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ナンシー関 〜そのツッコミ魂忘れまじ〜


<ナンシー関・辞典>

 ナンシーさんにまつわる色々なキーワードや関わりのあった人物のことなどをメモしていきたいと思います。(僕自身もあまり詳しくないところも多いため、間違いがありましたらご一報下さるとありがたいです。)

あ行 か行 さ行
青森
安斎 肇(あんざいはじめ)
いとうせいこう
えのきどいちろう
大食い
大月隆寛(おおつきたかひろ)
押切伸一(おしぎりしんいち?)
カラオケ
川島なお美
気になるモノですから
広告学校


あ行

青森

ナンシー関の実家のあるところ。実家はガラス店で、家業は弟さんが継いでいるということを読んだ記憶がある。同郷の版画家で世界的に著名な棟方志功がいる。(棟方志功記念館のリンクはこちら)棟方志功館が隣に出来たことからなのか、ナンシーさんの小学校では図工の時間=版画という等式があったようだ。(「何はさておき」p113あたり参照)
ナンシーさんは消しゴム版画を作るきっかけを人に尋ねられると、「私の出身小学校の隣には棟方志功館があり、図工は版画ばかりやらされてた」と答えるようになったという。曰く、「嘘なんだけど、嘘でもないし」。どうなんだろう、版画という手法を選んだことは小学校の時に頻繁にやっていたことがやはり少しは関係あるんでしょうか。しかし、消しゴムが素材でカッターで彫るとはなんと器用なことだろう。(12/11)


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安斎 肇

たぶん一番有名なのはテレビ朝日系「タモリ倶楽部」のワンコーナー「空耳アワー」でのソラミミストとしての安斎氏ではないだろうか。本業として有名なのは「JAL”太平洋楽園計画・リゾッチャ」でのキャラクターなどのイラストか。(こちらの略歴なども参照にさせていただきました)
ナンシー関との仕事上の関係はあまりなかったようだ。広告批評での追悼文によると、以下の仕事が唯一のよう。

「タイトルを作っていたNHKの『ジャスト・ポップ・アップ』で、クリスマス特集のジングルをひとつ頼んだ。NHKにやって来たナンシーは、その場で消しゴムを掘り出し、ビックリ。手の中でクルクルと消しゴムを回しながら、あっという間にできあがり。間近でみた消しゴムの版は、なんとも感動的だった。ペタッと消しゴムを押すシーンを撮影して、ジングルにした。直接的にも間接的にも、多分これがナンシーとのギャラとかのある唯一の仕事だったように思う。」

タモリ倶楽部内ではナンシー関の青森の告別式に出席したことにも触れたみたいだ(実際には見ていない)。そんな告別式にも”遅刻”したというのはネタなのか…。(12/12)


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いとうせいこう

本人も一流のマルチタレントなのだが、ナンシー関のデビュー時には講談社の編集者で担当記事に彼女の版画を使ったらしい。(このあたりの詳細はこちらの追悼記事で)
出会いはえのきどいちろうの紹介で池袋の喫茶店でとのこと。ナンシー関というペンネームの名付け親でもある。ボン研究所の本人プロフィールには『「なんかさ、そういうほうが、ぽいじゃん。」という理由で当時「ホット・ドッグ・プレス」編集者だったいとうせいこう氏に「ナンシー」という名前をつけられる。』という記述がある。(12/11)


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えのきどいちろう

エッセイやテレビなど(昔、NHK土曜倶楽部に出てた)で活躍する多才の人。ナンシー関、デビューに大きく関わりのあった人物。ボン研の本人プロフィールをまた引用します。『下絵も自分で描くようになり、その頃読んでいた花登筐の小説にインスパイアを受けて「丁稚シリーズ十連作」を制作。友達に押してあげたりしていたところ、それがえのきどいちろう氏の目に触れ、当時氏の所属していた編集プロダクション「シュワッチ」に誘われプロの消しゴム版画家となる。』
花登筐という作家(漫画家?)は恥ずかしながら知りませんでした。 えのきどいちろう氏の追悼文はこちら。また本人のサイトもあります。(12/11)


