st correction: 2015/06/11  kodama@a05.itscom.net
 

     「大津絵節」に関する資料 - 元唄に最も近い歌詞は? 

  「大津絵節」は、東海道五十三次の最後の宿場、大津で旅人相手に売られた「大津絵」から、18世紀の初め頃「大津絵踊り」として始まり、幕末から明治にかけて大流行して無数の替え唄を生み出したとされている。中でも明治の唄本に最も多く現れるのが「おおい親父殿」、次が「雨の夜に」であり、「外法梯子剃り」がこれに次ぐ。 その他「大阪を立ち退いて」、「ぼうふりが時を得て」、「瓢箪の手柄話」、「おおい与一兵衛」等々。三田村鳶魚「瓦版の流行歌」にも替え唄が満載されている、- 「しん板大つゑぶし」 として6編、「江戸の花向島八景大津絵ぶし」 として6編、「江戸紫あふつへ葉うたぶし」 として10編。
KDLから改めて「大津絵」を検索すると、替え歌集から楽譜付き歌集へという唄本の変化が如実に現れると同時に、この唄の流行り方の特徴が良くわかる。即ち、タイトルに「大津絵」を持つ替え唄集は明治10年代6件、20年代16件、計22件で以後途絶えるのに対し、目次に「大津絵」を持つ歌集の内、タイトルから西洋楽器あるいは明清楽器を目指したと判るものが、10年代1/6(全6件中1件)、以下20年代5/2130年代9/1140年代9/14、計24/52 と、明治後半に増えて行く。 残りの28件(尺八//三味線/琵琶歌などを目指したもの)と前記22件の替え唄集を併せると、10年代11件、20年代32件、30年代2件、40年代5件となる。この唄は明治初期に既に流行っていたものが、更に新しいファン層を呼び明治中葉に人気がピークに達したと理解できる。[1]  

「おおい 親父殿」 -「日本俗曲集」より

 「おーいおーい 親父殿  その金こちらへ 貸してお呉れ」
 
親父めは びっくり仰天し  「イエイエ金では ござんせぬ
 
娘が して呉れた 用意の 握り飯  どれどれ お先へ 参りましょう」
「やれやれ しぶとい 親父め」と  抜き放し 何の苦もなく 一抉り
 
お金と命の御相別れの 二つ玉 

7-5調を基本にしているが字余りフレーズが多く、会話対を交えて韻文というより散文に近い。 歌詞構成を「字余りタイプ」と分類する。 忠臣蔵 定九郎の与一兵衛殺しをテーマにした替え唄だが、残酷さよりも滑稽な味が目立つ。 旋律は「都節タイプ」に始まって「田舎節タイプ」へと転調した上、最後にまた「都節タイプ」に戻る。 軽やかなリズムに乗せた唄と三味線の掛け合いが特徴だ。 言葉は日常会話のリズムとは無関係に、忙しく変化する音に自在に貼り付けられて滑稽味を増す。

KDLの唄本中、五線譜で表した「大津絵節」の最も古いものは、明治22年の宮田六左衛門著「古今端唄集 西洋記譜」だった。 


「雨の夜に」 - 田辺尚雄の採譜より[2] 

雨の夜に 日本近く  寝ぼけて流れ込む 唐模様          
黒船に 乗り込み八百人 大筒小筒を 打ち並べ         
羅紗猩猩緋の 筒っぽ襦袢 黒ん坊が 水底仕事する       
大将軍は 部屋に構えて済まして真面目顔           
中にも髭だらけのジャガタラ唐人が 海を眺め、銅鑼 鐃?を 叩いて
キクライキクライ キンモールと 亜米利加さして
貰いし 大根 土産に いそぎ行く  

歌詞構成は「おおい親父殿」と同じく字余りタイプ。 茶屋の2階からのんきに黒船を眺めているといった情景、一名「アメリカ大津絵節」とも呼ばれる。[3] 
旋律は「都節タイプ」、E-F-A-H-c-e からE-F-A-B-d-e-(a)へと鮮やかに転調する。
「おおい親父殿」と違って歌詞が旋律に素直に対応しており、リズムは「親父殿」より穏やかだが同様に歯切れが良い。 田辺の採譜では「寝ぼけて流れ込む」で、2/4拍子の裏表(強弱)が逆転しているが、これは他の俗謡にもしばしば現れる現象で、実際はこのフレーズの前後に1/4拍の休止(リズムの中断)が行われていると理解するほうがむしろ自然であろう。



