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2005-06-16
知己が出場するボクシングの試合を見に行きました。残念ながら彼は負けてしまって、スカっとしないものの、彼の闘姿を観、スポーツはかくあるべしなところを感じ取って帰路に着くわけでした。試合のあった後楽園ホールの余韻に浸りながら。

本来ならそこで終わることが真っ当な一日だったはずです。ですが、余韻ぶち壊しイベントが、ぼくのホームタウンに着いた時に発生。クレイジー祭りを巻き込む自分の体質に驚く。

わが町にある飲み屋の前にいるゴンさん。店に客がいないからちょっと寄っていけという。うわほんとにちょっとだけですよ。とゴキブリホイホイへと向かうゴキブリよろしく店内へ。なんだこの男臭のする飲み屋は。一応、それなりに誰しも入れる気軽風に作られてるにもかかわらず揃いもそろって男性ホルモン。

席につくと、先客さんのいる奥のほうの席へ。髭面の人でした。ゴンさん、髭。ゴンさんのほかに一人の店員氏も無論髭。ぼくも風呂場の目地にコロニー形成よろしくなカビ髭。気色悪い。違う汗水たらしそうな人間が店の奥のほうでまさにくすぶっている。腐臭漂いまくります。

常連客と思しき髭の人は宮さんと名乗る。ぼくより二つ上。薬物中毒から立ち直ったというそれだけでアツイ経歴。いまだに親戚から薬野郎なる称号で話しかけられることを楽しそうにしゃべっている。いつかぶっ殺すなどと言わないでください。洒落になってない。そんな宮さんですが、普段は病院に勤めている。通っているわけではない。

そうこう話てるうちに店の前でバイクの排気音。宮さんの同居人登場。ヨウさん。ヨウさんは一見するとキャンタマ冬模様な風貌をしていらっしゃるが、客商売をやられているので非常に物腰やわらか。話もうまく、おもしろい。まさか自分の専攻であるところの民俗学から、その話題に乗っかり、きっちり話を作ってくれるとは。

そんなわけでこうまで揃えばちょっとやそっとじゃとまらない。オゴリ、オゴられの押収で、しまいにはいつのまにか男子校こと帝愛グループのタコ部屋、に突入してきたガールズやら、何をやってるのかわからん社長、店のオーナーやら女将さんまで出てきて飲むわ飲むわ、の気づけば午前四時。

結局節制という言葉を知らぬまま、ちょっと寝て学校。ゼミ発表の準備はいいのか。そのまま死んでくれ。



2005-06-17
五限に授業があることをうらめしく思いながら、足取り重く、学校へ。速攻で講義棟の一回ロビー、ソファー占領。もはや背骨などなくなってしまったのかという姿勢で軟体動物状態。汚物さながらというか汚物以外何者でもない煤けた自分の姿に刺さる視線がクソ痛い。さぁ今チャージしておるのでいつでも授業カマン。カマン。いつまでたってもそのゼミの先生はこない。いつもなら授業始まる前に喫煙所で出会い、「教室で授業はやっぱりできないねえ。クソくらえだ。タバコやらコーヒーやらすすりながらやりますか」という先生の素敵な言葉をお待ちしていてもちっともいらっしゃる気配がない。まさかと思い、休講情報を確認。わはは。見事休講。再びフェスティバルモードへと移行。迎え酒じゃとばかりにビールを頼むも、さすがに一杯でギブ。自分のバディへのホスピタリティーとはなんぞや、と考える一日。


2005-06-18
もういくつ寝るとゼミ発表。それでも事件がぼくを待ってくれない。大学のころの知己が朝っぱらから電話。友人曰く「いやホラさ、お前ん家って俺にとってネットカフェじゃん?漫画喫茶じゃん?」的な用件。ああそうですね。どうもものすごく微妙チョイスな漫画ばかりを取り揃えた漫喫こと我が家です。『バビル二世』と『ドカベン』全巻、銀河鉄道999(16巻17巻欠け)そしてちばあきお先生の『プレイボール』途中10巻まで揃えてあります。つか全巻揃っている漫画は稀。ぜひごゆっくり。そんなこんなで夕刻ごろ知己家に着。そりゃ夕方につきゃ、知己は否応なく我が家の食卓につかにゃならんわけで、うちのウゼー酔っ払った親父を相手しなきゃならない。知己に対し本当に申し訳なく思いながらインサイド弁慶ことぼくはだんまり。