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大食い

他のコラムニストはあまり取り上げなかった「大食い」に関して、ナンシーさんは好んでテーマにしてきた。大食い番組は何ヶ月か毎に放送という間隔だったので、オンエア後の連載では必ずといっていいほど取り上げていた。「大食いと早食いは別物」「大食い番組の優劣はどれだけ優秀な”大食い”を集められたかのみで決る」など(ちょっと記憶で書いてますが)持論を展開していた。大食い番組の老舗「TVチャンピオン」のスタッフもその連載には一目置いていた(というか大きな影響力を持っていた)、というのを皇帝・岸義行氏のサイト(現在は閉鎖に近い状態)で読んだことがある。
2001年春より始まった「フードバトルクラブ」により大食いはかつてなかったブームを巻き起こすも、2002年春に起きた同番組を真似たと思われる中学生の死亡事件により、自粛へといたる。放送回数が増えたこともあって、この間もナンシーさんは大食い番組についてたびたび書いていたが、終始「TVチャンピオン」贔屓だった。
週刊文春「テレビ消灯時間」で2002年正月の「フードバトルクラブ」VS「TVチャンピオン」について取り上げたのが、大食い関連の最後の原稿になった(と思う)。1月24日付の原稿の最後3行を引用します。

「大食いの本を作るので、原稿を書いてくれ」とか「大食いの特集を組むのでコメントを」とかいう電話がこの年末年始いっぱい掛かってきた。人気が出てきたからもういい、というアイドルおたくな話ではなく、しばらくは「大食い」はいいわ。(天地無用 P75より)
 
しばらくが永遠ということになってしまったのは残念だが、大食いのテレビ自粛が永遠になるとしたらそれも残念だ。
ちなみにナンシーさんが好きな”大食い”は方喰(かたばみ)保弘・赤阪尊子(と思われる)。赤阪さんに関しては素人(微妙ですが)にもかかわらず、版画の対象に何度もなっている。(12/13)


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大月隆寛

民俗学者。いわゆる学者と違い、専門以外の事柄でもマスコミに頻繁に登場、雑誌の連載などもある。ナンシー関急逝の直後、新聞などに追悼記事でもっとも頻繁に執筆していたという記憶がある。(これこれ
「彼女の死は思想的事件」、「いつも心にひとりのナンシーを」などナンシー関の死を単なる一人のコラムニストの死とせず、より大きな存在を失ったとした。(全くその通り)著書・略歴など非常に詳しいサイトを見つけましたのでリンクを。
ナンシー関との仕事は対談集「地獄で仏」(文藝春秋社刊)がある。この本の中ではナンシー関に激しく突っ込みを受けるなど、他のメディアでは見られない大月氏の姿がある。(12/12)


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押切伸一

よく知らないので、検索してみたところこのHPに短く紹介が載っていましたので引用します。『雑誌記事、テレビ番組の構成などをやっている押切伸一氏』
またナンシーさんの友人で対談集「堤防決壊」も出している町山広美の旦那さん。「記憶スケッチアカデミー」(カタログハウス刊)では座談会の一員(他のメンバーはいとうせいこう、ナンシー関)。(12/12)
ボン研によると、モノマガジンの「押切伸一のやにわにあの人」でイラストを担当していたとのこと。これはまた一度も読んだことがない。(12/13)

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か行

川島なお美

版画に彫られた回数ではトップといってもいいほど、いろいろな意味でナンシーさん注目の女優。「川島なお美」で検索してみると、公式サイト「Club Naomist」を発見した。ナオミストかあ。ファンクラブ的な意味もあるみたいなのでそんな名前なのかも知れない。BBSもついていたが、一度チェックを受けてからの掲載のようだ。
サイト内に受賞&資格がまとめられているところがあるが、「メドック・グラーブ・ボンタン騎士号 (ボルドー)」、「シュバリエ・ド・フロマージュ (チーズ鑑評騎士)」、「裏千家お家元より「川島宗美」の茶名を授かる」などその”邁進”振りは凄い。好きが昂じてというより、その世界で名のあるものを求めて獲りに行っている感じもする。大きなお世話でしょうが。(12/12)


