえでてくる。
 では、どうしたらいいのか。アフガンの人々の巻き添えはまずいが、おとなしく黙っていられないアメリカ側の気持ちもわかる。それだけテロの規模が大きかった。ビンラディンが潔く出てこないからこんなことになるのだな…まったく

 紛争の背後にあるもの
藤原帰一氏(「日本がなすべきことは何か-テロリズム克服の条件」世界11月号)が、テロリズムを克服するためには、軍事的解決よりは非西欧地域の紛争の背後にあるものを見よ、と論じているのは上記の点に関わっている。日本がなすべきは自衛隊の派遣よりは地域紛争における戦災復興と制度構築であるという指摘も同様である。もっとも氏の論文はあくまでも戦争を前提とした上で、戦争における日本の果たすべき役割を論じたものである。
 藤原氏は日本の中東との交渉能力に期待しているのかな…現実的な考えのような気がするな…

今後の最大の課題は、テロリズムと戦争をいかに防ぐかということであり、そのさい、その防止は市民の安全と自由とを両立させるものでなければならない。だとしたら、われわれは紛争地域の戦後復興だけでなく、いわば戦前復興にも意を用いなければならないはずである。
 最大にして、究極的な課題ですね…    
(太字は原文のまま。写真は記事にはなく、自分で挿入)

難しい専門用語を使用していないので、全体的に読みやすく理解しやすかったが、前半部分の「視覚と頭脳を結ぶ神経回路が組み替えられた」あたりのことはよく解説されていない感もあるので、橋本治氏の(「ああでもなくこうでもなく」広告批評11月号)を読んでみないと詳しくはわからないようだ。テロ事件を境に変わってしまったことに関しては、文学系方面の人の言葉のほうが僕は知りたいので読んでみようと思う。

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ドラえもんの道具の用途は広いなあ 01/11/2記

ドラえもんてまだ放送しているのである。たまたまやっているのを見てしまった。珍しくのび太がドラえもんにほめられる所から始まる。欲しかった怪獣図鑑を長年の苦労した貯金の結果、1500円という大枚をはたいて買うのび太。その地道な貯金の努力に対してドラえもんが感心する。なぜか本を友達に自慢しにいくのび太はジャイアンに捕まってしまい、せっかくの本を取られてしまう。
 と、ここで道具の登場である。目的としては、ジャイアンに取られた本を取りかえすだけなのだが、このなんとかという道具は(名前失念)相手に頂戴といえばなんでももらえるという広範囲な用途の道具だ。だいたいドラえもんの話のパターンはいつもこれだ。道具を出す状況まではのび太にも同情の余地があるが、その後目的達成のあとは増長していくのび太。しかし、最後にはその増長を反省し、完結する。教育上も体裁がよく、ストーリーの展開も子供に分かりやすそうで、親子で見ているお茶の間も多いのかもしれない。
 が、よく見ているとディティール部分で今の子にはよく分からないだろうことが見受けられる。途中、すね夫からテレビゲームを取り上げる場面があるが、いまだに初代ファミコンにロムソフトだ。ジャイアンから取り上げるサインは千葉賢一ならぬ千葉県一。ほかにも新しい古いに関わらず、望遠鏡だとか、漫画だとか「子供の宝物」に対する概念が微妙に古い感じなのだ。このディティールを古いままに留まらせているのがドラえもんのワンパターンさとあいまって、サザエさんを彷彿とさせる。

(追記:千葉賢一は千葉真一の間違い。ジャイアンが好きなアクションスターということでの千葉さんの起用なのだが、今だったら誰に替わるのだろう…。アクションスターという言葉、分野も今は無いかな。Vシネマあたりにその分野の人達がシフトしているのだろうか。

ダンディ〜な正装姿 迫力満点です…

失礼ついでに千葉真一公式HPより写真を拝借しました。


 






ビジュアルバム「寿司」の詳細 01/11/4記

 松本人志ビジュアルバムについては前に書いたことがあるけれど、ビジュアルバムについてネット検索をしてみたところ、このシリーズについて非常に詳しく論評しているHPが見つかった。このシリーズの面白さについて熱く語っていて、なおかつ鋭く分析されている。冒頭で、「松本さんの笑いのおいしい所、つまり松本さんが笑い所としている部分が余りにも蔑ろにされているから、おいしい所を知ってもらおう」と書かれているとおり表層的に見ていたのでは分からない部分の細かい指摘が鋭い。
 「安心」の中に「寿司」というコントがあるが、これは単純に見ると「寿司を潰すところが面白かった」だとか「おばさんが最後に目を潰すなんて狂ってる!」とかいう感想になってしまうのかもしれないが(それだけでも笑えるだけの迫力があるとは思う)、このHPではそうではない松本さんなりの「おいしい所」があると主張する。
 「おいしい所」が気になったので、HP内での問いに勝手に答えてみようと思う。

何故エビ、穴子、玉子は潰されたのか?
 エビ…直前の会話は東野・木村によるグアムへの旅行話。東野の愛人と思われる木村は置いていくペットのことが気になり、ペットを預けるところはないかという話の流れで、皆が国内で預ける場所を考えているが、グアムでないと心配だからダメと言う。このあたりの会話の中でおばさん(松本)の怒り顔が挿入される。この流れからみておばさんの突っ込みどころは、ペットに対する愛着心を臆面もなく垂れ流す木村に対してのものだろうか。

 穴子…直前の会話は今田・大将(板尾)の会話。大将が穴子の良いのがあると勧め、応じて注文する今田。「私も」と木村も注文。旅行話をする木村・東野。それを聞いていた今田がポツリと「旅行とか行ってみたいすねー」と言い、大将が応じる。大将が「穴子、お待ちー」でおばさん潰す。この流れを見る限り、どこにおばさんの怒りを買うことがあるのか不思議だ。おばさんの怒り顔のアップはこの間、1回。木村の「私も」の後である。強いて言うとお勧めだからといって即注文し、それに便乗するように注文することがおばさんにとっての怒りだとも思えるが、なにか違う。これは置いておこう。

 玉子…直前の会話は東野・木村、今田・大将の会話が並行する。東野・木村は木村が国内旅行を希望。「あなたにはお金、使わせたくないの」などと言っている。今田・大将は穴子の感想など(あまりよく聞こえないが)。このあと、おばさんが出てきた玉子を潰す。強いて言えばになるが、木村の東野に対するべたべたした感じの配慮であるとかだが、これを直接の原因に考えるのもなにか違う。穴子→玉子の注文の順序か(いやそんな注文の順序などにこだわりを見せればおばさんの怒りは確実に買うだろう)。これも分からない。

最初に潰されるのは「中とろ」でその時のおばさんの心中は「ちょっと今ボーナスで金持ってるからって中トロか!」(HPより)という怒りだろうという事なので(これはちょっと分かりやすい)、ものすごく些細なこと、通常だったらむしろ笑いで応対するところにおばさんは怒りを感じるという性格だとおもっていいのだろう。おばさんはしゃべらないという設定になっているので、怒りという言葉は不適当で彼女なりの言葉上のツッコミを「潰す」ということで表しているともいえる。

最後は木村の「首にしちゃえば」という言葉に、おばさんは木村の目を潰すのだが、「潰す」という事にこだわっているようにも見える。潰すという行為の対象が、だんだんとエスカレートしていくような感じだ。「ボーナスで金持ってるからって中トロか!」という軽い日常的ツッコミが、寿司ネタを潰すというツッコミで解消されているのだから、「首にしちゃえば」という屈辱的な言葉に対するツッコミは目を潰すという行為になる、というのはおばさん内常識から考えれば当然のことなのか。

このおばさん内常識は当然おかしいので、おばさん=狂っている、ということにならないでもない。が、何気ない素人の日常の会話のセンスを松本さんが見れば、このようにツッコミどころだらけだということを極端な形で示したのかもしれない…と理解してみてもいいけれど、なんだか腑に落ちない。
 最後、おばさんが木村の目を潰す前に今田に頼まれたキャスターマイルドを封を切り、取りやすいように一本箱からのぞかせているのが注目かもしれない。頼まれた仕事はきっちりと行うのである。その上でセンスのない会話、言葉に「潰す」という鉄拳制裁を行うということなのかな。…と考えたあとで、このコントで面白かったのは何と聞かれたら、わりあい素直に「寿司を潰すところが面白かった」と答えそうだ。力強く、そして確実に潰されてしまう寿司。それを少々残念そうに食う人達。これだけでも結構面白いのだが、どうなんだろう。

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スーパーでの心理 01/11/5記

 特に意味はないのだが、スーパーに入って出てくるまでの一連の頭の中に浮かんだ言葉を記してみようと思う。
「ここのかごって客が置いたのを直接使うから、レシートとか野菜くずなんかが入ってるんだよなあ。ま、汚くはないんだろうけど」
「あ、きゅうり一本20円か、安いな、まとめて7本だとお買い得か。買っとこうか、でも袋ないなあ、あれ、おばさん直接かごに入れてるな、後でビニール袋に入れるみたいだな。キュウリの善し悪しってわかんないなあ。なんかとげが多くて太いやつが良いのか。ま、適当に5、6、7本と。これ6本とかだと7本より高くなるからなあ、気をつけないと」
「ウインナーってピンきりだなあ。ガーリック風味とかレモンとハーブの香だとか高級そうだけど、安いのはたいてい二袋300円とかなんだよな。袋をつないでるセロテープがなんだか安っぽくてヤだなあ」
「乾物系が置いてあるところって客が少ないのか通路が狭いなあ。かがんでチェックとかしてると、他の人に迷惑かもしれないな。そばが今日は安いのか…」
「魚系は割り引きシールのやつも出はじめてるな。前に100円なのに100円引きのシールがあって本当に100円引かれてたのには笑ったな。イカ刺しこんなにあって安いなあ。切り済みのやつは楽だろうけど、鮮度は若干落ちるのかな」「行ったり来たりしてる人がいるな。あ、そうそうこれも買わなきゃというやつか」
「卵はLを買うべきか、値段の若干安いMを買うべきか、1個2円の違いならLかな」「どっちのレジに並ぼうかな。前の人のかごが一杯だけど、人がちょっと少ないからこっちにしようかな」「なんだか前の人、野菜ばっかりだな。大根とねぎでかごが一杯って家族の食卓は大丈夫か。ま、今日は野菜のまとめ買いというやつか」
「ビニール袋にキュウリ7本が入りました、と。改めて思うけど、ビニール袋ってなんで要るんだろ。豆腐とかの汁物系への配慮なんだろうけど、ほんとに袋破れたら、ビニールにくるむぐらいじゃ意味ないなあ」
 とかうだうだ思ううちにスーパーの外にいました。多少あとから思ったことも付記してあります。