むかっ腹たったので知己とともにバッティングセンター部を再開。知己の終電ギリまでのほんの二十分という分刻みのバッセン。世界をマタにかけたサラリーマン並みのスケジュール。でもやってることは公園で過ごすのも飽きてきたダメリーマン並みのすげブルー。



2005-06-20
ゼミ発表がしゃれにならんので都立中央図書館で八時間耐久レース。ハチタイ。もう胸が痛い。というか肺が痛い。本当に図書館という空間はぼくをいじめるものにほかならない。昼飯もくわずひたすらにノーパソ。食欲はないけれども、とりあえずエネルギーを切らさぬためにまずいきつねうどんを晩飯にすする。窓外に映る六本木ヒルズが妙に心にクル。そんなこんなでサボっていた更新を一気に思いつくままに書き、気づけばゼミ発表までもういくつ寝なくても、寝てれば過ぎていくっていう話になりませんか。なりません。終了。


2005-06-22
ニューヨーク・ヤンキースで活躍中の松井秀喜氏の話。興味がない人にとってはどうでもいいけども、語らずにはおれない。ぼくは前々からちょっと馬鹿野球であることは匂わせてますが、そのことをさらに拍車かけたのが、松井選手であります。松井選手などと呼びたくない。ぼくにとっては師匠なのですから。

松井師匠を初めて知ったのは、今となっては語り草になりすぎていわば食傷ぎみな、星陵高校時代の甲子園からで、ドラフト会議の時は当時小学生だったぼくでもそのクジの行方を気にしておりました。それでもソウルな部分でまだ“松井秀喜”は意識しておりませんでした。

松井秀喜という個がぼくの中で大きな位置を占めたのはそう、東京スポーツで、AVマニアであるとかノーパンしゃぶしゃぶにただならぬ関心を寄せてるということを知ってからのことでした。そのころの松井(あえて松井と呼びますが)といえば、東京ジャイアンツにあって、中心も中心。ぼくもがつんがつんのジャイアンツファンでしたから、どぎもを抜かれる。がつんがつんのジャイアンツファンであると同時に ヰタセクスアリスをこじらせはじめてるときですからなおさら。一流のアスリートでもAVが好きだし、それを臆面もなく社会へ発信もいいんだ。それがぼくの抱いた感情でであり感慨でした。松井氏そのものへの関心が大きくなる第一のステップ。

師匠は、スターダムとしてのステータスである、タイトルを争う選手でした。そのチャンスを二回、つまり二年逸した後、見事タイトルを手にするわけですが、そうしたタイトル争いに一喜一憂するという状況がますます師匠熱をヒートさせてゆく。 それからも、松井師匠は東京ジャイアンツの中心であるところの四番バッターとしてAVマニアを続け、活躍を見せます。ニューヨークヤンキースにフィールドを移した今となっては、ジャイアンツ時代のユニフォーム姿は郷愁の部類入りますが、そのころの活躍を思い出すと今でも胸が熱くなります。

あれほど愛しながら、裏切られる思いの連続で、さすがに呆れたジャイアンツにあっても松井師匠への思いは途切れませんでした。それは、彼がジャイアンツファンやアンチジャイアンツを超えたファン層を獲得する選手として、または、マスコミに自身をさらすことを忌避しない、ファンとの接触を決していやがらない、ホスピタリティを最大限に発揮するというエピソード(松井基金、各種のボランティア、里親、地域貢献・・・枚挙にいとまがない)にはとどまらない魅力があるからかもしれません。もう松井師匠のことを書くとなっては、自分の感情が抑えられない。ただでさえ日本語デストロイヤーなじぶんですが、もはや日本人としての文法の大前提ですら無視してもなお、松井師匠を称揚しようとする。まったく相手へ具体的な形として伝わらずとも、松井ってすごい。すごいんですよ。ほんとに好きなんですよ。理屈じゃないんです。やばいすよ。松井の偉大さ。いや、もう松井なんて呼べないすね。師匠です。という酔っ払いのクダをまく以外なにものでもないものを松井秀喜というパーソナリティーは有しています。松井師匠のことを語るときはいつもその存在に対して酔います。

そんな師匠が、一時期のスランプを超え、連日の大活躍。逆に四、五月のスランプがあったからこそ、この活躍がうれしい。毎日メジャーリーグを見られるわけではない自分がはがゆい。松井師匠の活躍をニュースで見るたびに心熱くし、自分もがんばろうという気になるのです。松井師匠ですね。最後のプロフェッショナルプレイヤーは。単なるジンクスの世界の話ですが、次のホームラン打つまでは禁手淫を貫くと誓わせる男が師匠のほかに出てきません。

