『どうして? 僕に今までずっと――嘘をついていたの?』
『――黒茶お姉ちゃんなんて大嫌いっ!!』

黒茶は汗びっしょりで目覚める。
紺の涙目に軽蔑の眼差しがこもっている――そんな映像が、まだ頭にへばり付いて離れないでいる。

隣で静かな寝息を立てている紺が居る。
――夢だ。
悪い夢だったんだ。

黒茶はそっと窓の外を見る。
まだ夜明けにもなっていない――三日月がそっと部屋を青白く照らし出していた。
いい加減忘れたいと思ってたんだけどな、過去の事なんて。
黒茶はため息をついて、目を細めた。

いや、忘れられる事でも無いのだろう、全ての責任が自分に有って、その証拠である紺が傍に居る限りは。
それどころか下手をすれば一生。


「……大丈夫か?」

聞き慣れない女性の声が、直ぐ傍の――上から聞こえた。
でもその声はつい最近、いや、ちょっと前に聞いたばかりの声。
そう、フィリアだった。

「何か悪い夢見たみたいだな。水でも飲むか?」

黒茶の息はまだ荒くて、何処からどう見たって何か悩んでいる顔なのは一目瞭然だった。
ふぅと深呼吸して、黒茶は目を開く。

「えぇ、有り難う。頂くわ」
「ん、わかった。そこに掛かってるタオル――使っていいぞ」

そうだ、私は今旅行中に泊まらせてもらってるフィリアさん達の家に居るんだ。
“立場ヲワキマエナサイ、黒茶!”心の中で誰かが叫んだ。
“人様ノ家ニオ邪魔シテオイテ何テ迷惑掛ケテルノ?”
「……っ」

声にならない声で、黒茶は唸った。


少しして、フィリアが部屋へ戻ってきて、静かに、透明なコップを差し出した。
揺れた拍子に入っていた氷がからん、と音を立てる。極静かに。
コップの回りには既に水滴がつき始めていて、窓の月や夜空が鮮明に水に映っていたから、
冷たくて綺麗な澄んだ水なのだと解る。

「有り難うフィリアさん」
「フィリアでいいよ、堅いのはちょい苦手だし」

黒茶は両手でそのコップを持って、そっとその渇いた口に運んだ。
冷たい、爽やかな感覚が体中に広がって行く――黒茶はまた、水を流し込んだ。

「――有り難う。また後で飲むわ」
「あぁ。いいよ、置いといて」

フィリアはちらりと黒茶の顔色を伺ってから、目線を反らしたまま話し出した。

「色々、大変そうだな」
「え……」

黒茶の考えを見透かしたかのように、フィリアの言葉は心の中を駆け巡っていった。
何を知っているでもなかったけれど、それでも。
苦労を自分で背負い込むほどつらいことはないと、フィリアは知っていたから。

「その大変な理由は、聞かねぇ方がいいか」
「……」

黒茶は目を瞑った。
話したらどうなるかなんて全く解らないけれど、フィリアさんならあるいは――。
でも黒茶は少しの期待を引き締めて、自分の罪をよく考え直す。
――いや、貶されてもいい、自分の罪を自覚するためにも。

「私は――昔は用心棒をやってたの」
「へェ、用心棒。それで?」
「とある会社の社長に仕事を依頼されて、私はそれを引きうけて、数年間――社長を守り続けた。
 社長には小さな息子さんがいて、私はその少年に気を取られている内に――社長を殺された」

黒茶はぐっ、と唇を噛んだ。
思い出してつらくなる事なら百も承知だった。

「幸いその犯人は殺せたからそれまでになったけど、私にはその少年を一人にしたという罪だけが残された。
 だから私はその少年を引き取った。――それが紺」

フィリアも黒茶も、同時に紺を見た。
紺はすっかり寝息を立てて、起きる気配は毛頭無かった。
黒茶はふぅ、とため息をついて、続きを話し始める。

「今までそれを話さずに居たけど――紺も自分の過去を気にし始めてる。問い詰められたら私は嘘をつく自信がない」

涙までは出なかったけれど、黒茶の声は少し震えていた。
このことは、淡雪や迅雷、久遠や風雅にだって云ったことは無かった。
それはその人達の事を信じていなかったわけではなくて、そんなに簡単に明かして良いものだとは思わなかったから。
皆だって、落ち込んでいた当時の私を見て、聞こうとした人なんて居なかったから。
話す機会も無かったし、ましてや自分から話そうなんて思った事も無かった。

フィリアも、ふぅん、と云いながら腕を組む。

「……だが、社長を守って紺君って子が殺されても、悔やんだだろう」
「――そうね。例え任務が成功していても――私の中の知らない誰かが責め立てたでしょうね」
「良心、さ。人間としての心、って云ってもいい」