ガチンコ「ラーメン道2」最終回 01/11/7記

 ラーメン道、いつのまにか最終回をやるようなのでみてみた。最近全然やってないようなので、ガチンコ自体久しぶりだった。いきなりよくわからない男と女のぐだぐだな会話が始まったので、一旦チャンネルを変えてしまったけれど。でもこの晩餐会(普段言えないことを思いきって言うのが一応の目的のカップル会話)というのはガチンコという番組の傾向としては分かるな。ほとんど見てないので実際のところはなんともいえないけれど。晩餐会とラーメン道の組合せというのはガチンコ内では緩急のつもりなのかもしれないが、どっちも大して変わらないのかもしれない。
 それはともかくラーメン道は前回同様、優勝者を決めるのは料理の鉄人風特設スタジオにて、一般審査を集めてその得票の数であった。ラーメンマニア200人が、一番美味しかったと思うラーメンを作った人の名前を1人だけ投票するのである。ここに師匠である佐野実の投票権はない。なんだかよく分からない決定法である。第二弾の今回は支那そばやの「のれん」を分けるということを主眼にしているはずなので、師匠佐野の納得のいくラーメンを作ったものにその権利があると勝手に思っていたんだけれど違うみたいだ。自分の「のれん」を渡すのをよく分からないマニア達の得票で決めるというのは普通に考えて不自然だ。
 結果は4人ともわりと僅差で、40杯ぐらいから60杯ぐらいまでで分かれていた。ラーメンの味はどうだったんだろう、修行の成果は何に生かされていたのかという逡巡はなくいきなり終わってしまった感じだ。回顧VTRはしつこいほどに流れていたが、まさに精神論のみでちょっと恥ずかしい。優勝した今泉さんは味噌ラーメンを作っていたが、ラーメンマニアを唸らせるほどの味噌ラーメンが師匠佐野の具体的な指導のない中で作れるのなら、修行なんか要らないような気もする。いろいろツッコミどころがあるんだけれど、惜しくも2位になった平井さんのラーメンに対して「美味しかったよ」と声をかける佐野と平井さんの「ありがとうございます」というやりとりには不覚にも涙してしまった。感動が画面から押し寄せてくるのだが、ストレートなだけに抵抗できなかったという感じだ。感動の要素は佐野の最後に見せた優しさと生意気という設定の平井さんの従順さなのだが、まさにストレートなパンチだったと思う。

(追記:12月頃行ったラーメン博物館の製麺のブースで今泉さんを見かけた。佐野実と共に働いている。ここのHPで、店はいったん閉めて、春に再度支那そばやの支店としてオープンすることが書いてあった。01/1/20記)

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1人カラオケ 01/11/13記

 ぽっかりと時間が空いたとき、街中でどんな時間の過ごし方があるだろうか。僕はたいていは安めのコーヒーショップで本を読んだりして過ごすことになるのだけれど、ふとカラオケ屋の看板をみるとドリンク付きで1時間180円とある。これは安い。(この段階でどのチェーン店か分かれば相当のカラオケ通)個室を与えられて、その辺のコーヒーショップのコーヒー1杯より安いぐらいである。
 1人ではいるのはちょっと気後れするけれど、行ってみた。カラオケボックスに来るのもずいぶん久しぶりだ。受付でなぜか住所や年齢まで書かされたのには少々驚いたが(嘘書いたけど)、多分防犯対策なんだろう。200円でお釣りが来るのが嘘みたいだ。カラオケボックスができた当初は室料に1人1,000円ぐらい払って、なおかつ一曲歌うごとに100円を機械に投入したりしたもんだがなあ。
 部屋に入ると当然歌う気はあまりない。なんとなく部屋の説明書きなどをみてみる。16歳以下は18時以降禁止だそうだ。かなりきつい時間制限をしている。それで受付の年齢記入があるのだろうが、証明するものは見せなくてもいいようだしどうなのだろう。あと、「ドリンク類をこぼした時は必ず連絡してください。連絡しない場合は掃除料をいただくことになることがあります」のような妙な罰則規定があったのだが(ここの部分少し記憶があいまい)、どの程度のこぼしで連絡すればいいのか小心の僕などは迷ってしまう。3、4人で入って食事も頼めば小さい机なので、こぼす確率は結構高そうだ。マイクコードなんかも絡むだろうし。ソファーをみると何ヶ所かガムテープで傷を補強してある。全体に薄汚れた感じが数々のドリンクこぼしなどに耐えてきただろうソファーの疲れを物語る。
 歌わないまま、時間が過ぎていくがBGMはかなりうるさくかかっている。周りの部屋からは陽気な歌声がするし、部屋のソファーは薄汚れていて、コーヒーはまずい。一時間180円歌い放題の贅沢が消えかかるのがもったいないので、ちょっと歌ってみることにした。井上陽水やちょっと昔のヒット曲など。歌っても歌っても虚空に消えていく、純粋に無駄なエネルギー。が、久しぶりだったので気分転換にはなった。



なんとなく気になる… 01/11/17記

 なんとなくテレビをつけていたら、パソコンのCMだと思うが、小学生ぐらいの女の子が「お父さんにも簡単!」と言っていた。実際に扱っていた商品の詳細は分からないけれど、お父さん世代にはまだまだ難しいパソコンが簡単になりました。というようなことを言いたい雰囲気だった。でもこの親子の年齢層は小学生の娘と40才前後の父だ。40才前後の父をなんの注釈も無しに、パソコンに詳しくなくて当然の世代として代表させているのはなんだろう。これが20代OL風娘と60ぐらいの父であるならCMの構図が非常に分かりやすくなるのだが。それがこのCMでは避けられていた。高齢者はたしかにパソコンに馴染みはあまりないだろう。で、これをリアルにCMに取り込むことに対してちょっとした遠慮が発生しているとも考えられる。パソコンが出来ない(マウスってなに?レベルでの話として)というのは現在の状況では負のイメージになってしまっている。
 一昔前ならパソコンが出来るのは特殊能力とも言え、オタクと抵触することもあって極端に言えば、「出来る」方が負のイメージだった気がする。負のイメージが「出来ない」方に傾いた昨今の状況では、これを高齢者と重ね合わせることになんらかの遠慮が生じるのだろうか。といってもCMよくみてないので、ものすごく勘違いなことをいっている可能性もある。
 そのあとチャンネルを変えたところ、伝統芸能を紹介する風な番組(つまり非常に上品な空間)がやっていた。このなかで司会者がその芸能の熟達者に質問をして、「それはやった?…」(言葉の詳細は曖昧)というような舌足らずな言葉を発していた。敬語も使えないのかと一瞬違和感を覚えたが「やった?」のあたりは語尾上げ風ないいまわしで、質問ではなく「やった○○です」の○○部分を省略して、お互いに言いたいことが分かったらしく、「やった?」で言葉がストップしていたみたいである。お互いに分かられて、うなづかれてもなあ。公共放送の中年アナウンサーが語尾上げ風いいまわしを使っているのにはちょっと驚くが、その場の雰囲気には妙にあっていた。と、気になったことを少しメモしてみた。
 

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東京国際女子マラソン’01 01/11/18記

 去年、この番組について書いたのが最初だったのだが、今年は実際に見に行ってみた。有森裕子さんがラストランらしいので、彼女の走りを見るのは最初で最後になりそうだ。時間的にラスト2キロほど前の四谷駅前に行った。外堀通りから新宿通りへ曲って入ってくるところはなかなかいい絵になりそうだったので、駅前交差点で見ることに。
 せっかくだから旗振りなどしてみようと思い、配っている人を探してうろうろしたところスタッフらしき人がたくさん旗を持っていて、テレビ朝日と朝日新聞の旗2本セットを受け取った。周りはいろいろな年齢層の人でそこそこの人込みだ。

   有森さんの笑顔
(写真と本文とはあまり関係ありません)
ここより拝借

 後ろに自転車に乗ってランナーが来たら一緒に走るから見てろよ、というようなことを携帯で話している人がいて、やっぱりこういう連中っているんだなと妙な発見をした気分になった。そうこうしているうちに、徐々に先頭のランナーが近づいてきたらしく、にわかに交差点の交通整理が慌しくなった。新宿通りの新宿方向の車線を確保して、それ以外の通りは普通に走っているので、警官が何人か交差点に一斉に飛び出して交通整理をする。毎年やり慣れているのか、なかなか手際が良い。
 ランナーが来る前になぜか最初に来たのは、自転車の4、5人組。そのあとで電光掲示板を掲げた車、そしてカメラマン満載の車のあとで、ランナーがやってきた。
 優勝候補の筆頭、ツルが青いユニフォームで交差点を曲ってくる。ラジオを持っていかなかったので、状況がわからず、いきなり先頭を知ることになるのも面白いものだ。しかし一瞬だな、通過するのは。三番手ぐらいまで見るが、日本人のランナーは現れない(正確な順番は曖昧です)。5、6番目に有森さんが登場。ひときわ観客の声援が高くなり、有森さんも笑顔を返してくれた(ように見えた)。その後、安部友恵さんなど有名ランナーが通過して行くのを見れて満足して帰ることにした。しかし、これを書いているのは夜だが、結果を全く知らないのである。スタートしてから数分のテレビでの走りと、四谷駅前での実際の走りしか知らない。なんだか奇妙な気分だ、朝にでも新聞で確認してみようかな。
 全くレースとは関係ないが、四谷駅周辺はフィリピン系の人がやけに多かったような気がする。小さなマーケットみたいなものがあって、スナックとかバナナとかも売っていたし。たまたま入った店のウエイトレスの人もフィリピン系の人のようだった。キリスト教系の集会かなにかがあったような雰囲気だった。



こんなこと言ってるんです… 01/11/19記

 FMのラジオをつけっぱなしにしていたら、外人(日本語を母国語としてない人という意味で)のDJが今日読んだ新聞に政治家がこんなことを言ってるんです…ととてつもない失言をしたかのようにしゃべっていた。誰が何を言ったのかと聞き耳を立てると、民主党の鳩山由紀夫が「狂牛病の”狂”という字の使い方はおかしい。人間には狂という言葉をつけない、それと同じようにそのような言葉は使うべきではない」と言ったことがそのDJには非常におかしく感じられたらしい。
 鳩山由紀夫の言葉の詳細は分からないし、このDJがなぜそんなにおかしい言葉と感じたのか分からない。人間と牛とを一緒にするなんておかしいという事なのか、「狂」という言葉にこだわること自体のおろかさについて怒りを感じたのか、それとも狂犬病って既に認知されているのに今更なにを言うのだという違和感なのか、分からない。
 DJの口調は彼が日本語がペラペラではないので、言いたいことの何割かは伝わっていなかったのだろうと思う。でも彼はそれがおかしいことをさも当然としているようで、鳩山の言葉の内容をしゃべるだけで、それ以上その理由を語ろうとはしない。さらに嫌なのは優等生が何かおかしいことを発見したこと自体を自慢したいかのような勝ち誇った言い方だ。とりあえず聞き耳を立てて損をした思いだ。この口調を聞いていて連想するのはよく知らないけれど、ロック系の歌手のつまらない社会批評みたいなやつだ(政治家など偉い人をとりあえず批評してみるような…)。
 

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自分が嫌になるのは… 01/11/21記

 先月ぐらいだったか、どこかの居酒屋に10時ちょっと前ぐらいに入ろうとしたことがあった。営業時間は知らなかったのだが、店から出てきたお姉さんはすれ違い際に、「いらっしゃいませ」といいつつ外でなにか作業をしようとしていた。ここで閉店間際であり、看板などの撤去作業をしているのだと気づけばよかったのだが、そのまま入ってしまった。中にはいると、すぐ近くに女将さんらしき人がいて「すいませんが、もう終わりですので…」という事ですぐにきびすを返した。ここで先ほどのお姉さんとまたすれ違ったのだが、この時この女性に僕はなにか謝りの言葉を期待してそっと顔を見るようなことをしてしまった。時間的に微妙だし、この女性はまだ大丈夫だろうと思っての「いらっしゃいませ」だったのだろうし、別に入れなかったことに関して自分としてはなんの不満も無かったのだが、なにかその女性からの一言を期待するかのようなさもしい根性。ああ、嫌だ。
 案の定その女性は「すいませんでした…」と言ってきた。「いえいえ…」などと返し、軽く会釈をして帰ったのだが、なんとも罰が悪い。ということでこの場を借りて、その方に謝りたいと思う。(伝わる可能性はゼロなわけだが)
 で、こういった際どんな態度に出ればお互いが気持よくなれるのかを箇条書きにしてみた。(←バカ)
・「いやあ、用事を思い出してしまいまして…」(嘘はよくないな)
・「美味しかったです。ご馳走さまでした。…」(入って10秒なのに嘘丸だし)
・「閉店だったんですね。また来ます…」(これでいいだろな)

