2001年1月20日
 『新たな前進 84号』(2001年1月17日 神奈川県高校教職員連絡会発行)に発表されたものを、本人と発行代表者の了承を得て、資料として掲載します。
 
中陣訴訟は、教育のアナクロニズムを許すか頓挫させるかの分岐点を示すもの
原告 中陣唯夫(秦野曾屋高校)
 
 年の暮れはこの一年お世話になった方々への感謝の念のわく時ですが、私も私のおこした「中陣訴訟」に対し支援、協力、激励を寄せていただいている方々に深くお礼を申し上げたい思いでおります(2000年12月23日記)。あわせて、今後のいっそうのお力添えをと願っております。
 さて、この機会にあらためて「中陣訴訟」に至る背景と経過の概略をのべ、さらにこの訴訟のもつ意義について今日の状況をふまえながら卑見をのべさせていただきます。
 「中陣訴訟」の起点は、昨年秋に平塚商業高校定時制で発生した管理職2名が勝手にキャンセルしたという前代未聞の「修学旅行直前中止事件」です。そして、この2名を更迭せざるをえなかった県教委が、この事件を批判し修学旅行実施にこぎつけた学年主任の私ともう一人の担任を4月の人事で「報復」的に異動させた、というのがこの訴訟の発端です。
 ところがこの「異動」は、県教委と高教組との労使で協議した上で取り決め、88年以来約のべ1415万人に運用されてきたはずの『県立高校人事異動要綱』(以下『要綱』)を県教委自身が特定の個人に限定して恣意的に運用した時点で、質的に大きく転換した問題となりました。つまり、個人を対象とした「報復」的な性質から、皮肉なことにこの恣意的運用が、県立高校の全教職員を対象に管理統制する強権的手段として今後通常的に機能することもあり得ると言明したに等しいことになったからです。この点については、神奈川高教組がいち早く執行部見解として示した次の三点、
○理由不明の異動強行は『要綱』の恣意的運用となる
○これを許せば『要綱』の信頼は失われ異動そのものの信頼性が失われる
○人事が組合組織への攻撃に使われる恐れがある、
としているところによく指摘されています。
 これでは私一個人の異動として事を収めるわけにはいかないだろう、との認識を持つに至った私は3月29日、神奈川県人事委員会に顧問弁護士2名と高教組本部執行部全員を代理人として、県教委が「@転任命令の理由を明らかにすること。A転任命令を撤回すること」の2点の措置を行うよう、その審査を請求して「措置要求書」を提出しました。
 結果は、「勤務条件に関するものではないから措置要求の対象とはならない」。労働基本権制約に対応した代償機関 ― 民間で言えばチェック機関である労働基準監督署や労働委員会に準ずる人事委員会は1回の審議だけで4月24日にこの決定書を出し、第三者的機関として「人事行政の運営に関し、任命権者(教育長)に勧告する」使命を放擲したわけです。
 7月21日、私は高教組の組織支援を基盤に横浜地裁に原告として、県人事委員会を被告として「勤務条件に関する措置の要求に対する決定取消請求事件」と題した訴状をもって提訴しました。以来三回の公判の中で明らかになっている中心的争点は次のとおりです。
 
人事異動は、「勤務条件」か「管理運営事項」そのものか
 [原告・中陣]
@県教委で労使間の協議で作成された経緯をもつ『要綱』に反した転任を命じられた場合、その理由を求めるのは当然であり、こうした手続き的な利益についても勤務条件と解すべきである。
 最高裁は地公法46条(勤務条件に関する措置の要求)について、地公法が職員に対しさまざまな制約や禁止を課していることに対応し、その勤務条件の適正を確保するために、人事委員会の適正な判定を要求できることを職員の権利あるいは利益として保障する趣旨のものと解すべき(昭和36年3月28日判決)としており、同条の「勤務条件」は、民間労働者の「労働条件」と同様に解釈されるべきである。
 Aどこでどのような内容の校務につくかは、典型的な勤務条件の一つである。地公法46条は、勤務条件であっても「管理運営事項」にあたる場合は措置要求を認めないと規定しているわけではなく、人事委員会制度が公務員の労働基本権制約の代償としての制度である以上、管理運営事項であることを理由として、転任を同条の「勤務条件」であることから除外する根拠はない。
 最高裁は「(管理運営事項であっても)職員の勤務条件に関する側面を有する措置要求は、それに応じられるか、あるいは、執るべき適当な措置であるかどうかなどの点につき(人事委員会が)審理すべきである」(平成6年9月13日判決)としている。


[被告・人事委員会]
 @転任命令の理由を明らかにすることは、給与、勤務時間その他の勤務条件に関するものではないから、措置要求の対象とならない。
 A職員の転任は、任命権者がその判断と責任において行うべき管理運営事項であるから、転任命令の取消は措置要求の対象とならない。
 労使で協議し作成された『要綱』は、明らかに労働条件を内在した準労働協約です。それを第三者的機関である人事委員会が、地公法46条の趣旨や最高裁判決を生かすのではなく、強制異動さえ意図的に「勤務条件」の埒外におき、勤務条件の側面をもつ「管理運営事項」でも県教委専権の聖域であるかのように庇い立てをする ― 、つまり調停的機関が調停すべき被告側に加担しているわけです。
 生徒の立場で教育の本来的道理から対応した教師を『要綱』を「反故」にしてまで強制異動した県教委、そしてこうした理非を弁えない行政執行に対して救済申し立てを受けるべき人事委員会がその任を果たさない ― 。これでは、教職員の身分と教育的営みは“木の葉”より軽いということになってしまいます。私は提訴して、あらためてこの尊重さるべき点が教育界にある不公正な勢力の一種のスノビズムに侵され、不安定で矮小化されたものになっているのを感じ、慄然とした思いでいます。
 これは私が訴訟の事態を何も悲観して申しているのではありません。この提訴自体が発している〈私の本質をより深く洞察してほしい〉との叫びが重く耳に聞こえるからです。
 12月県会で県教委は、「指導力不足教員等への指導の手引き」(以下「手引き」)を公にし、県教委行政の絶対化を教育現場に知らしめることに踏み出しました。県教委の「指導」や管理職に異を唱えたもの、意に適わないと見なされたものは〈人事異動で始末をつければいい〉と生殺与奪の権がふるわれかねない。教職員は承顔を迫られ萎縮せざる得なくなっていく ― 。それは教育の自裁を意味します。この「手引き」はそうした危うさをはっきりと孕んでいます。
 さる1222日に教育国民会議が最終答申を出し、アナクロニズムな国家主義的教育方針を「体系化」してみせましたが、委員の一人が〈学校は人間をしごいて飼いならす機能を回復すべきだ〉と発言しています。これは〈まず教職員をしごいて飼いならすべきだ〉とのもう一つの表現に他なりません。なんと強制異動したもののスノビズムと符節が合っていることでしょう。
 このような「教育行政」を肥え太らせるのか、それとも頓挫させるのか。その帰趨を握っている条件の一つが、この中陣訴訟の結果であると考えています。なんとしても来春に予想されている判決で勝訴して、人事委員会の公開審理の門戸を開かせなければならない所以です。
 こうした大きな課題を担っているこのたたかいにふさわしい、大きな闘争の発展がまたれるところです。一点の湧水が大河となって流れ下るように、一寸の火が燎原の火となって逆巻くように ― 。皆さんのいっそうのご支援をお願いいたします。
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