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              「喇叭吹奏歌」につけられた曲

歌詞だけで曲はないのかと一旦は誤解していましたが、実は「喇叭吹奏歌」 に相当する歌のいくつかが、10年後の明治28年 「大東軍歌 雪乃巻」 に、「陸軍の歌」、「海軍の歌」としてそれぞれ数字譜で、さらに明治32年の 「鼓笛喇叭実用新譜」 には「鼓笛譜」となって五線譜で掲載されていました。 作曲の時期・作曲者など 実は分からない事だらけで、読み返してみれば堀内敬三、遠藤宏、中村洪介の諸氏も、これら 「礼式歌」 について種々考察し疑問を投げかけています。
明治18年の「陸海軍通達乙第百五十四号」もよく読めば 「陸海軍喇叭譜 同喇叭譜」 の次に 「喇叭吹奏歌、同喇叭譜」 とありました。
その「凡例」には、『本譜ノ編綴ハ 概ネ各種ノ動作ニ基キ形容セシモノト雖モ 其書類ニヨリ歌曲ニ合セ 或ハ単ニ各譜ノ判別明瞭ナルヲ主トスルモノアリ』 とあります。 ― 信号としての喇叭譜の他に、この通達には礼式や行進のための曲が含まれていること示しているわけです。 さらに検索すると、後の資料ではありますが 「第1号 君ケ代」、「第2号 海行カバ」、、、 などの「喇叭譜」を掲載した明治30年の「陸海軍喇叭譜」と 明治40年の「喇叭複音新譜」も現われました。− 当然のことながら同じ 「君ケ代」、「海行カバ」 でも、歌曲としての「君が代」、「海行かば」 とは全く別の曲譜です。
ひとまずこれら 「喇叭譜」−「喇叭吹奏歌」−「軍歌」−「鼓笛譜」 の関係を、以下の各種資料を縦軸として一覧表にしてみました。
    
 

          「陸軍喇叭譜」と「喇叭吹奏歌」の関係一覧表  青字は歌曲/音楽として扱われた曲譜、他は喇叭の信号譜を示す)

「大東軍歌 雪の巻」 には、陸海軍の礼式歌が、ドレミの数字譜で、作曲者の名を明記して掲載されています。 編集兼発行者の鳥居忱 (後に東京音楽学校教授、当時は 高等師範学校付属音楽学校教授) の「例言」から注目すべき箇所を抜書きします。
   一、雪の巻には君が代を始め陸海両軍礼式の歌、文武臣僚の歌、望外名誉の歌。月の巻には読売新聞懸賞の軍歌。
     花の巻には将校兵卒貴族貴女・紳士・学生の歌を掲げつ
    一、此の集の製曲は陸軍々学舎、式部職雅楽所、文部省音楽学校諸氏の翼賛に因りなりしものなり。 

   一、此の集の製曲は、古谷弘政氏、芝葛鎮氏、奥好義氏等の好意の上、上真行氏の熱心。陸軍の歌は山本銃三郎氏、海軍の歌は田中穂積氏の寄送。
では、「大東軍歌」から軍歌としての譜を、「鼓笛喇叭実用新譜」の「鼓笛本譜」からはその鼓笛版を見て/聴いていくことにしましょう。 昭和に入ってからの軍楽隊による演奏もYoutubeなどから引用したいと思います。

「海行かば」(陸軍)   陸軍一等軍楽長 古谷弘政 作曲  〔注意〕将軍及相当官に対する敬礼の歌
        海行かば水漬く屍  山行かば 草むす屍
 
         大君の 辺にこそ死なめ  (のど)には死なじ         
陸軍と海軍で別の曲を採用しています。陸軍から始めましょう。 「大東軍歌」には、古谷弘政作曲の歌が5曲掲載されています。 ドレミの数字譜で載っており、変ロ長調、2/4拍子の指示があります。 五線譜に変えて電子音で演奏してみます。 速度は指定がないので私の独断です。     陸軍 海行かば(電子音)
  
   
素晴らしい曲ではありませんか。 弱拍からのスタート、小節をまたぐタイ、「ドドドシー 」の半音階、随所に現われる臨時記号、軍歌・唱歌が始まったばかりのこの時代にこういう曲が発表されていたとは、全く驚きですネ。
32年の鼓笛喇叭軍歌実用新譜で永井建子は 「軍歌の部 礼歌」 に 「喇叭吹奏歌」の歌詞のみを載せ、 『曲譜は笛譜を参照、但し笛譜は音程高く且つ幾分か句節に変更あり』 としています。 そして曲の方を 鼓笛譜として、小節の頭の休止符を廃し、イ長調に変えて臨時記号をすべて廃し、鼓譜を加えて、114という早いテンポを指示しています。 当時の軍楽隊にはそれだけ単純化する必要もあったのでしょう。 では永井による海行かば(鼓笛譜を電子音で聴いてみましょう。
新しいものですが、1972年の録音で「陸軍礼式曲 海行かば(戸楽会)という吹奏楽の演奏も(KICG 3228)もありました。 外山軍楽隊OBの方々と思われますが、昭和十年代(?)現役の時にも演奏されたのかどうか興味あるところです。 