こういったことに限らず、些細な相手の失敗をあげつらうことほど恥ずかしいものはないと思う。といっても相手がその失敗に気づいているが、あまりに些細なため開き直る態度に出るのはまた別問題だが。



番組の意図を無視する男 01/11/21記

 ダウンタウンセブンを見ると、何が面白いといって山下真司ほど面白いものはない。番組自体は面白い要素は非常に少なそうな雰囲気で、芸能人が健康やらグルメについて情報を寄せて雑談をするものなのだが、山下真司はこの雰囲気を壊そうとする。壊そうという明確な意志はないのだろうが(結果的に笑いに着地している)、番組の流れを阻害するような事をわりと平気で言うのである。例えば、ある天ぷら屋の定食が安くて美味いという紹介があると山下は周りの人達の安いー、とかうまそうーとかいう言葉を遮るようにして「あんな安いわけないよ、嘘だよ、今回(テレビ用)だけだよ」などと言う。天ぷら定食は量も多く、美味しそうで、店の内装も大衆的とはいい難く、1800円(だったと思う)という料金はもしかしたら嘘と思わないでもないのだが、番組で放送し、食には権威のある服部先生が紹介しているのだから、まあ本当だろうと思っていたところに、これである。
 視聴者レベルでもまあ、一応本当だろうと思い始めているところへきて、この暴言ともいえる言葉なのであるが、山下の妙に懐疑的な発言は番組に深みをもたらしているように見える(なんだか大げさ)。風邪の予防の方法を話している所でも、様々なタレントの民間療法的なものも含めて紹介したところで、山下は「風邪薬を飲むのが一番じゃない」というような身も蓋もないようなことを言い出す。流れを無視する山下、しかしその言葉は視聴者の心の中でもくすぶっているだろうツッコミを見事に反映している感じで面白い。山下真司が今後もこの番組にで続けますように…。

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日経新聞に載った大食い記事 01/11/23記

 そうこうしていたら遂に、日経新聞の一面のコラム「あすへの話題」で大食いのことが取り上げられていた。テレビの中でのブームだったものが一般の新聞で学者が考察するような対象になったら本物のブームや社会現象といっても差し支えなさそうである。(といってもあすへの話題でかつてどんなことが取り上げられたかは知らないし、単にネタに困っただけなのかもしれない)
 せっかくだから、全文載せてみる。

大食いコンテスト 鷲田清一(哲学者) 日本経済新聞01/11/21夕刊より
 宵の口にテレビをつけると、このごろよく「大食い」コンテストをやっている。挑戦者はいかにも大食いといった体格ではなくて、細身の人が多い。そのきゃしゃな人が、ギョーザ四百個、ショートケーキ二百個、カレーライス五十杯などに挑戦する。あのからだのどこに、と、ちょっと信じがたい量である。それを実況中継でたいらげる。 はじめは東京の一局から始まった番組らしいが、今では複数のチャンネルで同趣旨の番組をやっている。優勝者がアイドルとなって、別の番組で自分のコーナーもちもする。どうしてこんな番組が流行(はや)るのだろう。そういえば「筋肉番付」とかいう、普通なら筋肉を切ってしまいそうな過酷な運動能力を競う番組もある。 意外なのは、勝つために苦しいのを押して詰め込むというのではなく、最後までおいしそうに食べていること。目標を達成した後まだお替わりする人もいる。知人に聞くと、あのコンテストを見た後はぐんと食欲が出ると言う。 はじめは人体改造がポイントなのかと思っていた。他の番組では私室のリメイク・コーナーが流行っているし、世は寝ても醒(さ)めても「構造改革」なのだから。とにかく、どうし ようもない前提もしくは条件と思われているものを変えるということが、強迫観念のように人々の意識を駆っている、と。 が、よくみると単純な人体改造ではない。ホットドッグならソーセージを先に数本まとめて食べ、食い物の間に砂糖水をこまめに飲み、寿司は醤油(しょうゆ)をつけないで二個ずつ……と、それぞれに技(わざ)がある。もともと持っている体質ではなく、それをどんな方法で変えるかが問題なのだ。 今の身体にどういう問題があるのかではなく、ただ「変えたい」という衝動だけがある。そういう切迫に視聴者が共振する。この不気味さがいまこの国を包んでいるようにみえる。

 どの番組を見て、この文を書いたのかがいま一つ分からない気はする。ギョーザ四百個、ショートケーキ二百個…あたりからすると、フードバトルクラブだろうとは思う。
 でもこの文は「大食い」の中に他の社会現象と似たような要素を見つけ出したということを言いたいようなので、そんなことは問題ではないだろう。
 ところでこの文の趣旨はこんな感じだろうか。

 @「構造改革という強迫観念が人々の意識を駆っている」→A「変えたいという衝動が大食いの中にある」→B「大食いのブームも構造改革の”変えたい”という強迫観念と一致している点で、この国を包んでいる社会現象の一端である」

なにか強引というか前提@に納得できない。日経新聞的世界においては、そんな強迫観念を感じながらビジネスマンが日夜頑張っているのだろうか。通りのいい言葉を前提にするのはつまらない。Aの「変えたいという衝動」というのはフードバトルクラブでやっていた科学的トレーニングみたいなものを指しているんだろう。でもこの「衝動」も大食いの中でフードバトルクラブがテレビチャンピオンとの差別化を図って強調した面もかなりな程度あるものだろうし、そういったトレーニングの効果の程も明確ではないように思う。
 ま、こういったことを指摘したところで、大方の日経新聞読者は大食い番組をまともに見てはいないだろうから、自分達の普段の視点から大食いを捉える言葉を提供したという事の意味の方が強い気がする。それはそれでいろんなところで、ブームや流行を一つの流れの中で理解してしまう安易さも有効なのかもしれない。
 が、なんか違うような気もしたがどうなのだろう。(←という自分は何様だ)



美味しんぼ38巻「ラーメン戦争」メモ 01/12/4記

 ブック・オフ100円均一の棚で上記の本を買って読んでみる。この本昔はよく読んでいて、ブックオフがない頃は古本屋で300円ぐらい出して買っていたことを考えると、ブックオフよくやってるなという感じ(宣伝じゃないです…)。初めはなにかとってつけたような導入で読む気が萎えてしまいそうになるが(大手自動車会社の取締役が高校時代の思い出が忘れられないでラーメン屋を始めるなど)、さすが蘊蓄に関しては老舗の漫画である。いくつか気が付いたことなどメモしておこう。(うろ覚えがほとんど)

yahooブックスショッピングより

 かん水…麺を練る時にきまって使われるものだが(今では使われないのが一般的?)、この水の成分それぞれの効果を調べ、結果、内一つの成分のみが麺作りに有効な成分であることがわかる。しかし、この成分も健康にはよくないものであるらしく、かん水の必要性を否定していた。

旨味成分…西洋人は肉類からとれるイノシン酸を旨味と感じ、東洋人はグルタミン酸を旨味と感じる。旨味を感じるその内容物が西洋、東洋で根本的に違うという指摘はほんとうかな…というのは少し感じられる。(味の素の普及国分布でも調べれば分かりやすいかもしれない)化学調味料はグルタミン酸のかたまりでラーメン屋のかなり多くの店で使用されるのは、これを使えば一応の旨味が与えられるからということなのか。

ラーメンに対する暗い情熱…栗田が言うには「ラーメンは異常な食べ物」とのこと。製法や具材など他国から入ってきたにもかかわらず、日本独自の道を歩み進化したもの。日本人はラーメンに己の原点を探る欲求を知らず知らずに感じてしまう。それの答えが隠し味として使われた「大豆醤油」以前の「魚醤」(しょっつるなどの形で今も残る)。

蘊蓄部分以外…この漫画の中で、流星組というチェーン店が登場するけれどモデルはあるのかな。流星組は勝手に路上で営業を始めているようだけれど(バンで屋台)、これって現実には警察の取り締まりにあうんじゃなかろうか。今回は会社内のシーンがほとんど無く、副部長のあか鼻が描かれていたのはたしかたった一コマ。
(記憶の垂れ流しなので、間違いはご容赦下さい)



ネット上の書評 01/12/5記

 「本の雑誌」をちらっと読んでいたらみつけたもののメモ。大月隆寛氏がネット上の書評には有効なものもあると指摘。一般読者の気分に沿っていて、その点ではいろいろなしがらみの中で書いているプロの書評よりも読むべきところがあるのでは?と本を作る側に問いかけていた。といっても玉石混交のネット上の書評はそれを取捨選択する能力がある事が前提であるとの指摘も。このあたり、確かにそうだ。時間をかけて調べれば、ネット上にも貴重な情報はただで転がっている可能性もあるけれど、雑誌や新聞は見出しがはっきりしているし、他人の目を通ってきているから読めるものにはなっている。こういう指摘を読むとまず思い浮かぶのは2chの存在だ。読む人を選ぶという点ではスリリングな存在なのか。

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「面白い」ことの自慢 01/12/6記

 昨日、NHKの昼のトーク番組で黒鉄ひろしが出ていた。ユーモアのわからない人は困るなあ…というようなことを話していた。自分が面白い事がわかる側にいて、それを解しない人達はかわいそうだ的なことをつらつらと語っているのである。黒鉄ひろし氏は巨人ファンであることが有名で、ニュース番組などでもその関係でちょくちょく出ていて、キャスターとの軽妙なやりとりでなかなか面白い人だとは思っていた。が、この「面白い部分」を全面に出したり、そのことについての自意識のようなものを語っている場面は見たことが無かった。しかし、NHKの昼、ヨイショ的空間でその辺りの自意識をかなり大胆に語っているのに出くわしてしまった。語り方そのものにもユーモアがあれば救われたと思うが、黒鉄氏は「僕はサラリーマンはやったこと無いけど、よく上司が『不謹慎だ、不真面目だ』とか言うでしょ。不謹慎というのはなんなのか僕には全然わからない」というような微妙にずれた話をしている。この時、黒鉄氏には数分遅刻してきた新人にガミガミと説教する短気な上司の絵でも浮かんでいたのかもしれないが、そんな絵(勝手に書いているだけだが)が浮かんでいる時点で(上の 話の雰囲気からそういうありがちな絵しか浮かばなかった)面白い側からずれているのは明らかのような気がした。かなり、揚げ足取りと勝手な妄想が入っているかもしれないが、黒鉄氏がNHKアナにヨイショされて若干、増長またはその語りを暴走させていたのはたしかだったと思う。

これがその書き下ろしの本
Yahooブックスショッピングより



(追記:黒鉄氏は最近、久しぶりにその本業であるギャグ漫画の本を出していた。書き下ろしである。書店でチラッと読んでみると、体の各部をクローズアップしたいわゆる”不謹慎”な漫画ともいえる。黄門を使っての会話みたいなものだとか。NHKのトーク番組出演も当然その辺りの宣伝も兼ねていただろうし、その関係で”不謹慎”という言葉もでてきたのだろう。きちっと見ていないのに憶測で書いてしまいました。ただ、ユーモアの分かる側の優越感を黒鉄氏が漂わせていたのだけはたしかにあった空気で、それだけはなにか印象的であった。 12/12記)