「外法の梯子刷り」 - 中根淑 「歌謡字数考」明治41年 より 

げほうの 梯子ずり 雷太鼓で 釣をする 
御若衆は 鷹を据え 塗り笠おやまに 藤の花
座頭(ざっと)の坊の ふんどしを
犬くわえて ぎょうてんし 杖をば 振り上げて
荒気の鬼も 発気して鐘撞木 瓢箪鯰で
押さえましょ 奴の行列 釣り鐘弁慶 矢の根五郎(ごろ)

歌詞構成は字余りタイプ。 中根は「此の節は替え歌はなはだ多し 先ず題名により原歌を挙げて その次に替え歌一曲を載す 是にて其の言葉数同じからずとも 緩急の謡い回しに由りて三絃の節奏に適うこと覚るべし」と述べ、その「原歌」にこの「げほうの梯子ずり」を挙げている。 
この歌詞に現れる「外法の梯子刷り」、「雷太鼓」、「瓢箪鯰」は木版刷りの大津絵の題材として数多く描かれているもので、これが幕末から明治にかけて大流行した「大津絵節」の元唄である可能性が高い。  


「ぼうふりが時を得て」- 中根淑「歌謡字数考」より (括弧内に示すシラブル数は中根による)

ぼうふりが 時を得て(5-5) 羽がはえ 足がはえ(5-5) 
くちに針がはえ (8) ぶんと啼いて 飛びめぐり(6-5
おっと蜘蛛の巣 恐るべし(6-5) 暗い所を 壁伝い(7-5
人ある方へと 尋ねゆく(8-5) 刺さんとすれど 蚊帳一重(7-5
ままならぬ 内には亭主が 酒きげん(5-8-5
私が入ったら 定めし(8-5) おかみさんが やきなましょ(6-5) 

歌詞構成は字余りタイプ。 中根は「おおい 親父どの」について、原歌「げほうの梯子ずり」と「大抵同じ」、替え唄「ぼうふりが時を得て」は「大いに異なり」としている。

「堀川」 - 後半のみ、「世界音楽全集34 近世日本音楽集」(1931、春秋社)より

嫁御のひる寝は ころりとせ ハー(囃子言葉)
起きたら 互いに 抱きつきゃれさんな
またあろかいな
それで機嫌が 直ったら ハイ カッカ
ついでにひよりを 見てたもれ
お猿は目出度や お目出度や

歌詞構成は字余りタイプ。 囃子言葉は旋律に乗せて唄われる。 
旋律構成は都節タイプ、リズムはまさにジャズだ。 田辺は「義太夫節 お俊伝兵衛の中の猿回しの一節を特に大津絵節化したものだ」と記しており、曲ができた年代は不明。


「大阪を立ち退いて
ー 月琴胡琴明笛独稽古 (1901)

大阪を立ち退いて、私の姿が目にたたば、かり籠に身をやつし、

奈良の旅籠屋三輪の茶屋、両三にち 日を送り、二十日あまりに四十両、

使い果たして二分残る、金より大事の忠兵衛さん、

とがにんにいたしましたも皆私ゆえ、さぞやお腹も立ちましょうが、

因果づくじゃとあきらめてくださんせ

 - これは人形浄瑠璃 冥途の飛脚、遊女梅川のセリフ でした。


            *************************

参考資料:

会田皆真によるヒント - 『おおい親父殿』と『雨の夜に』は基本的に同じ旋律だ 
    
日本俗曲集の「おおい親父殿」と、田辺による「雨の夜に」を何度口ずさんでみても、私にはそれが同じ「大津絵節」という唄とは思えなかった。 一方、ガイスバーグの録音にもいくつかのトラックに「(何々尽くし)大津絵節」なるものが現れるものの、にぎやかに他の唄なども混ざりこんで私にはその旋律が把握できなかった。 古今亭志ん生の唄う大津絵節「冬の夜に」は歌詞も旋律も「雨の夜に」の系列の可能性が高いが、メリスマの多いスローテンポの歌声から簡明な旋律は把握できない。「大津絵節」とは?に対して有力なヒントを与えてくれたのは、明治27年に出版された替え唄集「大津絵独稽古」の、会田皆真なる人物による序文だった。[4]