「海行かば」(海軍)    帝国海軍軍楽隊 作曲   〔注意〕将官及相当官に対する敬礼の歌 
         海行かば水漬く屍  山行かば草むす屍
          大君の辺にこそ死なめ  のどには死なじ               
将官に対する礼式歌として海軍軍楽隊は、明治13年 東儀季芳の「海行かば」を用いたのですネ。 「軍艦行進曲」のトリオとしても用いられたこの曲の方が広く歌われたようです。 昭和の録音ですがYoutubeから、「内藤清五指揮 帝国海軍軍楽隊 吹奏・斉唱」をお聞きください。   海軍 海行かば(海軍軍楽隊) 

「皇御国」     楽士長 兼 伶人長  芝葛鎮 作曲   〔注意〕軍隊相逢ふ時に用うる歌
        すめら御国のもののふは 如何なることをか務むべき 
          ただ身に持てる真心を 吾が大君に尽す迄     
                              皇御国(歌ってみよう)
伊澤修二作曲とされる「皇御国」が、既に明治16年の 「小学唱歌集 第2編」 に載っています。 遠藤宏は、明治18年当時の陸軍教導団中尉と伊澤との往復文書を挙げて、文部省唱歌から軍歌を採用したことがほぼ明瞭になったとしています。(明治音楽史考)  鳥居の 「大東軍歌 例言」 とあわせ考えると、宮内庁の伶人長 芝葛鎮が軍の楽士長を兼任して、「喇叭吹奏歌」 あるいは 「陸軍礼式歌」 のために改めて作曲し直したことになりそうです。 伊澤の皇御国や芝葛鎮の他の曲と比べて随分軍歌らしくなっていますネ。 永井の(鼓笛譜) となるとまさに行進曲ですが、これもその後あまり広まったフシがありません。

「国の鎮」      陸軍一等軍楽長 古谷弘政 作曲 〔注意〕 靖国神社参拝等に用うる歌
          国の鎮の御社と 斎まつろふ神御魂  
          今日の祭の賑いを 天翔りてもみそなはせ
          治まる御代を護りませ                                              国の鎮(電子音)
永井による鼓笛譜 も、 鎮魂曲として靖国神社参拝等に用いるこの曲は、荘重に 〔2分音符=46〕というゆっくりしたテンポを指示しています。
You tube「佐藤清吉指揮 海軍軍楽隊吹奏」という録音がありましたが、その後姿を消してしまったようです。 現在時点では(2015.02)、他にもにいくつかのビデオが投稿されていました。 なんと 「全日本吹奏楽コンクール課題曲集 1942年度課題曲(喇叭隊ノ部) 国の鎮めも現れますが、歌詞も表示されているこ 陸軍戸山学校軍楽隊の戦友会 「戸楽会」の演奏による 国の鎮め がお勧めです。

「命を捨てて」
   陸軍一等軍楽長 古谷弘政 作曲  〔注意〕 一般葬礼の時に用うる歌
          命を捨ててますらおが 立てし勲功は天地の

         あるべき限り語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ後の世に
         絶えせず尽きじ よろず世も                                             命を捨てて(電子音) 
You tube 「佐藤清吉指揮 海軍軍楽隊吹奏」版には 命を捨てて(軍楽隊)も入っていました。  新しいものとしては 海上自衛隊による演奏がお勧めです。
永井による
鼓笛譜も電子音でお聴きください。

「吹きなす笛」  陸軍一等軍楽長 古谷弘政 作曲  〔注意〕 葬礼の途上に用うる歌
           
吹きなす笛のその音も 捧ぐる旗のその色も
 
         
ものの哀を知り顔に 今日はものこそ悲しけれ 
         
千百万の敵軍も 取り挫ぐべき益荒男と

         思いし我等が袖までも 涙の雨に濡れにけり                                   
    吹きなす笛(電子音)
この曲も当時の軍歌/唱歌として型破りな そして秀でた旋律ではないでしょうか。 − 永井建子は楽器の制約でしょうか、奇妙な編曲ですが、ともかく
永井の鼓笛 も聴いてみましょう。  