事務的な鑑定 01/12/7記

 何日か前のダウンタウンセブンを見ていたら、「芸能人フリーマーケット」というコーナーで山本寛斎氏の思い出の品が扱われていた。三品出ていたのだが、若いころに行った韓国でそのデザインの良さが気にいって買った机(当時10万円となっていたと思う)が、1000円という破格の安さで鑑定されてしまっていた。足が4本ともないのが致命的な欠陥で、市場的にはそのような安さになるという説明をまだ20代ぐらいと思われる鑑定人がしていた。このコーナーでは純粋に商品そのものの価値を鑑定するようになっていて、持参したタレントの価値とは無関係なので、鑑定人の評価は妥当なものだと思う。しかし、思い出の品にほとんど値がつかなかった山本氏は感慨深げになるものの、その思いを若き鑑定人にぶつけていた。
 「君が面接に来たら、私は落とすね」と訳のわからない人物批判までしてしまっていたのには相当のうろたえ振りが伺えた。
鑑定人と山本氏の熱いやりとりはバラエティ的雰囲気から離れてしまって、ダウンタウンも絡んでいけないほどだった。山本氏も大人気ない感じもしたが、商品を市場的価値のみでビジネスライクに捉えすぎるのも悲しいものがある。でも、番組に依頼されてせっかく出た鑑定士の方は突然、説教をくらってとんだことだったと思う。このコーナー来週からはタレントの価値も考えた上での鑑定になったりして。しかし、そんな鑑定になって困るのは実は山本氏自身である可能性だってあるんじゃなかろうか(山本氏の本業での評価は知らないけど)。

(追記:番組HP内のここに査定の詳細がありました。02/1/20記)

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M−1グランプリ 01/12/26記

 K1の漫才版のこの企画。なんだか独特な緊張感を漂わせているということでは最近なかった番組だったような気がする。7時過ぎぐらいから見たので、最初の30分ぐらいの状況はわからないのだけれど、審査員のメンバーがおおかたその緊張感を生み出していたのだろう。(優勝賞金もでかいけれど)
 漫才の面白さを格闘技に見立てて、点数をつけ、順位をつけ勝敗を競う。何を目指した番組なのだろう。勝敗の結果それぞれの組が受ける色々な利益が大きいような気がする。
 漫才という技術的側面も大きいだろうけれど、結局は受け手に残るしかない「面白さ」に点数をつけるという危うさに対しての配慮はあったんだろうか。昔からこの種の番組はあったのだろうが、点数に対しての根拠が不明確なことにおいてこの番組はなんだか後味が悪かった。特別審査員と札幌、福岡、大阪の会場がそれぞれ100点を与えられてその合計点で競う。特別審査員はそれぞれの基準で勝手に点数をつけていて、50点から70点ぐらいの範囲で5点刻みでつけるものもいれば、いきなり1組目から90点ぐらいをつけて、それ以上面白い組が続出したらどうするんだという点のつけ方をする人もいる。
 これだけでも点の明確化がなされていないのは明らなのに、各会場の一般審査は○(1点)か×(0点)、面白ければつけるという方式で面白さを評価するには微妙な過酷さを持っていた。おぎやはぎという東京出身で、幾分かシュールな漫才をする組は大阪で9点しか獲得できなかったが、僕は好きだったな。ハリガネロックはなにか古典的な漫才であった気がし、逆に漫才ブームの頃の勢いはあって別の意味で良かったと思う。点数で勝ち負けが決し、優勝者は泣き、感動のフィナーレになっていたがそれぞれの漫才の言葉、間、発想、ツッコミ、などよく観察していた特別審査員の言葉が一番聞きたかったが、最後までほとんど彼らのコメントはないまま点数でのみその評価を表していた。印象に残ったのは、春風亭小朝ドンドコドンに対しての「関脇が横綱相撲を取っている」という厳しい一言と、松本人志が麒麟を一番に評していたこと。なんだ かんだ言っても出場漫才師はたぶん一番松本さんの評価を気にしていたのではないだろうか。



フードバトルクラブ 最強戦?(前半) 01/12/27記

 タイトルが長くてよく分からないので、とりあえずこんな名前で。なにか今回感じたのはあるマイナーなものが世間で認知されているのかよく分からないままに、メジャーまたは認知されていることを確信して、その中での通念のようなものを堂々と展開しているが、見ている側はそれをストレートに受け取ってはいないだろうという、ちぐはぐさがちょっと痛々しいということ。…文章が下手で申し訳ないけれど。
 やっぱり大食いはスポーツという前提、大食い達はフードファイターという呼称、大食いのためのトレーニングの存在、競技に対する黄色い声(どんな声?)の声援、が浮ついたものに見える。大食いってやっぱりどこかマヌケなものなのだと思う。その部分を除いてスポーツという部分で、テレ東とは一味違う大食い番組を作ったTBSの試みは世間に受け入れられているとはまだまだいい難いと思う。
 「この一戦は見ごたえありますね」とか「10分であの数は大丈夫でしょうか」とか「骨折してるのに普通スポーツするか(これは自分のひとり言)」とか「○○に神が舞い降りた!」とか、どう考えても世間の標準から逸脱していると思う。こういったずれた世界観を番組内で当然のごとく使用しているのはいいとしても(よくはないか)、これが面白さにも、爽快さにもいまいち着地していかないのはなぜだろう。食べ物が名店のものを使っているのもそうだろうし(中村屋のラーメンを早食いするな)、いとうせいこうは相変わらず興味がないのに台本通りの解説してるだけだし。…ということで一番面白かったのはプロレスラー・バンディ氏のアメリカンなリアクションだけだった。「スゴイな、奴は」とか「俺にはとても無理だぜ!」などと吹き替えが出そうなナイスなリアクションだけが救いだったような気がする。あと、岸さん辞退は淋しすぎ。

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「マジカル頭脳パワー」の不快さ 01/12/29記

 何年か前、マジカルバナナだとかでちょっとしたブームを起こした番組が一夜限りの復活である。見ているうちに当時も感じたなんとも言えない不快感とそれでもなんとなく見ている自分に気づいてしまう。問題の出し方の詐欺のような感じがうまく再現出来ていてそれはそれで凄いものだ。
 「周りが海に囲まれた県はどこ?」という問題があったが、これは北海道と答えがちなところだが、それは「道」なので、正解は「沖縄県」というのは普通のクイズの範疇におさまる物でよくありがちな引っ掛けと言える。が、「『米を噛む』を思い浮かべてください」と前置きをしておいた上で、「目と目の間は何と言う?」という問題はなんなのか。
 問題だけならほとんどクイズとして成立しないのだが、『米を噛む』という謎の言葉を考えているうちに、それは「こめかみ」と引っかけようという意図だと気づき、で本来の問題は何だったのかと考えているうちに、「こめかみ」ってどこのことだっけなどと要らぬことも頭に浮かび、混乱してしまう。前置きの言葉が引っかけようとするあまり、意味を成さない言葉(普通使わないだろうという意味で)になってしまっているのが不快の原因だ。
 もう一つ例を出すと、VTRを使った問題でたわしのような物で小船の側面をこすっている画面が出て、なんでしょう、というのがあった。回答者の芸能人もこれをストレートにたわしとは答えないぐらいの学習はしているのだが、こすっている男は漁師風であるので、たわしに近い物として「うに」と答える。ところが、これはもう一ひねりしてあって、「栗」が正解であった。してやられたという爽快さよりもやっぱり不快さのほうが勝る感じだ。が、うにもたわしも栗もちょっと離れた映像で見るとほとんど変わりがないという、妙な発見が出来てしまうのも悪くはないかなどと無理やり納得しつつ、見続けてしまう。一夜限りの復活が無難なところだろうな。

(追記:こめかみというのは本当に「米を噛む」という言葉から来ているらしい。食物を噛む時によく使用されるということなのだが、なぜ米なのかは分からない。日本人の主食、食べ物の象徴という事なんだろうか。では、外国では何噛みになるのか。02/1/2記)



筋肉番付の妙 02/1/2記

 元旦の夜、筋肉番付をなんとなく見ていた。この番組は設定が非常にテレビ的だと思う。普段、色々な分野のスポーツで活躍している人達を一堂に集め、視聴者にも馴染みがあるか、あるいは特定のスポーツに偏らない種目(ビーチフラッグだけは例外か)でそれぞれの能力を見てみたいという視聴者の欲求を満たす感じだ。
 跳び箱を種目に取り入れたのは絶妙な選択だと思う。小学生の時に誰もが経験したが、その後省みられることのない奇妙な、体育教育の象徴とも言えるあの箱(何も入らないけど)である。小学生の時にはそれぞれの組に跳び箱の”スター”がいて、校内一は誰だろうと思ったり、大人の跳び箱を見たいと思ったりしたことがあったような気がする。そんな漠然とある体育の申し子を見たいという欲求を、全国レベルで見せてくれるのである。
 しかし、全国レベルの跳び箱は小学生の時のレベルなどはるかに超えた迫力だ。選手の身長の2倍に達しようかという跳び箱は一つのオブジェのようで、それを身一つで乗り越えようという試みは危険と隣り合わせだ。手を真上に上げてなんとか台に引っ掛けて、そこから身を持ち上げて、一気に超えて行く姿はそこらのスポーツよりもスリリングに見える。
 跳び箱のことばかり書いているけれど、最初の方にやっていたもので、のこぎりで丸太を切るというのもなんだか面白い。どんな体育の種目にも、スポーツにもなり得ない、職人の一つの”作業”なのだ。切ってそこらに転がった丸太の断片が使い道もないままに、進行して行くうちにどんどん増殖していくのである。ほかにも”味”な種目はあったけれど、その種目をこなすことで作業の結果が生まれるものはこの種目だけだった。この丸太も有効活用されるよう願ってみたりする。

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正月のテレビ 02/1/8記

 正月になるとテレビは毎年通常の時間枠を取っ払うようにして、スペシャル番組を組む。どの番組もとりあえずテンションが高めで、正月気分を盛り上げようとしている。しかし、これが三日ほど連続してくると、見ている側はこの能天気さに辟易してくる。で、どんどんテレビを見ようという気分がなくなってくるような気がする。
 正月の期間、膨大な金を使って、様々なスペシャル番組があるというのにこれはもったいない事だと思う。それで、もしできるなら来年は正月番組をどっさり録画して、小出しにしてみてみようかなどと思う。それなら、正月気分とは無縁に番組を楽しむ事ができるのではないだろうか。が、この正月気分というものの存在は案外重要なものかもしれない。春頃になって、12時間時代劇スペシャルのようなものを見て楽しめるだろうか。時代劇スペシャルは通しで見たことはないが、なにか正月気分の中で見ることが重要なストーリー作りをしているかもしれない。そんな心配は無用なことは分かっているが、深夜の映画の放送は今年も何本かとったのでこれは問題なさそうだ。
 ところで、年末は紅白歌合戦でえなりかずきのハッスル振りを見た。ハッスルという言葉がたぶん似合うのではないかと思ったので使ってみた。彼の人気は(どのような人気かは分からないが)なんなのだろうと思わず考えさせられる。通常の芸能人の持つ要素がほとんどなく、負の要素を抱えて今やお茶の間に浸透している。「お茶の間の人気者」という言葉が久々に似合う男とも言えるわけである。紅白の中での彼はNHKのバラエティ感と見事に一致している感じで、どのタレントより輝いていたようにも思った。