良心、あの時の私に、人が死んで悲しむような良心が残っていたのだろうか。
黒茶は少し俯いた。

「忘れた方が良いのかしら――過去の事」
「それは駄目だ、忘れちゃいけない」

フィリアが黒茶の方を向いた。

「――それがどんなに辛い過去だったのかはオレに解る筈もねェ、オレは黒茶さんじゃないからだ。
 でもな――変わるもんじゃねェだろ過去なんて、どんなに心に封じこめてみたところで」
「……」
「辛くても悲しくても――オレ等は自覚してなくても前進してる。変わらねェ事実で――人それぞれな。」
「……前進?」
「オレにはこんな事言う資格なんか有りはしないが――前進だと思うから、少なくともオレ等は――、
 気持ちのマイナスもプラスに変えてこられた」

自分が年上だとは思えないほど、フィリアの論理はしっかりしていた。
今、彼女等の見据える未来に、少なくとも迷いなんか無かった。

それなのに自分は如何だろう。
過去を引き摺ってさ迷っている挙句に、関係の無いフィリアさんにまで迷惑を掛けて。

「有り難う。――ごめんなさい。無理矢理こんな事話しちゃって」
「いや? オレが聞いた事だ、辛い思いさせたんなら俺が悪かった」

フィリアは、いいながらまた俯いて行く黒茶を見て、首を傾げた。

「なぁ黒茶さん。もうちょい楽になろうぜ」
「……楽?」
「――忘れる、っていうのはさ、怖い行為だ。その行為一つで、何人もいっぺんに殺せるんだ」
「……」
「本当にそれは封じ込めていい過去か? ――話さない方が紺君の為に成るかもしんねぇけど、
 忘れるってぇのは黒茶さんの為に成るか?」


もし私が、仮にあの忌まわしい過去を忘れる事が出来たとしても。
それは完全ではないだろうし、また“良心”が邪魔をして、過去を封じた自分を責め立てるのだろう。
あの出来事は私にとって人生最大の失敗だった。
落胆して用心棒を辞めた理由でもあった。
そしてそれを忘れれば――私は責任を軽くする事も出来ずに苦悩するだけ。

そうか。
そうだったんだ。

私は少しだけしか未来を予想せず、その先の暗闇に気付かなかったんだ。
そして“忘れる”事は――、紺の為にもならない。
“話さない”のと“忘れる”のとは違う。
話さないのは紺の為になる。けど、忘れることは決して紺の為になんかなりはしない。
それは責任を“忘れた”私の、みっともない姿だから。

紺の為になるのが、“忘れずにいる”ことであるのならば。
私は一生、その体制を崩さない。

「フィリアさん――私、本当に“私が居るべき姿”が解った気がする」
「そりゃ、良かったな」
「貴方のお蔭よ、有り難う。――貴方は? 私で良ければ聞くわ」
「オレの――悩みか……」
「えぇ。私ばっかりだったから」

フィリアはふ、と微笑んで、組んでいた腕をぱたんとベッドの端っこに移動させた。

「オレさぁ、体から火、出せるんだよね」
「火?」

ホラ、と云って差し出したフィリアの掌からは、ポッとロウソク程の炎が飛び出した。

「理由は――あるオレ等の使命のため、としか言えないな。同じモノを狙ってる敵も倒さなきゃいけねェし」
「そっか。大変だね、私達より」
「いや……、ンな事ねェよ、オレ等はかなりのんびりやってるしな」

ちょっと考えてから、フィリアは頭を掻いた。

「考えてみるとあんま悩みってのは無いんだよな」
「ねぇ、じゃあダリルさんやルーシーちゃんや――アミーナさんはそのこと知ってるの?」
「オレと同じようにルーシーは水の力、ダリルは木の力、アミーナは風の力を持ってる。皆色々あってな。仲間になった」
「素敵ね」
「何が? ……オレ等、正義なんかじゃねェし」
「それは私達もよ。自ら正義を名乗る人なんて――どうせ正義じゃない」
「そだな」

そんな奴もあまり見たことは無いが、正義だと名乗って強いファイターだった試しは無かった。
誰しもが自分の正義を持っていて、それに従う為に何かをやらかして行くものだが、
それが間違った物であればあるほど、世の考える“正義”とは遠ざかって行く。

バズ族がアルロジック国の“悪者”である限り、フィリア達は“正義”であることに間違いはなかったけれど、
フィリアはそれを否定し続けていた。
人を傷つける事が正義であるものか――と。

それならば、きっとフィリアが悩んでいたものは、「正義」の「定義」だった。



「そろそろ寝るか……色々、有り難うな」
「うぅん。私も、有り難う」

窓の外の三日月は、さっきより一層輝きを増して、草原の端っこ、フィリアや黒茶達が眠っているその小さな家を見下ろしていた。
黒茶が置いたコップには四分の一くらいの水が残っていて、ずっとその月を写していた。



夜が更けていく。


――この小さな家は、至って静か。



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