「チョンキナ」        

三田村鳶魚 によると、「ちょんきな」 は 弘化四年(1847) 以降に出て来たということで、 「瓦版の流行歌」
には、「二上がり ちょんきなぶし替唄ちうしん蔵」 と題して

     「ちょんきな〜、しょだんは、かまくらあらため、かほよでよやさの」 ・・・  にはじまり、
     「ちゅうぎな〜、四十七人、かたきうちとめ、ほんもふでよやさあ」 

に終わる続き物が載っています。 鳶魚はこれに註釈して
   
     その本歌は誰もが知った、
     「ちょんきな ちょんきな、、ちょんちょんきなきな、ちょんがなのその、ちょちょんがよやさの
     「ねんねこ ねんねこ、ねんねんころころ、こどもねかして、ふたりでよやさの」
     なのだが、替え唄は珍しいように思われる、果たして流行するほどであったか否か。

と、みずから疑問を投げかけています。

また倉田喜弘 「はやり歌の考古学」によれば、その後この唄は横浜のチャブ屋で外人相手の裸踊りに使われた挙句ヨーロッパにまで輸出され、「ミカド」と同じくらいヒットした喜歌劇 「ゲイシャ」 に採り入れられて、

     「チョンキナ、チョンキナ、チョンチョンキナキナ、長崎、横浜、函館ホイ

と 歌われているということです。注1 倉田氏は、日本の歌手が米国でこれを歌っていたく非難された事件を取り上げ、さらに明治24年当時の新聞報道引用して、
     「チョンキナ」は、「醜体実に言わん方」なく、「今は誰知らぬ者なき位」である・・・、
     「外人に対しても恥辱」だと・・・「鄭声(卑しい歌)を放て」の声が上がったものの、風俗営業の繁栄
     する日本にあって、「チョンキナ」に代わるものはなかった。
と慨嘆しています。


KDL(近代デジタルライブラリー)を探してみると、楽譜を載せている 梅田磯吉 「音楽早学び」 (明治 21年)以降、40年代までの唄本計20冊に、 主としてその替唄が掲載されています。注2
三田村・倉田両氏が暗示しているように、 「チョンキナ」 が全国に広まったのは、じつはヨーロッパと同じく明治も後半に入ってからかもしれません。
話が長くなりましたが、三田村鳶魚の「ちょんきな」を 梅田磯吉の採譜で唄ってみましょう。 
唄ってみよう
この旋律は、ソラドレミのレで終わる典型的な田舎節/陽旋ですネ。注3

日清戦争の明治27−8年には、これをテーマに敵国と敵国人を蔑視したザレ唄を集めた、俗謡替唄集が数多く出版されています。 −替唄の多いのは流行った証拠、その一つ 「日清事件はうたかえ唄」(明治28年) は次のようにうたっています。

     「オイ来ナ オイ来ナ ちゃんちゃん オイ来ナ チョイと来たなら 撃ちとめる」




猫じゃ猫じゃ     トップページへ        2011/11/01   koduc@me.catv.ne.jp


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注1 Jones, Sidney, 1896 The Geisha, London, Hopwood & Crew
注2 明治10年代までは見当たらず、明治20年代8冊、30年代7冊、40年代5冊  
注3 明治の俗謡には、小泉文夫が提唱した 「都節音階」、「律音階」、「民謡音階」、「沖縄音階」という四つの基本音階がそのまま当てはまる旋律は殆ど見当たりません。 そこで資料編では、俗謡の音階構成を粗く二つに分類して、それぞれを 半音階を含む 「都節タイプ」、および 半音階のない 「田舎節タイプ」 と呼んでいます。 この「俗謡編」、「軍歌・唱歌編」 では煩雑さを避けて単に 「都節」、「田舎節」と呼ぶことにします。 この唄の場合も、ソラドレミという音階構成は、ソラドの「律テトラコルド」、ラドレの「民謡テトラコルド」 いずれとも言えず、むしろ ソラドレ の ペンタコルドと ドレミ の 3音旋律の組み合わせと理解したほうがよさそうです。