それ大津絵節は近頃大きに流行の一つとなり、昔日の節付けに少しく調子を変じて、校書輩は座敷の興を添ゆるといえども、この大津絵節という異名より割り出しても、昔日の節付けが法に適いたるものとしか考えられず、殊に文句中に長短あり俗に唄い廻してこの長短はどうにもなるものにて、下(しも)に来て五文字に調子あり。 
いわゆるおおいおおいの末に、《抜き放し》何の苦もなく一とえぐりという際が一寸のぐあいでチャチャチャン〃〃〃の終わり迄結び付けるを以って専一と考えたきもので、もう一つは見立てものの何々尽しにも唄い方に秘伝あり、早目でよしあしの所が調子にて、延して又都合悪しとここで三味線ならカンどころと同じ段にて、妙に音調の発し方あり、是は筆舌に尽くし難きといえども、少しく其心して唄う時には別に難しきという程の事もあらずかし。ただ文句をよく先に覚えること肝要なる故に、今度発行に及びし独稽古には古今の名文頗る根を尽くして集めあれば、看客よろしく心を附けて一読あらんことを、おおい~の親父橋(おやじばし)出版元の求めに応じて述ぶる。

会田によれば、(1)「大津絵節」は近頃大きな流行で、(2)芸者衆らは昔からの節を少しし変えて座敷に興を添えているが、(3)昔通りの節付けこそがホントの「大津絵節」で、(4)文句には長短色々あるが適当に唄っておけばよく、(5)肝心なのは《抜き放し》何の苦もなく一とえぐりの調子だ。- この《抜き放し》には括弧と傍点がついている。 これをヒントに「おおい親父殿」と「雨の夜に」を同じ5線譜に載せて比べてみた。 「親父殿」を三味線に、「雨の夜に」をクラリネットに置き換えて重ねたサウンドをお聴き頂きたい - このふたつの旋律が基本的に全く同じものだと知れよう。
 
 


- 西野琴彦編、西野虎吉、「古今俗曲全集 西洋楽譜」
Thesisを提出する間際になって、佐々木隆爾による大津絵節の研究の存在に気がつき、その旨記しておいた。 - 読み直してみれば、そこに西野虎彦による大津絵節「大阪を立ち退いて」が紹介されていた。 国会図書館の書誌情報には、「出版事項:東京:西野虎吉,大正5」、「著者標目:西野,琴彦」 とある。 西野は、三木佐助の婿養子で、「日本俗曲集」、「地理教育鐵道唱歌」の出版に深くかかわった人物であり、「古今俗曲全集」大正5年版は明治41年版、43年版に続いて改訂を重ねた10冊からなる大作だ。 この俗曲集は明治の俗謡の、最後の宝の山であるかも知れない (現在は館内のみ閲覧可能)。

明清楽の工尺譜による 「おおい親父どの」 (明治18 KDLより)




大津絵節へ     どどいつ へ      トップページへ

         

[1] 初期の唄本には、目次のないものあるいはKDLに目次がリストアップされていないものが多く、実際には更に-古いものほど- 多くの唄本にこの唄が載っている可能性がある。 
[2] 田辺尚雄「世界音楽全集25 近世日本音楽集」文芸春秋、1931 他に、梅田磯吉による採譜(明治21年 音楽早学び)があるが、KDLの蔵書では判読不能
[3]倉田喜弘はこの唄が藤岡屋日記(1849)に載っていることから、ペリー来航以前にできたものだと証明している。倉田喜弘「はやり唄の考古学 - 開国から戦後復興まで」 文芸春秋、2001
[4] 会田皆真「大津絵独稽古の序」:柳派惣連、三遊派惣連「大津絵独稽古」東京、加藤福次郎、明治27年/1894