えーわけわかりません。つまりは馬鹿野球の話です。



2005-06-23
ここ最近、フィジカルコンディションがおもわしくありません。どうも日ごろの不摂生がたたりすぎたようです。それが文章にも表れているのか、だれかが読むというような意識をされることなく、ただひたすら松井秀喜氏やばい。ほんとやばい。などとうわごとのようにぼんやりのたまったりするわわけでした。駄文の垂れ流しもよいところ。まあそれはそれとして体調不良なわけです。腹の中でゲーリー・グッドリッジが暴れまわってるわけです。季節変化に身体が対応していないからなのか、毎日グッドリッジは腸内でギロチンチョークを決めてぼくをKOしているわけです。そんな中、大学にあって唯一心の安らぐ場である便所に異変。以前も書きましたが、木製の扉に書かれた、神々の刻印こと落書きが消されている。完全に塗りつぶされている。すくなくとも四年もの間、腹の痛みに耐えるぼくへうたかたの清涼を与えてくれた、数々のダビンチコードが消滅。なじみの店にゆき、なじみの顔ぶれに会うかのごとき、なじみの落書きがそこにはない。ケツをふこうとするもそこに紙がない。あ、それは別の問題です。一抹の悲しみに暮れふと目を扉から外すと、目に飛び込んでくるもの。

「男なら」

と冒頭に記るされた一つのセンテンス。いつもならば見逃していたそれは壁面タイルの目地と目地の間というごくわずかな空間に細かな文字で書かれているものでした。それは次のように続いているのです。

「男なら たかなくにえ をオカズにヌケ」

本当にどうでもいいことが、どうしようもなくほんの小さな声で主張。どうでもいいことなら、なおさら高らかに発信せられてもよいのに、わざわざ目立たぬ中に目立たぬよう記す、そのメッセージ性にぼくの心は強力バイブレイション。まだ頑張れる。ぼくはゲーリー・グッドリッジとの終わり見えなき戦いへ再び向かう決意を新たに、ケツ丸出しで情けなくトイレットペーパーを入れ替えるのでした。腹痛い。



2005-06-25
特に書くことがありません。何故か昔使っていた携帯がペロンと発見されたので、電池つないでつらつらといじってみる。そこに誰にも送信されず残っている未送信メールが。純粋に送ろうとしてやめているものや、日記代わり、メモ代わりになっていて微妙にそのころのことが思い出されるので書いてみます。本当にやっつけ更新。誰が面白い?という感じですが、自分で面白くなってしまったのでしょうがない。

イボツキ軍手購入。バッセン三千円。バッティングの神様二宮清純似。文化系馬鹿野球であるところのソウルメイト。たった一人のバッセン。神が降りた。ポールに打球があたって跳ねた

2003年12月24日のこの日付がなんとも涙を誘います。恐らく、以前やってたサイトのための備忘録。頭に浮かんだ単語を書いてたものと思われます。懐かしい。確かに、うんこすぎる日をこの日には送っておりました。それと関連するのが以下ですね。翌年、2004年の未送信メール。

神道精神いきづく國學院大學構内におけるクリスマスの浮かれ話を一切禁ずる。これに違反したるものを粛清す。

単なる情報伝達ツールにすぎぬ携帯から伝わるユーザーがこめた熱意、怒り、空しさ。なんともパッションの爆発が感じられる不思議なエネルギーを持った一文。あ、ぼくか。

次に挙げるのは、ぼくが自動車免許獲得のころに打っていたと思われるもの。

この世に「車」がついていい単語は「自転」と「だん吉」にしてくれ!!無理!

仮免の修了検定はなんとかパス。学科の結果待ち。ここでぼくがヤンキーおよび千葉県民以下なのかが判明します。

仮免合格祝いをまだ自分自身にあげていなかったので高津(バッセンのことと思われます)途中下車の旅です。

なんだか本当にうだるような暑さの中で打ったなあという感じですが、恐らく誰かに送ろうとしていた感じ。何故送信をやめたのか。そこだけが気になります。ただ、次のメールに関しては、あて先つきだけども、留めておいてよかった一件。

近々高知から友人が来るんですが、本番ありの風俗へ行きたいとのこと。しかし困ったことに金がないそうでして。どっか安いソープなりご存知ないですか?やっぱちょんの間ですかね。

もう今や横浜の黄金町も公権の手が入りかつての様相とは違うと聞きます。時の移ろいを感じる記録ですね。どうでもいい。こういうメールを恐らく電車内で打ってるわけですが、隣の人に見られでもしたら、もしそれが女性だった場合は、間違いなくぼくの半径一メートルは空くに違いない。

