Last Renewal  2015/12/12   koduc@me.catv.ne.jp

        唱歌メロディを 軍歌として利用できないか?          

明治19年に全国一斉に発売されたわが国初の軍歌集 「軍歌」の中で、その名も 「軍歌」 として掲載された外山正一作の 「来たれや来たれ」 が、 伊澤修二作曲 「皇国の守り」として 「明治唱歌」に発表されて半年後の21年12月、「唱歌之友」という唄本に、「新撰軍歌」 と題して次のような記事と共に 「宮さん宮さん」 の替唄が載っています。 (注)
ともかくYoutubeで聞いてみましょう。 


第一高等中学校で行軍教練のために軍歌の稽古を始めたが、音楽取調所で拵えた唱歌では 『足踏み距離縮まり自然と軍気の萎靡するが故に』 何とかして 調子よく歩調にあい、勇ましい文句の軍歌を作ろうと、鳥居氏以下の教師たちが苦心の末に得た答えは 「トコトンヤレ節」 だったというわけです。 この 『教師鳥居忱(まこと)氏』(1855−1917)は、音楽取調所出身、後に東京音楽学校教授、明治28年の官製軍歌集 「大東軍歌」の編集者、滝廉太郎の名曲「箱根八里」の作詞者です。 『音楽取調所にて出来たる唱歌』 といえば 明治14-17年発行の 「小学唱歌集」、 それに 明治20年の 「幼稚園唱歌集」 ということになります。 歌詞からすれば軍歌であってもおかしくない歌がいくつか載っています。
 

      
      『音楽取調所にて出来たる唱歌』 とは?

皇 御 国          すめらみくにの もののふは いかなることをか つとむべき
              ただ身にもてる まごころを 君と親とに つくすまで
                                                                 
                 皇御国の をのこらは たわまずをれぬ こころもて
              世のなりはひを つとめなし くにとたみとを とますべし

                                         
小学唱歌集 第2編 明治16年) 
 唄ってみよう
この歌詞は、先に紹介した「喇叭吹奏歌」の 「第3号 皇御国」そのものです。 曲は伊澤修二の作とされています。 陸軍は、あるいは伊澤修二と音楽取調掛は、「小学唱歌集」からこの歌詞を 「陸海軍喇叭吹奏歌」 に転用していたのですネ。 まさに軍歌に準ずる歌といって良いでしょう。それが 『足踏み距離縮まり自然と軍気の萎靡する』 ので役に立たなかったというワケです。
後にこの歌
は、明治28年には、 宮内庁の伶人長 芝葛鎮が軍の楽士長を兼任して、「喇叭吹奏歌」 あるいは 「陸軍礼式歌」 のために改めて作曲し直しています。      皇御国(芝葛鎮)唄ってみよう
            
(参照: 「喇叭吹奏歌」の旋律は?) 

忠 臣           嗚呼香ぐはし 楠の二本 ああ絶えせじ みなと川 
              浪の音も 藻にぞしむなる そのあはれ その功績
              忠臣 嗚呼忠臣 兄弟の人 忠臣ああ忠臣 たぐいなや
                                      
  (小学唱歌集 第3編 明治17年)   唄ってみよう

この歌詞の 『楠のふたもと』 楠正成の二人の息子、正行・正季を指しています。 『忠臣嗚呼忠臣』という繰り返しの部分を 私は昭和20年代の終わり頃、『ニータ ファニータ なれに問わまし ニータ ファニータ 汝が心』 と歌った記憶があります。
元歌はスペイン民謡でした。
 
Youtubeから Rod MoGahonさんのJuanita  

 

進め進め       進めすすめ 足疾くすすめ 止まれとまれ 一度にとまれ
              止まるも行くも 教えのままに 立つも居るも 教えのままに
              咲く花も鳴く鳥も 面白き花園や 進めすすめ 足疾くすすめ        唄ってみよう
      
(幼稚園唱歌集 明治20年12月 文部省音楽取調掛編纂 -緒言は16年7月となっている) 
遠藤宏は、『この歌は後に「すずめすずめお宿はどこだ」の童謡歌詞がついて有名になり、現今尚歌われている。、、、米国児童唱歌 Children go to and fro がこの曲であったが、歌の国籍は明瞭でない』 と記しています。(明治音楽史考 昭和23年)

