ノーエ節 − あるいは野毛の山から/さいさい節 資料    

この唄を、藤沢衛彦は1862年、古茂田は明治元年にリストアップしているが、KDLの唄本に現れるのはかなり後のことだ。 目次およびタイトルから改めて検索すると、明治20年代に1件、30年代6件、40年代4件、計11件中ただ1件のみが尺八稽古本でそれ以外はすべて西洋楽譜付きとなっている。 27年の唄本の 日清戦争をテーマとした替え歌や、32年の幼児言葉のような歌詞で唄われていること自体が、当時の流行振りを現しているとは言えるだろう。   

  歌詞(元唄): − 「新版 日本流行歌史 上」より                     (括弧内はシラブル数を示す)

野毛の山から ノーエ (7-3)    野毛の山から ノーエ (7-3)      
野毛のサイサイ 山から (7-4)    異人館を見れば (6-3)
お鉄砲かついで ノーエ (8-3)    お鉄砲かついで ノーエ (8-3)
お鉄砲サイサイ かついで (8-4)  小隊進め (7)
天満橋から ノーエ(7-3)     天満橋から ノーエ(7-3
天満サイサイ 橋から(7-3)   城の馬場を見れば(6-3
鉄砲かついで ノーエ(8-3)   鉄砲かついで ノーエ(8-3
鉄砲サイサイ かついで(8-4)  小隊進め(7 

    オッペコヒャラリコ ノーエ(8-3) オッペコヒャラリコ ノーエ(8-3
    チイチがタイタイ トチトノ(8-4) オッペコヒャラリコ ノーエ(8-3



歌詞構成:
7-5調を主体をした字余り。「ノーエ」は実際には「ノオオオエ」と歌われる。

1番は外国軍隊の示威的な教練を、2番はおそらく斉彬に率いられた徳川軍を冷やかしたものであろう。 3番は 鼓笛隊の口真似と口三味線らしき囃子言葉からなる - 子供たちの間で流行ったはずだ。 


音階構成:
旋律A −「日清戦争 流行り歌」(明治27年)[1]より 


 
              図 3-1 「旅順港からノーエ」 の音階構成  
   

− これは 「旅順港から支那兵を見れば、、」 という設定の替え歌だが、この都節タイプの旋律は、今日知られている「ノーエ節」 とは全く異なっている。 町田桜園のドレミを123に置き換えた数字譜は、他のよく知られた曲の採譜例からみて十分信頼できる。 先ずは三浦俊三郎による、「維新マーチ」 と聴き比べてみよう。[2] 堀内敬三や中村洪介が記しているように、「ノーエ節」が「維新マーチ」から転化して生まれたという説もうなずける。[3]

             図 3-2 「維新マーチ」 の音階構成 



 旋律B −「吹風琴独案内」(明治32年)[4]より こちらは、「オッペコヒャラリコ」 の歌詞で歌われている。 

               図 3-2  「オッペコヒャラリコ ノーエ」の音階構成


D−d を核音とするこの音階構成は、律TC/民謡TCのどちらともいえず、主な旋律形からすればむしろd-c-A-G A-G-E-D、二つのペンタコルドの組み合わせと理解できる。− このペンタコルド自体が律TCと民謡TCの組み合わせだ。

当時の多くの楽譜と同じく、上の二つの譜には付点8分・16分音符あるいは連符が用いられていないが、これが譜面の表示通り8分音符の繰り返しを意味していたとは考えられない。 詳述しないが多くの手鞠唄などと考え合わせ此の唄も実際にはピョンコビートで唄われていたと考えられる。
                               

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2011/09/14   koduc@me.catv.ne.jp             
 

[1] 町田桜園 「日清戦争 流行り歌−曲譜つき」 東雲堂、明治27年/1894

[2] 三浦俊三郎 「本邦洋楽変遷史」 日東書院、1931

[3]上記の他、都節タイプの 「野毛の山から」 がある: 小畠賢八郎編 「新撰俗曲全集」 大阪開成館,明42年/1909

[4] 山本桃水(栄次郎) 「吹風琴独案内」 大阪、矢島誠進堂、明治32年/1899