アステカの幻想(23)

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一続いてミスター堀口の家で開かれた日系人のパーティーに出席。




「私の恋人は東京にいる」
 トミーははっきりそう言った。市民権も何も持たない日本人だと言っていた。
「私だっていつかは結婚したいわ。だから日本へは必ず帰ります。だけれどいつ帰るのかはまだ分からない」
 バックミラーをのぞき込むようにして、トミーはにこりと笑う。もし彼が結婚してしまったらと稔は尋ねてみたかった。仕方ないわと微笑むように稔るには思えた。笑うと白い歯並びがきらりと光るのが見えた。アメリカの国内でイエローカードを手にするまでには色々紆余曲折があったことだろう。
「今夜ね。パーティーのあるミスター堀内は小さな部品工場の経営者。青年実業家と言いたいところだけれど、ちょっとオーバーかな。なかなか頭が良くて、やり手なの。私と同じ日本人会の青年部の運営メンバー。仕事の方もここのところ軌道に乗ってきたので、今度家を買ったわけ。今日はそのご披露のパーティーだけれど、ニューヨークから彼のお母さんを呼んでいる。お母さんは今までニューヨークで福祉関係のケースワーカーをしていた。もう年だからそろそろ転職しなければならないけれど。老後をどうするかが問題ね。ロスへ来て、息子や孫たちと一緒に暮らすか、それともこのままニューヨークで一人で暮らすか。ちょっと問題でしょう。今夜のパーティーにはそうした相談という意味もある」
 トミーはハンドルを握りながら、これから向かう堀内家のパーティーについて委しく説明してくれた。ミスター堀内の新しい住居はミセス藤岡の場所よりダウンタウンに近い街にあった。もう時計は七時前になっていたが、まだ辺りは明るい。しかし、もう既に相当数の日系人たちが集まっている。ホスト役のミスター堀内は小造りだが、肩幅のあるがっちりとした日系二世である。精力的に仕事に打ち込むだろう態度は、穏やかな笑みをたたえた東洋人らしい筋肉質の風貌の中にも、鋭く秘めた眼光として読みとることが出来た。
「よく来て下さいましたね。本当に」
 三人の手を一人、一人両手で握りしめて歓迎の意を表すミスター堀内には外交辞令にしても熱が入っていた。三人はミスター堀内に来客の日系人一人、一人に紹介される。一世の老人にも中年の二世にも。そしてほとんど日本語の分からない三世の青年たちには英語で一人、一人堅く手を握り合う。稔には堅くなって不様に曲がる自分の指先が、相手にどのような感情を抱かせるかと気がかりだった。
 トミーが稔をある老人に早稲田の大学院を出られたと紹介する。老人は「早稲田ねえ」としばらく口ごもっていたがどこかで聞いたようなとそのくらいにしか考えていない風だった。稔はやはりここは日本を遠く離れた国なのだと思う。確かにここで語られている大部分は日本語である。しかし、語っている人たちは稔たちと共通なテレビを見、新聞を読んでいる日本人ではないのだなと感じた。
「早稲田というと、あれは大山郁夫の出た学校だな」
 と思い出したように話しかける。その友人らしい老人もうなずいた。老人も再び稔に話しかけた。
「はい。そうです」
 稔はきっぱりと答えた。恐らく希理子も村中もこの名前は知らないに違いない。日本ならば政治、経済の第一人者は別としても、早稲田の出身者と言えば、青島やら巨泉、作家なら五木という名前を誰でも挙げるはずだろう。稔は今更のように今いる社会が全く別個なものであることを意識した。最近はほとんど聞かれない過去の名前になっていた。戦後労農運動の偉大な指導者として、亡命先のアメリカから帰国した大山教授を早稲田の杜は学園中、歓呼の声で響いた。
稔はまだその時には早稲田の門は叩いてない。しかし戦時下の幼い稔でも早慶戦憧れの早稲田に反体制の人としてその名は聞いていた。ソ連からはスターリン賞を受けてから間もなく逝いている。帰路トミーはこの老人のことを若い頃には種々の運動に携わった人だと話していた。
