>>>親愛なるI氏へ(天国にいる故・井出義広氏に捧げる)

         


ゴールデンウィークまっただ中、僕とふたりの友人は飯田橋のホームで待ち合わせをした。友人I氏を見舞うために。

その前日、一緒に見舞いに行った友人とたわいもない話しを電話でしていた際、ふとI氏の話題になった。そう言えば最近会ってないなー。確かこの前会ったのは去年の11月。連休の予定がないといっていた友人は、I氏のところにもかけてみるよ。と笑いながら電話を切った。しばらくして、また電話。よっぽどヒマなんだなー、と思い電話を取ると友人の声はさっきと全く別のトーンになっていた。

翌朝、面会時間のずっと前に我々3人は無理を言って友人I氏とあった。<変わり果てたいた>ショックだった。呼んでも返事は返ってこない。3人は主治医に詰め寄った。主治医の第一声は『お気の毒さまですが・・・』それがすべてを物語っていた。

I氏はまだ43才。僕の最大の理解者で、音楽の話や絵の話その他いろんな話をよくした。世界中の美術館を廻り、未知の世界の話しをしてくれた。言葉のやり取りで遊べる唯一の友人。

ウイスキーをこよなく愛し、製造工程を見るためエジンバラまで行った。そういう人だった。

ロードショーを初日に見ては良し悪しを電話してくれた。そういう人だった。

世界で何本しかないハミルトンの時計をサザビーで競り落とし、お前の方が似合うから、とポンとくれた。そういう人だった。

何処に行っても『俺、こいつのことが好きで』が口癖で僕を紹介してくれた。そういう人だった。

『遊びに来いよ家族で 、でも金は持ってくるなよ』そういう人だった。

雨の六本木で雨宿りをしている女性にどうぞと傘を差し出す。自分は濡れても構わない。そういう人だった。

そして、僕のことを本気で怒ってくれる。そういう人だった。


見舞いの後、3人でお茶を飲み少し話した。ふたりの友人は僕より一廻り以上歳が上だ。
(ふたりの友人はK氏とM氏)
 
『お前が一番ショックだろうな』

その問いにも素直に応えられない自分がいた。

今も自宅に電話がかかってくるたび、ドキッとする。

違う電話でホッとする。

今自分に出来ることは、いつまでも変わることなく、彼が愛してくれた僕でいよう。

そして、 彼の分まで生きて彼の今は幼い娘にI氏、あなたの話を聞かせてあげよう。

僕が公募で落選したとき

『丹下、あせるな。人の評価なんてものは、その人間が死んだとき決まるモノだ。葬式

で何人の人間が本気で悲しんでいるか?それがその人間の評価だ』

と言った言葉を思い出す。

今、あなたの評価を出せって言われても 無理だよI 氏。
 
I氏から学んだ物は大きすぎ、今でも消化できてない自分がいる。

 

 
 

そして5月27日運命の電話がかかってきた。東京の空は涙空。

午前10時12分長い旅に出た。二度と戻ることない長旅に。 合掌。

 

 
 
 
 
         

 

       

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'01 6月>>>

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