ビデオデッキのさまざま 02/1/11記

 最近、某オークションでビデオデッキを購入した。ショップで買うよりも新品でもかなり安いので重宝している。そういった出品の多くが目玉商品の転売だとしても、こちらとしては安く買えればお得だと思っている。今まで何台かのビデオデッキを購入してきたが、それぞれの会社で微妙にいろいろと違う。大きさ、リモコンのボタン配置、本体のボタン配置、操作した際の画面の表示の感じ、会社が違うとそれぞれがかなりバラエティに富んでいるのである。
 電源ボタンが大きいのはだいたいどこも同じだが、取り出しボタンが妙に大きいのや、再生、停止をかなり目立たせたものなど各社に機能以外に特徴が出ている。自分としては最低限の画質、タイマー録画、出来ればCMカット、同じく出来ればジャストクロック、ジャストレック(テープの残量に応じて3倍モードに切り替わるやつ)があれば特に文句はない。そういった表立った機能は店頭や、オークション説明でよく分かるのだが、買って画面で操作しているとその表示に独特の味がある。テープの残量表示法なんかがそれだ。
 横棒グラフ的に進んだ部分の色が変わっていくのがあれば、同じく横棒のなかで仕切りのようなものが移動していくだけのものもある。他には数字で済ましているものもある。どれでも慣れれば構わないんだけれど、棒グラフ状のものになれていたところで買い換えたものが、数字のみだとなんとなく味気無いというのがある。でも、ビデオの大きさが小さくなったのが一番嬉しいような気もする。 

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トゥナイト風俗店レポート 02/1/18記

 風俗レポートといえば、山本監督である。あまりよく知らないけれど、正面切って風俗店に赴いて、そこで話を聞くというような番組は監督の出ているトゥナイトぐらいしかないだろう。今年3月には終了するそうだが、最後までそのコーナーは健在のようだ。昨日もそのコーナーをやっていたのだが、風俗の世界に身を置くことでの人生模様から、ドキュメンタリーのようなものになっていて面白い。
 もちろん、時折女性達の裸も見えるので、それ目的の視聴も満足ではある。が、見ているうちにHな方向で興奮するよりも、なんとも女性はたくましいなあ、であるとか仕事としての大変さなどを感じてしまう。氏素性の知れない男達が次から次へとやってくるなかで、それぞれの性という微妙な部分と対して、満足してもらわなければならない仕事というのは馬鹿にはできない。番組内の対し方も、風俗嬢を応援するという方向で一貫している。
 風俗嬢のなかには何人か、その仕事に若干後悔しているというような言葉もみられたが、何でだろう(敢えて問う)。世間的にはいまだに顔向けできない仕事なのだろうか。不特定多数に体を許すということは、自分自身を欲の対象物であることを認め、そのものとしての商品価値で売っている状態で、そういった女性の在り方に今の社会状況とは相容れないものをいまだに感じている人が多いのだろう。
 が、風俗も一つの巨大産業かつ競争社会であるようで、そういった体を売ること(どの程度かは業態で違うが)自体の罪意識とはほとんど離れたところで、存在している風な感じも受ける。指名が多い女性はそれだけその世界での努力を怠らないでその地位にあるのだろうし、その能力に関しては僕らには口を挟む余地などないような一つの特技なんだろう。なんだかんだ言っても風俗業界が切磋琢磨しているのは悪い状態とは思えないし。歌舞伎町のエロパブでの朝礼シーンはちょっと気持悪かったけれど、あれだけの大人数をまとめる場合なにか軍隊的規律のようなものが生まれてくるのかもしれない。



好感度調査… 02/1/19記

 一週間ぐらい前だったか、NHKで芸能人の人気調査の結果を発表していた。いわゆるタレントの好感度調査である。正式な名称は「好きなタレント調査」というらしく、NHK放送分化研究所というところで実施、発表しているようだ。(今年の順位はこれです
 本まであるようで、それを買えば今までの順位の推移やベスト50まで見れるらしい。目次を見る限り、内容が薄そうで、HPで発表したって構わないような気がするが、詳しい分析やタレントの人気と時代との相関性などのコラムがあったりするのだろうか。それはともかく、好きなタレントである。調査方法や趣旨を先程のHPから引用してみる。

[調査の概要]
NHKでは1975年から毎年定期的に「好きなタレント調査」を実施しています。調査の結果はタレントに対する人々の好みをとらえ、出演者を選ぶときの参考にするほか、放送文化の研究のための資料としています。
調査期間 2001年9月1日(土)〜9月30日(日)
調査相手 全国から無作為に選んだ7歳以上の国民3,600人
調査方法 郵送法
調査内容 好きなタレントの名前を男女3名ずつ自由に書いてもらう
有効数(率) 1,952人(54.2%)

という具合である。調査の概要を読んでみると、「出演者を選ぶときの参考にする」とある。これはどうなんだろう。あくまでも「参考に」とあるので、上位のタレントがNHKにがんがん出演しているということはない。特にお笑い系のタレントは男性、女性に関わらず上に来るほどNHKに出ないというくらいが現状だと思う。ギャラが折り合わないとか、それぞれのポリシーであるとか、いろいろ事情はあるのだろうけど。現状ではその辺の微妙なすみわけが暗黙のうちにできあがっているような感じを受ける。
 そういえば、NHK教育に山田邦子が出ている(まだ出てるかな)が、この例は彼女がかつて長い間、この調査の1位を独占していたことと全く関係がないとはいえない気はする。勝手な憶測だけれど、何度も出演依頼を受けていた山田がその人気の凋落状況を自覚し、NHKに”降りてきた”という感じがある。ま、今は誰も有り難がってはいないだろうけれど。
 
 調査方法は年齢的にも偏り無く、郵送であるのでじっくりと考えられるようで(じっくりというようなものではないか)、公正なものだといえる。しかし、結構低いのが、有効率。見返りが無いのか、返信切手が無いの分からないけど、選挙と同じぐらいのものであるのは意外な気もする。
 
 ところで、今年の結果を見ていて5位に北島三郎がいるのを見つけた。去年の9位から四つもランクを上げているのである。他にも高橋英樹がかなりランクを上げただとか(タモリも同様)、織田裕二が若干順位を下げたとか説明がつくのかつかないのか、考えてみるとなにかしみじみと面白い物件もある。
 タモリはあの負傷事件か、と思うが調査期間内のことではないなあ、などと…。北島三郎が”好き”というのと所ジョージが”好き”というのは同じような構造だろうか。どちらも嫌いという言葉を当てはめにくいが、その人が出ているだけで番組を見たくなるタレントではない様に思う。投票した人は本当にその人が出ているだけで、チャンネルを固定するほど好きなタレントを選んだとは思えない。
 ま、この調査はタレント側に利益が多いのだろうし、漠然としすぎていて結果を見て”ツッコミどころ”を探したところで、無作為抽出された集団の誤差のようなものでしかないのだろう。

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芸としての人生相談 02/1/20記

 人生相談というのはなにか馴染めない。問題を抱えて悲痛な思いで相談をしてくる人達と、それに鷹揚に対する人生の熟達者。相談する側は相談される側の御託宣のような言葉を拝聴するような図式があるような気がして、そんな空間を毛嫌いしてきた。
 少しおおげさだけれども、人生相談の場にいる両者にはあまりにも深い溝が存在しているような気がして、両者の溝(上下関係のようなものかな)なんて本来無いはずなのに…と思ってしまい、嫌になる。しかし、最近町田康・いしいしんじ氏共著の「人生を救え!」を読んで芸のある人生相談は読み物としても素晴らしいと思った。(人生相談部分は町田氏のみの執筆)
 相手の問題を短い文章の中から深く洞察する能力。いったんその問題から離れて、たとえ話に移行して迂回するかに見えるが、より本質的な問題へと普遍化する文章力。硬軟取り混ぜた人生模様に対して、ときには笑いを交え、それでいながらその笑いも相談事に直結する感じを受けるのである。
 なにか異様な誉め方になっているかもしれないけれど、面白かった。機会がありましたら、皆さんも読んでみてはいかがでしょうか。そういえば、堅苦しくない人生相談として中島らも氏の「明るい悩み相談室」というのがあって、あれも良かったのだけれども、相談事自体が軽すぎる面もあり、深く潜ってもう一度水面に戻ってくるような文章の深みが無かったような覚えがある。あくまで昔ちょっと読んだ印象ですが…。という読後メモ(もうちょっと残ってるが)でした。



バッティングセンターの楽しさとは 02/1/25記

 テレビを見ていないのでこんなネタです。……バッテイングセンターで球を打つ。球音が響く。隣のブースの球が来て混乱する。思いのほか、低い球がきて三振をする、など、機械との対峙を繰り返し、自己満足に浸るバッテイングセンターである。久しぶりにそんな事をやっていて、特に目的もなくここを訪れてひとしきりバットを振る人間は何が楽しいのかと思った。自分も振ってみたのだが、85キロという低速なこともあって、そこそこ当たる。が、いくら快音を響かせていい具合にミートできようが、ほとんど瞬間的にネットに吸い込まれて行くのでヒット性の当たりも喜ばしいのか、いまいち分からない感じなのだ。ときおり、ストライクゾーンをずれたような球がきてこれに合わせられず、空振りに終わってしまうのなど、またその虚しさがいい感じという気もする。ある程度球と格闘して出てくると、ベンチでテーピング?をして本格的に練習に入るという様な人がいて、心の中で「がんばれ!」といっていました。
 野球関連で強引かもしれないが、その辺りに置いてあった夕刊フジを読んでの感想。巨人の清原が1厘にまで(0.5ミリ)短くした髪を茶色に染めたとかいう記事があった。着ているジャージらしきには色々と関西弁で文句(ごらあ!とか)が書いてあって、「岸和田グッズ」の一つということらしい。清原の髪形を担当しているのは(担当というかよく行く店というだけかもしれない)ヘアーメイクの世界では有名な人らしい。短くして、茶色にするだけなのにヘアーメイクもなにもないだろうと思ったが、多くの若い男性がその美容院を訪れて「同じ髪形にしてくれ」というような注文をするらしい。
 ほんとかな。そんな髪形にしても、赤いジャージにしてもあんまり見たことないけれど。その記事では、「若い男性が清原のカッコ良さ(または男気)に惚れてその髪形、衣装を真似ている」ということを言いたいらしいけれど、なんだか困惑してしまう。清原の逆境からの復帰を含めての、妙なマッチョな感じを受け入れる層は限定されているだろうし、ジャージブーム(詳しくは知らないけど)は清原とは関係ないだろうし。夕刊フジの言語感覚やバランス感覚を真に受ける人はいないだろうけど、清原という存在はいつのまにかそんなところで消費されているんだなと思いました。

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ガキの使い「ガンつけ」 02/1/28記

 ガキの使いやあらへんでのオープニング企画を見ていたら、街行く人とガキの使い一行の誰かが突然、ガンのつけあいになるというのをやっていた。ガンをつけてくる人の選択や雰囲気がさすがにガキの使いだけあって、外さない。いかにもそういったことをしそうなヤンキー風ばかりを出さず、犬の散歩をするおじさんとか、人待ち風なおばさんとか、制服を着たガードマンとか、ランドセルを背負った小学生とか。
 街行く人達はみないい演技をするのだが、ガキの使い側が若干それに徹していない風な感じが少し残念だったけど。
 でもなぜ、ガンをつけあうだけでこれだけおかしいのか。街行く見知らぬ人と人の間には基本的にはなんの関係もない。が、お互いの存在を全く無視してすれ違ったり(衝突回避)、傍若無人な言動はできないという点では、どこかで常に人の眼を気にしている。そんな微妙な緊張感がときに負の方向へ爆発したり、外見的になにか好意を持ったりなど無言の関係性がある。こういった関係性において視線というのは重要な部分で、見られたというだけでなんらかの感情を喚起することもある。
 と分かったような分からないことを書いてみたが、”ガンをつけあっている”二人の意味のない緊張感は蚊帳の外から見れば、どこか笑いを誘うものである。
 以前から二人の間に対立があったり、口喧嘩に発展して互いを罵り合う、ようなことにならない限り、それは人間が一瞬”獣”に戻ったような無邪気さも感じさせる。女性の無言のにらみは、また別の色気のようなものを感じさせる。



