「軍歌」というもの:それは節のない文語体・七五調の長詩だった     
                                  
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   明治15年 「新体詩抄」 から軍歌は始まった (明治15年 外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎 東京 丸家善七)

           吾は官軍 わが敵は 天地容れざる 朝敵ぞ
           敵の大将 たるものは 古今無双の 英雄で
           これに従う つわものは 共に剽悍 決死の士
          鬼神に恥じぬ 勇あるも 天の許さぬ 反逆を
            起こせし者は 昔より 栄えし例 あらざるぞ 
          
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
          玉ちる剣 抜き連れて 死する覚悟で進むべし 
(2~4番省略)  

外山正一(ヽ山居士)は「新体詩抄」に発表した 「抜刀隊」 の前文に次のように述べています。
     西洋にては戦の時 慷慨激烈なる歌を謡いて士気を励ますことあり 即ち仏人の革命の時 「マルセイエーズ」 と云える
     最も激烈なる歌を謡いて進撃し
     普仏戦争の時普人の 「ウオッチメン オン ゼ ライン」 (*Die Wacht am Rhein ?) と云える歌を謡いて愛国心を励ませし如き 皆この類なり
     左の抜刀隊の詩は即ちこの例に倣いたるものなり

                                                                                 
「新体詩抄」を詠んで感激した国木田独歩(1871?-1908:当時11歳か)は、後に次のように記しています。 (「独歩吟」 明治30年「抒情詩」序言)
     「新体詩抄」出ず。 嘲笑は四方より起りき。 而もこの覚束なき小冊子は草間をくぐりて流るる水の如く、
     何時の間にか山村の校舎にまで普及し 『われは官軍わが敵は』 てふ没趣味の軍歌すら至る処の小学校生徒をして
     足並揃えて高唱せしめき。

調子のいい文語体・七五調の激烈な詩ですから、高唱したかも知れませんが、はたして足並みが揃ったでしょうか?何せこの軍歌にはふしがないのです。 この「新体詩抄」に、「新体詩歌」(竹内節篇  明治19年)が追随します、-これは「抜刀隊」など「新体詩抄」の詩をを主体とし、これに小室屈山の 「自由の歌」 などを加えて新たな選集としたもので、 KDLの資料としては以後、「新体詩抄」 は17年出版の第2版があるだけですが、「新体詩歌」の方は19年4月に12編、20年以降に3編の翻刻版/増補版が残されています。 この明治19年が、兵士を含む一般大衆の間に 『軍歌』 なるものの広まった最初の年と考えられます。 それまでは「新体詩」なるものに心酔して 「軍歌」 を高唱したのは、独歩少年などほんのひと握りの文学愛好者に限られていたのではないでしょうか。

明治18725日の 「団団珍聞 502号」 の一週雑報欄に、『左の詩は我国の軍歌と成したるものの由 外山正一氏の作なりといふ』 として、この長い詩の4番を紹介しています。 この記事あたりが、およそ 『軍歌』 なるものが新聞/雑誌で話題になった最初の頃のものと思われます。 森銑三は、『軍歌というものが始まった』 として、この記事を紹介しています。(明治東京逸聞史)  


明治19年 全発売された「軍歌」という豆本がブムを惹き起した

明治19年4月から20年にかけて全国の書店から発売された 「軍歌」なる豆本が、KDL検索で 19年に46件、20年に24件現れます。
発売元は19年分が、東京19、関西13、その他14、そのほとんど全てが 「原版人 河井源蔵、翻刻人 某」 と明記された翻刻版で、最初のページに年月日と共に「内務省贈付」または「内務省送付」という印が押してあります。 -発売した各書店が一定部数を内務省に「贈付/送付」するよう割り当てられ、内務省から各県庁⇒師団⇒連隊へと配布されたのではないかと考えられます。 (河井源蔵なる人物は、16年「体操教練書」から29年「軍政一般」まで、軍関係の著書をKDLに残るものだけで計29件出版しています。)
この豆本によって兵士を含む一般大衆は初めて 『軍歌とはこういうもの』 と知ることになったのです。
「喇叭吹奏歌」 と 「軍歌」 の2部構成になっています。 中身を見ましょう。(注。
青字は既に作曲されていた歌)
     
   喇叭吹奏歌: 第1号    
君が代  (明治13年 林広守撰曲、現在の国歌)
            第2号    
海ゆかば (海ゆかば水漬く屍 ・・・ のどには死なじ  明治13年 東儀季芳作曲とされている)
            第3号    
皇御国  (すめら御国の武士は いかなる事をか努むべき ・・・  明治16年 小学唱歌集)
            第4号    国の鎮め (国の鎮めのみやしろと いつきまつろふ神霊)
            第5号    命を捨てて (命を捨てて ますらおが たてしいさおはあめつちの)
            第215号  
扶桑歌 (わがすめらぎの治めしる わが日の本はよろず世も やほ万世も動かぬそ ・・・ ルルー作曲 吹奏楽)
            第218号  あらきいはね (あらきいわねを踏みさくみ 嶮しき坂を越えゆくも ・・・)
            第219号  おほ君の (おほ君の 御稜威かしこしみいくさの ・・・)
            第220号  ふきなす笛 (ふきなす笛のその音も 捧ぐる旗のその色も ・・・)
   左の諸編は吹奏歌に非ずといへとも また鼓勇の一助にもと今ここに合わせしるしぬ
            軍歌        . . . . . . (来たれや来たれいさ来たれ ・・・)
            
抜刀隊の歌   . . . . . . (吾れは官軍我敵は ・・・  新体詩抄と同じ、明治17年Leroux作曲)          
            行軍の歌    . . . . . . . (我が日の本の国柄は ふるき神代の頃よりも ・・・)
            進軍歌     . . . . . . . (弾丸はあられと空にとび 剣は野辺のいなずまか ・・・)
            軍旗の歌    . . . . . . . (2千5百年以来 光り輝く日本国 ・・・)
            
