アステカの幻想(24)

あらすじクリック
翌朝、希理子と全て事が終ったと思った時、もう十一時前になっていた。ただちに二人はリトル東京の教会。そこで日系老人の為の昼食サービス。リトル東京の日本人ホテルヘ引越。午後はトミーの案内でアジア人のための障害者福祉工場。




希理子と全ての事が終わったと思ったとき十時半を過ぎていた。

 トミーとの約束の時間は午前十一時である。トミーは十一時を過ぎてからオフィスを出て現場へ出向くことになっていた。現場とはリトル東京に近い教会の食堂だ。ここで老人たちに昼食をサービスすることが彼女たちの仕事だった。
「早くシャワーを浴びてらっしゃい。手伝ってあげるから」
 希理子の言葉に促されてシャワー室に飛び込む。服を着て、何もかもバックの中に放り込み、荷物を全てカウンターに預ける。今夜から村中と同じリトル東京の日本人ホテルに移ろうと思ったからだった。ホテルを出た二人はタクシーを急がせた。
 教会の地下の食堂へは老人たちがまだ三々五々と集まっていた。村中とミイの姿はまだ見えない。帰国の航空券を受け取りに旅行社へ出向いているのだろう。二人は老人たちと同じように五十セント支払ってテーブルについた。テーブルは六人掛けである。みなで二十もあろうか、二列に並んでいた。二人の腰掛けたテーブルには四人ほどの老婦人が席についた。地下とはいっても、一階の礼拝堂は高床だから、半地下だ。高窓からは充分な採光が出来る。正確には******と呼ぶのが正しいかも知れない。しかし、その場所もプロテスタントの教会の一部だけに何の変哲もない。間もなくトミーは私たちのチーフだといって四十代と思う日系婦人を連れてくる。銀縁の眼鏡をかけた細面の上品な女性だった。
「ワタクシ、四年マエ東京へイッタ。シンセキ、アザブニイル。アナタ麻布シッテルカ」
 彼女たちの老人へのサービスは合衆国連邦法の公衆福祉法の中の条項によっているのだという。この法律については稔も希理子の裁判の時、アメリカ文化センターまで行って調べた記憶がある。アメリカの福祉行政の中核をなす法律らしかった。稔が翻訳してやったのは公共の建造物を身体障害者も容易に使用できるよう、建築したり改造したりすることを指示した法律の条項だけだった。日本の国立博物館側が障害者のための設備改善に、あまりも意図的とさえ云えるほど消極的であったことへの反証だった。
「日本でも最近は福祉、福祉で大変ですが、まだ日本にはそうしたサービスの機関というのは全くありませんね」
「そうですか。日本では一般の老人に対してどんなサービスがありますか」
「そう。たとえば医療の無料化だとか、地方によっては交通機関に無料パスの発行、大体そんなものじゃないですか。もっとも最近地方自治体が敬老館とか老人クラブとかいって建物だけはよく建てていますがね」
 日本の福祉行政は箱作りであると、一言で言って過言ではない。中央、地方のいずれを問わずまず行政のお役人が視察と称して、いわゆる福祉先進国へ出掛けて行く。そして猿まねで外側だけは見事な建物だけ建て、これで福祉のこと足りたりとしている風潮があった。稔の住んでいる町でも、区民館に始まってやれ敬老館、やれ障害者福祉会館と建てられてはいたが、それを利用する人たちはほんの一部に限られていた。
稔のすぐそばのアパートに長年住む用務員のおじさんが、たっぷりボーナスを貰って役所、役所と言っているのも面白い。華新の旗頭、美濃部都政でさえ、婦人会館を建てると言い始めて、一枚看板の民生局長N女史を放遂に追いやった。行政の担当者とすれば建造とすることが、一番その成果を示す最も良き方法なのだろう。
「一人暮らしの老人ばかりではなく、家族と一緒に生活している老人たちで構わないのです。お互いの懇親の場になりますし、たまにはランチを作ってピクニックに出掛けることもありますよ」
「ここは教会の建物を利用していらっしゃるのですか」
「ええ、借りています。オフィスは別ですが、どこでも教会を利用する場合が多いようですね。ここはリトル東京に近いの。日系の方のばかりですが。ロサンゼルスの全地区からお見えになります」
「本当にすばらしいことだと思います。日本では建物を建てるだけで、後の運営にはほとんど金をかけてませんからね」
 稔が希理子に話す。希理子が稔の言葉を翻訳するような形でチーフの婦人に話した。どうしてもこんな騒がしい場所で初対面の人に自分の言葉を通じさせる自信はなかった。
 本日の献立はピラフである。日本人向けに米を主体とした料理が多いらしいが、稔たちの口には油っこかった。老人たちの嗜好でも多年の異国暮らしのうちには、その舌先も徐々に変わるものかと稔は思った。
 同じテーブルの老婦人たちも初めは稔たちをいぶかし気に眺めていた。しかし、段々にその事情が分かり出すと、希理子に最近の日本の様子など尋ね始めた。やがては自分の身の上を一人、一人語り出す。誰もが戦前に渡り日本に一度でも帰国したという人は誰もいなかった。稔の前の老婦人はやっぱり広島の生まれで夫はガーデナーをしていると言っていた。