「歌の大辞テン」のコメント 02/1/30記

 世間は外相更迭などで忙しい昨今。歌の大辞テンをちらっとみた(10分ぐらい)。この番組はかつての歌番組の映像が見られるのだけが楽しいところで、ゲストのコメントにはいつも「ここまで当たり触りのないことを言わなくても!」という気にさせられる。(といっても見たのは久しぶりだが)当たり触りのないコメントをするのは色々と事情があるためなのは分かるが、やはりイライラさせられる。
 例えば、宇多田ヒカルの「traveling」を吉本多香美は「この曲、いいですよね。覚えやすいし、踊れます」などと言う。
 否定はせず、とりあえず肯定し、どんな風に良いかを歌詞内容などに立ち入らずに雰囲気で誉め、自分がどんな風に利用しているかを言う。ゲストのコメントの一つのパターンだと思う。が、「覚えやすい」というのは誉め言葉なのか。カラオケで歌うために、覚えやすいという意味だろうから、現在の音楽業界の戦略的にはお褒めの言葉なのだろうとは思う。だが、唱歌でもあるまいに一応アーティストの作品に対して、「覚えやすい」というのが誉め言葉なわけはないと思う。と言いつつも、「アーティストの作品」なんぞと言っている自分のほうが音楽業界に乗せられているともいえるか。

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笑わず嫌い王 02/2/3記

 最近あまり見ることがなくなっためちゃイケの中で、必ず見る数少ない企画である。「笑わず嫌い」という言葉はもちろん、とんねるずの番組の企画「食わず嫌い」をお借りしたという形で同じ系列局の番組でもあるので、最後をまとめる牧原アナも出てくる。
 食わず嫌いという企画は芸能人の食生活や好み、ある食べ物にまつわるエピソードなど話が広がる要素もあって、いつのまにか番組の柱のようなコーナーになってしまっている。万人向け企画という趣きもある。ある食べ物が嫌いというのは何が嫌いであっても、基本的には問題ではない。そんな理由で嫌いになるのか…とか、意外なことで驚いたりすることはあるが、そんな一瞬の感慨が通りすぎるだけだ。が、笑わず嫌いはどうか。出てくる何組かの芸人さんのなかから、どんな理由で嫌いなのかを一応言わなくてはならない。だが「この芸風が許せない」とか「笑いのセンスがない」とか本気で嫌いな理由を言うわけはなく、とって付けたような理由を持ってくる。
 今回はさまぁ〜ず(いつまで改名してるんだか)がユースケ・サンタマリアの”嫌い”な芸人だった。理由は「大竹は伊達メガネをしている」というものだった。なるほど、理由として面白い。これを理由としてひとしきり、大竹さんも三村さん以上にいじってもらえていた。
 といっても三村さんのツッコミばかりが注目されているが、大竹さんの”鋭い”ボケがなくてはあれだけの人気にはなっていないと思う。



中途半端な… 02/2/10記

 「なんでだろー、なんでだろー、なんでだなんでだろー」でお馴染みのジャージの二人組のお笑いコンビがいる。最近よく見る気がする。とにかく動いて、テンションが高く、いいひと的雰囲気がただよっている。なんだか頑張っているのが伝わってくる。シンプルなギターの伴奏に、小気味よく動きながら、「なんでだろー」の内容を言う。
 「臭いのが分かっているのに靴下の臭いを嗅(か)いでしまう」とか「モーニング娘の新メンバー」(これは不要なものという事だった)とかである。「なんでだろー」と疑問を発するが、とくに回答は言わない。なんというか、回答を真面目にいうとつまらなくなる問いかけを発しているという感じがする。
 「靴下の臭いを嗅ぐ」のは「人間は自分の臭いに愛着を抱いていて、それが臭いものであっても精神的に安心するものなのだ。幼児などによく見られる傾向で、自分の臭いの着いたタオルを持ち歩く子供などはこの構造である」(勝手な回答だが)などと真面目に答えたとしたら、実につまらない。問いかけのようでいて、一つの発見を提示しているとも言える。であるので、その着眼点が非常に重要なものになる。テンポがいいので騙されがちな側面もあるが、あたらめて考えると、全体にネタのセンスが今一歩のような感じだ。
 「不要なもの」のなかで、「大食い選手権の味付け」(うろ覚えなので違っていたら失礼)というのがあった。大食いは最近、お笑いのネタにされることも多いようだけど、その大袈裟な感じを腐す(くさ)という方向でしかやっていない気がする。これもその方向といってよく、瞬間的には「食ってるだけだもんなあ、味なんか関係ないかも」などと笑っている人の姿が想像できるけれど、まさに瞬間しか笑えないタイプのものだ。「味付け」というのはいくらなんでも…。せめて、「有名料理店の食べ物」ぐらいにしておいたほうがいいかも知れないが、ああいった一発ギャグを連続させるようなお笑いの場合、インパクトの強さを狙ってしまうのだろうか。
 「モーニング娘の新メンバー」というのもまた最近、メンバーが加わるのかどうかは知らないけれど、何ヶ月か前に入ったメンバーのことなら、ネタとして古いし、単に悪口のようにしか聞こえないという気がする。ネタ選びの基準が、スタンダード(ほとんどの人が共有しているであろうという予想のようなもの)を狙いすぎて、自分たちが面白いと思うネタをぶつけてくるような緊張感が全然ない。ということで、小気味よい動きも徐々に煩わしいという気がしてきた。ところで、モーグルというのは大変そうだけど、いまいち凄さ・面白さが伝わってこない競技だな。

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バラエティの中の怒り 02/2/15記

 「いきなり黄金伝説」を見ていたら、静岡から東京まで、マラソンで走るという企画をしていた。名前は分からないけれど、たぶん若手のタレントの女性が走っていて、宿泊や食糧の供給をスポンサーという形(店の名前などを着ているジャージに貼る形で)で、道沿いの店の方々にお願いしつつ走るのである。
 本当に全距離走っていた(歩くも含めて)のか、であるとか、店の人との交渉は本当に彼女一人でやっていたのかなど、疑問はとりあえず置くとして、そういった状況におかれたことで発生するトラブル的なものについてちょっと思うところがあった。
 2日目の夜だったか、ある店に泊めてくれるように交渉に行ったところ、店主と思われる親父が憎まれ口をきく。交渉する彼女に対して、「人に頼るなよ」などというのである。番組はいささか強引な企画とはいえ、店の宣伝にもなって両者の利害が一致しているという気がしないでもないのだが、こんな親父の登場である。
 女性タレントは「お母さんに話してるのに、なによ!」と怒っていた。(親父の奥さんなのだろうか)だが、見ているとこういった怒りってなんだろうと思う。テレビという絶対的権力を自分の必然性に移し、番組内の企画としてやっている若手タレントとしてのコマとしての自分、というものを客観的に考えることはない。
 いわば「せっかく走ってるのに、親父なんかむかつくよねー」という感じである。テレビ内の論理なんて一般の人にとってみれば、本来関係ないし、そんな勝手なバラエティのルールなんて知ったこっちゃないと言うのは正論なのは間違いない。でも、彼女は企画をやり通し、走りつづけるしかない。かわいそうなのは彼女なのかもしれない。彼女の怒りは本来、そんな勝手な番組内ルールに向けられるべきなのだろう。なんだか最近、そんな勝手なルールに縛られてその中からなんらかの感動を捻り出したり、その失敗から意味をくみ出したりしている番組が増えているような気がする。
 もうそんなわけの分からない校則みたいなものの中でなんらかの感情を導き出すのは恥ずかしいと思いたいものである。



ショートトラックのコント性 02/2/17記

 ソルトレーク五輪を見ていたら、ショートトラックが凄かった。一周100メートルの比較的短い楕円状のコースをを何周かせわしなく回るもので、スピードスケートのようにコーナーがしっかり分かれていない。なので選手同士の位置どりに関しての小競り合いが見ものである。男子の決勝(何メートルか忘れた)はまさにコントだった。
 有力選手がいい位置をキープしようと、競り合いをする中で、ラストのコーナーで三人が接触をして転倒してしまった。このあとで、オーストリアの選手がいいタイミングでガッツポーズでゴールを駆け抜ける。前半の競り合いの凄さ、ラストのコーナーでその盛りあがりは頂点に達したが、三人が転倒、圏外にいた選手が悠々の勝利。こんなにドラマ性があって、面白い見ものは久しぶりだった。

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ガキの使いの珍しい失態 02/4/8記

 久しぶりの更新です。今年は桜が早くも散ってしまいました。葉桜のなかで入学式などが行われたんでしょうか。学校関係の話題といえば、公立の学校は完全週休2日制が実施ということで、うらやましい限りです。
 そんなことはともかく、昨日の「ガキの使いやあらへんで」を見ていたら、いつかの「ガンのつけあい」で登場していたおばさんが出ていた。なんというか顔のパーツがひとつひとつ大きいインパクトの強い顔で、先日の放送では、下唇を若干突き上げ、目を見開いた表情が強烈でこれで終わらずいつか再登場するのではないかとは思っていた。
 しかし今回のこのおばさんの取り上げ方はオープニング企画20分ほどの主役という破格の扱いで、既にガキの使いではよく出てくるパンチパーマのおばさんのポイント的な使い方とは全く違うものだった。(パンチパーマおばさんの初期の頃の詳細は知らないが)
 で、結果としてとてつもなく今回の企画(罰ゲームにおばさんとキスというのが主眼)はつまらなかった。まず、おばさんをさりげなく登場させるために菅氏の家内ということで見学に来たという設定だったが、お土産にタッパーに入った「サワガニ」を持ってくる。登場時から、既におばさんが単に勘違いした気持ち悪い存在として演出されていて(別にそれでもいいのだが、その演出がストレート過ぎる場合、笑いとは対極なものになる事がよく分かる)、その後のダミー企画(ゲームで勝ったら世界の美女とキス)でおばさんが「私のほうが美人よ〜」と割って入ってくるのを見ていると、おばさんが気の毒でしょうがない。
 
 笑いのため恥ずかしい事を敢えてするおばさん→しかし、全く笑えない→ダウンタウンと嬉々としてキスをする場面のなんとも言えない悲しさ
 
 番組が進行するほどに悲しさは増幅してくるという感じであった。ようするにおばさんが終始勘違いした不気味で醜い存在に扱われてしまっていて、彼女に同情のようなものしか感じられないのである。比べてパンチパーマおばさんがなぜ笑いにつながるかというと彼女はほとんど言葉を発さず、素の感情を極力表すことなく、どこか謎めいた存在として逆に存在感が浮かび上がっているような感じだからだろうか。「ガンのつけあい」で登場したおばさんの面白さも、通りすがりのワンポイントとしてのものだった。外見の強烈さのみで主役に使うことの難しさを感じるが、全体的にガキの使いとは思えないほどにつまらない(または悲しい)回であった。


(追記:先ほど少し見返してみたら、そんなに悲しくなることもないかと思った。おばさんの堂々とした演技はむしろ、ダウンタウンなど周りの「きっつい」という視線を跳ね返してしまうほどのパワーも持っていたのでは…という気になってなんとなく安心した。最初の出だしの違和感と分かりやすい展開で集中して見ることなく、「ながら見」だったので、ポイント毎の印象で書いてしまった面があった。
 それから、おばさんとダウンタウンのキスシーンの凄さは、その日の体調や感情によっても感想が変わってくるものなのではないかなどとも思った。「気持ちわる」と思ってしまう日はかなり疲れているのだろうし、「おばさん、気の毒だなあ」と思う日も疲れているのだろうが、妙に感傷的な気分にもなっているのではないだろうか。
 そういった様々な感情を喚起させるという意味では、一つの試金石(なんの?)にもなりうるインパクトのあるキスシーンではないかとも思った。 4/22記)



