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ナンシー関 〜そのツッコミ魂忘れまじ〜


<ベスト・オブ・ナンシー関> 実際の文章のいくつかを載せます(無断転載御免!)


ちゃんとした生活、それはものを腐らせない暮らしだ (世界文化社「なんの因果で」所収 初出「読者の広場 新刊ニュース」94年9月号)


親元を離れて一人暮しを始めた時、あることにショックを受けた。それは、ものがどんどん腐っていくことだ。いや、「ショック」というより「驚愕」という大仰な感じで表した方がいいかもしれない。
 
 初めての驚愕は味噌汁だったように記憶する。鍋の中の昨夕の豆腐の味噌汁が、朝、腐っていたのだ。確かに真夏であった。しかし、忘れて放っておいたわけでもなく、同じ味噌汁を2回の食事で食べきる(私としては)ごく普通の生活なのに。「腐る」ということでその生活が妨害されるなどとは思ってもいなかったのである。
 
 腐った味噌汁を流しに捨てながら、まだ私は半日足らずで物が腐るということが信じられずに、「最初から豆腐が腐りかけていたんじゃないか」などと首をかしげていた。
 
 実家にいた頃、前の食事の余った味噌汁はいつも鍋に入ってコンロの上にあったし、その横にはおひつに入ったごはんも置いてあった。カレーやシチューなども4〜5日はそうゆうふうに置いてあったものである。土曜の昼食に火曜日の晩のカレーを食べることなどごく当たり前のことだった。しかし一人暮しをしてみると、火曜日のカレーが金曜日に
腐っている。作った当日より、日が経つにつれおいしくなるとばかり思っていたあのカレーがよもや腐るとは。驚愕以外の何物でもない。
 
 しかし、私がいくら驚愕しようとも油断しているとものは腐るのである。味噌汁を腐らせ、カレーを腐らせ、白飯を腐らせ、肉豆腐、カニかまぼこ、すいか、麦茶、クリームパンとあらゆる物を腐らせる度にいちいち驚愕していたのだが、そのうちようやく、ものが腐るということを現実として受け取ることができるようになった。
 
 そして私が心に刻んだのは「冷蔵庫に入れないとものは腐る。しかしそれはここが東京だからだ」という教訓だ。東京というのはものが腐るところだから用心しなければ。都会暮らしの知恵を学んだつもりになっていたのだ。
 
 申し遅れたが、ものなんか腐らなかった私の実家は青森である。本州最北端の地である。それまで一度も青森以外で暮らしたことのなかった私はいくら北国とはいえ、そりゃ夏になれば十分に暑いと思っていた。それなりに夜は寝苦しかったし、日中の炎天下の暑さには「やってられん」と辟易していた。でも東京で初めて真夏を体験した時、一発で考えを改めた。青森は何やかや言って涼しい。東京のこのまとわりつくようなしつこい津川雅彦のような暑さに比べたら、青森の暑さなんて童貞野郎である。たとえがお下劣だったが、稚拙とさえ言っていいくらい青森の暑さは簡素であったと思う。
 
 鍋の中まで入り込み、かつては防腐剤としても活用されていたという各種香辛料のガードをものともせずにカレーの肉やじゃが芋をてきめんに腐らせる東京の暑さ。私は敵(かたき)である暑さから我が子を守るように、味噌汁を鍋ごと冷蔵庫とかくまった。そうやってなんでも冷蔵庫へ入れれば、「腐る」という日常生活の妨害から守ることができると思っていたら、冷蔵庫の奥の方で、高野(こうや)豆腐の煮たやつとかポテトサラダが「ダメ」になっていたりする。食べものは冷蔵庫に入れようが入れまいが腐らせて捨てるか、腐る前に胃に収めるか、なのである。そう思った時、「東京の暑さ」というのは、私が自分を正当化するために創り出した幻の敵かもしれん、と思ったのだ。
 
 私はものを腐らせることを「恥ずかしい」と思っている。なにかを腐らせるたびに「ちゃんとした生活をしていないからだ」と責められているような気がするのだ。本当は別に「ちゃんと」したいわけでもないし、いや何をもって「ちゃんと」とするのかも分からないのだが、ものを腐らせることは生活というもの自体をやりこなせていないということで、屈辱なのである。
 
 私は整理整とんの類も苦手だが、例えば本を本棚に戻さず床に放っておいても、それは私の勝手であると堂々と言える。しかしものを腐らせることは申し開きの立たない過失である。
 