 トミーが稔たちのために、午後のスケージュールを消化するまでには一時間以上がある。その間、二人はオフィスのライトバンを借りてホテルの引っ越しをする。どうせなら近くがよいと、村ちゃん親子のいる日本人街のニューヨークホテルに引っ越した。タイムトンネルを抜け出た昭和初期の町である。ホテルの部屋も侘びしかったが、ダブルベット一つの部屋が七ドルで泊まれた。ホテルの下は、親子、カレー、とんかつと書かれた日本料理店、向かいは風月堂と書かれた菓子屋、寿司屋だけでもこの一角に十軒以上はあった。
 ほどなくしてトミーは車で迎えに来てくれた。東七番通りのアジア人のための障害者共同作業所を見学するためだった。倉庫の多い町だった。所長のミスター岩下はいかにもエネルギッシュに障害者リハビリテーションの意義について、ABCから説明してくれる。稔には特別耳新しいものではなかったが、トミーも村ちゃんも熱心に聞いていた。ミスター岩下もまた決して背高くはないが、横幅がありがっちりした体格の持ち主で、三十代の全身に情勢をみなぎらせていた。昨日のミスター堀内にも感じたことだが、柔道をやっていたのではないかと連想される体格には、二世に共通の?を感じさせた。
 この共同作業所も最近ようやく軌道に乗り始めたところらしかった。創立してからもまだ三年は経っていない。仕事の主製品に日本風の行灯のようなスタンドを木工細工で制作しようと考えていたらしいが、実際にそれだけの技術を習得できる色々な面で限られる。ミスター岩下はようやく、スーパーマーケットで売る日用品の組み合わせパックを包装する仕事を見つけられたのでほっとしたとらしい。
 アメリカは一応世界一の金持ちの国といわれている。従来からリハビリテーションの分野でも、世界一だと思っていたし、また世界中の人々からそんな風に見られてもきた。ところが近来、米国国籍を持ちながら実際こうした恩恵を受けていない人々が、多数いるのだと気づき始めたとミスター岩下は話し続ける。
 「人種の問題なのですよ。もちろん恩恵を受けているのがホワイトということになるでしょうが、ブラックもそれなりに問題はあるとしても、一応の恩恵には預かっているのです」
彼はここで言葉を途切ると腰を屈めて、傍らの脳性麻痺らしい車イス青年が落としたハンガー部品を取ってやった。
「一番問題なのがホワイトでもなければ、ブラックでもない日本人を含めた中国、朝鮮、ベトナム等のアジア人種だということが最近になって分かってきたのですよ。問題は一番、言語にあるんですね。せっかくそうした設備を利用できたとしても、すぐに止めてしまうケースが非常に多い。言語のせいですぐ孤立してしまう。この点ブラックに問題が少なくないのですが、アジア人種はどうかというか、こうしたケースが多いのです。そこでアジア人だけの施設を作らねばと思うようになって・・・。まあこんなことになった訳です」
 ミスター岩下はなかなか忙しい。所長室でここまで話して彼は席を立った。所員に呼ばれたのだが緊急の用事らしい。しばらく四人は待ってみたが、おいそれと片づく様子もない。トミーは三世たちの映画プロダクションとの約束が四時だからと立ち上がる。四人はそのまま作業所の方へと足を向けた。
 恐らく元は倉庫にでも使われていたのだろう。鉄骨作りの作業所は天井も高く寒々としていた。種々雑多な品物の部品や半製品、それに完成品と山積みされている。どうしてもこうした作業場を経営していく場合、同一種類の製品を一貫作業の工程に乗せることは難しい。そのため、どうしても下請的な作業内容が多くなり、種々雑多な製品を扱わなくてはならなくなる。従って、それらの搬入、保管にまで余分な労力やスペースを要し、さらに作業効率の悪化に拍車をかける。
 作業場は相当広い。二百坪外はあるだろう。しかし実際に作業していたのは、その片隅の男女十数人だけだった。彼等が一団となって日用品の小物をパックすると云う単純な仕事に従事していた。村中が右手の前腕欠如の中年男子に話しかけてみたが日本語は通じぬ風だった。

 

前へ          TOP          次へ