最後に、もはやどういった精神状態であったのか謎な川柳。何リーマン川柳気取りかわかりませんけれども。

授業出ず SPA!を読みつつ 過ごす午後 記事に飽きたら 糞しに席立つ

まったくそういう精神が改善されぬまま、幾千万年の時を過ごす。生まれく台詞とは蒼き星の挿話。夏の調べとは。暑いですね。キンタマ周辺の冷却装置がまじで欲しいそんな季節です。うちわで扇いでみよう。それぞれのステージ。



2005-06-26
ぼくにとっての「東京」といえば神田神保町。あらゆる分野の古書店が軒をつらね、つい街歩きに何時間も費やしてしまう街。
自分が本当に求めようと思う古書を手に入れるのであれば、古書購入に俄然威力を発揮するようになったインターネットか各古書店の発行する古書目録で求めるのが一番いい。だからこの街を歩きたいという欲求には、単に古書を手に入れるというものだけではないようだ。
店に入ると通路にも未整理の古書が積み上げられ、一人がやっと通れるくらい。古書が放つ独特の重たく湿った香り。その奥には少し威圧するかのような存在感を持った店主のおじさんおばさん。函に収められた学術書を手に取って中を取り出してみる。裏書された値段の高さに圧倒されたり、また存外に安い値段であるにもかかわらず財布の中身がそれ以上に寂しく、みすみすそのチャンスを逃したり、というのが楽しみの内なのかもしれない。また多くの古書店が集って開く古書市の時期に合えば、普段は高くて手が出ない古書もリーズナブルに手に入ったりする。あと古書相場の十分の一で売りに出してしまうやけくそなガレージセールを行っている店もある。そこに求める本があればしめたものだ。そういうアクシデンタルな喜びがこの街にある。
街歩きに疲れた身体をちょっと喫茶店で癒すのも楽しみの内に入るかもしれない。そこでさっき求めたばかりの本をめくる時の気分は、奪ってきた宝箱の中身をちらっと確認してすぐに閉じ、にやにやする感覚と似ている。戦利品を手近に置いて飲むコーヒーなりタバコが美味い。
自分が欲しい分野でなくとも、知り合いの欲しがっていた本を見つけることも楽しい。また逆に自分が教えてもらうことも然りだ。無用におせっかいを焼きあいたくなるほどに本で溢れているわけだ。
本を探し回っていると不思議と手洗いに行きたくなる。そんな時は近場の喫茶店にピット・インするか、三省堂や東京堂書店を利用する。腹が減ったら乱立する立ち食いソバを手繰る。神保町周辺では小諸そばが割合美味いと思う。夕暮れ時ならば、すずらん通りにある安い、美味い、小汚いキッチン南海を利用するのもいいし、安さを誇るラーメン屋、錦華小学校近くの伊峡も外せない。
神保町を歩くのは夏が好きだ。うだるような暑さの中を、何を買うと決めるもなしにけだるく進むのがいい。思わず出会ってしまう古書があるから、とは言い切らないけれど。
街をひとしきり巡り、帰る頃になると、手は本についた埃やら油分が紙に吸い取られてるやらでがさがさになっている。それが神保町を歩きまわった証明書がわり。ぼくは満足げに街をあとにする。


2005-06-27
ゼミ発表なるまことにファッキンなイベントが鎮座ましましているとやらで、国会図書館にてハイパーに知的水準高い時間を過ごしておりました時。電話が鳴りました。身に覚えの無い番号。ワンギリではない。とりあえず館内で出るわけにいかないので、かけなおすことに。すると受話器の向こう側から若い娘の声。少しザーザー言っており、何を言ってるのかはっきり聞き取れぬ。しかし妙にこなれた声。

「ザー・・・さしぶり・・・ザー・・・子です。ザー・・・にひさしぶりー」

あーアレだ。絶対コレはナンタラ詐欺という奴だ。しかも適度にエロ系の詐欺に違いない。身体を緊張させておく。一体個人情報保護法は何をやっているんだ。スグ近に国会があるから、全裸にネクタイ一丁こと今をときめくクールビズで抗議行動に出てやろう。あれこれ憤懣やる方なくいると、それが学部の頃、同期だった子の声であったことに気づく。いやいや。びっくりした。全身の毛が抜け落ちる心地がしました。すいません。すっかり忘れてました。つか声の判別をつかせぬほど入るノイズは何か盗聴かけられてると疑ったほうがいい。