みうらじゅん三本立 02/5/16記

 原宿ラフォーレでやっていた企画に先日行った。ついでにぶらぶらしてみると、原宿はおしゃれ度が高いな。僕のようなファッションセンスがない男は歩くだけでも緊張してしまう(勝手な自意識だとは思うけれど)。特に明治通りと表参道の交差点あたりには、なにかファッションチェックでもするかのように人が佇んでいて、歩きづらい。単に人待ちをしているのではなくて、友達同士で座りこみ、周りを見まわしているのは他の街にはない様子。
 そんななか、ときおり学生の制服集団がいるな、と思うときまって修学旅行生らしい団体だ。4、5人で歩いているあたり”班”単位での自由行動の時間なのだろうか。多くはルーズソックスではなく、スカート丈もおとなしめであり、周りから浮いた感じはするのだが、方言なども飛び交い光景に彩りが出て面白い。最近、よく街中にいる黒人の客引きなんかとなにか話しているのも彼らの思い出の1ページになるんだろうか。規則であるのだろうが、胸に名前を入れたバッチをしている生徒がいるのはなにか意味があるのか。
 といったことも面白いのだけれど「みうらじゅん三本立」はやはりよかった。発泡スチロールが折り重なったなにか隠微な物を想像させる入り口を突破すると、そこはそんな入り口に見合うようなエロワールドが展開していた。壁一面にびっしりと張られたエッチな写真が壮観。たぶん一々許可を取るのが不可能だったのだろうが、写真のモデルには全部目にテープが貼ってあり、それがまた隠微さを強調する。客はその多くが若い女性だったりするのだけれど、とりあえずエッチコレクションの凄さに驚いて、みうらさんという存在に安心感を抱いているのが前提なんだろうが、引く様子は見られない。むしろそのパワーに感心と共感のような物を感じているようだ。それと、見知らぬ女性が多くいるなかで正々堂々とエロ写真を眺めても、特に違和感のない空間が現出していることに自分も驚く。それは美術館で女性の裸を題材にした絵などを見ている状況とはまた違うもので、横で見ている女性に「こいつもこんなコレクションやってんじゃないの」というツッコミが幾分入りそうな状況に少し緊張感を感じつつ、みうらさんワールドの包容力 のなかでそれが軽減されていっている。BGMとしてかかっているお囃子や天狗のオブジェもいい。他の展示物はレコードジャケットや絵などで、どれもどこかに独特の笑いがちりばめられていて(にゃんまげとか飛び出し小僧の絶妙な挿入に笑った)、そのほっとする部分に安らぎを覚えつつ会場を後に。


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マスクマン「ガッツ石松編」 02/5/19記

 ガッツ石松が画面の男となにか話している奇妙な番組がやっていて思わず見てしまった。24歳の頃の画面の自分が今のガッツ石松に語り掛けるという設定である。といっても、番組最後のテロップで判明したのだが(番組内でも薄々はわかる)、この男は浅草キッド(漫才コンビ)の水道橋博士がやっているようだ。
 水道橋扮する若い頃のガッツは「お前みんなから笑われてんだぞ、かつての栄光はどうしたんだ、ボクシングは忘れたのか」みたいなことを口うるさく言う。下手くそな煽りなので、変えようかと思ったところで、現在のガッツは口を開く。「そんなことは腹にしまって(だったかな)生きてくものなんだよ」と処世を知った大人なガッツが若いガッツを諭すように語る。若いガッツもいったん諭されたように黙り、ちょっと面白くなってきた。
 この若い頃の栄光と現在の自分との差というようなことでの問答はここでいったん終わり(とりあえず煽ってみるという演出か)、より直接的にガッツ石松の現在の消費のされ方(天然ボケの元祖みたいなものか)のようなところでなじってくる。連想ゲームを実際にやっていたのだが、そのボケの質がよくわかる。
 たとえば、「祭り」が答えとしてあって、それに共通して連想される言葉(ハッピ、夜店など)を順々に言っていくのを、ガッツさんはひとつずつ連想して応えていくのである。全部に共通して連想される言葉を考えねばならないという事を理解していないことからくる種類の天然ボケであるのだけど、終始真面目に連想はしているのである。
 もしかして偶然にも答えが出てもおかしくないのに、ガッツさんはことごとく外していく。ある意味見事なまでのボケだと感心する。別に笑わせようとしてやっているんではないのはガッツさんの確信にも満ちた回答振りからわかるのだが、このあたりは申し訳ないけれど巧まざるひとつの芸ということでガッツさんを消費(笑いの提供ということで)しているわけだ。
 ところで、本気でガッツさんは馬鹿にされることが嫌なのだろうが(後に出てきた母との会話では馬鹿にしているやつらを見返したかったとしきりに言っていた)、彼の言動を笑うことは彼を馬鹿にしている状態なのだろうか。馬鹿にするという事が後ろめたさを感じながら行う蔑視のようなものだとすれば、これは明らかに違う。
 さっきも書いたけれど、意図的ではないにしても、その巧まざる言葉の選択に笑わされているのである。(少なくとも自分は)
 ところで、その後ガッツさんの恩師、エデイ・タウンゼントがCGで出てきたのだが、これをあたかも本人の言葉と信じこんでしみじみと語りあうというのは他の人の回でもそういうものなんだろうか。若い頃のガッツはまあいいとして、実際いた人を登場させて語るのは舞台設定ということで理解すればいいのだろうか。
 なんだか偽エデイの言葉に発奮して、ガッツさんはグローブを久しぶりに握っていたが、後ろで喋っているのは浅草キッドなのである。よく考えるとこの辺が一番馬鹿にした感じもするのだが、久しぶりの恩師との対面に気持ちよく酔っているのはイタコと同じような構造か。夢の中の出来事のような感じで番組全体が設定されていることで現実との境目がぼやけている気もする。



「サトラレ」の思念 02/5/27記 

 先日やっていたこの映画、録画で見た。なんとなくタイトルから、一時期流行ったオカルト系の映画だと思っていたけれど違った。サトラレルモノ(悟られる者)、つまり自分の頭の中で考えていることが周りの人間に思念波という形で伝わってしまう種類の人間だ。どうなんだろうか、映画として大げさにさせるためにか、このサトラレは頭脳的に天才であるとして国の監視・保護を受け、生きている。自分の考えていることが意図しないうちに漏れ出るなんて、発想としては古典的なのかもしれないが、国家財産として守って行くという設定のところが、映画として成り立ちうるところだった感じがした。
 物語としては「悟られていることを知ったサトラレ」(症例1、ちなみに主人公の外科医は症例7)の苦悩を知った精神科医(鈴木京香)は国家にその意志まで管理・変更させられるサトラレに同情心のようなものを抱いたりする。それにサトラレの祖母のガン発覚と幼少期の体験(夜中急にお腹が痛くなり、祖母に病院に運ばれる)とがあいまって、感動へまっしぐらなわけだ。ベタともいえる設定ではあるけれど、祖母への感謝、幼少期の思い出から医者になることへの決意、手術の失敗(というか手遅れな病状)とそのことでの祖母への謝罪(思念波で病院全体感動)で盛りあがる。というような全体の筋はいいとして、サトラレの思念波のリアリティというのは本当のところどんな風になるんだろうか、と思った。
 頭の中で考えている言葉は、すごく曖昧な言葉であることが多いと思う。人それぞれで違いはあるものの、台詞として台本(もちろん思念波の内容もも台本に書いてあるだろう)に書きこまれるような明確なものではないという気がする。映画としては思念波(漏れ出る言葉)ははっきり言葉となって、主人公周辺の人間を感動させたりするわけだ。感動の流れを阻害するような意味不明な思念が混ざりこんだりして、映画中のような一定の流れに沿ってのセリフ然とした言葉が頭に流れているなんて、それだからこそのサトラレなのだろうか。「すげえシュート(ワールドカップ番組視聴中)、うるさいなバイク、なんだか目が痛い…」と今思ったどうでもいいことを書いたのだが、これはきちんと頭の中でセリフ然としては話されていないような気がする。書いている時点でいくばくかの編集(勝手な変更)がなされていると思うし。
 それと思うのは、言葉を頭の中で転がすことは非常に個人的なことで(曖昧であろうと何よりも侵されることが許されない気がする)、これが漏れ出るなんてかなり怖いことであることはたしかだ。このあたりの恐怖を「世にも奇妙な物語」とか短編で見てみたい気もした。

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「ガチンコ」のナレーション 02/5/28記

 ラーメン道の第三期が始り、今までの二回の放送は見た。相変わらず、佐野氏独特の面接のごたごたでなかなか本編は始まらないのであるが、この番組のナレーションがいつになく気になる。しゃべりまくる、のである。ナレーションというのは普通、映像では分からない部分の説明や前後関係をスムーズにつなげるなど放送の円滑な進行に貢献するものなはずだ。しかし、ガチンコのナレーション、まるで「サトラレ」でいうところの思念波を一人でキャッチしているかのように、それぞれの人物の発言を拡大解釈して、どんどんありもしないだろうストーリーを作り上げて行く。
 「孤独、不安、そんな中で一人耐え、洋食を捨て、ラーメンの修行に打ちこんだ佐野、お前達にそんなことが出きるのか!」とか正確じゃないけれど、一言誰かが発するとその意味を探るなんとも言えない、陳腐さのかたまり(言葉の解釈の身勝手さというようなことにおいて)のような言葉が連ねられていく。
 やらせがどうとかは問題ではない。ナレーションという形を借りたあからさまな「ごっこ」的雰囲気作りがなんだかなあ…と寂しくなっていくのだ。でも、今回の神輿の人はすごいので、それだけを見たくてみてしまう。2回目ではすごい形相で「その席を替わってください!」とか言っていた。面接で落とされたが諦めきれない3人が、合格者6人と入れ替わるかどうかでのごたごたでの発言なのだけれど、「ガチンコ」の中でしか見れない種類の独特の芝居だ。これだけ思いつめた顔は「迫真」の演技なのか。
 番組上、嘘ではないという設定なので思う存分「迫真」の演技を彼なりの能力で展開している奇妙な空間、という感じだ。演技ではないわけはないのであるが、演技として見ると笑ってしまうほど独特、ドキュメントとして見ると、演技がかっていて奇妙だがやっぱり笑える。というようなことでやはりこの番組はどうしたって、視聴者としてはお笑い番組的に見ざるを得ない現状だ。これを見て、がんばること努力することの大切さだとか、他様々な教訓を得ようというのは無理な話だ。(そんな人はいないか)
 一番まずいと思うのは、ナレーションの無根拠ともいえる言葉の連なりで、「これはこんな背景が隠されていた言葉なんだ」などと本当に納得しつつ見てしまう、いるかもしれない視聴者の存在だ。どうかこんな番組で「生真面目な教訓」を得ないようにして欲しいと思います。



ワールドカップ走り 02/6/5記

 昨日は、ワールドカップに日本が初登場だった。試合開始時間が夕方6時である。自宅でテレビ観戦の人達が帰宅を急ぐ。都心から郊外へのある私鉄は5時半頃だというのに、異常な混みようで一本乗り過ごしてしまった。
 明らかにワールドカップのためにラッシュ時間がずれているのである。車内で会話をしている人達の内容もなんらかの形でサッカーの話題が出るような感じ。駅に着くと人々が家路へと若干小走りになっている。小走りな理由はもしかしたら人それぞれかもしれないが、ちょっと走っては早歩き、また小走りという、いそいそとした人達を見ると、なんだか悠然と歩きたくなってくる。
 とりあえず、この奇妙な現象を名づけて「ワールドカップ走り」と心の中で呼んでみた。「ワールドカップ走り」は主に男が多いようだが、わりと老若男女に見られた。思いきりダッシュの人はいず、だいたいはやる気持ちをコントロールするかのような、小走りまたは早歩きであった。「ワールドカップ走り」の人達はこころゆくまで観戦できたのだろうか。後半戦が盛りあがった試合だったので、たぶん楽しめたのだろう。(自分もそこそこ盛りあがったのですが…)
 ラッシュ時間をずらせてしまう力を持っていたとはワールドカップ、なんとなく盛りあがっていないような印象を持っていた数日だったがそんなことは杞憂だったようだ。

