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        明 治 中 期 の 兵 隊 節                    


     道は六百八十里

代表的な兵隊節軍歌といえば 「道は680里」でしょう。 この唄はあまり多くの唄本に載っていません。 KDLからの検索で最も古いものが、 「凱旋」というタイトルで明治21年発行の 「軍歌・漠々歌・凛々歌」という歌詞だけの唄本に載っていました。 「漠々歌・凛々歌」という題名から、この唄本はいわゆる 「壮士節/壮士演歌」の系統と考えられます。 出版事項は、北溟散士編、市川村(千葉県)、長谷川芳三となっています。 次に現われたのは、明治25年 「やまと軍歌 附・兵式体操,歩兵操典」という唄本で、出版事項は白幡郁之助編、東京、干城社となっています。 「我は官軍、、」や「嗚呼正成よ」など初期の兵隊節軍歌との大きな違いは、与えられた難解な文語体の叙事的長詩ではなく、平易な日常語の文句で 唄い手自身の感慨を語っているところにあります。 自然発生的に兵隊節で唄われて出来上がった歌詞と考えられ、明治21年の唄本発行の時点では既に唄われていたと思われます。 この点が前項に記した初期の兵隊節軍歌との大いなる違いで、時間的には重なっていますが 第二期 /中期の兵隊節と分類しました。

        明治21年 「軍歌・漠々歌・凛々歌」)  唄ってみよう

ソラドレミソの田舎節/陽旋です。 この旋律は、昭和10年代に入ってもも子供たちの鞠つきやお手玉で唄われ続けました。
       一列らんぱん破裂して 日露戦争はじまった
      
   さっさと逃げるはロシヤの兵 死んでも尽くすは日本の兵


 一方、「元寇」や「雪の進軍」の作曲者、永井健子は明治24年音楽雑誌5月号に、「道は六百八十里」の歌詞を用いてみずから作曲した「凱旋歌」を五線譜とドレミの数字譜で発表して、次のように記します。 作詞者の名は記述がありません。 
      本曲は五七の句調に成れる諸歌に適用せんが為 二草ごとに十分的の段落とす 故に歌草の長短を問はず之を
      繰返して演ずる時は如何なる場所に於いて結尾を告ぐるも妨げなし。 
      本曲を教授しあるいは演ずるには 茲に十名を以って一伍する行進隊ありとすれば 其の先頭の二名は即ち教官にて
      音頭取りなり 先ず「道は六百八十里」と一章を唄い終わるや 次いで残る八名は其の唄い方を記憶して同意を模擬す 
      此の章終われば次章に移る事交互にして尽きざるべし 
 
さらに項を改め 「軍歌凱旋について」と題して、
       当時の軍役に耐ゆる者茲に徴兵を以って例とせば 明治二年前後に生まるる者なり 下って八年以降に於いて普通の教育
       に係る 無論音楽を知らず 故に音楽の志想をも有せず 時としては軍歌を耳にするあり 迅くも習得せし意なるべきか 既に
       高声を挙げて唄ふ実に奇怪千万なり その調子のおかしくして野卑の中心を発揮するも 之を恥とせざること盲蛇の驚かざる
       と一般なり (中略) 此に於いて諸歌を適用し得べき軍靴の必要をきたし 遂に進みて簡易なるものを撰ぶ これ偏に実験に
       よる処なり 学び易きを以て懇ろに初心を誘引するは初歩の杖親切の案内者なり 而して凱旋の曲その精神の力に於て勇気        を鼓舞するの効用及び軍人の卑歌を停め 以て大いに伝播するの時に至らば聊か音楽の味方を得るの分子なりとす
       高尚の音楽家は是を児戯視するの念豪末も非ざるべく 此の熱心は以て誌上の光彩とならんか

                (ここでは32年の「鼓笛喇叭軍歌実用新譜」から採りました)
        
                                                 唄ってみよう 

                                 
これは永井の新曲が唄い崩されて兵隊節に転化したというよりは、すでに歌われていた田舎節の「道は680里」をなんとかして西洋音階に変えさせようとした修正版である可能性が高いと思われます。 どんな歌詞でも、三つのフレーズの どのフシで終わっても良いよと永井建子は言っていますネ。 後述するように、このようにして永井は、俗謡調の兵隊節軍歌を、西洋音楽の長音階に改良しようという努力を続けていました。 その後も 「道は六百八十里」の方が歌われて、今回の試みは失敗に終わりますが、彼はのちに 『七五調にて作りたる長編の軍歌にして未だ節なきもの』 のために 汎用軍歌 「小楠公」を発表して今度は大成功をおさめることになります。    