ともかく、もう一人の人と電話かわるというので、代ってもらう。それは私の頭上がらぬ方でありました。襟をただし、ゆるんでいたケツ穴をキュっと締めてし直立不動。

「なんかトリゴシショウガツ、勢いがなくなった感じする。なんていうか、あれが心の便所だとしたら、嘘の臭気たきしめてる感じじゃない?」

とのこと。気づかされました。知らず知らずのウチにぼくは心の便所にウソうんこをひっていたのか。それはあまりに便所に対し失礼ではなかったか。冷水を浴びさせられる心持がいたしました。ぼくはブサイク島のブサイク囲炉裏の煙立ち込めるブサイク村からブサイク車に乗ってブサイクメガホン片手に、世界へ向かってブサイクを広めにきたブサイクではなかったか。それが何か。最近ちまたをにぎわすちょっとダメな奴でもひょんなことからマックスバリューなハッピーを獲得する電車男の夢に毒されていたのか。ダメなぼくでもいいとこ書いてんだよ、と見せりゃハンディキャップよろしくハイスコアを叩きだせるとでも思っていたのか。それとも、いや、最近ちょいダメが流行ってんジャン?それに乗っかっておかないとさぁ。本とは全然カッコメンなんだけどねー。そのギャップ?みたいな。か。ふざけるな思い上がるのもいい加減にしておけ。そもそも電車男なぞはフェイク・ダメ、偽ブサイクだ。真のブサイク軍ならちょっといじっただけでオサレ軍に攻め入れるわけがない。こちとらココニッポン島国に、縄目模様の土器をこねまくっていたころからブサイクだ。年季が違う。どこかの博物館においてあった、縄文人の頭骨から復元した顔がぼくにエライそっくりでびっくりした。

えーとともかくこれからはブサイク軍の先兵として、心の肥柄杓を手に、ゴーストレートな感じで行きたいと思いまーす。30日のゼミ発表までまであと三うんこ。



2005-06-28
中上健次の『枯木灘』でぼくが一番共感する文がある。主人公が自身をとりまくわずらわしいもろもろのことを払拭するために、ただひたすらに肉体労働に打ち込むくだりだ。その描写は、正確なところは忘れてしまったし、確かめようとも思わないけれども、主人公の振るうつるはしなりスコップが自分の肉体の延長となって、同じく肉体の続きである土をどんどんとめくっていく、というものだった。ぼくはそのくだりが好きだ。季節は特になんでもいいのだけれど、個人的に夏が好きなので、肉体労働に従事し身体の欲するままに炎天下の下に汗を流す、そんな姿を想像していただきたい。とにかく今は思考が完全に静止した状態で、神経を伝う身体を動かすことのみに支配されたい。これは逃げの一つにすぎないのかもしれないけれど、ぼくの思考とは別の部分がそれを欲している。じゃあ今すぐにでも肉体労働に従事すればいいではないかという、思考の部分ががなりたてる。したくとも、そのたきつける思考、本人がぼくの肉体の欲求を阻害する。アンビバレントな意向にぼくはどうすればよいのか。ぼくの思考が余計な「知恵」をつける以前に戻りたい。かつて行った公共建築物の解体作業でもいい、スーパー・マーケットの荷卸・陳列のときでもいい、自分の肉体が意志を離れて単なる物を運ぶ機械と化していることをふいに実感した時の、あの感動ともつかぬし、嘆息ともつかぬ心持を味わいなおしたい。平素の運動に慣れていない身体が痛みを訴え、もう明日こそは辞めてやると思いつつも、翌日にはそこに向かうしかなく、憎悪と小さい達成感を噛み締めていたあの日々。たしかに肉体労働としては小さいものかもしれなかった。けれどそれでも肉体を行使していると実感できたのだ。ぼくをとりまく脆弱な筋肉組織や血管、運動を司る脳の存在を実感できた。今自分は肉体を行使しているか?と問われれば、おためごかしによってその都度ごまかされた、パフォーマンスをみっともなく披露しているにすぎぬとしか答えられない。生命力の発揮をどこか恥ずかしいものとしてひたかくしながら過ごす日々。そこまでの発揮できうる生命力があるかという自己の嘲弄にもだえる今。自身の真実はどこにあるのだろか、肉の塊を統合する原理はどこにあろうか、という実に幼稚な自己探索の果てにとわざと痛めつけてみては他人事のように自身を傍観する。それは単なる妥協にすぎぬことはわかっていても、間近の安心をえる弱き心がそうさせる。もはやそんな無為な時間は過ごしたくない。ぼくの宿る肉塊の中にぼくが入る確実なる実感が持てる日はいつなのだ。