 実家の生活を難なくやりこなしているのは母である。その「難なく」ぶりは、まるで何もしなくても生活が回転しているようにさえ見えた。当然それはそうではなく、火曜日のカレーを土曜の昼に食べるためにはその間毎日1回火を通していたり、ごはんの入ったおひつにフタをしないでふきんをかけておいたり、冷蔵庫の奥の常備菜も味の変わらないうちに食卓に出したりということを、生活としてやりこなしていたからなのである。
 とは言いつつ、今夏もすでにいろんなものを腐らせた。チューブ入りのおろししょうががダメになっていたのには驚いた。フタが半開きだったからだろうか。ちゃんとしよう。



東奥日報の「天地人」でナンシーさんの普段のまっとうさを思わせる文章として、この文章が紹介されていた。思わず、再読したくなり、本を引っ張り出しついでにタイプした。
比較的長いものなので、段落毎に1行空けてみたが、実際は詰まっている。母親のさりげないが偉大な仕事ぶりを一人暮しをして初めて感じる、というナンシーさんらしくない?とも思える文章だが、今この状況で読むとグッときてしまう。6/15記)

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正月と米の飯に向ける日本人の特別な視線 (世界文化社「なんの因果で」所収  初出 毎日新聞93年12月15日夕刊)


 今年も残すところ半月というところまで来てしまったが、私は一人暮しをするようになって初めて「なにもしなくても年は越せるし正月も来る」ことを実感した。実家で家族と暮らしていた頃、母は「○○をやらなきゃ年越しできない」とお題目のように唱えながらバタバタと走りまわっていた。やらなきゃ年を越せないとまでされた、いわば「年越しをはばむもの」と大晦日の夕方ぐらいまで戦ったものである。おせち料理づくり、ありとあらゆる掃除、正月用の食器の準備、年越しそばの準備、鏡餅の設置(店の作業場、金庫など5ヶ所にそなえるのがならわしになっている)、などが大晦日当日の「敵」である。というのも、実家はガラス屋をやっており、これが年末忙しいのである。おせちやそうじなどこつこつひとつずつやっつけていけばいいのだが、それもままならず大晦日にシワ寄せが来るのだ。そして、年末にガラス屋が忙しいというところにも「年を越せない」というのが絡んでいる。30日や31日に来る注文にはせっぱつまった気迫がある。「年内に直してくれないと年が越せない」と訴えてくるのである。

 「年が越せない」というのは、どれだけ「お正月を特別視しているか」の表現である。「○○しないことには年が越せない」の「○○」に何が入るかによって、特別視指数が算出される。

 「大そうじ」や「年賀状」などは、年中行事化していることがアダとなり、お正月特別視指数は50どまりである。「来年の手帳を買う」なども理にかないすぎているので50。これが「元旦から使用する新しい歯ブラシを家族分用意する」だと60ぐらい。「牛を1頭ツブす」とか「富士山の中腹にある先祖伝来の秘密の沢から、湧水を2升くんでくる」になると、指数も80ぐらいに跳ね上がるというものだ。

 どれくらいお正月を重要視しているか、というきわめて個人的で抽象的な「思いの丈」みたいなものを伝える方法と言える。

 これに似たものがもうひとつある。これは「味覚」という、これまた個人的で数値化しにくいものを伝えるために先人のあみ出した言い回しである。それは「○○だけで飯が○杯くえる」である。

 最近では、糖度計、塩分計など味覚を数値化する器械もあるようだが、「味覚」にとっての最大の重点「おいしさ」はそうはいかない。

 ガイドブックの星の数にしたって、そもそも星1コがどれくらいのおいしさなのか。あくまでも相対的な基準である。

 そこで「飯が○杯くえる」である。まず第1段階は「○○だけで飯がくえる」だろう。そして次は何故か「3杯はくえる」である。次は「5杯」。どうしてか奇数だ。それぞれ「軽く」とか「平気で」という副詞をつけることで微妙な調節も可能だ。で、最上級は「○○だけで、飯何杯でもくえる」である。うそである。でもうそをついてでも「おいしい」と思う気持ちを表したいのだ。
 
 「正月」と「米の飯」という、どちらも「日本独自の思い入れ」によって成立する基準である。これを外国の人に伝えるのは難しいんだろうなあ、と思う。



(ナンシーさんの文章のもっていきかた、事柄の解釈の仕方、などが端的に現れている気がしてこれをタイプしてみた。「正月」と「米の飯」という題材は日本文化論みたいな論旨で使われそうなものであるが、「年を越せない」という奇妙な感覚を捉え、特別視指数の具体例と展開していく流れが好きだ。また、味覚の表現が飯の杯数で表されるのかは疑問であるが(おかずとしての味の濃さ的な側面も大きいので)、「思いの丈」という部分では実にうまい流れである。そもそも「飯が何杯くえるか」という言葉でなんらかの感情が喚起されるという状況が日本独特なもので、このあたりの言葉の嗅覚みたいなものが好きなのであった。ナンシーさんはなにをおかずに飯を食っていたのだろうか。6/17記)


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