last correction  2011/10/14   koduc@me.catv.ne.jp    

      ほうかい節/ホーカイ節/法界節

KDLからの検索で、明治年間に 「ほうかい節/ホーカイ節/法界節」 を載せた唄本が26件現われました。 唄本のタイトルから見ると、月琴・明笛など明清楽系はわずか3件。 手風琴 5件、吹風琴 6件、銀笛その他が11件となっており、この歌が既に明清楽から離れて流行しているのが分かります。 なかで最も古いものが、前項の「九連環」でも引用した明治21年 「月琴雑曲清楽のしおり」 です。 工尺譜は判読できないので、歌詞だけ紹介します。

          春風に にほひほころぶ梅の花 鶯とまれやあの枝へ ホウカイ
         そちがさいずりゃ 梅がものいふ心地する ほうほけきよう

          一日も はやく卒業ぬしのそば そくはつ頭に洋服で ホウカイ
         似合いましたか わいふじみたか見ておくれ ごぜん上とう  
  

もう一件、同じ明治21年に歌詞だけを掲載した、北溟散士編 「軍歌・漠々歌・凛々歌」というのがあります。 −
「軍歌」といえば、七五調の歌詞だけでフシはまだ無いといった時期です。 日清戦争が始まる6年も前の明治21年に 「かねて覚悟を支那の国」 さらに 「夢に乗っ取る北京城」 とは驚きですネ。また「漠々歌」というタイトルは、「壮士節」/「壮士演歌」の系統と思われます。 「ほうかい」には「砲界」を充てています。編者の河村北溟というのは如何なる人物でしょうか?



楽譜判読可能で最も古いものが、前項の「九連環」と同じく明治26年神戸発行の 「西洋楽譜流行端歌俗曲集」でした。 今度は工尺譜記号の代わりに、五線譜とアコーデオンのための数字譜の両方に、歌詞を載せています。 
                          
               一日も 早く年明け 主のそば 縞の着物に 繻子の帯 ホーカイ
             似合いましたか 見てお呉れ 上等舶来
             東京の 名所古跡を 訪ぬれば 上野 浅草 向島 ホーカイ
             飛鳥 王子に増上寺 九段 愛宕
                   電子音で聴く     
唄ってみよう        

節回しは 「九連環」 とほとんど全く同じ、当時すでに明清楽愛好層を越えて広く流行っていた 「九連環」 の旋律に、日本語の歌詞を当てはめた といった感じですネ。 九連環の歌詞としては、「不解/ポーキャイ」だけが 「ホーカイ」として生き残っています。 これ以降に現われる唄本の多くはこれと殆ど同じ旋律を載せており、記譜上 明らかな誤りがないという点から見ても、この記譜は「ほうかいぶし」の決定版といって良いでしょう。 この著者が作者である可能性も考えられます。
本居長世(明治18年−昭和20年)もこの歌詞 -何故か前半だけをこれによく似た節で引用しており (注1)今や 「法界節」 といえば この 「一日も早く年明けぬしのそば、、、」 ということになっていますが、KDL所蔵の明治の唄本に関する限り、何故かこの歌詞はこれ一回しか出てきません。 その替唄に日清戦争中の 「一日も早く攻め取り 北京城」 というのがあります−「日清戦争俗歌集」 28年) 

ともかくこれが、ドレミソラドの五音長音階 −別名 ヨナ抜き音階による 本邦最初の流行り歌ということになります。
これが、スコットランド民謡の唱歌や「敵は幾万」の軍歌からでなく、明清楽から生まれてきたことは、日本近代音楽史上もっと注目されるべき事実なのです。

「ほうかいぶし」として唄本に最も多くあらわれるのは、次の歌詞です。 (但し この版ではアタマは「春雨」でした。) 節はどれも良く似た田舎節、 「ドレミソレー」 ではじまり 「レレドーレレドー」で終わります。  
              春風に 庭にほころぶ梅の花 鶯とまれよあの枝に ホーカイ 
              主がさえずる 梅がものいふ心地する ホケキョホケキョ
          (明治27年大阪 「手風琴独奏自在」)  

そのほか、目立った文句をいくつか挙げてみましょう。
              ベルリンの 花にそむきシベリアの 月と雪とを友となし ホウカイ                      
             帰る中佐の騎馬旅行 義烈堂々
     唄ってみよう          (27年大阪 「手風琴独案内」)      
明治26年に、在ベルリン大使館付武官の任務を終えた福島中佐が、の本への帰途 単騎シベリアを縦断したという壮挙は、落合直文の詩 「騎馬旅行」などにも詠われ、壮士芝居での上演が錦絵もになっています。               
      
                                                (福島中佐単騎遠征図:早稲田大学)                                                
              安城渡 暁くらき闇の道 松崎大尉は剣を振り ホウカイ   
            進めすすめと 下知をする ススメススメ  
 