扶桑歌     . . . . . . . .(すめらみことの治めしる 我が日の本の千五百(ちいほ)代も  ひと代の如く神ながら ・・・)
            復古の歌   . . . . . . . . (王政復古のそのかみを 思えば凄し慶応の ・・・)
            カムプベル氏英国海軍の歌  . . . . . . . . . (イギリス国の海岸を 固く守れる水兵は ・・・  新体詩抄と同じ)
            テニソン氏軽騎兵隊進撃の歌   . . . . . . . (一里半なり一里半  ならびて進む一里半 ・・・  新体詩抄と同じ)
            楠正成桜井駅に於て正行へ遺訓の歌 . . . . (建武の昔正成は 肌の守りをとりいだし ・・・)
            小楠公を詠ずるの歌        . . . . . . . . (嗚呼正成よ正成よ 公の逝去のこのかたは ・・・)
            詠史    . . . . . . . . . . . (もののふの 礎としもたヽへつつ その名かれせぬ楠の木の ・・・)
            日本魂  . . . . . . . . . . . (やまとだましいそは何ぞ 寄せ来る敵を 打ち払え ・・・)

この豆本軍歌集では、「喇叭吹奏歌」が形の上で主体となっていますが、『左の諸編は吹奏歌に非ずといへとも また鼓勇の一助にもと今ここに合わせしるしぬ』 と、実はその権威を借りた形で 「来たれや来たれ」、「
抜刀隊」以下の軍歌を掲載しているワケです。
歌としては既に宮内庁雅楽課により明治13年に「
君が代」が作られ、「海ゆかば」も国歌候補の一つとして作られました。 「皇御国」は明治16年 「小学唱歌集」に掲載され、ルルーによる 「抜刀隊」と「扶桑歌」は明治18年に宮中で初演したとされていますが、そのどれもが 一般大衆には未だ無縁の存在です。 
とにもかくにもここには 「
抜刀隊」 をはじめ、 「来たれや来たれ」、「弾丸は霰と空に飛び」、「一里半なり一里半」、「建武の昔正成は」、「嗚呼正成よ正成よ」など、以後愛唱され続ける 初期の軍歌が網羅されています。 類似の豆本は海賊版を含めて其の後も続々と発行されています。 いわく 「新撰軍歌」、「新撰軍歌抄」、「新撰軍歌集」、そして「新体詩歌」も改訂増補して加わり、19-20年の間に類似の豆本がKDLだけで34集、まさに軍歌ブームです。 
このなかで注目に値するのが、「新撰軍歌抄」(明治19年12月 大庭景陽/雲心酔士編)です。 編者の大庭景陽(雲心酔士)なる人物が、「例言」として正に時宜に適った、重要な提案をしています。 曰く: 
 

      

この例言で大場景陽は、
  一、欧州各国の軍隊で用いられ、兵士の士気を奮い起こすために不可欠な軍歌がわが国でも用いられるとのことなので、今流行の「新体詩」から
    撰んで目下の急な需要に当てる。
  一、軍人も一般人もこれを暗誦することで、俗謡のあの軟弱卑猥から解放され、日本男児としての尚武の精神を奮起す。 散策・登山・長い旅行、
    さらには春の花園・秋の月夜を逍遥するにもいつもこれを歌うことで意はさわやか・気は揚がる。
  一、節や歌い方については、いずれ近いうちにお上のお達しがあるだろう。 さしあたり実際の行軍の歩調に合わせて次のように歌ってみると良い。
として具体的に、『世に唄われている手鞠歌が行軍の歩調に合うから、当面これを代用するが良い』 と提案しているわけです。 - 『ひとつとせー われは官軍わが敵は、、、』 テナことになりますネ! 実際これら節のない軍歌/新体詩は、次項でご紹介するような、いわゆる 「兵隊節」 の旋律で盛んに唄われました。
我国における軍歌の歴史は 正にこのようにして始まったのです。 明治24年に「敵は幾万」、 25年には「元寇」、日清戦争が始まると、27年「婦人従軍歌」、28年「勇敢なる水兵」、「雪の進軍」 が発表されて、明治軍歌の最盛期をむかえますが、兵士達はその後もまだまだ 「兵隊節」 を歌い続けます。
     
『喇叭で吹奏する歌』 とはなんとも不思議な名称ですが、 明治18年12月 陸軍卿大山巌からの「陸軍達乙 第百五十四号」という通達に記載されています。 この時点でわが陸海軍の用いるべき喇叭譜が 初めて統一されたものと考えられます。
その内容は「陸海軍喇叭譜目次」として、
       先ず、「敬礼ノ部」 第1号「君ケ代」から第5号「命ヲステテ」、
       次が、「諸名号ノ部」 「第6号 陸軍士官学校」から「第214号 罰人」、
       最後は、「行進ノ部」 「第215号 分列式」から 「第221号 駆け足行進」
までのリストが、記載されていますが、添付されている筈の「同喇叭譜」は見当たりませんでした。
その後に 「第1号 君が代」から 「第220号 吹きなす笛」 まで九つの 「陸海軍喇叭吹奏歌」 の歌詞が記載されており、これが明治19年4月の豆本「軍歌」に転載されているわけですが、此処に添付されている筈の 「同喇叭譜」 もまた見当たりません。
いずれにせよこれは、塚原康子氏が 「洋楽受容史の研究」(1989)で記しておられるように、これは喇叭で吹奏された曲を聴くときに思い浮かべるべき詩を意味していたのだろうと思っていましたが、どうやら間違っていたようです。 (参照: 「喇叭吹奏歌」の旋律 )


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