ごそごそ、と布団の動く気配がした。
ダリルはそっと目を開ける。
――迅雷は、音も立てずにドアを開けて外へ出て行く。
「……まだ不安、ですかね」
ダリルが窓の外を見る。
丁度窓の真ん前で迅雷は立ち止まって、静かに空を見上げていた。
珍しく細い三日月が、暗い夜空を静かに彩っていた。
「……綺麗ですよね」
窓を開けて、ダリルも空を見上げる。
迅雷は別にびっくりするわけでもなく、一寸振り返って、に、と笑う。
「眠れないですか?」
「いや」
「……」
「他人の部屋に居るのは、落ち着かないんでね」
「そうですか」
二人が同時に三日月を見上げる。
先程まで大振りだった雨は、蒸し暑い湿気だけを残して、何時の間にか止んでいた。
ぴちゃん、と屋根の桟から雨水が垂れた。
一瞬ではあったけれど、その雫は、三日月の黄色を鮮やかに映し出していた。
そして、芝生に沈んで行った。
迅雷もくたくただっただろうに、まるで月を眺める方が好きなように、そこに佇んでいた。
「空、好きなんですか?」
あまり迅雷が三日月に見入っているので、思わずダリルが尋ねた。
「いや。珍しかったもんでね」
「あなたのところでは、見えないですか? 三日月」
「見えるだろうな。ただ――見たことがない」
ダリルが少し、迅雷の方へ向いた。
「空見る余裕なんて無かったからな。最近は」
「じゃあ、旅行なんて良い骨休めだったんじゃないですか?」
「皆そう云ってるけどな」
「嫌いじゃないでしょう、旅行」
「別に」
素っ気無かった返事。
でも、それは相手のことを何とも思っていないわけでは無いとダリルには解った。
それが、迅雷の精一杯の返事だった。――何か別の心配事を抱えていたから。
「心配事、あるんですね」
「……」
「済みません、聞いて欲しく無かったですか」
「……いや。何か見透かされてるような気がするんだよ――あんたにさ」
「そんなことが出来れば良いんですけど」
ダリルは目を伏せて、静かに回想する。
確かに透視することができたなら、何か目に見えることで人の役に立つことが出来た。
今は自分の存在を、力も全て認めて、抱擁してくれる人々の所へ来ることが出来たけれど、
もし自分が何も出来ないままであったならば、これからの余生はどれほどあったのだろう。
「……あんたが何も出来ない訳じゃないだろう」
「えぇ、それが人の為に出来ているかどうか解らないですけど」
「解らない?」
「……はい」
迅雷が、やっと月から目を離した。
ずっと明るい物を見ていて、残像があったけれど、その明るい物に照らされて、二人の姿はくっきり映った。
「僕、昔の記憶が無いんです」
「……」
「どんな過去があったのかも、どんなことをしていたのかも。解らなくて」
「……今は――」
「えぇ、もう縛られてなんかいません。それに今は幸せです」
「だから過去が思い出せなくても構わない、ってわけには行かないんだよな。知りたいが――知る切っ掛けが無いってとこか」
「えぇ。そういうことです」
「……記憶がないから自分に自信がなくて、人の為に――あるいは何かの為にしたかどうかわからない。……違うか?」
「合ってます」
迅雷には別に記憶が無いわけではなかったけれど、ダリルの気持ちがよくわかった。
それは身近に――とても身近に、過去を知らない者が居たから。
最近そいつも気にし始めてたからな、と迅雷はため息をつく。
そう。
紺だった。
“頭だけでも良くならないと――皆に置いて行かれちゃうでしょ?”
そういった紺は、ちょっぴり潤み始めた瞳を直ぐに閉じて、満面の笑みを見せた。
それが見せかけの笑みだなんてことは、迅雷でなくたってわかった。
紺について思ったのは同情なんかじゃなくて、追いつこうとする謙虚さ、真面目さが悲しく染みてきたからで。
「それで?」
「……それでって?」
「貴方の、悩み事です」
丁度考えていたこと。
律儀で優しくて、人を心配させるのが大嫌いで、人の知らないところで苦労を重ねてるヤツ。
「紺の事だ」
「……あの男の子ですね」
「あぁ。今はまだ大丈夫なんだが。あいつが過去を気にし始めたらもう俺には何も出来る事がない」
「……」
「何とかするように努力するけどな」
迅雷が自分から“努力する”を口にしたのは、これが初めてだったかもしれない。
思っていても口には出さず、でも不言実行というわけでもなく。
いつからこの中途半端な自分に気付き始めたのだろう――?