 稔の後にも来客は続いている。それぞれ幾らかの菓子や料理を手にしている。そのまま商店から買ってきたなと思う様なものは少ない。それぞれに温かく手が加わっていた。稔はこうした各自が持ち寄って開くパーティーを心楽しく眺めていた。もとよりこうした会合の形式は日本人社会にあったと思われない。恐らく彼らが欧米人社会から学び取ったものと思われる。
男たちだけが料理屋に集まり妓を侍らす宴席、そうでなくとも仕出しを頼み、或いは女たちだけが接待のために費やされる日本の宴席、それに比べてなんと合理的な形式のように思われた。稔は自分を省みて日本人の社交性の乏しさを感じていた。そして思う。海外旅行も結構だが、ただ単にバスの中から日本語のガイドによって名所舊跡を見て回るだけでなく、こうした外国のよき風習、慣例を学び取ってこそ意義あるものではなかろうかと。
 稔は例によって黙って人々の対話に耳を傾ける。ほとんど英語混じりの西国なまりが強い日本語だった。英語も稔にはジャパニーズイングリッシュ聞き易い。これだけの騒音となっては、自分の不明瞭な言語がよほど慣れた人でもない限り全く通じないことを知っている。分かったふりをして、ふんふんと頷かれるのが一番不愉快だった。それだから稔は日本にあっても、こうしたパーティーの席では沈黙を押し通すことにしていた。
同業者仲間の席でも、学会の中でも挨拶程度の会話の他は質問解答位しかしない。先方もある程度の聞き辛さは耐えて貰える。それでも稔は結構楽しんでいた。二者の対話を第三者が冷静に聞くことによって全く違った視野から眺めることの出来るのも、稔には面白いことだと思えるようになっていた。
 希理子は紙皿の上に料理を盛ってそばへやってきた。太巻きの海苔巻きもピザパイも一つの皿に盛りつけてある。トミーが缶ビールを運んできた。
「橋本さん、遠慮しないで召し上がってね」
 稔は自ら、飲み、且つ食い、口を動かすことに専念していた。
 やはり話題は日系人仲間の噂が多かった。老人たちの多くはほとんど戦前からの人々なのだろう。戦時中強制収容所の体験のある人もいたに違いない。しかし老人たちは平和に話を続けていた。
 トミーの話ではアメリカの中に日系人の申で、アメリカ市民としての日系人に対する新しい見直しを要求する機運が芽生えつつあるという。戦後はもうはや三十年、一世はおろか二世と言われた人々の時代すら終わりに近づいている。労働に明け暮れてとかく言語活動では寡黙を押し通さざるを得なかった一世たち、とにかく片言でも日本語を解した二世たち、それに対してまったく日本語を解さない三世たちの時代が到来しつつあるのだった。その彼らの中で、この国が自分たちの祖父や父に対して行ってきた意味を真剣に考えてみようというのだった。
 トミーもイエローカードを貰うまでの、この国の行政がとった色々な障壁について話していた。しかし、これらの話もみな終局において人種という言葉の一語につきた。パトリシャ・ハーストの事件についてもそうである。トミーによれば彼女を匿った日系女性に対する裁判に十万ドルに近い資金が集まったという。重大犯人でありながら、初めから無罪に近い扱いを受けられると分かっていた大富豪の娘。それに対して何故、匿った日系女性は裁かれるのであろう。東京ローズ、ミセス戸栗の場合もそうである。何故、彼女だけがあれほどまで過酷な判決を受けなければならなかったのだろう。今や彼女に対する復権運動は日系社会でばかりでなく全米中に高まりつつあった。
「もうおそらく再びお会いすることもないでしょう。でも、日本へ帰られたらがんばってやって下さい。私もこの社会の中で一層、ふんばって行きますから」
 ミスター堀内は三人の手を両手で一人一人握り、熱っぽい調子でそう言った。そして、多数の来客を抱えたホストという立場にあるにも関わらず、わざわざ道路の所まで出てきて稔たちの乗ったトミーの車を送ってくれた。

 

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