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●6月6日



記事もとりあえず書いてありますし、久々に(自分が)盛り上がってきたので、近いうちに一気に更新したいと思いますが、その前にリハビリな気分で書き溜めていたメモを垂れ流して誤魔化してみることにします。このテキストは後々に利用することがあると思いますが、その時は「あの時のか!」とか笑ってください。番組感想に関するくだりの意図は、現状批判ではなく将来に対する懸念です。

◇      ◇      ◇

 評価の高いテキストは新しい定義を提示した時よりも、個々の感覚を再定義する、つまり、読者が言葉として表現しにくい感覚的思考を改めて表現したものであることが多いと思われる。ほとんどの場合、テキストに対する賞賛とは賞賛という名を借りた同意に他ならず、本来の意味での文学的価値や論理的価値は薄い。良いものは良いと評価するシステムがこの界隈には存在せず、だからこそ見た目に過ぎない評価が横行するのである。評価とは資料的感覚を併せ持つものであり、あわせて蓄積されるものでもある。まやかしの評価をまさに行っている代表格はこの自分であり(とあるニュースサイト記者としての人格と理解すると良い)、正しい感覚を持った評価を目指すことが迷惑をかけてきた界隈への恩返しとなる。

 蓄積される評価とは取り上げることによって表現される賞賛であり、コメントによって付則的に添えられるものではないと思える。情報において判断し得るのは多数者であることを考え、よって一般的な情報伝達のシステムを参考とするのが望ましいと結論付けられるのはそう時間のかかることではない。蓄積される情報(参考:その1その2)と利用者の期待を超える付加価値を統合することで文化的感覚によって体現された評価を行うことが出来るのではないか、と考える。達成に努力を惜しむべきではない。

 さて。

 ここまで幾度となく繰り返してきた“文化的感覚を持った評価”とは、それが行われるか否かによって、その文化の成熟度というカタチによって表現されるといっていいだろう。ここで言う文化とはまさしくそれぞれのイメージ内に存在するコミュニティーで行われているそれである。現在の成熟度は、少々お門違いではあるが報道の観点からすれば瓦版のレベルであるに過ぎない。それをいかにして次のレベルに引き上げることが出来るのか、純粋な情報伝達というその点について考えていこうと思う。

 界隈における将来を見通すには、集団心理を基本として考えるのが最も良いであろうか。確かにアンテナにおける性質は閉鎖的であるには言うに及ばず安定した環境を望む孤立主義を垣間見させる一方で、統率性を見出すことは不可能に近く、中程度の方向性を保つのみの群集に過ぎないことも明らかになってくるのは間違いない。その方向性とは、それぞれの内面に持つ“モーニング娘。”という存在であるが、個々のテキストによって描かれてきたものは、結局はモーニング娘。(=内面に潜むイメージ)を通すことによって一般概念化或いは共通認識化された自己そのものであった。これが、自虐傾向を持つテキストがエンターテイメント化される契機となり、それと同時に賞賛という仮面をかぶった同意が幅を利かせている原因でもある。つまりは、テキストにおける自虐を自己と被せるというサイト運営者への自己投影を完成させることによって、テキストを読み解くという行為が果たされているという現実を否定することは出来ない。テキストにおいても受容美学は存在する。

 出演番組をほとんどチェックしない人間にとって、番組感想という事実と感想の羅列ほど無味乾燥なものは無いと思われる。そのテキストの中に新たな定義が明示されていない限りはエンターテイメントとして昇華されていない限りは読む必要も無いだろう。しかし、読む必要がないにもかかわらず多くのサイトが番組感想を書くために日々懸命になっているのは何故なのであろうか。この点にこそ、テキストとモーニング娘。によって自己の内面と対峙しているという“仮説”が表れていると推察できるのである。読み手による自己投影が失敗しているという事実が隠されているのではあるが。投影を行う自分に陶酔している現状であれば、だからこそ無味乾燥になってしまっても致し方ない。

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