たぶん。
紺が来てから。
自分が“兄ちゃん”と呼ばれるようになってから。
それでも、努力しようなんて考えたこともなかった。
建て前にならないように。
これが本音に染み込んで行けばいい――迅雷は消え去らないように、その思案を胸の内に仕舞い込んだ。
「そうですか。……有り難う御座いました、話してくれて」
「……いや」
「風が冷たくなってきましたし、寒くなったらどうぞ?」
ダリルは部屋の中を指差した。
「あぁ。有り難う」
この言葉も久しかった。
感謝の念はまだ言葉にするのも慣れていなかったけれど、それはとても自然に迅雷の口から出てきた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
ダリルの部屋の窓が、ぱたん、と閉まった。
迅雷は、三日月を少し眺める。
ホント、なーんでこんなに話せる奴が居たんだろうな。
ヒュウウ。音を立てて風が通り過ぎて行く。
三日月もグレーの雲に半分隠れて、月明かりは少なくなった。
「寒っ……」
迅雷の肌にも、その風は冷たいと感じられる。
家のドアの前まで廻ったときだった。
外灯も無い暗く静かな道の向こう、人影が見える。
少し跳ね気味の茶髪、透明に輝くエメラルドの目を少し伏せ気味にして。
その整った顔立ちとは裏腹に、左の頬には痛々しくバンソウコウが貼ってあった。
右耳には、濁った赤色のピアス。ルビーというよりはむしろ、血の色。
迅雷と似た雰囲気を持った青年。
年齢は解らないけれど、たぶん迅雷と同じくらいの年頃なのだろう。
そしてその人影は、迅雷の少し先で止まる。
彼は冷ややかな口調で、瞳は迅雷を見据えていた。
「……この家の人間じゃないな」
「あぁ」
「……そうか」
それきり彼は喋らない。
「何者か聞かないんだな、珍しい」
「……見たところ敵じゃないからな。普通の人間ならとくに話すことは無い」
「はは、それってバズ族ってヤツか?」
「あぁ……まぁな」
青年がふぃ、と横を向く。
別にその青年は“バズ族”とやらに怯えるようなタチでは無かったらしい。
最も迅雷は怯えさせようとこの言葉を発したわけでもなかったが。
「……この国の人間じゃないな」
「大正解」
「この国の人間の大半がその名前で恐怖を見せるからな」
迅雷がふん、と笑う。
それは別に馬鹿にしたわけではなくて、自分はそのことに驚かないことに対しての面白さだった。
見たことも無いヤツに怯えているほど暇では無いのだ。
最も、いつも時間を持て余しているが。
まだ警戒心を全て取り払ったわけではなかったけれど、青年は手短に聞く。
「……何しにここへ来た?」
「旅行。外に来たのは他人の部屋が落ち着かなかったから。……あんたは?」
「俺は散歩に。――月を見に」
「月?」
「ここは一番良く月が思い浮かべられる」
月なら何処でも見られた。
灰色の建物の合間からでも、広場の噴水のベンチからでも。
けど、彼にとっての月は、“ここからでしか”見られなかった。
それは、ここが草原の広がる場所だったからという問題ではなくて。
彼にとっての月は、あの空に輝くモノではなかったのだ。
「そりゃ良かった。寒いから身体に気をつけたほうが良いぞ」
迅雷は、ちょっぴり親切のつもりで、そしてちょっぴり皮肉のつもりで言った。
流石ポエットの多くいる国だな。
国の奴の言うこと成すこと全てが詩人だ。
「あぁ。有り難う」
青年はちら、と迅雷を見て、そして口元を少しだけ笑わせた。
初めて見せた、笑顔だった。
冷たくて優しい笑顔だった。
迅雷は家に入ろうとして、ドアを閉じかけた。
が、ちょっと顔を出して、迅雷は初めて少し笑みを浮かべて相手を見ていた。
「あんたから聞かれなかったから、俺が聞くけど。……あんた、名前は?」
少し躊躇したけれど。
青年は、迅雷の目を見据えて云った。
「……ジョージ・ザーシック」
「そ、か」
「あんたは?」
「俺、は朝霧迅雷。はは、変な名前だろ」
「いや?」
ジョージはふっ、と笑う。
そして迅雷はに、と口元を笑わせた。
「おやすみ」
「あぁ」
まだ眠る気にはならなかったけれど、不思議な奴が居るもんだ、と迅雷はため息をつく。
この世界も――捨てたもんじゃねェのかもしれねぇな。
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