来たれや来たれ
文部省唱歌以外にも「軍歌」の中の軍歌来たれや来たれ」が、明治21年5月 大和田建樹・奥好義による我国最初の本格的唱歌集 「明治軍歌」に、伊澤修二作曲 「皇国の守り」として発表されていますが、荘重なこの旋律も新兵さん達の教練には向かなかったようです。
Youtubeから



    軍歌に転用された唱歌

鳥居氏が実際に 『音楽取調所にて出来たる唱歌』 から作った『新調の軍歌』 なるものは 「宮さん宮さん」の替唄ではありませんでした。 彼は、唱歌 「見渡せば」 の替唄を作って軍歌に充てたのです。 「進撃及び追撃」という題名で、翌22年3月の 「家庭唱歌之友」に数字譜で、同年7月の「新軍歌」には五線譜で掲載されています。この時点では、作詞者の名は伏せられていますが、日清戦争が終わった直後の明治28年、鳥居は自身編纂の 「大東軍歌」に、これを 「戦闘歌、高等師範学校付属音楽学校教授鳥居忱作歌、帝国海軍軍楽隊 調和」 として掲載しています。

見渡せば => 進撃の歌


                                                                   唄ってみよう
     
なんと これは今日の幼稚園ソング、「むすんでひらいて」でした! 遠藤宏はこの作曲者を ジャン・ジャック・ルソーとしています。 「小学唱歌集」 に載った歌詞は次の通りです (2番 省略)。 

      
見渡せば 青柳 花桜 こきまぜて 都には みちも狭に 春の錦をぞ
        佐保姫の 織りなして 降る雨に染めにける  (明治14年 「小学唱歌集 初編」) 

Youtubeから 女声コーラス ポコ・ア・ポコさん の 見渡せば を聴きましょう

鳥居はこの歌詞からタイトルにもなっていた「見渡せば」だけを活かして「進撃および追撃」としたわけです。
Youtubeから 

この「軍歌:進撃および追撃」は、その後も2・3の唄本に出てきます。 なかで注目すべきものが、翌明治23年5月の小学適用唱歌集」です。
ここでは唱歌からの転用軍歌が、小学生の遊戯のための二つの曲による組歌になっており、どちらも 二調 4/4、ドレミの数字譜で表されています。

霞か雲か => 朝霧晴るる
  唄ってみよう 

ナントこちらは、「霞か雲か」でした。 元唄は:

      かすみか雲か はたゆきか とばかりにほふ その花ざかり ももとりさへも うたふなり   (明治16年 「小学唱歌集 第3編」)
原曲はAlle Voegel sind shon da という ドイツ民謡のようです。 

これで戦争ごっこが出来たかどうか? ともかく運動会のお遊戯には役に立ったことでしょう。 この 「朝霧晴るる 野辺見渡せば」 という歌詞は、明治21年9月の「生徒必携新撰軍歌」に単独で歌詞のみ、23年3月の「生徒用唱歌」には上の明治23年5月「小学適用唱歌集」と同じ組歌の形でやはり歌詞のみが掲載されています。− この替歌軍歌2曲は少なくとも小学生達の間では、実際ある程度は歌われた可能性があります。



          「喇叭吹奏歌」の旋律は?            本格的な軍歌は?              トップページへ

                    ******************************                       

(注) これについては倉田喜弘氏が、明治21年8月19日の読売新聞読売新聞から、元の記事を直接引用しておられます。 倉田氏はさらに:           
      「トコトンヤレ節は、20年ぶりに都人士の間で話題になった。 (中略) このあと23年に新富座で歌われた。芝居の歌はすぐに
      花街でもてはやされる。 そして世間へ広まった。 2年のちの明治25年、洋楽導入・唱歌作成に大きな功績をあげた伊澤修二が

      「小学唱歌」を編み、「宮さん」の曲名で次の歌詞を掲げた。(中略)  出版に先立って、、、
          
以下は省略しますがさらに、伊澤から品川弥次郎
への書簡、「宮さん」の作詞者「尊攘堂主人」の由来、作曲者と年代について、西沢爽氏との論争へと発展しています。  (2001年 「はやり歌」の考古学 )