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気になるモノですから

ボン研のインフォメーションで、『5月に創刊された「BIG GATE」(KKベストセラーズ)で「気になるモノですから」というコラムを開始しました。』という記述がある。一度も読んだことはないが、今後読んでみたいものの1つ。内容は『タレント・有名人の有形・無形の持ちものがテーマです。』とのこと。検索して出てきたサイトによると、一回目は「アニマル悌団コアラは三原じゅん子の格上げ装置!?」というものだったらしい。(12/13)


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カラオケ

ナンシー関はカラオケ好きだったそうだ。二次会はカラオケ、というのは定番のコースだったようである。趣味でバンド活動もしていたナンシーさんは音楽への思い入れも強かったのだろうと思われる。追悼記事をざっと見てみると、いくつかカラオケに関することが書いてある。
WEB噂の真相(02/6/12)では「本誌編集長以下、スタッフは何度かカラオケも一緒にやったが、あのプロはだしの金属質の歌声ももう聞くことができないのだ。」とある。プロはだしの金属質の歌声とは、聞いてみたいものだ。
川藤正幸氏のコメントの中には『ナンシーさんからのカラオケの誘いを3回続けて断ったら、「私達と遊ぶのが嫌いなのか、カラオケが駄目なのか」と訊かれ、後者だと答えたら、「だったらいい」と許してくれた。以後会うのは、彼女が招待されていながらチケットを買って観に行くムーンライダーズのライヴ会場ぐらいとなった。』とある。3回もの誘いとはかなりな頻度でカラオケをしていたことが想像される。
リリー・フランキー氏の追悼にはこうある。(ちょっと長い)『カラオケの好きだったナンシーさんとカラオケに行ったとき、昔、変な別れ方をした彼女にもう一度会いたいとか、また、バカなことをいいながら「逢いたくてしかたない」を絶唱していた僕に「しょーがないねぇ、この人は」と言いながら、続けて「でも、郷ひろみよりも気持ちが入ってた。もう一回歌っていいよ」とリピートしてくれたり。いつも、過剰なことは言わないのだけれど、ひと言、人の楽しくなるようなことを察してくれる人でした。歌がすごく上手だったナンシーさんと「ロンリー・チャップリン」を何度も歌いました。出版社の新年会とかで披露しようといいながら。でも、仕事も何事も完璧を目指すナンシーさんでしたから「ちょっとハモリ違うんだよね。CD買って練習しようよ」ってナンシーさんらしいなと思いました。』CD買って練習とは意外な側面を感じる気もする。たぶんお世辞抜きに凄くうまかったのだと思います。売れた作家やコラムニストがCDを出す、なんていう事はけっこうあることだが、たぶんナンシーさんにもそんな話があったのかもしれない。しかし商品化には至ら なかったのを思うと、かつて彼女自身が書いた「人前で歌ってはいけない槙原敬之」(「何様のつもり」P28)というコラムとなんらか関係があるのかなとも思う。なにか失礼なことを書いてしまったかもしれないが、ナンシーさんほど仕事の範疇を守り抜いた人はいなかったのではないかと思う。(12/14)


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広告学校

ボン研プロフィールに以下の文章がある。
『二十歳を迎え、世はまさに80年代初頭のコピーライターブーム。友人に教えられて「広告学校」というコピー学校に通う。しかし、通ったからといってどうなるというような学校ではなく、3ヶ月ほどの受講期間が終わるとまた元の生活に戻る。』この学校に通ったことをナンシーさんはコラムの中で恥じていた、というか若気の至りというような感じで書いていたのを思い出すが、どこにあったかは不明。
追悼記事ではしりあがり寿氏の中に次の文章が。
『ナンシーさんもボクの弟と広告学校が同級で、「にいちゃん漫画描いてんだ、って言ってた『にいちゃん』てあなたか。」みたいにしてボクを覚えててくれた。』「あなたか」と言ったとしたら、なにかナンシーさんらしい気がする。
広告学校というのはたぶんここのことなのだろう、生徒有志のHPには2ちゃんねる風の掲示板がありました。(ナンシーさんのスレッドも一応発見)(12/14)


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