金田一・安西共著の「日本の唱歌」では、永井の「凱旋歌」を 『道は六百八十里』とし、『此の曲は難しすぎて、一般になじめなかったか歌われず、下に掲げるものが歌われた』 として、兵隊節の方を紹介しています。 さらに長田暁二の「日本軍歌大全集」を引用して、原曲は後の「戦友」シリーズ第一編の 「出征」、作曲者は 「戦友」と同じく三善和気だったとしていますが、これでは明治43年に初めてこの旋律が生まれたことになってしまいます。 当時の「作曲」/「製曲」という用語は、作曲を意味して使われたとは限りません。 むしろ単に楽譜を書いたというだけの意味で用いられています。 ルルーの曲に別の歌詞をつけた「討清軍歌」の陸軍軍楽学舎製曲などがその良い例です。   

堀内敬三の記述は、この二つの旋律の関係についてかなり混乱しています。
 .昭和6年の「明治昭和大正流行歌集」では兵隊節の「道は六百八十里」を、『石黒行平作詞・作曲者未詳』 とし、『明治26年頃、当時陸軍軍楽隊にあって軍歌編集に従事した永井建子氏が是を次の如く修正したが 今では原型のまま歌われている』 として、『永井建子作詞編曲』の「凱旋」を紹介しています。− この尤もな記述を後に堀内は撤回します。

 2.昭和19年の「日本の軍歌」では、 『明治24の音楽雑誌に初めて発表された』 とした上で、「凱旋歌」の方を 『道は六百八十里(正シキ譜)ー作曲者ヨリ寄セラレタル譜ニヨル』 として掲げ、作詞者は『石黒行平氏と判明した』 としています。
さらに永井氏自身からよせられた解説を引用して、『其の頃は他に援用が無いので自給不足の場合は既成の歌詞を借用した。最近に至ってようやく石黒氏の詩藻であることを伝聞した』、旋律については、『伝播力の旺盛なりし丈それだけ訛伝に虐げられ 遂には聴くに耐え難いものとなった』 、これは作曲者自身の記憶/主張としては理解できます。 しかしさらに、『永井楽長の曲が出来てそれを陸軍軍楽隊が盛んに演奏するようになってから、その節が少しずつ歌われ始め、そのうち其のふしが転訛して新しい 「兵隊節」を生じ、その兵隊節の方が普及したものと見られる』 と、事実関係を逆転させたのはどうだったでしょうか。 32年の「鼓笛喇叭軍歌実用新譜」には、此の曲の喇叭譜も鼓笛譜も掲載されており、 『陸軍軍楽隊が盛んに演奏するようになって』 という記述自体はその通りと思われます。

 3.52年の「定本日本の軍歌」では前2編の違いを説明した上で、「石黒行平作詞・永井建子作曲」の 『道は六百八十里(正しい譜)』 を掲げたうえ、『道は六百八十里(兵隊節)』 を紹介して、『(昭和6年)当時この譜は標準的な兵隊節で兵隊の行軍のときは盛んに歌っていたものである』 と説明、 続いて、 『原歌詞は 「そもそも熊谷直実は」型の、どこを切れ目ともなく続く長いもので、すなはち当時の「兵隊節」で歌える歌詞であったが、陸軍軍楽隊でははじめから永井楽長の作曲したとおりに歌っていた』 と無理なダメ押しをしています。 −考えてみると、軍楽隊員以外の兵士達にまでこれを歌わせる事が可能だとは、おそらく永井楽長自身も思っていなかったでしょう。         

 4.昭和52年の 「音楽五十年史」では、『道は六百八十里』 として、『永井建子がこの歌詞を誰のものとも知らず手に入れ、10連を1章とする2連の歌曲に作曲して 「音楽雑誌」明治24年5月号に発表したが、のち歌い崩されて原曲24小節  (中略) のものが8小節の「兵隊節」に短縮されて普及した』 としており、後の金田一・安西 「日本の唱歌」もこれによったものと思われる記述をしています。    


     今度此のたび

詩の出来栄えがあまり良いとは言えないのもご愛嬌で、与えられた歌詞でなく兵士たちの側から生まれてきたものでしょう。 「道は680里」よりもう一歩すすんで、恋人に直接語りかけているこの唄はもはや軍歌ではない、恋歌ですネ。 旋律は「討清軍歌」の項で紹介した兵隊節と同じものです。 「今度このたび」の方がはるかに良くこのふしになじみますネ。 当時既に唄われていた兵隊節を 「討てや懲らせや清国を」の歌詞 に当てはめたとも考えられます。