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ナンシー関さんの急逝 02/6/12記

 突然の死、なんとも言えない驚きと悲しみに打ちのめされた感じだ。10年ほど前に雑誌の(なんだったかは覚えていない)連載でその存在を初めて知って以来、ほぼ毎週のようにその連載(本でまとめて読んだことも…)を楽しみにしてきた。毒舌とか太ってるとか、彼女の連載を読んでなんらかの楽しさを感じたことがある人なら、どうでもいいような的外れなことで彼女を批判するような人もいたみたいだが、テレビ批評という部分でいうなら唯一無二といっていい人をなくした。本当に惜しいとしかいいようがない。
 大月隆寛氏との対談本「地獄で仏」の中で「こころに一人のナンシーを」という題がついた対談があるが、その最後の部分を以下に引用させて頂きます。適当かどうかは分からないが、ナンシー関さんの精神を称賛する大月氏の言葉が印象的だったので。


大月:でも、ナンシーは街角で宗教に勧誘されたりしないだろ。
ナンシー:うん。
大月:はあ、やっぱりテキも相手は選んでいるんだな。
ナンシー:そんな言い方って……(笑)。
大月:いや、悪い意味じゃなくってさ。勧誘するってのは相手の内面のどこかを揺るがせることだけど、、あんた絶対そういう動かされ方はしないもん。もう磐石の如き自意識。全盛期の柏戸もかくや、だな。
ナンシー:そういうほめ方ってなんだかなぁ。
大月:いや、正直言ってどうしてそこまで揺るがずにいられるのか、ずっと謎なんだよ。そうなれるまでに何をあきらめて何に腹くくってきたのか、って思う。だから最近は「こころに一人のナンシーを」ってな。
ナンシー:なんですか、それ。
大月:いや、みんなどこかでナンシーが見てると思えば、自分で自分にツッコミを入れて、不用意に何かを信じ込んだり、勝手な思い入れだけで突っ走ったりしなくなるんじゃないかと思ってさ。
ナンシー:成田さんのお守りですか、あたしは。
(「地獄で仏」 文春文庫1999年5月10日第1刷 p309〜310より抜粋)

 ああ、それにしても惜しい死だ。今放送中のワールドカップについてどんなことを思っていたのだろう。明日発売の文春が最後の連載になるのだろうか。(来月発売の噂の真相かな)



ダウンタンDXに大物が… 02/7/12記

 ある空間に大物が出るとどう接待するべきなのだろうか。小林旭がダウンタウンDXに出ていたのだが、なにか異様な接待ムードになっていた。接待すべきという意識で接待というのを演じていたのがダウンタウン(特に松本人志)で、いつもとキャラクターが若干変わった感じで同じ俳優の大先輩として萎縮気味だった山下真司、特に意識はしないが他のゲストの対し方を見て、接待すべきだと態度を決めて行く若い世代のゲスト。それぞれがそれぞれの接待を展開していたのだが、小林旭はやっぱりスターだな。
 ダウンタウンは接待を演じているのを見破り(本当に自分自身、尊敬しているのではない、というような)、番組として過剰な接待の方向に対し、悠然と若かりしアクションスターの頃の話を思う存分展開する。スタートしての伝説ぶり(銀座でのカーチェイスなど)にも合致して、なにか奇妙な需要と供給の一致を感じる。
 西岡徳馬を風呂の浴槽にぶん投げるシーンが披露されたのだが、打ち合わせなしで狭い浴槽の中におさめるかっこよさ。その他アクションをスタントマンを使わず、自分でやろうと決心したエピソードなどかっこいいのオンパレードであった。接待攻撃をものともせず、スターぶりを発揮する男、なかなか面白かった。
 ところで、この番組はテーマ別に(あの時は死ぬかと思った!とか)ランキングでゲストのエピソードを紹介するのだが、小林旭のエピソードは常に1位になっていた。接待ムードに合致してはいたのだが、元々なんの意味もないランキングであるので、この部分は接待のスカスカ感が微妙ににじみ出るような気がした。

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ナースのお仕事4 02/7/13記

 なんだろう、よくわからないが見ているのである。全くもってなんのひねりもないような気が今回のシリーズからは特に強く感じる。(現在2回放送済み)長塚京三がいつのまにかいなくなって、なんの説明もないとか、神田うのの代わり(ポジションとして)の安達祐美がパッとしないだとか、しみじみと悲しいのだけれど、何が最も悲しいのか。
 それはシリーズものの人気に安心して同じような作品を作り続ける制作側とそれをなんとなく見てしまっている自分のような馬鹿視聴者の需要と供給の悲しい一致だろうか。ドラマで一度人気が出れば、続編を望むのは当然だし、一定の視聴率も見込めるだろうから、パート2、3と展開して行く事は両者にとって、幸福な事なのだろうとは思う。実際、出演者の関係の発展(結婚やら)などもあって、このドラマも出演者共々成長して行っているのだろう。
 が、成長しては困るのがこのドラマの基本的路線であって(コメディドラマというやつ)、観月ありさは何年経ってもドジであるし、新人が入ってきてもまともに指導できない、というパターンを始めとして、ドタバタ的部分(ご飯を運ぶ台車にぶつかりガッシャン!とか)などいつのまにかこのドラマ内のパターン(お約束というのが適当か)が確立しつつある。確立というか、なにかこのパターンから抜け出せない、抜け出そうともしない、という妙な安定感も感じるのである。
 もちろんこの観月のドジさ加減も、後半突然襲ってくる患者の急病に対しての的確な応対などにより、「ドジなところもあるが実はしっかりしている」というこれまたツブシの利く、キャラクターへいい感じに固定されていっている。今回、安達祐美は一応しっかりした新人として登場していて、観月のドジだが実は…という部分が不安定になりそうな気がしていたのだが、安達に病気(血を見ると失神)を持たせる事とその治療過程でなにかドラマが展開していくようで、このあたりは来週からだが、また見てしまうのだろうか。
 3から登場した伊藤かずえの大島主任がわりと愛着のある存在になったのも、何話か見たところだったし、安達祐美も一回ぐらい眼鏡を外すシーンがあるのだろうか。



漫才らしき芸 02/8/11記

 先日、欽ちゃん司会の漫才デラックスを見た。この番組は去年も見た覚えがあるが、なにか”テーマ”というのを掲げてみたいようである。今年のテーマは「頑張る」というようなことだった。そんなことは漫才をやるのにとりあえず隠しておくべきことだと思うが、欽ちゃんが何組かの漫才が終わる毎に出てきては、そんな誰も関心のないテーマに関してなにか言う。
 そんなことは特にいいのであるが、今回は素人(漫才に関しては)の組合せを見ていて感じたことを。カイヤとチューヤンという組合せがあった。漫才というのは見た目やお互いの関係性のみをイジって成り立ったりするものだが(素人考えですが)、この二人の場合、明らかにカイヤに漫才のネタにふさわしい持ち合わせがある。即席で組んでいるのだから、当然そのあたりのカイヤの旦那との関係性を絡めてなんとか話しを持たせるわけだ。つまらないことは分かっているのだが、漫才のネタとしての関係性とはまた違った感覚も感じる。宮川大助・花子はネタとして、夫婦の関係性を漫才上で演じ続けることで、客側にもネタの捉えかたを教育し、それを利用しての安定した笑いを提供しているともいえるわけだ。(飽きにつながる危険性もあるが)
 カイヤの場合はどうか。一応初漫才ということではあるが、ネタの客側への教育はすでにワイドショー等で十分な状態といえる。これは非常に漫才にとって有利な状態ではあった。漫才らしきが成立する条件が一応整っていて、それを過不足なく提供したわけだ。なんだか安易に漫才が成立したという気もするが、本当に成立したのだろうか。
 かつてダウンタウンは横山やすしに「チンピラの立ち話やないか」などと言われたことがあったが、これは立ち話にすら劣るともいえる。わけがわからないうちに刷り込まれてしまった、半ばどうでもいい有名人の知識の断片のみを根拠に漫才が成立したかに見えていたのである。川崎麻世?カイヤ?誰それ?と言ってしまえればいいのだが、自分もその辺りの事を一応刷り込まれてしまっているわけで、いかんともし難い。
 芸能人はなにかしらイメージ、というもので生きている面が多々あることを考えると、一回限りの漫才らしきはとりあえずできるのかもしれない。

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東京国際女子マラソン’02 02/11/26記

 ナンシー関の新刊情報を書いてみたのでついでになにか書こうと思ったが、あまり書く事(テレビ的に)もないので、先日(17日)行ったマラソンのことでもちょっとメモ程度に。去年は四谷の交差点付近で見たのだが、今年はゴール地点(スタートも同じですが)、つまり千駄ヶ谷の競技場内に出かけることにした。競技場の正式名称はなんであるのか分からない。2時過ぎ頃に着くように行ってみた。
 ここの場所はスーパー陸上(ブブカなど陸上のスターが集まる大会。最近は横浜国際競技場でやる事が多くなったようです。)などで行ったことがあるので迷うことなく到着。駅前のコンビニでパンを1個買っていたので、それを食べつつ選手の到着を待つ。客層は去年同様、ばらばら。家族連れが行楽に来ているようなほのぼのした感じもあったかな。競技場内の画面ではテレビ画面と同じと思われるものが流されているが、音は無しでたまに画面の様子を解説するような場内アナウンスの声が入る。なかなか静かで当の競技場に居るという当事者的な感じがないのが面白い。この日は高橋尚子が疲労骨折(だったかな)で走らなくなってしまったのが残念だが、日本人選手とアフリカの選手が終盤素晴らしいデッドヒートをしていた。名前を忘れてしまったが。たしか給水地点でアフリカの選手が失敗してしまい、それをきっかけにスパートをかけた日本人選手。それを抜き返し、一時差が開いたが、また並ぶといった、まさにマラソンの醍醐味のようなレースだった。
 そんな二人の走りを画面で見ていると、信濃町あたりから競技場に近づいてくる。ゲートをくぐり、二人が飛び込んでくるように目の前の競技場に入ってくる。ユニフォームの鮮やかさや、何か充実した二人の顔、東京中を走ってきたとは思えない確かな足取り、そんなものが画面よりはるかに小さいながら一気に飛びこんでくる。やはり見に来てよかったと思うのはこんな瞬間だ。彼女らが場内を一周してきて、日本人選手は最後まで食い下がった。そのぎりぎりの力の出し切る様子がちょうど自分の手前あたりで展開されていて、なんというのかレースの最後の事切れる瞬間を見た気がした。
 レースは素晴らしかったのだけれど、変なおじさんがいた。1位のアフリカの選手がテープを切って、20分ぐらいたった頃だろうか。おじさんが何か叫びながら通路を移動している。声の聞こえる範囲まで来たのでちょっと聞いてみると、「2時間20分は切らないとな…」とかよくわからない事を口走っているだけだったのだが、そのおじさんの服(白のジャンパーみたいなもの)には「高校後輩 高橋尚子」と直にマジックか何かで書いてあり、異様な雰囲気であった。本当にそうなのかもしれないが、だからどうしたという感じ。このあと、近くのラーメンの有名どころ「ホープ軒」に行ってみたのだが、立ち食いが基本の癖に料金が高いのでやめにする。