                (27年東京 「日清戦争流行歌」)
松崎大尉とは、「死んでもラッパを離しませんでした」 と小学校の教科書にも載った喇叭手・木口小平の上官です。 安城渡河の戦いで勲功をあげ、成歓の戦いで壮烈な戦死。 歌舞伎でも演ぜられて錦絵になり(松崎大尉進撃図 早稲田大学演劇博物館)、ガイスバーグの録音にも有村謹吾の詩吟が入っています。              
             書生さん 好きで虚無僧するじゃないが 親に勘当うけ試験に落第 サヽホウカイ
            仕方がないからね 尺八片手に門に立つ 失望落胆
     唄ってみよう     (32年大阪 「吹風琴独案内」)   
              

「ホーカイ節が東京へ乗り込んで来たのは、日清戦争前後のことだ」 と本居は記しています。 「堕落生の輩が糊口の道に窮した結果、身に覚えた芸を助けに、月琴や楊琴を弾き之に合わせて法界節を唄って門付けして歩いたのが元で、、、法界屋という立派な一種の営業が出来てしまった」 とも、、。また田山花袋の「田舎教師」(明治42年)にも、
明治34年当時埼玉県羽生市弥勒の小学校の教室からの眺めとして、『夫婦づれで編笠を被って脚絆をつけて歩いて行くホウカイ節』 という描写があり、此の唄の浸透振りを裏付けています。

日露戦争中の38年東京発行の 「手風琴独習」に、「最新流行軍歌入り法界節」なる歌が載っています。
              神人も 共に許さぬ凶悪ロシア 討ちて懲らすは 今なるぞ 
            世界に名高き日本国 その有様は皆知らん 皇統連綿大君の 臣子は今や5千万
            仁義の戦にネ 敵はなし ハルピンモスコーもひと破り   
        
電子音で聴く
ここには、「ホーカイ」 も無ければ歌詞構成も全く別です。 オッペケペーのような同じフレーズの繰り返し、どうやら 「壮士節/壮士演歌」の匂いがしますネ。 音階構成も、「レミソラドレ」の田舎節でもなければ、「ドレミソラド」の5音長音階でもない。 最後に 「ラソーミソミレド」と一旦は「九連環/ほうかいぶし」 らしい長音階の形を残しながら、さらに「ラドレーミミレー」を付け加えないと何か終わった気分にならなかったのでしょう。

後の添田知道は、 「演歌の明治大正史」(1963 岩波新書)に、「凛々歌・法界武士」の五線譜を載せています。歌詞は先に記した「凛々歌 武士」と同じです。
             露の身と 思えば軽き我が命 散りて馨りて敷島の 法界ホーカイ
            花は桜に人は武士 忠勇凛々
                               電子音で聴く             

ただしどこかに 「花魁も 孔子(格子)の内じゃと濁声あげて 論語読み々々吉原へ」 という都節の譜もあった筈ですが、残念ながら見つかりません! どなたか行方をご存知ないでしょうか?                                                   
koduc@me.catv.ne.jp
唖蝉坊(明治5年−昭和19年)は 昭和8年の 「流行歌明治大正史」 に、次のように記しています。
(注2)
         「法界節」の流行時には法界屋なるものがうまれた。月琴を奏でて歩く新しい門付けで、これが大変に歓迎された。
         そして此の法界屋はどんどん増えていった。また改良剣舞も此の頃より始まった。 いずれも演歌の派生である。
この 「演歌の派生である」というのが、面白いところです。 「九連環」の「ラソミレド、レドー」という終わり方から、「ほうかいぶし」では「レドーレドー」の形に変わっていますが、中でも 「義烈堂々」、「失望落胆」、そしてこの「忠勇凛々」というエンディングは、いかにも壮士節という感じですよネ。 どちらがどう影響しているのか、どちらも混沌とした中から出てきたのか、これも宿題です。
         

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注1 しかも本居は、『其の後半を失うにいたっては沙汰の限りで形の整わないにも程がある、流行唄とはいえ、、かかるものを歓迎した時代は確かに一般の音楽思想の大下落を表示していると云わねばならぬ』 と憤激しています。 (「音楽雑誌」(第一巻第九号 明治43年)
本居のこの 「音楽思想」 もさることながら、本居はこの唄の後半の 「ホーカイ」 から後をホントに聞いたことがないのでしょう!傍若無人な門付けと顰蹙を買った連中は、ここまでしか歌わなかったとも考えられます。 明治40年代になると既に流行は終わっていて、唄本に載っているのはその残骸ということでしょうか。   
注2 じつはここは混乱している! 昭和8年春秋社版(著作者 添田知道) 577p 「流行歌に就いて」には、『「此の頃ホーカイ節の流行より、月琴をもって法界節を専門に門付けして歩くものが出来た。壮士の無骨さは此の門付けの法界節の下劣な長詩を忌み極度に此の連中を卑しめた』 とある。 本文中に上の記述があったかどうか???−宿題