 ここでちょっと「喇叭譜」に、寄り道しましょう。
「第220号 吹きなす笛」は 「喇叭吹奏歌」 としての題名で、「陸海軍喇叭譜 目次」 には 「第220号 葬礼途上」 となっています。
葬礼途上に用いる」曲譜として、喇叭吹奏歌/礼式歌 「第220号 吹きなす笛」 に対応する喇叭譜は 「哀の極」でしょう。 明治30年の 「陸海軍喇叭譜」では「号外 哀の極」、41年の「喇叭複音新譜」では 「第5号 哀の極」 として、双方に同じ曲譜が載っています。
どなたかの葬礼で聞いたような気もする立派な曲です。 明治30年の 喇叭譜 哀の極 を電子音でお聴きください。
ちなみに、30年・41年の喇叭譜の中で、単なる信号譜とはいえないもう一つの立派な曲が、哀の極とよく似た「君が代」です。 今も時々耳にする旋律で、Youtubeにも航空自衛隊員、海上自衛隊員などによる録音があります。 他の喇叭譜は大部分がその後改訂されているようですが、この曲はそのまま残っているのですネ。 明治30年の 喇叭譜 君が代
も電子音でお聴きください。
Youtube に、明治期の録音ですという 軍隊喇叭 君が代 足曳 があります。 

「足曳き」   陸軍一等軍楽長 古谷弘政 作曲  〔注意〕 明治十九年十月所定の軍歌
           足曳きの 山べどよもす銃の火の 煙の中にいちじるく 
          競える旗はかしこきや
 我が大君の御手づから 
          授け給へる御戦の
 印の旗ぞ我が友の 
          軍の神と仰ぎつつ
 進めや進め益荒男の友                                  足曳き(歌ってみよう) 
この歌も リズムといい旋律といい、明治時代のものとは思えない新鮮さではありませんか?
永井の鼓笛譜 もお聴きください。 このままブラスバンドのテーマに採用したり、運動会の応援に使ってもおかしくないでしょう。

           「喇叭吹奏歌」の謎
分からないことの多い「喇叭吹奏歌」ですが、この曲の 「明治19年所定の軍歌」 という注意書きが、また新たな謎を呼び起こします。
ここで、明治18年の「喇叭吹奏歌」という不可思議な言葉から始まった疑問について私なりの理解をまとめてみましょう。
明治28年 「大東軍歌」の、上に抜書きした鳥居忱の 「例言」 後段の 「製曲」に関する2行が問題です:

    一、此の集の製曲は陸軍々学舎、式部職雅楽所、文部省音楽学校諸氏の翼賛に因りなりしものなり。
    一、此の集の製曲は、古谷弘政氏、芝葛鎮氏、奥好義氏等の好意の上、上真行氏の熱心。 陸軍の歌は山本銃三郎氏、
      海軍の歌は田中穂積氏の寄送。

明治18年の「吹奏歌喇叭譜」で制定・通達されていた曲譜なら、今更○○諸氏の翼賛も寄送も必要ない筈。 これは 「大東軍歌」に掲載された礼式歌の少なくとも大部分が、その後新たに作られたか、明治28年 出版の時点までに改訂された事を示しています。
18年通達の「喇叭吹奏歌」 9曲の内、たしかに 「
歌曲」と認識されていたと考えられるのは次の3曲: 13年に作られ32年に「鼓笛譜」として現れる 「君が代」は皇室に対する礼式歌として、また海軍の「海行かば」の2曲は将官に対する礼式歌として認識されていた。 また通達時点で「軍隊相逢フ時ニ用ユ」べき「歌曲」だった伊澤の「皇御国」が、28年までに芝葛鎮の曲の改訂されたと考えられます。
その他の6曲が18年当時存在していなかった可能性はかなり高いと思われます。 「喇叭吹奏歌」の「同喇叭譜」そのものが存在しなかった可能性さへ考えられます。 軍楽隊の幹部が礼式歌を制定しようと努力していたことが疑う余地がありませんが、「喇叭吹奏歌」 なる言葉を発明した人物が、「音楽」、「歌曲」、「歌」、「喇叭」、「喇叭譜」 等の用語を正しく理解していたとも思えません。 もう一つ思い至るのは、「喇叭吹奏歌」 という用語が (後の研究報告・論文等は別として) その後見つからない事です。 日清戦争当時の陸海軍が、益々高まる必要性から礼式歌を充実させていった事はたしかでしょう。 当時型破りだったに違いない古谷の曲が永井建子の鼓笛譜に生かされていることからも、当時これらの曲が軍の礼式歌として引継がれたと思われますが、通達の「喇叭吹奏歌」なるものはその後、意識的にも忘れ去られた。 − 憶測に過ぎませんが今のところそうとしか考えられません。
より大きな謎は古谷弘政その人です。 上の5曲はフランス留学の後かあるいは在学中か、いずれにしてもお雇い外国人ではないでしょう。- 彼等が作ったら Furuya の名前にしたままにしておくとは考え難い。 なまじ音楽取調所や宮内庁で学んだわけでなく、軍楽隊の仏語通訳として音楽留学した(?) 日本人が、これほど斬新で情感あふれる音楽を作り得たところに、逆に国を挙げての-官制の音楽西洋化の限界を思ってしまいます。

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