                                        (明治33年 「日東軍歌」)    唄ってみよう
同じ旋律が 31年 「横笛独まなび」という、10孔のハーモニカ曲集にもあります。 歌詞は 「遠く隔てて西にゆく」となっています。



     波 蘭 回 顧
               

 

         いちにちふつかは 晴れたれど 三日四日五日は 雨に風
     道の悪しさに のる駒も 踏みわずらい 野路山路
              唄ってみよう                      

明治34年生まれの元兵士がいつも 口ずさんでいた兵隊節を採譜しました。 明治26年福島中佐の単騎シベリア横断に感激した落合直文が、「騎馬旅行」と題して発表した長い詩の「その3」、「滅ぼされたるポーランド」までの一節です。 原作では「一日二日」に「ひとひふたひ」とルビが振ってあり、また 「踏みわずらいぬ 野路山路」となっていたのを、兵隊節では唄いやすいように勝手に改めています。
キングレコードのCD 「二十世紀の音楽遺産」では 「陸軍士官学校及び幼年学校出身者」 というグループが、この兵隊節、− 「ドシラシドドミー ドドシシラー」で終わる短調の旋律で唄っています。 ただし歌詞は、兵隊節の 「いちにちふつかは」でなく 「ひとひふたひ」、「踏みわずらいし野路山路」でなく「踏みわずらいぬ−」と、直文の難しい言い回しを採用しています。    
堀内敬三は、これについて次のように記しています。  (1977 「定本日本の軍歌」)
        ・・・この部分は福島中佐がポーランドを通過するところであるから 「波蘭回顧」という題がつけられて豆本の
        軍歌集に載り、軍隊で盛んに愛唱された。 しかし流布の歌詞には誤りが多いので、ここに掲載した歌詞は
        落合直文の遺稿集「萩之家遺稿」から採った。 (中略) 
        この曲もなかなか良いものである。行軍中に唄うに適していて爽快な趣がある。しかし私は残念ながら
        その作曲者を知らず、初めにどの本に出たかも知らない。 ここに揚げた譜は私がしばらく一緒にはたらいた
        日本放送協会の浅野一男少佐の歌うところを採譜したのである。
堀内は、直文の「騎馬旅行」から 「その3」の部分を最後の第八節まで写し採って原詩の言葉遣いに書き改めており、また旋律は 「ミレドレミミソー ミミレレドー」 と長調になっている点だけが私の採譜と異なっています。 ダークダックスも堀内の採譜と直文の言い回しの通りに唄い、森重久弥も基本的には堀内の採譜と同じに、しかし独特の微妙な節回しで歌っていまおり、部分的には短調のようにも聞こえます。
KDLの検索で一編だけ、後の明治34年出版で楽譜付きの 「波蘭回顧」が、姿を現しました:   
      
唄ってみよう

歌詞は落合の原詩通り、譜は長調になっているばかりでなく、「ミーノアシサニ」 の オフビートスタート が無くなって、次の小節の頭から 「チノーアシサニ」となっている点が大きな違いです。
明治34年 羽生芳太郎,香川実編 「新曲 教育唱歌」に載っていました。 「附 理論及び発声 拍子 音程練習」 と副題が付いており、共編の二人は中学校教諭で、これは学校教師のための音楽研修の教材、掲載された数少ない 「新曲」の一つがこの「波蘭回顧」でした。 その理論の部に オソロシイことが書かれています。

     

「教育唱歌」の 「波蘭回顧」は、26年頃から流行した兵隊節の改良を目指したものである可能性が強いと思われますが、残念ながら堀内の言う「波蘭回顧」という題の軍歌集が見つかりません。 「福島中佐」と名のつく歌は明治26年だけで十数件あるので、堀内がなにか勘違いをしていたかも知れませんが、他方 中学教師 香川が新らたに作曲した長音階の「教育的唱歌」が、オフビートを伴う短音階の兵隊節へと発展していった可能性も否定できません。 

(メモ。 28「征清漠々歌」石黒行平著 : 中期兵隊節の歌詞にも硬派あり、壮士節との関連。 「日清談判破裂して、、、」)


        
   本格派の軍歌は小学校で      七五調にて曲なき軍歌はこれにて謡ふべし       トップページへ